第1話 最後の出会い

文字数 66,976文字


ミヤコソウ
最後の出会い

                                    登場人物

                                       梶本 紀貴 (かじもとのりたか)

                                       榊 英明  (さかきひであき)

                                       柏木 英斗 (かしわぎえいと)

                                       隼 翔   (はやぶさしょう)

                                       小早川 潤 (こばやかわじゅん)































  とかくこの世は生きづらい               夏目漱石 草枕





































 第一章 【 最後の出会い 】

























  『くだらない』



その一言に尽きる。世の中なんて、その一言さえあれば、十二分に表現が可能だと思う。

男は、いつものように朝を迎えた。目覚ましの音と携帯のアラームの不協和音によって、男の脳内は文句を言っている。

「はぁ・・・」

だるい。ただだるい。そう感じていた。

一度思いっきり伸びをしてから、起きようとしない身体をなんとか起こす。

トイレに行って、その後歯磨きをし、歯磨きをしている間にホットミルクを作る。そして、机に座って飲む。猫舌のため、十分に冷ましてからだが。

パソコンを立ち上げてネットに繋げ、パスワードを入れる。メールの確認を始めながら、ネットで天気を調べたり、ニュースを見る。テレビもかけっ放し。

いつもこれだ。

「眠…」

無気力な自分の身体は、そう簡単に目覚めてはくれない。まだ寝ようよと、男を誘ってくる。

テレビではいつもと同じアナウンサーが、真面目な顔になったり、笑顔になったりする。コロコロ変えられる百面相の様子が、少し面白かった。

 これが、男の日常だ。







人間はなぜ生きているんだろう。ふとした瞬間に考える事。

いつか死ぬと知っていながら、人生を懸命に生き、勉強し、働き、最期は骨。無常なものだ。

それでも生きることに必死に縋って、しがみ付いて行く。それが神様とやらが人間に与えた試練だとか言う奴も、世の中にはいるけど、男はそんなの信じていない。

神様がいるのなら、なぜ人は不平等なのか。そんな存在がいるなら、苦労しないと思っていた。願うことで助かるなら、誰も努力しない。見下すだけの存在を、男は崇めたくも無い。

男の結論・・・この世に神はいない。仏もいない。誰も助けてなんてくれない。

同様に、死神という神もいないだろう。産んだ神がいないんだったら、殺す神だっていないだろう。どちらかの存在を認めてしまえば、もう一方の存在も認めなければいけない。

だが、神という部類の中にも、運命の糸を切る者がいるらしい。だとすると、その神が死神ということになるのだろうか。それとも、人生を終わらせる神は二人いるということなのだろうか。



[昨日午後四時ごろ、小学二年生の女の子が行方不明に・・・]

  BGMのように流れていくニュース。

―犯人は当然悪いが、親もちゃんと見ていればいいのに・・・。

  ―子供の面倒も碌に見ないで、自分の犯したミスを人に押しつける。自分は疲れているんだから、少しくらいいいだろうとか、責任転嫁もいいところだ。

―最近頻繁に起こっている、誘拐・殺人・暴行・いじめ・不祥事・金と政治なんかも、今の俺にとっては無縁の世界。というか、係わりたくない世界だ。

―自分勝手な奴が増えた。その副産物なのだろう。

―子供も大人も誰も信用なんか出来ない時代になった。表面だけの友情も、世間体ばかり気にする親も、顔色ばっかりうかがう俺自身も。みんな、みんな、大嫌いだった。

―ニコニコ笑っていれば、何でも上手くいくけど、それじゃあ心が荒んでいく。分かっていても、それを止めることが出来ない。他人にどう思われても良いと思っているはずなのに、他人に嫌われる事を怖がっている俺がいる。

―矛盾している。それは自分でもわかっていた。でも、自分に付けられた色とか、植えつけられたイメージというのは、一日くらいで払拭出来るものではない。厄介なものだ。

「はぁ・・・」



 梶本 紀貴



それが男の名前。大学三年生。夢も何も持っていない、つまらない大学生だ。

もともと、大学だって入りたくて入ったわけではない。別に高卒でも構わなかった。

だが、男の母親に大学には行けと言われて、仕方なく通っている。まぁ、両親に学費を払ってもらってるから、留年は申し訳ないと思って、試験だけは頑張っている。と、いうことだ。

秋になったら就活が始まる。というか、始めなければいけないらしい。正直それにも興味はない。何が何でも働いて、金を稼ぎたいとか、将来有望を望んでいるわけでは決してない。

―別にどこまで学校行っていようが、学校に行って無かろうが、馬鹿にするなんてことしないし、そういう人を馬鹿にする人は、とても心の狭い人間だ。それこそくだらない奴だ。

―高卒だろうと中卒だろうと構わないと思うけど、世界に対抗するために、そういう人材が必要なのだとか。時代に流されている。

―日本を捨てて世界を目指すようなところが、世界に羽ばたけるとは思えない。まあ、やりたいならやればいい。





大学に入ってから一人暮らしを始め、夏休みには実家に帰ろうかとも考えたが、どうも気が進まず、アパートでゴロゴロしている。これもいつもの日常。本当に、どうでもいい一日が、また始まる。

実家に帰れば、両親からの就活話が降り注ぐのが目に見えている。

両親の時代とはわけが違うのだ。昔は、一社受ければそこが受けるという、景気的にも良い時代だったと思うが、今は不景気。何処の会社も必死になっている。

時代のせいにするな、不景気のせいにするなと言うが、せいだろう。

不景気だから金が回らない。金が回らないから儲けが出ない。儲けが出ないから人を雇えない。雇えない事が結果的に俺達にツケとして回っているんだと思う。

―まあ別に、就職出来なかったら出来無かったでいい。そしたら俺は一人旅でもする。



生きていられる時間は短い。長くて百ちょっと。

その短い人生の中で、最初の約二〇年は勉強に勤しむ毎日を送り、その後三〇年から四〇年働き、のんびりと自由な時間を過ごせるのは、二〇年から長くて四〇年ほど・・・。

人生が短いと分かっているから、人は急ぎ足で通り過ぎていくのか。時間が、人を急かしているのか。どちらにせよ、時間と人は切っても切れない縁である。

  かくいう紀貴も、その時間に流されている人間の一人だ。不愉快に感じてはいるが。





「あーあ・・・。ん?何だ?このメール・・・?」

毎朝確認するメール。登録した覚えもないのに、変なメールがたくさん来るようだ。解除・解除・解除、の繰り返し。その中で、気になるメールがあった。



『本文:おめでとうございます!!

    あなたは、この度の『ハッピー・ワンダーランド』のチケットの当選者となりました!

    つきましては、是非、下記のメールアドレスをクリックしてください。



     http:www.happy-wonder-land,●×△○????◇』



「・・・怪しすぎる。つか、こんなん押す奴いるわけないだろ・・・。」

紀貴は、そのままそのメールを削除しようとした。カチ・・・

「あれ・・・?」

削除が出来ないらしい。達の悪いメール・・・。こういうメールが紀貴は大嫌いだ。

―何が楽しいんだ。全く・・・。ま、迷惑メールにしておこう。

―俺のパソコンも、そんなメールは受け入れないでほしい。

そんな事を思いながらメールを振り分けしようとしたら・・・。

「・・・!!!わっ!」

なんかわからないが、いきなりパソコンが光った。マンガみたいにピカッて・・・。

一瞬、強い風を感じたと思ったら、頭か真っ白になって、紀貴の身体は浮遊感に襲われた。

浮遊感が苦手だった紀貴は、下腹部に感じる圧力に耐えることだけを考えていた。







どのくらい経った頃だろうか。下腹部への圧力も感じなくなり、浮遊感も消えていた。

紀貴の中では三〇秒くらいだとは思うが、気を失っていたのかも分からないし、正確な事は何一つとして分かっていない。

「・・・・・・・・・・?」

そっと目を開けてみた紀貴は、違和感を感じた。

「な・・・ンだ?此処」

紀貴はどこかの路地裏にいた。ただ、立っていた。

―此処は今までの俺がいた世界か?

―最近パソコンの調子が悪いとは思ってたけど、まさか光るなんて・・・。そういう設定あったかな?

とにかく紀貴は自分の現状を把握したくて、路地裏をうろうろと歩いた。

何本も続く路地裏を歩いていると、荒れている学校のような光景が目に映った。此処が現実の何処だかということを考える必要は無くなったと思う。

それは、此処が、紀貴のいる世界とは違っているようだったから。

なぜそんなことがわかるかというと、紀貴のいる世界に、白昼堂々と酒を飲んでる医者はいない。・・・はずだからだ。

―いや、いないと信じよう。俺の平平凡凡な世界に、こんな医者はいない。洗脳するんだ。

ちなみに、医者だと分かったのは、この怪しい男が白衣を着ていて、胸元にはペンとメスが入っていたから。極めつけは、壊れた聴診器が傍にあったから。なんで壊れてるんだろう。

目の前の医者(らしき男)は、酒瓶を片手に持ち、無精髭を生やし、メスを胸ポケットから取り出して、ブンブン振り回している。

―やばいだろ・・・。

そんなことを冷静にツッコんでいる自分に感動した。

その医者は目が据わってるようにも見える。

紀貴は、こういう目を見たことがある。テレビでヤクをやってる人とか・・・、精神異常者とか・・・。とにかく、まともな人間とは思えなかった。いや、失礼だとか言っている場合ではなかった。

紀貴は後ずさりをした。目を付けられて、因縁とか付けられる前に逃げよう。そう思った。

一歩・・・一歩・・・。左足・・・右足・・・。交互にゆっくり動かしていると、後ろにあった落ちている缶に気付かずに蹴ってしまった。

カツン・・・。

しまった!と思いながら、そろりと男の方を見ると、医者と目が合った。

―やばい。解剖される。生きたままだ。こいつならやりかねん。

俺の身体を切り刻んだって、何の役にも立ちません!とか、煮ても焼いても美味しくありません!とか、言えるほどの精神的余裕と肉体的余裕があればいいが、生憎、今の紀貴にそんなものは無かった。

死ぬ恐怖じゃなくて、死ぬまでの痛みとかを考えると、顔が引き攣る。口元は笑っているんだけど、頬がピクピク動いているのを感じる。今こそアクションに移すんだ。

紀貴の取った行動は・・・

「逃げる!」

瞬間ダッシュした。

―嫌だ。絶対に嫌だ。二一歳で麻酔もなしに、あんな藪医者(っぽい奴)に解剖されて、その辺に捨てられるなんて御免だ。

紀貴は老衰で死ぬと決めている。それまでは、殺されるのも自殺するのも御免なのだ。いや、マジらしい。

―人生は前途多難である。人間だもの。もう駄目だ。頭が変になってきた。

―細く長くも、太く短くも生きられなくていいから、とにかく、こんなとこで知らないおっさんに殺られるなんて嫌だ。

紀貴は、息を切らせながらも逃げ続けた。

知らない道を走るのも怖いものがある。何処につながっていて、何処に出られるのか、さっきの奴に鉢合わせするような道づくりになっていないだろうかと、色々心配しながら走った。

「俺を殺しても生命保険はあんたに下りないし、俺のおふくろは根に持つタイプだから、止めた方がいいです!」

走りながらも訴えてみる。そもそも本当に解剖されるのかさえ確認していないけど、確認して本当に解剖されると知ったら、身体が動かないかもしれない。

もう何度目になるか分からない曲がり角を、適当に右に曲がる。 

ドンッ!

誰かとぶつかった。

―助かった。

そう思った。解剖されずに済む。

「君ぃ・・・見ない顔だね?この辺の人じゃないのかな?」

若干のんびりとしたその口調に、顔をあげた。

綺麗な青の髪にウェーブがかかった髪の毛をした男が、見下したように立ちながら口元を弧にして、そう訊ねてきた。

見た目は若い感じだけど、精神年齢は高そうな人だ。

「あ・・・はい。俺は・・・」

「そいつは俺の患者だぞ~。変態解剖野郎は引っ込んでな。」

―見つかった。

―梶本紀貴。享年二一歳。何の武勇伝も持っていない、ごく普通の大学生でした。将来の夢は、お遍路さん。好きなことは寝る・食う・ボーっとすること。嫌いなことは勉強。

―将来に不安を抱えていたが、多分幸せな人生だったと思いたい。

―まさか、こんなところで死ぬとは思っていなかったため、 部屋も汚いまま。気晴らしに描いた落書きも捨てずにそのままだった。ああ・・・捨てておけばよかった。恥ずかしいなぁ・・・。

―いつかは結婚して、娘でも息子でもいいから子供に恵まれた幸せな家庭を持ちたいと思っていた。親に孫を見せてやって、家族のために一生懸命働こうって・・・、そうすれば生きてる意味も掴めるんじゃないかと思っていたのに。







「やだなぁ~。俺は出会ってすぐの人を解剖なんかしないよぉ~。誤解されるようなこと言わないでくれるかな~?そっちこそ昼間っからお酒なんか飲んでていいの~?ハハハ。捕まればいいのに~。」

青い髪の男は、ケラケラ笑いながらそう言った。

―案外毒舌なんだ・・・。人は見かけじゃないな。

その青髪の男が、医者の方へ向かって歩き出す。

「はっ。いいんだよ。俺はお前と違って、趣味で解剖はしねぇしな。医師免許を持った、れっきとした医者だからな。酒は飲んでねぇぞ。これは、アルコールが多少入った、ただの水だ。」

―・・・ウソだろ。それを世間では『酒』っていうんです。

医者は鼻で嘲笑い、青髪の男に見せつけるようにして、酒瓶を振っていた。この二人は知り合いなんだと察し、紀貴はやっぱり逃げようかと考えていた。

―それにしても、なんだこいつら。

―・・・ん?待て。この医者野郎、さっき確かに、この青髪の男を『解剖野郎』といった・・・。いった・・・。俺は小さいころから耳が良いと信じている。

「・・・あの~。俺、急いでるんで、失礼します・・・。」

なんとか、この場から逃げたい。その一心だった。

耳が悪くなったにせよ、今のが言い間違いだったにせよ、紀貴はここから一秒でも早く逃げ出したかった。

この二人が喧嘩でもしてくれれば、それに乗じて逃げられるのに。と考えていた。

・・・のだが。

喧嘩を始めるような空気にはなかなかならなくて、自然な感じで逃げようとした。

「まぁ待てよ。確かに見かけねぇ顔だな。小僧、どっから来た?」

―勘弁してくれ。俺は面倒なことに巻き込まれるのは避けたいんだ。無駄な体力を使わせないでくれ、おっさん。

―こういう普段死んでる目をしてる人に限って、獲物を目の前にした時、ギラッとした目になるんだ。きっと。今なら、悪魔が来ても天使に見えるだろうな・・・。さようなら。俺。

そんな想いが伝わったのか、青髪の男が、『急いでるって言ってるんだから、やめてあげなよ~。』と言ったと思ったら、『ねぇ君、今度会ったら、解剖させてねぇ~。』なんて、満面の笑みで言ってきたもんだから、紀貴は逃げようとしていた足を、一旦止めて、振り返って言ってやった。

「俺、解剖なんて絶対嫌っすよ。それに、あんたらとはもう二度と会わないようにします。」

―言った。言ってやった。

紀貴は心の中でガッツポーズを取った。

―頑張ったな俺!自分で自分を褒めてやりたい!

そう言って、颯爽と去ろうとした途端・・・

「ヒッヒッヒ…。飯の時間に、丁度いい餓鬼がいやがった。今日の料理は餓鬼の丸焼きだな・・。」 

訳の分からないのが現れた。今日は災難続きだ。

―駄目だ。俺、死んだ。ああ、さようなら。おふくろ。親父。

ドナーは是非提供してくれ、と心の中で叫んでいた。

風邪なんか何年もひいていないし、ちょっと頭痛があっても寝れば大抵治っているため、きっと自分の身体は丈夫なんだと自負している。

いや、今はそういう話をしている場合ではない。見るからに精神異常者風の男が四人・・いや、五人来た。

今までロクに親孝行してこなかった紀貴だが、一応親より長生きはしようと思っていた。

だが、それは無理そうだ。なんせ、相手はナイフをチラつかせて、紀貴の領域に入ってきているから。

紀貴の領域なんて言っても、紀貴自身で勝手に決めている他人との線のことだ。

目に見えるわけじゃないし、その線の存在をこいつらに言ったところで、どうにもならない。ただ、初対面の奴に、土足で入られるのがあまり好きではないのだ。

愛想笑いも程々にしないと、頬の筋肉が痙攣を起こしそうだ。だから、紀貴の領域。

―あーでも、どうせ死ぬんだったら、もっと文句の一つでも言っとけば良かったな。親父にもおふくろにも、キレたことなかったから、言うべき事言っておけば良かったな。

とか、思っている間になにやら目の前で起こっていたようだ。目の前にいたはずの、リーダー格の奴が吹っ飛ばされていた。

「・・・・・・・・・・・へ?」

「ほ~ら。な?小僧。此処で一人で行動するってことは、強さと知恵と知識を兼ねそろえてるってことだ。見たところ、お前は強さも知識も知恵も無さそうだ。俺が鍛えてやるから、そこでじっとしてな。」

闇医者?藪医者?の男が、そういって紀貴を助けてくれた。

曖昧な返事しか返すことが出来ず、突っ立ったまま見ることになった。

紀貴の前で繰り広げられる、ヒーローショーのような出来事は、新鮮でもあり、実際に起こっているようには感じられなかった。

簡単な解説を入れるなら、『投げた~!』と『飛んだ~!』でいいだろう。

もっと正確に解説するなら、襲ってきた男に対して、その攻撃を医者はひらりとかわし、相手の腹を蹴飛ばしたり、殴っていた。その圧倒的な威力のせいで、襲いかかったはずの男たちが、紀貴の前で宙を舞っている。

その闇医者?藪医者?の男はすごく強くで、さっきまでのダメ人間は誰だったんだろうと思うくらいだった。やっぱり、こういう人は敵に回したくない、と感じた。

その身のこなしに見惚れていた時間は、きっと一分くらいなんだろうけど、紀貴には二、三秒くらいに感じた。

―おお・・。酒を飲んでいたのは、この為か・・・。

なんてポツリと言ったら、『あれは、別に酔拳とかじゃないからね?』と、にっこり笑う青髪の奴に言われた。・・・酔拳って、どこでも通用するのか、と感心。

言われてみれば、動きは酔拳じゃない。酔拳の動きなんかを目の前でされたら、きっと笑ってしまうだろう。

―でも、さすがだよ、ジャッキー。あなたは俺達人類の架け橋であろう。

青髪の男はクスクス笑いながら、自慢の?ウェーブに指を絡ませて遊んでいた。

「ま、ザッとこんなもんだな。」

闇医者?藪医者?の男が、終了、と言わんばかりに両手をパンパンッと叩いた。そして、今度は酒じゃなく、煙草を吹かしながら医者は言った。

―こいつ、早死にするな・・・。

「つか、なんでてめぇも突っ立ってたんだよ。昨日呑み過ぎたから、俺吐くかもしれねぇぞ。」

「フフ・・・そうだね~。吐いたら、解剖もしたくないし~。」

なんかよくわからないが、この二人は紀貴を助けてくれたらしい。しかも強い。

なんか、逃げることを忘れてしまった紀貴は、ただ、呆然とその二人の会話を聞いていた。

何が自分に起こったのか、どうして助けてくれたのか、そもそも、此処はどこなのか。聞きたいことは山ほどあったが、今はとにかく、命拾いしたことを痛感していた。

「で?」

「は?」

急に質問されたせいで、紀貴は声が裏返ってしまった。

さっきまで、濁った眼で紀貴を見ていたはずの医者の男の眼は、日本人らしい少し茶色い瞳で、ただ俺を見下していた。

―・・・背ぇ高ぇな・・・。何も、チェ・ホンマンほどとは言わないが、街中で歩いていたら、間違いなく目立つであろうほどの長身だと思う。

紀貴が小さいわけでは、決して無い。一応一七〇はあるはずだからだ。

「小僧は何処から来た?」

「え?・・・ええと。」

紀貴は答えに困ってしまった。

「まぁ。積もる話は、家でしようか。」

―ああ、これが誘拐というやつか。はたまた、恐喝?軟禁?監禁?そう勘違いしていた自分が恥ずかしい。記憶から抹消したい。してくれ。







紀貴は、牢屋に入れられたら、どうやって脱出しようとか、上手く媚びれば逃げられるかもしれないとか、中二病が炸裂していた。

しかも、逃げようとしても、二人に挟まれているから逃げられない。逃げた瞬間、バサッとやられそうだ。

どんな恐ろしい屋敷が待っているんだろうと思っていたら。・・・家だった。ごく普通の家だった。紀貴の家よりも幾分か広いけど、普通の家だ。そして、家の中に入ると、部屋だ。普通の部屋だ。てっきり、解剖室とかかと思った紀貴は、心の中で謝った。

家に入って、ソファに促されたから、大人しく座っておこうと思い、腰を下ろす。

―あ、フカフカしてて気持ちいいな・・・。

青い髪の男が台所に行き、コップと、冷蔵庫から何かの飲み物を出して注いでいる。

「はい、青汁。」

「あ、ありがとうございます。」

「ごめんねぇ~。青汁しか無くて~」

「はぁ・・・。」

出されたのは青汁だった。

―え、なんで青汁?

―というか、・・・青汁しかないって、逆に不気味だよ。青汁常備ってどういう家なんだよ。余程の健康志向か、余程の舌(厭味な意味で)の持ち主だよ。よくテレビショッピングとかで、『この青汁は美味しくて・・・。』なんて殺し文句を使っているが、あれは嘘だと思っている。

―青汁は青汁だ。美味しいわけがない。俺の友達の母さんが一回お試しを頼んだらしいが、やっぱり苦かったらしい。それからというもの、そいつの母さんはテレビショッピングが始まると、反射的にテレビを消すという。

青汁を一口飲んで、苦い、とは思ったが、怖くて言えなかった。

「で?」

「は?」

その問いかけが、先程の続きである事に、しばらくしてから気付いた。

「え・・・っと。俺は、なんていうか・・・、」

「「?」」

二人とも首をかしげて紀貴を見る。

まぁ、当然と言えば当然の反応なのだが、でも、なんて言えばいいのかわからないのも確かだ。

―飛んできた?トリップしてきた?パソコンの向こうからきた?信じてもらえるのか?

紀貴は、自分が本当のことを言ったとしても、大笑いされて終わりそうだとも思ったが、嘘をついても何かされそうだと思考を巡らせていた。

言葉に悩んでいると、医者が紀貴に声をかけてきた。

「簡潔に言え。簡潔に。」

「君が言えた事じゃないよねぇ~。」

「うるせぇ」

迷ってても仕方ないのだから、言おうと覚悟を決めた紀貴は、この二人は自分を助けてくれたのだから、御礼もしなければいけないように感じていた。

別に、見返りを求めるような人には見えなかったけど、母親譲りなのか、何かしてもらうと何か御礼を・・・とすぐに考えてしまうようだ。

義理堅いとかではなく、癖として身に着いてしまっているようだ。

―まぁ、なんとかなるだろう。諦めがいい。潔い。ポジティブ。俺のいいところだ。

「俺、実は此処の世界の人間じゃ無いんすよ。なんか、パソコンに届いた変なメールのせいで、此処に来ちゃったんです。どうやって来たのかとかは全然わかんないんすけど・・・。此処はどこなんですか?さっきのはなんなんですか?」

二人はパチクリとしていた。

医者のほうは、ソファの背もたれのとこに肘を掛けながら、顎鬚を人差し指と親指でさすっていて、青髪のほうは、またウェーブをいじりながら青汁をすすった。

重苦しい空気を一瞬にして感じ取った紀貴は、やっぱり変なこと言ったかと心配していた。

すると二人は、「「へぇ~・・・」」と言って、落ちそうになった煙草の灰を灰皿へ、苦いはずの青汁をニコニコ笑いながら飲んだ。

やっぱり現実味が無かったか?馬鹿にされるとか、冷やかされるとか、腹を抱えて笑われると思っていた紀貴にとって、二人の反応は予想外だった。

ただ、あまりに現実離れしているから、まだピンときていないだけなのかもしれない。

それとも、この二人は、人に聞いたくせに興味が無いのか・・・。

なんだか二人の反応を見て、力が抜けていった紀貴は、自分の悩んでいた時間は何だったんだろうとため息をついた。

「で?」

「は?」

こんどの『で?』はどういう質問なのか分からない紀貴は、また声が裏返った。

医者の男は、基本的に淡々と話す人なんだろうと、そう解釈した。

かく言う紀貴もそういう類の人間だ。

「いや、だから、名前は?」

「ああ。俺は、梶本紀貴っていいます。大学生。二一歳です。」

「・・・二一歳?」

「へ?・・・はい。そうですけど・・・何か?」

「・・・俺達と一〇以上違うのか。」

「一〇って・・・三十路超えてるんですか!?」

紀貴はびっくりして、思わず身を乗り出した。

おっさんとは思っていたが、予想に反して若かったことに驚いた。

紀貴自身も、この人が何歳に見えたって言われると、確かにそのくらいに見えたんだけど、三〇代だったら、もう少し生気が感じられてもいいのでは?と思うほど、この人は生気が無い。

というか、やる気も感じられない。脱力したままの身体は、医者というには程遠い気もする。だらーんという効果音が似合うこの人は、実年齢よりも上に感じてしまう。

紀貴の近所のおじさんで三〇代の人がいるが、その人はとても活気に満ち溢れている。『仕事、楽しい!』みたいな・・・。

なんか知らないけど、二〇代の俺に勝負を挑んでくる事さえある。その度に紀貴は付き合わされて、おじさんと一緒に自転車で遠くまで出かけたり、マラソンをしたり、上り坂ダッシュをさせられた。

「ああ。三五だ。こいつは三二だ。」くいっと、顎で青髪のほうをさす。

まさか、こっちの人はこっちの人で意外だ。もっと若いかと思っていた。いや、別に医者の方をもっと年上に見えたとか、そういうことではなくて・・・。肌が若いというか、三〇代とは思えない体格・・・というか。二〇代半ばでも全然問題無いと感じる。

「若いねぇ~。でも、まだ一〇代かと思ってた~」

「そうか?俺は二五くらいかと思ってたぞ。」

「小僧って言ってたじゃん?」

「馬鹿か。俺より年下は、皆小僧だ。」

マイペースな二人に、紀貴は自分の存在を忘れてないかと疑問に思った。

―俺は大抵歳相応に見られるはずなんだけど・・・。ま、家族には、『オヤジ臭い』とか、『若々しくない』とかよく言われるが・・・。それでも、初対面の人には、『今時の若者に見えます』って言われる。それが良い意味か悪い意味かはともかく。

人が人を見る目なんて、十人十色ってことだろうと思った紀貴も、三〇くらいになると、この人たちみたいな大人になるのだろうかと、心の底から心配した。

―煙草は嫌いだから吸わないだろうけど。

「俺は、榊英明だ。よろしくな。小僧。」

「小僧って言うのやめなよ~。俺は柏木英斗。よろしくね。紀くんでいい?」

「あ、はい・・・。あの・・・。さっきの奴らは何だったんですか?」

「ああ・・・。あいつらは、《クレイザー》って言って、まぁ・・・人を狙うんだ。」

「じゃあ、えっと・・・榊さん・・・と柏木さんは?」

「だから、俺は医者だって。」

「俺はねぇ~解剖が大好きなんだぁ~。人の身体って神秘的でしょう?俺は、本の中に描かれたものになんか興味無いんだ~。本当の神秘って、自分の目で見ないと感じられないでしょう?人体模型なんて、単なる人工物だからね~。」

「ま、模型だからな。」

ぷはー、と煙草の煙を天井にまで届けて、英明は真剣な眼差しになって言った。

真面目に答えるような内容じゃないと思うのだが、内容そのものにはツッコまないんだな、と紀貴はツッコんでしまった。

英明が紀貴の方を見た。

「・・・ここで生き残るには、てめぇの事はてめぇで守ることだ。」

・・・ごくり。

生唾を飲み込んだ。さっきの一件で、嫌でも思い知らされた。

紀貴は平穏な世界で生きていたこと。平和な環境でため息ばかりついていたこと。生易しい時代で明日を迎えていたこと。生きるか死ぬかが常に隣り合わせであることさえ忘れかけていた。いや、忘れていた。

テレビの画面で見る事件だって、自分には無関係だと決めつけていた。いつ自分に降りかかるかもしれない『死』の恐怖を、どこかで甘く見ていた。

さっきだって、死ぬと分かった途端に怖くなった。頭の中は冷静だったけど、身体が震えていたのを、今でも覚えている。

紀貴が平和な国で生きている同じ時間に、どこかで命を落としている人がいること。紀貴が残したご飯で命が救われること。どこかで分かってて、どこかで見ないふりをしてた。紀貴は、生きることに無頓着だったのかもしれない。

さっきのままだと、確実に此処の世界で死ぬだろう。

「は・・・い。」

苦いからあまり飲みたくない青汁だったが、緊張からか、喉が渇いてしかたないから、青汁を飲み続けていた。青汁が好きなわけではない。決してそんなことはない。青汁を喉に流し込んでいる間も、紀貴の掌は汗が滲み出てきていた。

喉を潤さないと、干上がってしまいそうな感覚に襲われたからだ。唾じゃ間に合わなくて、苦くて飲みたくないはずの青汁を、欲した。



しばしの沈黙が続いたとき・・・







バーン!!!

勢いよくドアが開いた。ビクッとしたのは、紀貴だけではなかったようだ

「タバコ臭い!青汁臭い!おっさん臭い!」

第一声がそれかと思ったが、紀貴よりも年下であろう少年が入ってきた。

一見女の子にも見えるが、声の低さ、肩幅、胸の無さからして、少年だろうと判断した。髪の毛は短くおうど色をしていて、目は大きめ。綺麗な顔立ちをしている。しかし、口は悪い。

「うるせーな。おい、潤。酒は買ってきただろーな。」

「うへっ。いい加減その無精髭逸れよ。医者として逸れ。」

「いーんだよ。こういう髭が好きっていう女もいんだよ。」

「はんっ。くだらねぇ妄想に浸ってんじゃねぇよ。英明に女なんか近寄んねぇよ。」

「てめぇ・・・。いい度胸してんじゃねぇか。表出ろ。」

「はいはい、そこまで~。潤はまず、ただいまって言うこと。そしたら、紀くんに挨拶して~。」

「紀くん・・・?」

・・・紀貴はその少年と目が合った。

紀貴の顔をじーっと見た後、上から下まで一瞥した。

―なんか・・・変な格好だったっけ?

なぜか不安になった紀貴は、自分の格好を見る。Tシャツの上にフード付きの上着を羽織って、下は普通のズボン・・・。

おっかなびっくりでいると・・・

「俺、小早川潤!よろしくな!紀!」

―・・・いい奴だ!

紀貴は、わけもわからず感動した。潤はとても気さくな奴で、さっきまでの緊迫した空気も和らいだ。

今まで短い時間ではあったが、英明と英斗の三人で、同じ空気を吸っていたのかと思うと、恐ろしかった。紀貴は新鮮な空気を吸った。

―ああ・・・。これが酸素だ。そして俺は二酸化炭素を吐いている。

―きっとこの二酸化炭素を、家の周りを囲む木々が吸収してくれる。そして、また新たな酸素を俺に供給してくれるんだ・・・。

などと、どうでもいい感動に浸っていた。

「あ・・・俺は、梶本紀貴。よろしくな。小早川・・・君?」

「潤でいーぜ!」

「ああ。俺も紀貴でいいよ。」

―ああ・・・俺は今とても感動している。訳のわからない男二人に睨まれていた時間がウソのようだ。こんなに世界って明るかったんだな・・・。

―俺はきっと、世界の裏側しか見ていなかったんだ。そうだ。きっとそうだ。そうでなければ、こんなに感動するわけがない。さらばだ。今までの俺よ。





なんて、一人で盛り上がっていたのも束の間。

「おいクソ餓鬼、紀貴っていうのか?」

「・・・はい?」

もう一人出てきた。その男も煙草を咥えていて、ニット帽を被っていた。ニット帽には、何やら可愛いのか格好いいのか分からないような缶バッチが付いていた。

初めて会った人に向かって、『クソ餓鬼』とは、なかなか肝の据わった奴だな。なんて感心していた。

そう言う事は、思ってはいても口に出さないのが礼儀ってものじゃないのか。

紀貴だって、英明を闇医者だの藪医者だの思ったし、英斗だって解剖大好きな変人と思ったが、口には出していない。心の中に留めておいた。

そんな事を思って、このニット帽の失礼な男を凝視していたら、「聞いてんのか?」と聞かれた。

「え?あ、はい。梶本紀貴です。えっと、あなたは?」

「ああ、こいつは・・・」

英明が言おうとしたら、「俺様は、隼翔だ。隼様って呼んでもいいぜ。」と名乗った。

「・・・・・・・・・・。隼さんですね。よろしくおねがいします。」

呼んでもいいぜ。・・・なんて、両腕を腰に置いて、胸を張っている態度・・・。まさしく、効果音をつけるなら、『どーんっ!』といったところだろう。この堂々とした、根拠のない自信を持っているような人は隼というらしい。

―なんか速いのか?ハヤブサって聞くと、どうも鳥しか思いつかない。  

紀貴はクラスメイトでこういう奴を知っていた。とにかく自分を曲げない事に美意識を感じるナルシストなのだろう。仲良くなれるかはさておき、とにかく此処においてくれるようだ。

と、安心していたが、「じゃ~、今日の料理担当は、新人の紀くんだね~。」という柏木さんの一言に目を丸くしてしまった。なんせ、料理の『りょ』さえ触れたことが無い。

包丁だって、中学校の時に二、三回触っただけ。本当に触っただけ。

紀貴の包丁捌きに危険を察知した親友によって、大人しく見てろ、と言われた苦い記憶がある・・・。

「・・・・・・へ?」

―料理?俺が?卵焼きがやっとの俺に言う台詞か?包丁使わないし。焦げても、『焼いてある卵は卵焼きだ』と言い訳出来る料理・・・。

料理なのかは定かではないが、紀貴はそれを列記とした料理と思っている。調理器具を使って作ったものは、全て手料理だ。

「お、俺、料理作ったこと無いんすけど・・・。」

「んなのなんとかなる。翔だって潤だって、最初は下手くそで、まともに食えたのなんて、一〇食に一食くらいだったしな。」

英明にそう言われ、台所に立ってはみたが、包丁もまな板も、最後に触ったのはいつだったかな・・・くらいに触っていない。台所にさえあんまり近寄らないのに、だ。

一人暮らしでは、カップ麺とか、弁当を買ってきて食べるため、そもそも包丁とかまな板は必要ない。重宝されていない。可哀そうなことに、使われることないまま、隅っこにおいやられている始末・・・。

「はぁ~・・・」

ため息をついて、とにかく簡単そうなチャーハンを作ることにした。

米をといで、炊飯中。これくらいは出来た。ニンジン、グリンピース、肉、卵・・・くらいでいいだろう。まあ、誰でも作れそうなものだと勝手に思ってるから、なんとかなりそう。



『トントン・・・ガチャンッ!!・・・・・。ジュージュー・・・バンッ!!・・・・・。ボンッ!・・・』



・・・失敗した。



見事に焦げた。

―何でだ?親父でさえも作れていたのに、俺には作れない。それに、料理をしている最中、変な音が聞こえた。

―おふくろや親父が作ってるときって、あんな音したっけか?

まるで爆発でも起こしたかのような音だった。それに、具材も繋がっていたり、お世辞にも細かいとは言えない大きさだった。

―お・・・オリジナルってことで。

その黒く焦げた、というか、もはや爆破された?という感じのチャーハンをリビングまで運んで、机の上に並べてみた。

案の定、みんな目をパチクリさせていた。

―嘲笑うがいいわっ!!

料理出来ない事を言っておいたのだから、きっとなんとかなるだろう!

そう思いながらも、みんなの様子を見ていると、英明が口を開いた。

「・・・一応聞く。これは何だ?」

「・・・チャーハンです。」

―ああ・・・俺、どうなるんだろう、と思っていたら、聞こえてきたは罵倒とか、批判とか、そういうものでは無かった。

「「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プッ。」」」」

「・・・え?」

何だ?そう思った瞬間・・・。

「「「「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!」」」」

爆笑の嵐。恥ずかしい。そう思った。みんなお腹を抱えていた。爆笑という言葉が似合わない榊さんさえも、片方の肘をソファの背もたれに掛け、もう片方の手で、天井の方を向いている顔を覆って笑っていた。

―・・・何もそこまで笑う事無いのに。

笑われることは覚悟してたし、確かに丸焦げのソレは、何の料理か分からないほど、原型を留めてはいないけど・・・。こう・・・。雰囲気で感じとってほしかった。中華風のお皿に盛りつけられたご飯の塊を見たら、チャーハンだろ。みたいな感じで。

「ククク・・・梶本・・・お前・・・。本当に料理駄目なんだな・・・クク。」

「だから言ったじゃないっすか。俺、いつも食事なんて適当に済ませるし、手伝いとかもしたこと無いんすから・・・。」

紀貴は後悔した。やっぱり料理なんてしなければよかった。もしかしたら上達してるかも、なんて根拠のない期待をした自分が馬鹿だった。上達なんてしてるわけがない。

なにしろ、触って無いんだから。最近では一人暮らしのため、人が料理しているところさえ見ていない。

「明日はもうすこし焦げを減らせよ。」

・・・。はい?

と思って顔をあげて見てみると、平然と焦げたチャーハン・・・というか、チャーハンが焦げた?ものを、口に運んで食べてくれていた。『硬ぇーよ』とか、『原型がわからない』とか言いながらも、食べている。

―たっ・・・食べてる!!あの焦げたなんだかよく分からない物体を!!腹壊すかもしれない焦げたものを!!

・・・・素直に嬉しかった。決して、美味しいとは言ってもらえていないけど、捨てられるかと思っていたから、本当に嬉しかった。ゴミ箱ポイッ。なんてされたら、心が少なからず折れていたかもしれない。  

でも、食べてる。確かに食べてる。口に運んでいる真似をしているわけでもないようだ。

バリッとかいう音が口の中からハーモニーのように聞こえたけど、それが食べてくれている証拠であって、最初はボーっと眺めていた。

「「「「ごちそー様。」」」」

食べ終わると、英斗は「解剖の練習しよ~」と言いながら、個室に入って行った。あの人の部屋には、お金を払われても行きたくないものだ。

潤は、「ニュース、ニュース」と言って、テレビをつけた。ニュースと言って付けたのはいいが、潤が居間見ている番組はニュースじゃなくて、お笑いといいます。世間一般では・・・。

そして翔は、「こら、歯みがきしろ。」なんて、母親のようなことを言っていた。

―よく、食べ終わってから三分以内に歯みがきしろっていいますもんね。その点では正しいです。

―でも、その台詞を言いながらチョコレートをかじっているのは否めません。







紀貴が茶碗を洗っていると、英明が来て、「あ~・・・なんて言うかよ~・・・。」と、言いにくそうに話しかけてきた。煙草を吸っているため、換気扇を回し、頭をかきながら紀貴の方を見た。

「?なんすか?」

「期待なんざしちゃいなかったぞ。梶本の料理。」

「へ?」

「男なんて、そんなもんだしな。ロクに料理も作れない。洗濯だって適当だ。裁縫なんてもっての外だ。出来る出来ない、得意不得意も人それぞれだ。そもそも、料理なんて無縁だろうしな。ま、料理が好きっていう奴も、中にはいるみてぇだけどな。」

「・・・・・・はぁ」

「・・・ま、みんな梶本と同じとこから始まってるってこった。だから、いちいち気にすんな。」

そう言って、しばらく台所の隅で煙草を吸っていた。・・・。貶しに来たのかと思った紀貴を、どうか許してやってください。悪気は無かったんです。いや、本当に。

煙草を吸い終えた英明は『ちゃんと洗えよ』と言って、お風呂に入りに行った。

―榊さんって、見かけによらず良い人なんだ。

そう思った。藪医者とか、無精髭とか言って御免なさい。と、心の中で謝った。

―なんだかんだ言っても、みんな良い人だ。なんとなく悪い印象の方が強かったけど、本当に、人って言うのは接してみないと、話してみないと分からないものだ。

と、一人でうんうん頷いた。

紀貴は、明日もチャーハンで勝負しようと思った。





紀貴は自分の部屋をもらって、その部屋で寝ることにした。部屋着を貸してもらって、ソレを着て寝た。

枕が変わっても寝られる人間で良かったと心の底から思う。

とにかく今日は、やりなれないことをしたから、疲れた。勉強とかの疲れとは違って、充実感がある疲れだったから、寝付きの悪い紀貴が、珍しく早めに寝られた。





「ん・・・。」

―目覚ましが鳴らない。携帯も鳴らない。まだ時間じゃないのか?なら、もう少し寝ててもいいかな・・・。

そう思って、時間を確かめようと、頭の上まで腕を上げて、あるはずの目覚まし時計を手探りで探した。

バンバン・・・。

幾ら手広く叩いて探しても目覚ましらしきものが無いようだ。というか、無い。明らかに無い。どうしてかと思いながら、身体を起こそうか迷って、ゴロゴロしていた。

「無い。」

紀貴がそう言うのと同時に、部屋のドアが開いた。正確には、勢いよく開いた。

まだボーっとしている頭にはよく響いた。

五月蠅いよ、おふくろ・・・

―なんて思ったが、あれ?俺、今一人暮らしのはず・・・。あれ?もっ、もしかして泥棒とか!?

被害妄想に突入しそうになった時、煙草の臭いが、部屋を満たした。

―・・・臭い。

そう思っていたら、掛け布団を引きはがされた。

「梶本ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」

「!!!!!」

びっくりして目が覚めた。

布団をはがされた寒さと、鼻を掠める煙草の臭いと、耳を貫通した声に、脳味噌が『起きました!』というくらいに、はっきりとなった。

「てめぇ・・・。家事担当のくせに何でまだパジャマなんだ?俺達の朝飯はどうなるんだ~???お前は俺達に餓死させてぇのか?梶本ぉぉ・・・。寝坊とはいい度胸してんなぁ?」

「・・・・。」

思わず、顔が引きつってしまった。

―やばい。何か対処法を見つけなくては。

そう思っても、また頭が眠いと言っていて、紀貴の脳も身体も思うように働かない。

いや、さっき起きたと言っていた。急に起こしたせいで、パニックを起こしているんだ。

―このままだと、確実にヤバい。

英斗には解剖されそうだ。英明にも殴られそうだ。

「今すぐ作りますっ!!」

扉にもたれかかっていた英明の横を通り過ぎて、一秒でも早く台所へ行き、一秒でも早く料理を作ることに専念した。

パジャマのまま・・・といっても、借りた部屋着のまま寝たため、私服と同じなのだが。どうやら、起きているのは英明と英斗だけのようだった。

いや・・・この二人が危ないのだけれど。

すぐにフライパンを出して油をひき、炊きたてのご飯をよそった。おかずは、昨日の残りだ。温めたものの、やはり焦げは消えていない。

・・・当り前なのだが。消えているかもしれないと願ってしまうのは、仕方ない。

そんな焦っている紀貴の姿を見て、英斗が楽しそうに笑っている。

『頑張れ~。』とか、『ファ~イト~』とか、普通なら励ましの声援さえ、英斗にかかると力の抜ける応援歌になる。

―な・・・なんか元気出ない。

アンパンマンのパンは、本当に元気が出るのだろうか。だが、紀貴は密かにカレーパンマンを応援している。なのに、食パンマンとかアンパンマンに比べると、遭遇率はとても低い。

―味方だろ。お前ら、実は仲良くないのか?

なんて余計なことを考えていたら、英明に咳払いされた。しかも、わざとらしいやつ・・・。

『ねえ?榊さんも不思議に思いませんか?』なんて言えば、『なんだ、それ。食えんのか。ヒーローを食うのか。』なんて言われそうだから、やめておいた。

英斗に至っては、『面白そう~。解剖したい~。』とか言い出しそう。いや、解剖しても、パンだから。何も問題無いんだけど。こう・・・子供の夢っていうか、道徳的にっていうか・・・。

「ど・・・どうぞ。」

恐る恐る料理を出した。よほどお腹が空いていたのか、英明は両手をパンッと合わせると、すごい勢いで食べ始めた。

焦げた料理も、食べ慣れているのだろうか。何も言わずに食べている。とにかく食べている。

焦げているから、妙な音が聞こえる。バリッとか、バキッとか、ゴリッとか。英明の歯が折れるんじゃないかとも思ったくらいに。

それでも、気にすることなく食べていた。本当に食べていた。くどい様だが、食べていた。

「おい。」

「はい?」

「何ぼーっとしてんだ。今日からお前の強化訓練始めんだぞ?」

「きょ・・・強化訓練・・・すか?」

―本当にやるのか。俺が強くなってどうするんだろう。え?もしかして、焦げたもの食うと強くなれるのか?そんなことはないな。

自問自答を繰り返しながら、『でも、もしかしたら・・・。』なんて一瞬でも考えた紀貴。

―アスリートとかは食事に気を付けるとか言ってるけど、結局は食事も大事だけど、一に練習、二に練習ってことだもんな・・・。

―一に食事、二に食事だったら、ただ食いしん坊だよな。メタボへの道まっしぐらだ。いや、俺の親父、軽くメタボだけど。

「真面目にやれよ。わかってると思うが。」

「はい・・・。」

「クスクス・・・。気をつけてね~。英明はスパルタだから~。」

英斗が呑気に笑いながら言った。未だにこの人は本当に分からない人だ。結局のところ、解剖が好きな一般人なんだろうか。

―・・・。いやいや、それはないな。そもそも、解剖が好きな時点で、一般人と認めたくない。そんな一般人が増えてみろ。街も歩けないじゃないか。

綺麗に青く染まった髪の毛の先端をいじりながら、『あ、枝毛だ。』って言ってる三〇代の男を俺は見たこと無い。

物腰は柔らかいのだが、この人は絶対腹黒いことは断言できる。あんな風に笑う人って、大概腹黒だと、人生から学んだのだ。・・・まあ、紀貴の勝手な考えなのだが。

「おい。英斗もだ。お前も最近腕が鈍ってるだろ。」

「え~。嫌だよ。俺はそういう肉体派じゃないんだからね~。野蛮な英明と一緒にしないでよ~。そういうのは翔の担当でしょ~。」

―・・・確かに。

英斗は弱そうだ。紀貴が言うのもなんだが。もやしっ子なイメージがある。ひょろひょろっとしていて、とても『戦闘員』とは程遠い人に見える。

反対に、英明は・・・その、不良っぽいし・・・。暴れてそう。若いころとか、『頭』なんて呼ばれてそう。

翔も、性格はどちらかと言うと英斗に似てはいる気はするが、獲物を見つけた時の視線なんかは、英明に似てそうだ。

現に、紀貴と初めて会った時、そういう目をしていた。

まるで、『新しい玩具が来た』とでも言いたげに。目の奥がギラギラしていた。ニット帽によってはっきりとは見えなかったが、紀貴にとっては、視線で殺された気分だった。

―・・・。ああ、頑張れ。俺。成せば成るって言うだろ!それに、榊さんと隼さんは煙草吸ってるから、息切れが速そうな気がする。

「しゃーねーな。じゃあ、翔が起きたらよこせ。」

「は~い。」

ひらひらと手を振りながら、解剖の本らしきものを読んでニコニコしている英斗は、やっぱり侮れないと思った。メスを動かしているので、きっと頭の中で、本の中にある何かを解剖しているのだろう。聞くのも恐ろしくなった紀貴は、英明の後をついて行った。

「あの、榊さん。」

声をかけてみた。

「んあ?」

「訓練って、どんなことするんすか?腕立てとかっすか?」

「ま~・・・、なんていうか。そんなとこだな。」

「?」







煙草を吹かしながら、無精髭をさする仕草をする。剃ればいいものを・・・。

『顎鬚は、お父さんになると娘に嫌われますよ』と、言おうか迷って、紀貴は結局止めた。

―そもそも、そんなことで強くなれるのか?筋肉マッチョにはなると思うが。

どうみても、英明はマッチョではないし、他の皆だってそうだ。

一応、中学と高校で運動部に入ってはいたが、大学ではサークルにも入っていないし、大丈夫か?と考えながら歩いていたら、ふと、英明が立ち止ったため、つられて紀貴も止まった。

というか、英明の背中にぶつかって停止した。・・・どんだけ密着して歩いてたんだ。

「・・・よし。じゃ、始めるぞ。」

「・・・ここですか?」

「ま~、場所はどこでもいいんだ。とりあえず避難する場所が近くに無けりゃあな。」

「避難?」

「訓練が辛くて、途中で逃げられても面倒だからな。」

「ああ。」

―そういうことか。

紀貴はやるしかないことを悟った。

『逃げ脚だけが異様に早ぇやつもいるんでな・・・』と英明は付け加えた。煙草の煙が空へと消えていく。さっきのはきっと、英斗のことだろう。・・・でも、翔も逃げそうだが。





「じゃあ、まず・・・。」

ごくり・・・。生唾を飲み込んだ。

「・・・足を肩幅に広げて、そのままの状態でずっと立ってろ。」

「へ?」

なんだ?それ。そんなことでいいのか?そう思っていた数分前の自分を殴って教えてやりたい衝動に、紀貴は駆られた。そして、是非とも自分に伝えたかった。『これは辛い。』と。

足のふとももの筋肉がつりそうだ。特に内もも。プルプル言ってる。それを平然としながら眺めている英明は、ボーっと空を仰いでいた。

まだ開始してそれほど時間は経っていないのだろう。時間の感覚なんか無いが、英明の煙草の長さから感じ取れた。

―耐えろ。耐えるんだ。俺はやれば出来るはずだ。今までだって、そうやって洗脳してきた。結果、出来たか出来なかったかは、さておき。

―余裕ぶって平然と始めるんじゃなかった・・・。

うさぎ跳びより、ノック一〇〇〇本より、星飛雄馬のギプスよりはマシなはずだと願う事しか出来ない。ただ立っているだけなのだから。・・・それなのに、こんなにキツイとは・・・。

紀貴が立っている近くの木陰で、(のんびりと自然を感じているのか分からないが)規則正しい呼吸をしている男・・・。

―こんちくしょう。

しかも、オプション付き。腕も地面と平行に上げているせいで、二の腕まで辛くなってきた。明日は筋肉痛決定だな。

いつ終わるのかもわからないこの状態で、紀貴は自分がもしかしたら鬱なんじゃないかと思うくらいに、気が滅入っていた。きっと英明は寝ている。そう勝手に思って、少し腕を下ろそうとした、その時・・・。

「・・・結構クるだろ。それ。」

―久々に言葉を発したかと思えば、それか。

もう十分わかっていた。貧血になりそうなくらいなのだから。フラフラしてきた。ちゃんと血の循環は行われているのだろうか。自分の身体のポンプは、機能してくれているのだろうか。頼む。頭の方にも血を与えてくれと、懇願する。

ふくらはぎもパンパンになってきたのが感じられる。目の前に医者がいるっていうのに、なんという事だ。紀貴は神のみならず、医者にも見放されたのか。

―神と言えば・・・柏木さんの髪の毛って地毛かなぁ・・・。でも、あんなに青い髪の日本人はいないか。じゃ、やっぱり染めたのか・・・。

紀貴は現実逃避しようとしていた。

「倒れても俺は見ねぇーぞ。見るとしたら、英斗だな。」

それを聞いた瞬間、紀貴は目が覚めた。絶対嫌だ、と、ただ、それだけの思いだったのだが、その一言はとても強烈で、身震いさえした。

―解剖される。

英明は医者だからまだいいけど、英斗は危険だと、本能が言っていた。あの爽やかな笑みの裏には、とんでもない腹黒がうかがえる。

―厄介だ。俺の身体は、解剖のためのものじゃない。

英明はそんな紀貴を見てニヤッと笑った。完全に紀貴の思考が読まれている。

『手に取るように分かる』という視線を向けながら、新しい煙草を出して火を付けた。灰皿を用意してあるのが、なんとも英明らしい。







「お~。やってるやってる。」

そう言いながら、翔が来た。

―助けてください。

そう叫ぼうかとも思った。が、それは駄目だ。助けを求めた瞬間、解剖の道へ進むだろう。そう、紀貴の本能が警鐘を鳴らしていた。

―隼さん・・・そこにいる男をどうにかしてください・・・。

なんて思っていたが、紀貴は英明の、この家での地位を分かっていなかった。

紀貴がプルプルしているのを見て、これまた楽しそうに笑い転げている翔に向かって、英明が放った一言。

「ほら、翔もやれ。」

「は?」

英明はそういうと、短くなった煙草を灰皿に押しつけて、また新しい煙草に火をつけた。

―吸うの速ぇよ。煙草は一日何本って決めた方がいいですよ。なんて言えたら、どれだけ楽だろう。

翔も餌食になった・・・と心配していたが、翔からの返答は、紀貴が想像していたのとは違った。

「ちぇっ。やっぱ俺もか。」

文句を言いながらも、翔は紀貴と同じ体勢になった。

でも、バランスも良く、紀貴のように悲鳴をあげることも無かった。気合いを入れるためなのか、『やってやらぁー!!』と叫びながら立ち始めた。

翔もそんなに長くは持たないだろうと思っていたが、何分経っても、文句を言う余裕があった。紀貴にはもう、そんな気力も無いというのに。

「あの、隼さん。」

「ん~?何だ?」

「これで、強くなれるんですか?榊さんとかも、コレ、やるんですか?」

「あ~・・・。強くなるかは知らねぇけど、英明の野郎もたまー・・・にやってるぜ。それに、これは筋肉を鍛えるだけじゃなくて、精神的なもんを鍛えるのがメインらしいし。どんな極限状態にも耐えられる精神を作る・・・とか言ってたな。」

「精神的・・・。」

「そ。これで強くなるんだったら、俺のほうが英明より強くなってるはずだ!」

そう自信満々に言い放ち、拳を高らかに天へと突き出した翔の頭を、英明が叩いた。

翔が、後頭部をさすりながら英明を睨んだ。でも、英明に睨み返されて、諦めたように笑った。

「ったく。翔は自信過剰なんだよ。若けぇーうちからの煙草は止めろって言ってんのに止めねーし。好き嫌いはするし、敵に飛び込んで行って捕まるし・・・。」

はぁ・・・と、大きなため息をついた英明に向かって、翔がニッと笑いながら言った。

「俺は運が良いんだ。」

「違うだろ。暇だった潤が、お前を尾行して遊んでたから助かったんだろーが。」

呆れてものが言えねぇーよ・・・と、英明は言った。

翔は、そうだったっけ?なんて、調子よく言っていたが、きっとこの人のことだ。捕まっている状況でさえも、楽しんでいたんだろう。

英明は、『もういい・・・』と言って、また木陰に行った。翔は『英明も煙草止めればー』と叫んだ。

それを、五月蠅いと言いたげに、英明は人差し指を耳に入れて見せた。

なんか、紀貴のほうが精神年齢高いんじゃないのか、と疑うほどに。そんな話をしながらでも、翔は平然と立ち続けていた。それを見て、英明が足を蹴ったり腕に肘をかけたりしていた。

それを見ているうちに、紀貴は自分も負けてらんないと思って頑張った。





「・・・イってぇ・・・。」

筋肉痛になった。想定内だが、本当に痛い。結局、午前中の五時間ぐらい立っていた。

水分補給はさせてもらえたけど、後半は意識が飛んでいた気もする。何を話したかも覚えていない。

翔が言うには、紀貴は英明にボロクソに言われたり、膝かっくんをされたが、反応が無かったらしい。

―榊さんも暇だからって、そういうことはしないでほしい・・・。なんでそうときだけお茶目全開なんすか・・・。相当暇だったんですね。俺の健康は今日で崩壊した。そうです。原因はあなたですよ、榊さん。優雅にソファに座ってる・・・。悪魔がソファに座ってる・・・。

「フ、フライパンが・・・重く感じる・・。」

身体がギシギシいっている。それを面白そうに英斗が眺めている。

翔と潤は、何やらテレビのリモコンの取りあいをしている。

ニュースだの、ドラマだの、この間撮ったビデオだの・・・。

―だから潤くん、君が見てるのはお笑いだよ。ニュースとは程遠いものだよ。教育上見せない方がいいものまでやってる番組だよ。

―隼さんも、この間撮ったビデオって・・・ヤマトっすか。まあ、良い作品だと思うけども。

「大丈夫~?手伝おうか~?」

笑いながら英斗が声をかけてきた。紀貴がぎこちない動きを繰り返してるのが、相当可笑しいらしい・・・。手伝いに来たというよりは、観察しに来た、という感じだ。

紀貴がなんとか両手で持っているフライパンをワザと叩いて重くしたり、紀貴の脚を狙ってモノを蹴ってきたり・・・。

―いじめですよ。俺はそういうのに屈しないタイプですけど。

手伝う、なんて言って、立って次は何しようかな、と模索している。いやがらせしに来ただけのようだ。

「あ、大丈夫です。なんとか出来ますから。」

「そ~お?クスクス。」

「・・・。」

―絶対楽しんでる・・・。

リビングに戻ることもせず、ずっと紀貴を観察している。

英明の視線とは違って、別の意味で恐怖。刺さるような視線ではなく、ゾクッとするような視線。背筋が痛いというより、寒い。解剖を妄想していないことを願う・・・。

そんな様子を見て、潤が『英斗が紀貴の身体を狙ってる!』なんて気持ち悪いこと言った。まあ、狙われてはいるんだろうけど。そういう事じゃなくて・・・。

「あの・・・。なんていうか・・・。今動き変なんで、あんま見ないでほしいんすけど。」

「フフフ・・・。俺ねぇ~・・・。人間観察が大好きなんだ~。」

「はぁ・・・。」

―答えになってないよ。まぁ、いいか。言っても聞かないだろう。

なんとか今日のお昼を作り終えた。今日はオムライスにしてみた。チャーハンにしようかと思ったが、包丁を持てるか微妙だったため、ご飯とケチャップを混ぜただけのものに、卵を焼いて・・・いや、焦げた卵をのっけただけの簡単なものだが・・・。やっぱり焦げた。

ここのガス、威力が半端ないのでは、とも思ったが、それどころではない。まともにスプーンさえ持てない状態だ。

―うう・・・。星飛雄馬のギプスのようだ・・・。







「おい、梶本・・・。」

「ん?何すか?」

「食い終わって食器洗ったら、俺の部屋に来い。」

「あ・・・はい。」

そう言って、英明はまた勢いよく食べた。見かけによらず、めちゃくちゃ食べる人らしい。まあ、食べない医者よりは食べる医者のほうが良いけど。貧血そうな医者って嫌だしな・・・。

そう思いながら、三〇分くらいかかって、やっと食べ終わった。食器を洗うのも大変だった。

筋肉め・・・。紀貴も運動してた頃は、今の英明より食ってたなー・・・。なんせ、一日に三、四合は食わないと、体力がついていかなかったし。あのころに比べると、やっぱり食わなくなったから鈍ってきたのだろうか。

―でも、運動しないのに食ってたら、それこそダメたよなぁ。三〇になっても、あれくらい筋肉質を維持できればいいな。いや、こういうことは絶対本人には言わないけど。言ってたまるか。

『榊さんの身体に惚れてます!』とか言ったらきっと、あの人はとても嫌そうな顔をするだろう。容易に想像出来る。そして、洗い終わって英明に言われた通り、部屋に行った。

「榊さん。何すか?」

「お~・・・。まぁ、座れ。」

英明の前にある椅子に座って、英明がこちらを向くまで待ってみた。

―ああ・・・医者っぽいです。本物のお医者様って感じです。

薬品の臭いはしないものの、救急箱とか診断書とか、奥には治療室みたいなところがあった。フチの無いメガネをかけていて、その姿は『知的』そのもの。

ペンを滑らせて書いているのは、どうやら紀貴の診断書。

―・・・診断書?俺、何も診断してない。

と思って覗いていたら、幾つか質問された。『身長』とか『体重』とか『視力』とか、実際に測ることは無かった。

―こういうところがなぁ・・・。玉に瑕ってやつだ。

ここで、本格的な診断をすれば、紀貴からの信頼度が上がるのだろうが。

幾つか質問に答えたら、なんかもう面倒そうな感じだった。

―あんた質問しただけだろ。

そしたら、メガネを外して、こっちを向いた。

「ん~・・・。梶本。お前、健康か?」

「は?」

「いやな、一応健康診断してから特訓にしようかと思ってな。」

「・・・もうしたじゃないですか。」

「だよな。お前、健康以外に取り柄無さそうだしな。まぁ、何かあったら面倒臭ぇから聞いただけだ。心臓発作とか起こされたら、たまったもんじゃないからな。じゃ、とりあえず一週間、午前中はさっきみたいに鍛えろ。いいな。」

「いっ・・・一週間・・・ですか。」

―健康しか取り柄無いって・・・。あんた医者だろ。しかも、多分外科医だろ。いや、内科だったら謝ります。

色々とツッコミたいことはあったんだけど、それどこじゃなかった。あんな特訓というか筋肉痛の元を一週間も続けるのかと思った。

―あ、俺今鬱だ。

なんか、短いような気もした。継続は力なり、とか、塵も積もれば山となる、とか、もうちょっと長期間やるものかと思っていたから、正直、そんなもんかと感じた。



「ん?長いか?」

「いや、短くないっすか?」

「いいんだ。筋肉はつけ過ぎても不便になるからな。今のお前の筋肉量から判断した。もともとスポーツでもやってたんだろ?」

「やってましたけど・・・。」

「潤と翔もやってたんだ。でも、英斗はやってなくてな。あいつは今でもへなちょこだ。」

笑いそうになった。へなちょこって・・・。確かに、英斗だけは線が細い。華奢と言えば華奢だ。

英明は一見細そうだが、意外とがっしりしている。男らしいというか。逞しいというか。紀貴の脚の筋肉を触って、『質は悪くねぇ無』と言っていた。

もっとも、自分の筋肉になんか、これっぽっちも興味無いのだけれど。

じーさんになったときに、歩くのに不便じゃないくらいの筋肉がついていればいいと思っていたくらいだ。

最近は痩せ指向で、若者の多くが細さを追求しているようだ。紀貴の周りにもそういう男も女も多い。ただ、あれは細いというより、細っこいという言葉の方が合っている気もする。

「榊さんも何か運動とかやってたんすか?」

「あ?何でだ。」

「いや・・・、榊さんって結構身体がっしりしてますよね。だからといってマッチョでもないし。」

「ああ・・・、俺は。」

その時、ドアが開いて、英斗が入ってきた。

「英明は毎日だもんね~。」

はい、と言って、英明と紀貴の前にコーヒーを置いた。

「毎日って?」

気になって、気付いたら聞いていた。

「おい、変なこと言うなよ。」

「クスクス・・・。変なことじゃないでしょ~。毎日腕立てと腹筋、ランニングもしてるんだから。尊敬しちゃうよ~。」

「えっ・・・。」

驚いた。朝の食欲も、昼の食欲も、原因はそれだったのか、と納得した。

―毎日やってたら、確かに体格は良くなるな・・・。『俺には無理だね~』なんて、冗談なのかは分からないが、俺もそう思う。     

 英斗がどんなに頑張っても、英明のような体格を得ることは困難だと思う。

当然、服を着ているから、実際はどうなのかは知らない。

「馬鹿。余計なこと言うな。」

「いつかバレることなんだし~、いいじゃん。ね~?」

英斗に同意を求められた。苦笑いして誤魔化したが、英斗はいいのか、なんて人の心配をしてしまう。英明の努力を幾ら自慢しても、英斗にとって良いことなんか何もない。

ただこの人は、紀貴に知らせに来ただけのようだ。英明の身体が、日々の努力の賜物であることを・・・。

「あ、そうだ。冷蔵庫の中なんも無かったから、俺と潤で買い出しいってくるね~。」

「ああ?。」

紀貴は未だ思う通りに動かない筋肉を揉み解しながら、二人の会話を聞く。

どうするもこうするも無いけど。英斗の『出かける』発言に、英明の眉が反応したのがちらっと見えた。

「今日は危ねぇーだろ。雨降ってんぞ。」

「でも、餓死しちゃうよ~。」

―柏木さんって、あんまり強くないのに、危機感が無いというか。薄いのか?どこにそんな余裕を持てる自信があるんだか、甚だ疑問だ。

それに、餓死するって言う台詞は、英斗に似合わないと思っていた。

他人のお腹を見ているからこそ、餓死にこだわっているのか、とも思ったが、どうやら紀貴の深読み。言っても聞かないことを承知しているのだろう。

英明は深く、深~くため息をついた。そして、ドアを開けて潤くんを呼ぶ。

「潤。英斗頼むな。」

「アイアイさー!」

びしっと敬礼のポーズをとって、英斗と出て行った。

―・・・なんて従順。なんて健気。なんて素晴らしい忠誠心。俺なら『嫌だ』と言いたくなる場面。嫌な顔ひとつせず、言われたことを忠実にこなす。あの子は大きくなる。あれ?なんか近所のおじさんに言われたことあるような台詞。

「・・・柏木さん鍛えなくていいんすか?」

紀貴は気になったことを聞いてみた。

「あいつは、あんまり身体を動かせねぇーんだ。」

「怪我でもしてるんすか?」

「いや、小さいころから病弱らしくて、急に動かすと発作が起きるらしい。」

「・・・何一つ確証が無いじゃないっすか。」

「・・・まぁな。」

呆れたように笑って、英明は紀貴の筋肉痛の部分に、湿布を貼ってくれた。

その行動一つ一つは丁寧なのに、なぜか貼り方だけ雑。『この辺か?』バンッみたいな。そこ一番重要なところなのだが・・・。

英明らしいと言えば英明らしい。適当のようで丁寧。丁寧のようで適当。紀貴はこんな三〇代にならないように気を付けようと誓った。

「雨の日が危ないって言ってましたよね?」

「ん?ああ。クレイザーは雨の湿った臭いが好きなんだ。あいつらは耳も鼻もいいから、あんまり出かけねぇほうがいいんだが。」

俺にもそんな聴力が、嗅覚があればな・・・と英明が呟いているのを紀貴が聞いてしまった。

―榊さん・・・。そんなもの手に入れて何するんですか。

晴れているときの方が鼻は利きそうであって、雨のときには雨で掻き消されそうだと思った紀貴だが、きっと理屈では説明できない何かがあるんだろうと考えた。

そんなことを考えていると、誰かが部屋に近づいてくる気配を感じた。ドアが開いたかと思うと、そこには翔が立っていた。

「英明。」

と頭を抱えながらやってきた。翔は何やら難しそうな本を持っていて、それを似合わないと思ったのは、紀貴の心のうちに秘めておこう。

英明が顔を上げて、「どうした?」と聞くと、翔は部屋に置いてあった椅子を持ってきて、紀貴と英明の近くまできて座った。

「頭が痛ぇ。」

「普段使わねぇ頭を急に使うからだ。」

きっぱりと言われ、翔は目を細めて英明を睨むが、英明はしれっとしたまま、翔の持っていた本を、紀貴に渡した。

英明が軽々しく持ったもんだから、軽いのかと思って油断した紀貴が本を受け取ると、それはすごく重いものだった。

とにかく渡された本を見て困った紀貴は「え?」と声を漏らす。

「この本に、クレイザーのことが載ってる。翔の頭じゃ無理だろうから、梶本が読め。」

「え・・・俺も頭良くないっすけど。」

英明に期待されるのは嬉しいが、どうしてよいか分からない紀貴。

「わかってる。先入観がないから読んでみろって言ってる。」

―健康しか取り柄が無さそうとか。事実だから言い返せないのが悔しい。頭を使うのはエネルギーの消費を意味する。それは避けたかったのに。いや、そんなに頭働かないうちに眠くなるけどさ。俺ってそんなに馬鹿そう?

そんなことを思いながらも、とりあえず本を広げて見た。

「・・・なんか。ゲームの本みてぇ。」

変な怪物らしきものがうようよ載っていた。

気持ちの悪さなどから不満全開のままページを捲っていくのを、英明と翔が見ているのが分かる。

「あ。」

クレイザーの文をやっと見つけた紀貴が持った第一印象としては、“変わった人間”程度だ。

「よぉ。なんかわかったか?」

翔が頭部に手を乗せてきて、ここじゃなんだし、リビングでオレンジジュースでも飲みながら・・・なんて、子供みたいなことを言った。

気付くと英明がいなくて、何処に行ったのかと思っていると、リビングで新聞を読んでいた。

―こうしてみると、本当に立派なお医者様みたいだ。

 



 しばらく本を読んでいて、色々分かったようだ。クレイザーが出現し始めたのは、ここ十数年であること、精神・理性・自己を失い、肉体的も崩壊し始めた瞬間が、最もクレイザーに狙われやすいこと。 

最初に英明に会ったときに言われた意味を、今改めて理解した。

「いいか。ここで必要なのは強さ・知識・知恵だ。自分が自分であることを維持するための術だ。何があっても発狂するな。己を失うな。所詮、人間を放棄した奴が出来ることなんて、たかが知れてる。情報を操って生き残るしかないんだ。」

「・・・。じゃあ、俺を襲ってきた奴らも、最初は俺らと同じ普通の人間だったって事っすか?」

「・・・そうだ。」

「紀貴。俺達は生身の人間なんだ。神様でも仏様でもねぇ。完璧なんてねぇんだよ。弱みを見せれば食われる。」

「・・・。」

まだ頭の中で整理しきれていないけど、紀貴も一歩間違えればあいつらと同じになるってことが分かった。

そのとき・・・

バンッ!!!

っと、何の前触れもなくドアが開いた。

紀貴と英明と翔は同じ方向を見た。そこには、息を切らした潤がいた。

「・・・どうした。」

何かを察知したのか、英明が潤に近づいて聞き、それを翔も眺めながら、ゆっくり近づいて行った。潤は下を向いたまま。

「御免・・・。俺。」

少し声が涸れていた。泣いているのかもしれない。顔に似合わずしっかりとした肩が、小刻みに震えている。

その口から、「英斗が・・・。いなくなった・・・!」

強い衝撃だった。

「・・・。」

潤の頭に、大きな手をのせ、英明は翔を見て言った。

「翔。潤と梶本見てろ。」

「・・・ん。」

そういうと、英明は外へ出て行った。その後ろ姿を見て、なにか悪い予感がした。

英斗になにかあったんだと、潤の落ち込み具合から見ても一目瞭然だ。

紀貴はどうすればいい分からず、あたふたしていると、「潤。とりあえず座れ。」 と、翔が潤を促して、ソファに座らせた。潤は下を向いたまま、顔をあげようとしない。

紀貴がボーっと立っていたのに気付いた翔に声を掛けられた。

「紀貴。お前もこっちいろ。あんまりドアに近づくな。」

「え?あ、はい。」

今の紀貴には、そう言うしか出来なかった。

筋肉痛の男が、後を追っていったところで、足手まといにしかならないことは、紀貴だって重々承知している。危機感が足りないのは、紀貴も同じだったようだ。

こんなことが起こるなんて、露ほども思っていなかった。最後はハッピーエンドだなんて勝手に結末を作っていた。

―俺はなんて軽率な行動を繰り返していたんだろう。『悔しい。』

翔は、潤に何を言うでもなく、ただ隣に座っていた。煙草を吸いながら。

紀貴は、英斗に何があったのかを聞きたくて仕方なかった。まだ、自分だけ蚊帳の外にいるような気がして、不安だったのだ。潤を急かすことも出来ないまま、悶々としていた。

翔は落ち着いていて、そんな紀貴に「紀貴。焦るな。英明が行ったんだから大丈夫だ。お前も座れ。」と言ってきた。

「・・・。」

翔に言われるがまま、紀貴は潤の向かいのソファに座った。うずうずした。

何かしたいのに、何もできないもどかしさが、紀貴を襲う。潤と翔を交互に見ていた。

ほんの三、四分経ったとき、「んで?潤。何があった?」と、やんわりとした口調で翔が潤に聞いた。

潤も少し落ち着いたのか、顔をあげるが、目が赤い。それでも、しっかりと前を見据えていた。

「俺と英斗が買い物済ませて、クレイザーもぶっ飛ばしながら帰ってたんだ。・・・でも。」

また少し俯きながらも、続けた。

「俺が前にいるクレイザーにばっかり気を取られてて、後ろにいる奴らに気付かなかったんだ。買い物袋が落ちる音がして振り返ったら、英斗がいなかった・・・。」

唇を噛みしめて、泣きそうになるのを必死に堪えている姿を見て、紀貴は慰めの言葉も浮かばなかった。

「・・・あ~・・・。ま、大丈夫だろ。」

翔の一言に衝撃を受けた。こんなときに、なんて無責任なことを言うのだろうと、紀貴はイラッときたのだ。

「隼さん!そんな無責任なこと!」

そう言って、胸倉を掴みそうになったとき。

「英斗だって、やるときゃやる男だ。」







―・・・・・・え?

「だって・・・。あの人弱いっすよね?病弱なんすよね?」

英明に聞いたことを言うと、翔はキョトンとした顔で、逆に質問される。

「あ?誰がんなこと言ってた?」

「え・・・。榊さんが。」

「・・・。それ、英明騙されてんだよ。英斗は病弱じゃねぇぞ。ドSだけどな。英明が健康診断するっていうと、その前の一週間は絶食すんだよ。んで、英明のスパルタ特訓から逃れてんだ。」

「・・・・・・・・・・・・・・・。」



―思考停止。



「・・・・・・・・・・・・はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

紀貴は叫んでしまった。それは当り前の反応だろう。英斗が腹黒だとは思ってたが。そこまでとは思っていなかったのだから。

そもそも、知ってるなら英明に教えてあげればいいのに、と、その怒りにも似た驚きの矛先は、英斗と翔に向けられた。

「英明も薄々は気付いてんだろうけどな。英斗は演技派だし。いつも他人任せだけど、いざって時には、ちゃーんとボコボコにしてくれるしな。」

今頃相手を解剖してんのかもしれねーし、なんて翔が言うものだから、紀貴は何を心配していたんだろうと、しばらく考えてしまった。

―もっと早く言って欲しかった。あんなに俺、後悔してたのに。ただ自分を責めた時間になったじゃないか。

「・・・そうなの?」

さっきまで落ち込んでいた潤も目をパチクリさせていた。

そして、ケロッとしたかと思えば、お酒を持ち出して呑みだした。焼酎やらワインやら持ってきた。そして、『呑むぞー!!』と叫んだ。

「え?じゅ・・・潤くん?」

潤の変貌ぶりに唖然としてしまう紀貴。

「あいつ、ああ見えて酒豪だからな・・・。」

―隼さん。冷静にそんなこと言ってていいんですか。というか、潤くん・・・お酒が飲める年齢だったのか・・・。

そこに感動した。てっきり未成年だとばかり思っていたので、なぜか申し訳ない気持ちにもなっていた。







それからしばらくして、紀貴は夕飯の支度を始めた。筋肉痛は消えないけど、なんか色々ありすぎて、筋肉痛であることも忘れていた。

潤たちが買ってきてくれた食材で、今日は生姜焼きでも作ろうかと思った。肉が食いたい、その一心だった。

―男の料理!それは肉!的なことを、昔親父が言っていたような。言ってなかったような。

紀貴がフライパン一杯に肉を投入すると、ジュウ―と良い音が耳に届く。

―ああ・・・心地いい。

「ただいまぁ~。」

―・・・。この間延びした声は。

「よかったー。無事だったんだね。心配しちゃったよー!」

潤が、一目散に英斗に近づいた。

「で?なんでこんなに遅かったんだ?」

―・・・母親役なのか?隼さんは。

「聞いてよぉ~。英明に説教喰らっちゃってぇ~。それも三時間!!くどくどくどくど・・・。」

「・・・もとはと言えば、お前が俺を騙すような真似したからだろぉーが。」

ごつん。

と音が聞こえてきそうなくらいの、英明の鉄拳が入った。

英斗の嘘に気付いていたことに安心した。

それに、今回はあきらかに英斗が悪い為、ろくに同情もすることなかった。

「飯は?」

張本人がきた。

「あ。もうすぐです。」

英明が、もう、やってらんねぇよ、なんて言いながら、頭をかいているそんな姿が面白くて、紀貴は隠れて笑った。

まあ、英明本人からしてみれば、不愉快なことなんだろうが。

紀貴が料理を作り終えて今から運ぼうとしたとき、

「緊急会議を始める。」

苛立った様子の英明が言った。

紀貴は机に出来あがった料理・・・焦げた料理を出し、自分の椅子に座ると、英明が手をパンッと合わせて、食べ始めた。がつがつと・・・。

食堂のおばちゃんがいたら、とても気に入られるだろう。

それにしても、なぜおばちゃんって、良く食べる男の子が好きなのだろう。太ったら太ったで、『あの子は将来お相撲さんね』なんて勝手に将来像を作るのも大好きだ。

紀貴の中で、おばちゃんという存在は不可解である。

「明日から、梶本の特訓に英斗も参加させる。これは強制だ。それから、翔は潤の手伝いをすること。いいな。」

口をモゴモゴさせながら喋っているのに、正確に聞こえた。

英斗が英明の背中をガンガン蹴っている。いつもの笑顔のままで。そんな英斗を、これでもかってくらいに英明は睨んだ。翔と潤は、それを楽しそうに見ている。

「・・・返事は。」

「「「「は~い。」」」」

「あ~。紀くんの焦げたご飯だ~。」

―・・・。喜んでいるのか、はたまた厭味なのか、見極めるのが難しいとこだが、喜んでいると思おう。こういうときにこそ、ポジティブシンキングだ!俺!







「ふ~・・・。」

紀貴が風呂に入って、なんだかすっきりした一〇時頃。トントンとドアを叩く音が聞こえた。

うとうとしていた目を無理矢理開かせて、身体を起こす。

「は~い・・・。」

「・・・よぉ。」

そこには、眠たそうな英明がいた。目がぽよんとしていて、二人して今にも寝そうな顔をして見合っている。

「どうしたんですか?」

「・・・何だっけ。」

「・・・。」

単なる嫌がらせかという考えが、一瞬紀貴の脳裏を横切った。ほんの一瞬。本当に一瞬。

なんて思ったが、きっとこの人が一番大変なんだろう。なんか色々と。精神的にも肉体的にも。

ほんの少しの間だけボーっとしていて、何かを懸命に考えているというよりは、長閑な草原で空をただ仰ぐ暇人のようだ。

「・・・ああ、そうだ。梶本。お前は明日から、午後は俺と同じメニューをこなせ。いいな。」

「は・・い。」

有無を言わせない威圧感というのか。オーラがある。でも、眠そうだ。

「ふぁああ・・・。んじゃ、そんだけだ。しっかり寝ろよ。」

そう言って自室に戻って行った。

―榊さんって・・・おじさんだな。頼りないようで、頼りになる。おっさん臭いのに、若々しい。うん。良いおっさんだ。

言葉はどちらかというと少ないと感じるが、それでも的確に伝えてくるし、ビシッと決めてくれる。さっきだって、自分勝手な紀貴達を上手くまとめてくれる。

厳しいことを言うけど、自分は二番目にして、あくまで優先は他人なんだろう。

―やっぱり良いおっさんだ。カッコイイおっさんだ。ダンディーなおっさんだ。煙草臭いおっさんだ。酒が好きなおっさんだ。

―あれ?なんかおっさんを連呼しすぎて、おっさんの定義があやふやになってきた。

―まあ、何にせよ、榊さんの言う通りにしていれば、俺は強くなれるかもしれない。でも、榊さんには、もともと才能があったのかもしれない。それは俺が知ることは出来ないけど。





・・・・寝よ。

難しいことを考え過ぎると、寝つきが悪くなる。

紀貴がすぐに眠れた事は、数えられるほどしかない。紀貴の両親はものの二、三秒で寝てしまうというのに。

―まったく、うらやましいものだ。なぜその血が俺に無いのか。俺にその血があれば、きっと寝不足なんてならないんだろうな。寝付き悪いのって、疲れてないからとか言うけど、絶対嘘だ。

紀貴は今日疲れたため、きっとすぐに眠れると信じることにした。ベッドに潜って、紀貴はひたすら寝ることに集中した。



  羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹・・・この方法は果たして効果があるのか、実験しようとしたが、寝れない。効果の実証は出来なかった。

今何匹だっけ、ということに意識がいってしまい、寝るという目的を疎かにしてしまうという結論になった。

 結局、数十分後に寝ることが出来た。





・・・不思議な夢を見た。

紀貴は空から落ちていた。地面にではない。地面さえ無い底なしの場所へ。声を出そうとすればするほど、喉が締め付けられていく。苦しい。息も出来ない。

なのに、紀貴の頭は冷静で、淡々としている。怖くないのか?

―・・・いや、怖い。でも、俺は死ねるんだ。もうつまらない世界に縛られることはない。干渉されることもない。そう思うと、嬉しくて笑えてきた。







ガンッ・・・・。

落ちた。ベッドから落ちた。

「いてて・・。」

額を抑えながら辺りを見回す。

静かだ・・・。昼間の騒がしいのがウソみたいに、すごく静かだ。静寂が苦手な紀貴は、小さな声で鼻歌を歌った。選曲が『リンダリンダ』だった理由は、自分でも分からないが、ふと口ずさんでしまった曲だった。

まだ榊英明が起こしに来ないということは、六時前なのだろうか。のっそりと起き上がって、部屋を出る。

静まり返ったリビングは、とても寒かった。ソファに座って、しばらくボーっとしてみた。脳が糖分を欲している気がする。吐き気もする。焦げた料理を食べたせいか。

そんなことを考えていたら、ふとどこかの部屋のドアが開いた。

「早ぇーな。どうした。」

英明が起きてきた。紀貴が一番乗りなのを見て、すごく驚いている。いつものやる気の無い目が、一瞬にして開眼した。

決して目が細いわけでは無く、目は普通な大きさだけど、やる気が無いからそう見えるっていう話だ。

紀貴の前のソファに座ると、取ってきたのであろう新聞を広げ、灰皿を用意して、煙草に火をつけた。

「・・・なんか。わかんないんすよ。」

紀貴がポツリと言ったのが聞こえたようだ。

「・・・?あ?」

紀貴は、全部話そうと思った。心につっかえているもの全て。思っていたこと全て。吐き出してしまおう。

「俺、生きてる心地がしなかったんです。ただ親に言われたことをこなしてただけで、自分から生きようと努力したことがなかった。友達だって、本心で話してくれる奴なんかほとんどいなくて、居心地が悪いと思ってました。勉強できることが幸せだと思いません。顔がいいことが幸せだとも思いません。どうでもよくて・・・自分の未来とか。興味無いんです。世間体ばっか気にしてる親も信用出来なくて。俺が生きてる意味がわからなくて・・・。どう生きていけばいいのかがわからななくて・・・。信じてほしいとか、そういうことも思ってないんです。」

「・・・。」

紀貴のひねくれた話を、ただ聞いていてくれた。それだけで、安心することが出来る。

いつもは、話の途中で、誰かに野次を飛ばされる。批判される。馬鹿にされるが、英明は煙草の灰を落として、また口へ運ぶ。

「自分が拒まれるのが怖いのか、異質だと思われるのが怖いのか、理解してもらえないのがこわいのか、何が怖くて、何に落胆してるのか、俺にもわからないです。ただ、皆いつかは骨になって死ぬのに、どうして懸命に働いてお金を得ようとするのか、人に好かれようとするのかが分かりません。ひねくれてるってことは、わかってます。でも、結局最期は同じじゃないっすか。」

「・・・。」

新聞を折りたたんで、紀貴の話に耳を傾けていた英明が、口を開いた。

「同じだな。」と。

「・・・へ?」

何が同じなんだろうと、英明に聞こうとしたら、答えを言ってくれた。

「俺達と。」

そんな風には見えなかったから驚いた。紀貴は自分以外の人はみんな、『ひねくれ』とは縁遠いと感じていたのだから。

愛想笑いで済ませようなんて考えもないだろうし、死ぬ時同じだから生きてる間に頑張る理由なんてないとか、他人がどうなろうと興味無いっていうことも無いだろうに。

「ま、俺たちだって、最初っから信頼し合ってたわけじゃねぇんだ。文句も批判も全部言うって決めてんだ。本音なんかぶつけなけりゃわかんねぇだろ。八方美人も結構だが、それじゃ人生疲れちまう。・・・だろ?」

「・・・。」

なんだか、同じようで違う気もした。紀貴は逃げてばかりだけど、英明たちは違う。

自ら強くなろうと決めて、実際強くなってて、お互いが責めることも咎めることも無く、だからといって、無意味に慰め合ったり、むやみやたらと励ますことも無い。まさに、俺にとって理想だ。

「俺・・・、強くなれますかね?」

自嘲してしまった。紀貴自身でも馬鹿らしい質問をしたと感じた。

「・・・さぁな。・・・でも、」

短くなった煙草を灰皿に押しつけて、英明は新聞を広げて読み始めた。新しい煙草を取り出して、再び煙がたつ。

「・・なれるんじゃねぇの?」

なんとも適当な答えで、確証も無くて、それがまた英明らしいと思った。

その姿をじーっと見ていると、『気持ち悪い。早く飯。』と言われた。

今日も焦げるであろう食事を催促されるのは、なんだか変な感じがするが、でも嬉しい。素直にそう感じた。

そんなことを思っていると、「おはよう~。」大あくびをしながら英斗が起きてきた。英斗も、紀貴が早く起きていることに驚いたようだったが、フフッと笑っていた。

次に潤が起きてきた。半分寝ているのに、正確に自分の椅子着席した。毎日の習慣って怖いなぁ、と紀貴はそれを細めで見ていた。

朝食を並べたが、一人起きていない。英明が、英斗を見て、クイッと顎で指示をした。

英斗も慣れているようで、スッと椅子から立ち上がると、翔の部屋に入って行った。

ドスン!バタバタ!ガンッ!

と豪快な音がしたかと思えば、英斗から逃げるようにして翔が起きてきた。

―・・・解剖でもされそうになったのかな。悲鳴っぽいのも聞こえてきたような・・・。聞かなかったことにしよう。きっとあれだ・・・。うん。鳥の囀り。

他愛もない会話をして、今日の特訓が始まる。







「つ・・・辛い。」

紀貴は早速弱音を吐いていた。

「ま、慣れだよ。慣れ~。」

その隣で、昨日の翔同様、平然と立ち続けている英斗。

すぐにギブアップするかと思ってたのに。独特の笑みを崩すことなく、紀貴のほうを見て、観察をしている。

―うわ・・・。何か悔しいし、変な感じ。人間観察は勘弁してほしい。

英斗は運動とかしないはずなのに余裕だな、と思っていると、同じことを思ったのか、英明が英斗に近づいて行った。

「・・・。褒めてやる。」

「俺がこのくらいで根を上げるとでも思ってたの~?英明は単純だねぇ~。」

あの恐れ多い英明に向かって、この人は『単純』呼ばわりした。英明の顔色は変わらなかったけど、内心穏やかではないだろう。

「ハハハ~。英明も可愛いとこあるね~。」

ケラケラ笑っていた英斗の顔が、一瞬にして引きつった。なんだと思って、紀貴も英明を見たら、英明の手にはメスが握られていた。

「・・・。それ、もしかして俺の・・・?」

少しイライラしているのか、微かに頬をピクピクさせている英斗を余所に、英明がメスをクルクル回しながらポツリと、「・・・このメス、随分と切れ味良さそうだな。」と言った。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

言葉にはしないが、英斗のイライラは募っている。どうしてそんなに苛立っているのか不思議に思っていたら、潤と翔が来た。

「あ~・・・。またか。」

翔の言っていることが分からなかった。

「?」

どういうことかを聞いてみた。

「一カ月くらい前に、英明が英斗のメスでダーツしててさ。英斗が黒いオーラを発しながら英明に近づいて行ったら、英明の奴、英斗のメスのほうがダーツの的に刺さりやすいって言ってて・・・。それ以来、メスの棚には頑丈な鍵を付けたって聞いたけど・・・。」

「あ~。なんかね、英明工具箱買ってたから、ピッキングでもしたんじゃん?」

イライラしている英斗を見て、至極楽しそうな英明。

英明もやる時はやる人なんだと感心する。・・・というよりは、やられたらキッチリやり返す人なのだろうか。

元はと言えば英斗が英明を騙すようなことをしていたから悪いのだ。

そんな苛立つ英斗に対して英明は、「英斗。これは、精神の特訓でもあるんだからな。」と、笑いかけていた。

一方で、英斗は立つのをやめて、英明のほうに一直線に向かった。

「?」

―何が始まるんだ?さすがに自分のコレクションを勝手に持ち出され、その挙句ダーツの矢にされそうなのを阻止しようとしているのか?

いずれにしても、険悪なムードに変わったことに間違いはない。紀貴はその空気に、喧嘩になるのかと思った。

「・・・。勝負しようか~?」

「・・・。いいぜ。」

一色触発とはこのことかと思うくらいだった。英明は羽織っていた白衣を脱いで、潤に渡した。翔は近くにあった木にもたれかかって、腕組をした。

英斗は、余程メスが気になるのか、英明の白衣のポケットに入ったままの自分のメスに目をやっていた。まあ、英斗にしてみれば商売道具のようなものなんだろう。

潤は目を輝かせていた。きっと、英明の戦いっぷりが見られるのが嬉しいのだろう。

翔は煙草を吸いながら、今か今かと待っていた。

「行くよ~。」

英斗がそういうと、いきなり英明に殴りかかった。相変わらず顔は笑ってたけど。

英明はそれをヒラリ、とかわして英斗の背中を蹴飛ばした。英斗は少し顔を歪めたが、すぐに足を踏み留めてリターンして身を屈め、英明の足を狙った。身のこなしが軽い。力を入れるところと抜くところを知っている。無駄な力は極力使わないようにしている。

―すごい。あんなに華奢な身体で、よくもまああんな強い蹴りを入れられるもんだ。フットワークが軽いのは、なんとなく理解できるけど。

そんな英斗の動きを、英明は予測していたかのようにジャンプすると、足下にある英斗の頭を鷲掴みにし、ブン投げた・・・。

「わっ!」

英斗が紀貴の方に飛んできた。

『わ~。』と、これまた気の抜ける声で英斗は吹っ飛ばされた。

―・・・ホントになんなんすか。あんたは。

ドスン!

「いてて・・・。ゴメンねぇ~紀くん。英明の馬鹿力がさぁ~。」

「お前の力量のせいだ。」

潤から白衣を返してもらった英明が、こちらに歩きながらため息をついた。白衣の着方も一流だと勘違いしてしまうくらいに、キマッテいた。

「あ~あ・・・。やっぱり勝てないなぁ~。」

勝てると思ったのに~、とか言ってる。

「当り前だ。」

―やっぱり強いんだ。榊さんって。俺、ちょっと憧れた。こんな大人になりたくないNo.一だったけど、こんな大人も素敵ですNo.一になりましたよ、今。たった今。それでも煙草は遠慮願いたい・・・。

「これに懲りたら、ちゃんと特訓するんだな。」

「英明と同じくらいの年なのに、なんか悔しいな~。俺のほうが身軽だと思ってたのに~。」

「はっ。俺にウソまで付いて特訓をサボってる奴に、俺が負けるわけねぇーだろーが。アホンダラ。」

 そう言うと、英明はいつもの定位置、大きな石の上に座って、ほら、続けろ。と言った。

英斗がもしょうがないな、と言いながら、再び立ち始めた。紀貴は英斗が『おかしいな・・・、俺の方が軽いから勝てるはず・・・』とかブツブツ言っていた。

―それ、榊さんに聞かれたら、また吹っ飛ばされますよ。榊さんって結構、実力行使のところあるから。職権乱用というか。

「あのメス、一番手入れを頑張ってたのに~。」と英斗がぼやいているのを聞いて、紀貴は思わず笑ってしまった。大人だと思っていた二人が、まさか目の前で喧嘩を始めるとは思っていなかった。ぶつかり合うって、こういうことなのかもしれない。





無事に午前が終了し、筋肉がまだぷるぷるしている。でも、今日から紀貴も午後も大変だ。なんせ、英明と同じメニューをこなさなければいけないんだから。

腕立て伏せに腹筋、ランニングのほかにも、座禅とかボクシングとかやるって、英斗が言ってたが、あの人の言うことは信用性が低い気もする。

ただやるだけじゃない。“榊さんと”ってところが重要。なんたって、あの人の体力は半端ない。きっとあの人とやったら、一分で体力切れになる可能性『大』だ。

あの人の特訓の様子を翔にも教えてもらったが、とてもついていけると思えるものではない。

腕立ては一〇分間やり続ける。休憩を四,五分とったら、また一〇分の繰り返し。腹筋は五〇回ずつの繰り返し。絶対腹割れてるよな・・・。

ランニングはマラソン選手並みのスピードで三〇分走る。水分補給したらまたソレ。

―どう考えても変だ。いや、何がって全部だ。

スパルタとかそんな簡単な問題じゃない。これは、個人の体力を無視したメニューである。・・・そんなこと口が裂けても英明には言えないけど。

「おい、梶本。来い。」

英明に呼ばれて、いよいよ始まることを知る。

「まず、準備運動がてら、ランニングする。ついてこい。」

「は、はいっ!」

とにかくやってみようとポジティブに考えた紀貴は、後から自分を殴りたくなった。なぜ、俺は榊さんの体力についていけないと知りながらも、とっても良い返事をしてしまったんだ、と。







―一〇分後・・・

「ゼーハーゼーハー・・・」

「なんだぁ?だらしねぇなぁ。まだそんなに走ってねぇだろ。」

「ハアハア・・。俺、三年以上ブランクあるんすよ・・・。ハア・・・。心臓がキュウキュウいってます・・・。」

「・・・。はぁー。ま、今日はいいか。明日はもっと走るからな。次は腕立てすんぞ。」

榊英明は、思っていた以上にタフな人だった。三十路のおっさんとは思えないくらいの体力・運動神経・反射神経だ。

―くそ・・・。俺はこんなに汗ダラダラなのに、榊さんは額に少し汗が滲んでいる程度・・・。そして、タオルでサッと汗を拭いたら、いつもの榊さんに戻る。

英明は紀貴に『腕立てする』と言ってから、また走りに行ってしまった。

そんな、実年齢は紀貴よりイッてる英明の走りっぷりを、肉体年齢が英明よりイッてる紀貴はポカンと眺めていた。

しっかりしろ!今の若者!

「う・・・腕がぁぁぁ・・。もげる・・。」

「もげねぇよ。ほら、もっとテンポよくやれ。」

紀貴は、この年で己の身体の限界を感じた。

隣で、紀貴の倍以上はしているであろう三十路のおっさんは、額に若干の汗をかいているだけで、まだ余裕のようだ。いつもこのメニューをこなしているのだから、当り前と言えば当り前だ。

―もげるって。冗談じゃなくて、関節が言ってる。『もげるから止めてよ』って、関節が言ってる。俺じゃなくて関節が。

冗談にならないくらい痛かった。こんなに真剣に腕立てをする機会なんてあるだろうか。いや、ない。この紀貴の隣で平然と腕立てを続けているおっさんが異常だと、そう思う事にした。

紀貴は地面に頬をくっつけながら、隣の三十路のおっさんの素晴らしい腕立てを眺めていた。

・・・ら。殴られた。

「お前がやんなくてどーすんだ。とにかく三〇回だって言っただろ。あと何回だ?」

「・・・あと・・・。一五回・・・す。」

「ウソついてねぇよな?」

「すみません。あと二〇回です。」

睨むような視線に、紀貴はすぐに諦めも肝心だと言い聞かせた。学生のときよりも、頑張ってるんじゃないのかと思うくらいに。

それにしても、どうしてこの人は勘が鋭いんだろう。

その一方で、英斗の嘘に引っかかるような、ちょっと抜けてるところもあるが、ま、完璧な人間はいないって、きっとこういう事なんだろう。

自信気に一五回って言っとけばバレなかったのでは、と文句も言わずに頑張ってる紀貴は、自分を褒めたい想いでいっぱいだった。

「や・・・っと。三〇・・・回目。」

三〇回終わったところで、紀貴は地面に抱きついた。勢いよく倒れこんだもんだから、鼻に直撃。体中から汗も出ていて、今すぐに風呂に入りたい衝動に駆られた。シャツが身体にひっついていて、なんとも言えず気持ち悪い。

「さ、榊さん。風呂・・・入り・・」たいです、と続けようとしたら、榊さんに腕を掴まれ、そのままズルズルと引きずられた。

「ほら、腹筋やれ。」

頭のネジは飛んで行ったと勘違いするほど、カラカラと音が聞こえそうだ。

背中が痛くならないようにと、英明に草のあるところまで運んでもらったのはいいとしよう。運び方は引きずる、という常套手段だったが、足がガクガクいっていた紀貴にとっては、とても助かる方法だった。

しかし、もはや立ちあがる気力もない紀貴に、腹筋を迫るこの男は、英斗にも負けず劣らないドSなんじゃないか、と思っていたら、「・・・。しょーがねーな・・・。しばらく休んでていい。」といって、英明は腹筋を始めた。

その時に聞こえた、盛大なため息には気付かなかったことにしていると、紀貴がヘバッてる間に、英明は自分のメニューをこなしていく。

―あれ?この人、確か本業は医者だよな?なんでこんなに汗をかいてんだろう。

『医者』であることを忘れつつあった紀貴は、ふと思い出した事実をぶつけることも無く、ただ半死状態だった。

―腹筋が割れていて、とてもカッコイイです。

紀貴は身体を起こして、空気の抜けた浮き輪のように、力無く壁にもたれかかっていた。

息も切れ切れになっている紀貴に対して、多少息は上がっているが、キラリと光る汗が英明の大人の魅力を際立たせているように感じる。紀貴は三十路おっさんよりも体力が無いことを痛感する。 

―いや、結構体力はある方のはずだ。

―ああ・・・それにしても榊さん腹筋すげぇ。肉体美ってやつか。

自分は何を言っているのか、と、そんなことを考えている間に、英明は腹筋五〇回を終えたようだ。

「一〇〇回くらい出来そうっすね・・・。」

「あ?」

「榊さん。」

「・・・。一〇〇もやったら腹が痛くなんだろーが。」

意外に・・・?見たとおり、適当だった。というか、自己管理がきちんとしている、と言うのか?よくわからないが、無理はしないようだ。紀貴はとっくに無理をしているが。

紀貴の『一〇〇回』という言葉に対して、『馬鹿か』とでも言いたそうな目をしていた英明に、紀貴は自然と頭を下げて謝りたくなった。

ずっと休んでいた紀貴を見下しながら、英明は「何回だ。」と聞いてきた。その質問に対して紀貴は、「へ?」と素っ頓狂な声で返事した。

「何回なら出来そうだ。」

「え・・・と。」

―正直、もう出来ませんよ・・・。

今日分かった事は、紀貴自身の体力の無さと、英明の体力の素晴らしさだけだ。なんて答えようかと考えていた。

返事に困っていると、木の陰からクスクスと笑い声が聞こえてきた。

「紀くん。もうヘトヘトだね~。可哀そうだよ。いきなり英明についていけたら、大したもんだよ。」

聞き覚えのある気の抜けた声が耳に響く。

「・・・。俺は是非ともお前にもやってもらいてぇんだがな。」

「俺は無理~。自慢じゃないけど、腹筋なんて一〇回が限界~。」

英斗はそう言って、部屋に戻って行ったが、自分と一緒のメニューをこなすはずの英斗を見て、見間違いかと頭を捻る。

それに、一〇回って・・・。三〇回くらいなら出来るんじゃないのか?と密かに思っていた。

ケラケラ笑って去っていった英斗の背中を見ていた英明に声をかけると、「・・・英斗の奴、夜な夜なトレーニングしてんだ。」と意外な事実。意外過ぎる事実。

「へ?そうなんすか?」

「あいつも、そういうこと人に言いふらす奴じゃないからな。翔とか潤とかと違って。」

冗談交じりにそう言うと、また紀貴に、『で、何回だ。』と聞いてきた。どうやら、物忘れも無いらしい。忘れてくれればよかったのに。ドラえもん。そういう道具が欲しい。

「一五回・・・くらい。」と、無理そうだが言ってみた。今の紀貴にしてみれば、これが本当に限界だったが、榊さんは少し眉を潜ませて、少し間を置き、「・・・出来なかったらペナルティだぞ。」と言ってきた。

「・・・え。」

よくはわかんないけど、直感で避けたかったため、即座に訂正をする。

「じゅ・・・一〇回。・・・いや、五回?」

「・・・まあいい。今日は五回で勘弁してやる。」

まだやることもあるしな、と言って、紀貴がちゃんと五回やるかを見張られていた。英斗じゃないんだからと言いそうにもなったが、大人しく見張られながらやることにした。

五回で許してくれるとは思ってなかったから、俄然ヤル気も出た。なかなか五回でOKしてくれる人なんかいないだろう。







「へー・・・。紀貴ちゃーんとやってんだー。」

と、翔。

「えらいねー。俺達逃げ出して英明に散々怒られたよね。」

と、潤。

「フフフ。だから、英明も、紀くんが可愛くてしかたないんだろ~ね~。」

・・・もちろん英斗。

三人は呑気にティータイムをしていたらしい。

優雅に紅茶・・・ではなくて、翔はコーヒー、潤はオレンジジュース、英斗は青汁を飲んでいた。

やはり、青汁は英斗の嗜好物なんだと理解した。

でも、後で英明にバレて、五時間の正座という罰をくらったという。

英斗は最初正座をしていると見せかけて、つま先を立たせていて、その件でも英明に怒られていた。困った人だ。

「じゃ、次はボクシングだ。」

いきなりのチョイスに驚き、顔全体で拒否しそうになってしまった。

「ボクシングって・・・未経験なんすけど。」

試合のルールも知らないという事実を、英明に正直に伝える。

「とりあえず、今日はボクシングのリズムを掴んでもらう。一R三分を基準として、身体にそのリズムを叩きつける。」

「三分・・・。」

カップラーメンだとかウルトラマンだとか、色々とツッコもうとしたが、今それを言えば、鉄拳が来ると思い、留めた。

ルールを知らないスポーツをするのは、無謀だ。バスケでいきなりトラベリングしそうなくらいに。野球のルールほど厄介で複雑なものはないと思うけど、それにしたってほとんど説明なしに始めようとする英明は、無謀な人だ。

なんて思っていたら、「じゃ、まずは試合を見ながら間隔を掴め。」と言われて、少なからず安堵した。

―良かった。いきなり英明に殴られるわけじゃないんだ。でも、試合って・・・誰とするんだろう。

「ああ・・・。おい!翔!」

英明が大声で叫んだかと思えば、翔が気だるそうに出てきた。

「ボクシングだ。」

そう英明が言えば、翔はパッと目を輝かせて、紀貴達の方へ飛んできた。

さっきの気だるそうな態度や視線が一変した。英斗が解剖する時のような、潤が英斗と榊さんの対決を見るときのような、そんな輝きだった。

すごい速さでこっちまで来たせいでズレたニット帽を少し直してた。

「じゃ、梶本。よく見ておけ。」

そう言われた紀貴の返答はひとつしかない。

「は、はい。」

コレだ。

英明は医者だったはず、と思いながら、本業よりも似合ってるとも言えず、紀貴は二人の試合を見ることにした。ボクシングなんて、自分には無縁のスポーツだと思っていた。殴り合うだけのものだと。

紀貴は興味なんか無かったし、あんなに血を流してまで殴り合う意味が分からなかった。理解不能なスポーツだった。

「手加減無用だ。」

そんなことを英明が言えば、翔も「当然。手加減したら、英明に勝てねぇーし。」と言って、グローブをはめて楽しそうに笑っていた。

目の奥からメラメラと焔が燃えているようだ。それでもニット帽は外されることなかった。

―蒸れるのに。禿げるのに。

そして、翔が舌舐めずりをして、準備も出来たようで、試合が始まった。

圧倒。ただその感想しか出てこない。英明も強いが、翔のフットワークの軽さにも目を奪われた。お互いに口を切ったのか、血が出ている。大体の三分というリズムは掴むことは出来、呼吸もわかる。無駄な力は使っていない。決めるときだけ。

でも、英明も翔も手を止めることは無い。きっと、翔は常日頃の恨みを晴らしているのかもしれない。

その証拠に、『三五日前はー!俺の苺大福食ったよなー!』とか、 『二七日前はー!俺のニット帽に栄養ドリンク零したよなー!』とか、しまいには、『一一日前はー!俺の赤福とわらび餅食ったよなー!』と叫んでいた。

それに対して英明は、『苺大福は俺に食って欲しかったそうだ』だの、『ニット帽から俺の栄養ドリンクに喧嘩売ってきた』だの、『お前が赤福とわらび餅に二股かけてるからだろ』なんて言っていた。

英明がそういう冗談を言えることに感激。

「はいは~い。そこまで~。」

英斗が止めに入ったところで、紀貴もハッと気付いた。

「二人とも、そんなに血だらけになって~。しかもくだらない事言いあって~。治療するのは英明、お前だろ~?英明は医者なんだからね~。ほら、さっさと治療室に行って~。」

紀貴は英明に、「座禅は二時間後に始める。それまでは休んでていい。」と言われた。紀貴は治療さえ出来ないため、大人しく座禅室で待つことにした。正座では無く、胡坐をかいて待っていた。







「いってぇぇぇ・・・。」

「我慢しろ。」

「英明、知ってるか?バファリンの半分は優しさで出来てるんだぞ。」

「俺は、バファリンじゃないんでね。」

「英明、知ってるか?最近のウルトラマンは優しいんだぞ。」

「俺は、慈善事業はやってねぇんでね。」

「・・・紀貴。頑張ってるらしいじゃねぇか。見込みありそうか?」

「・・・。さぁな。てめぇらと一緒でナヨッちぃからな。」

ククク・・・と、喉を鳴らして笑う翔に対して、英明は足の脛を蹴飛ばした。

治療室でそんな会話があったなんて、当然紀貴は知らない。いや、こうして解説はされてるけど、知らない。



その頃紀貴はと言うと、胡坐をかいて、壁を眺めていた。

心を無にしようとすればするほど、それに意識がいってしまって、結局無にすることが出来ないのは目に見えている。

そもそも、紀貴は落ち着きが無いと言われていた。そんな自分が、座禅を無事に終わらせることが出来るとは思えない。

ヤマシいことを考えると、身体は無意識に動いているらしい。克服したいとは思っているのだが、小さいころからの癖とか性格は、そう簡単に変えられない。

―それにしても、榊さんってよく食べるんだ。しかも、苺大福とかも。あんまり想像はしたくないけど・・・。

―榊さんが苺大福って・・・。そんな可愛い食い物を美味しそうに食べてたら、俺は絶対笑う。

―意外に甘いものが好きなのかな・・・。隼さんも甘いものが好きなんだな。榊さんに至っては、甘いものが嫌いそうな顔してるのに、好きなんだな。

人って面白い。見かけと中身が違う人ほど面白い。

英斗ほどではないけど、紀貴も人間観察は好きだ。色んな人の行動とか視線の動きとか、顔色を見て心境を判断するのは得意な方だ。

そういうのが出来ない人も世の中にはいて、そういう人を見ているのも楽しい。友達同士で話していて、噛み合っていない会話を聞いているのも楽しい。食い違いとか、勘違いとか、目に見えないものが見える人間の仕草を見つけて観察するのが好きだ。







「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・・・起きろ。」

ガンッと頭を叩かれた。同時に足が痺れた。

「あれ?俺、もしかして寝てました?」

瞑想してただけかもしれない。自分でも気付かないうちに。そういうことってあるだろう。

「もしかしなくても寝てた。」

紀貴が寝ていたと断言する英明。

「・・・ハハハ。」

―やっちまった・・・。

どうも、紀貴は静かな所には慣れていない。静かになると眠たくなってしまう。どう弁解しようかと考えていたら、英明が紀貴の隣に座った。

「梶本。お前、俺が何でも出来てると思ってるのか。」

「へ?まあ。運動神経もいいですし、医者っすから、頭もいいんでしょうし。」

「・・・。」

英明が黙ってしまった。

―え、俺言っちゃいけないこと言ったかな。いや、褒めたんだし、それはないな。

―だったらなんなんだ。この重い空気は。俺、やっぱりなんかマズイこと言ったかな?

そんな心配をしているのをよそに、英明は後ろに倒れて寝そべった。

―わっ。吃驚した。

「俺な、落ちこぼれだったんだ・・・。」

「・・・・・・へ?」

最初、紀貴は英明が何を言っているのか理解出来なかった。なんでもこなしている英明の口から出てきた似合わない単語に、耳を掃除しようかと思う。

もしかしたら、自分を励ますつもりなのか、と思った紀貴が、英明は真剣な眼差しで天井を見ていて、冗談とかではないことが分かった。

紀貴は胡坐をかいたまま前方斜め下辺りを眺めていた。

―あ、榊さんって足結構長い。

いや、今そんなことどうでもいい。紀貴が短いとか、そんなこと知ったところで悲しくなるだけだ。

「梶本は兄弟とかいんのか?」

と、これまた不思議な質問をされる。自分の焦げ過ぎた料理を食ったせいで、少し精神的に参ってんのかと思った紀貴は、自分が鬱だと思っているのも、きっとそれのせいだと決め込む。

「え?・・・俺は一応兄貴が一人います・・。」

淡々とした会話が続く。

「そうか・・・。」

なんだか、いつものようにスムーズじゃない会話の上に、英明が真剣だから、どうすればいいのかわからず、紀貴はソワソワしていた。

英明は天井を見ていたかと思えば、一旦目を閉じて、一〇秒くらいして、また目を開けた。

いや、紀貴はガン見は決してしていない。ちらっと。本当にちらっと見たときに、偶然そういう仕草だったのが確認できただけ。

「俺にも兄弟がいてな。弟なんだが・・・。」

―・・・兄貴の方だったのか。

「へえ・・・榊さんってお兄さんだったんすか。」

「まぁな。でも、弟の方が優秀でな。俺はいつも、弟が勉強してる傍で走り回ってた。親父にも親戚の伯父さん伯母さんにもよく叱られた。常に成績トップクラスの弟に比べて、俺は下から数えた方が早かった。」

「・・・。」

意外過ぎて声が出てこない。

「で、でも。今凄いじゃないっすか。医者だし、あんなに運動も出来て。」

紀貴は思っていることを率直の述べた。嘘ではない。きっとこう感じているのは自分だけじゃないはず。

「運動はな。身体動かすのが好きなんだよ。医者は偶然だ。もともとそういう家系だったから、世間体の目を気にした両親や親せきに、医者系の学校行けって言われた。入学だって実力か分かったもんじゃねぇしな。」

「う・・・裏口・・・とかっすか?」

口にしたらいけないとは思ったが、英明なら怒らないと思った。

「・・・。そうかもな。あんときの俺の実力で入れるような学校じゃなかった。単位だっていつもギリギリ。国家試験に受かったのも運か、それとも・・・ってとこだ。だから、あんまし医者でいたくねぇんだ。人の命扱う分野なのに、そういうのは良くねぇだろ。」

・・・正論。

「・・・・・・。あの、弟さんは?」

「弟は・・・。」





少しの沈黙があった。

―何だろう。もしかして、もう亡くなったとか・・・?

「弟は、俺がお前くらいの時、両親を刺した。」

「へ?刺したって・・・。」

「・・・殺したんだ。んで、逃げた。」

「えっ・・・。じゃあ、榊さんの親御さんは亡くなったんですか。」

「・・・ああ。」

なんてこった。とんでもないことを聞いてしまったと、紀貴はいまさら後悔した。弟が両親を刺した上に逃走。こんなこと、自分だったら言いたくない。知られたくない。

「その後、弟さんとは連絡取れないんすよね?」

「まぁな。」

「・・・警察とかには、どう言ったんすか?」

「・・・。俺が捕まった。」

「へ!?」

弟の身代りに出頭でもしたのかと、先を聞きたくて、少しだけ身体を英明に近づける。

「・・・親戚の伯父さんが来て、両親の遺体を発見して警察に通報した。そんときにはもう弟は逃げてた。警察に弟が殺ったって言ったんだけどな。信じてもらえなかった。親戚一同も、弟はそんなことしねぇって言って、俺が連れて行かれた。」

「そんな・・・理不尽っすよ・・・。」

「俺も最初はそう思ってた。毎日毎日事情聴取されて、満足に寝ることも食べることもさせてもらえなかった。んで、もう面倒臭ぇーから、最後は俺が殺ったって言った。」

「!!」

こういうときの慰めの言葉も、周りを非難する言葉も、紀貴は持っていなかったため、何を言えばいいのかわからなかった。

「・・・。」

「俺を信じてる奴なんていないと思って、弟が捕まるより、俺が捕まった方が世の中のためだなんて勝手に考えて。きっと、弟も無理してたんだろうな。俺がこんなんだから、俺の分まで余計にのしかかったプレッシャーにずっと耐えてたんだろ・・・。俺も気付けなかった。あいつは勉強が好きなんだとばかり思ってたし、それがあいつの性格なんだと思ってた。本当は、俺が最初に気付いてやらなきゃいけなかったんだ。もういいって声をかけてやらなきゃいけなかったんだ。」

「・・・そのあと、どうしたんすか?」

「ああ・・・。引き取り人もいなかったから、俺はムショで世話になったおっさんとこに置いてもらえるようになった。」

「え・・・親戚とか・・・来なかったんすか?」

「ああ。人間なんてな、金のあるとこには群がって来るが、金が無くなれば、ぴたりと来なくなるもんだ。俺の親戚も同じだよ。所詮は血が繋がってねぇガキだしな。」

「そんな・・・。」

そう言うと、英明は身体を起こして、胡坐をかいて、その太ももの部分に肘をついた。

動作の一つ一つが気だるそうだが、今はそんなこと考えてる場合ではない。

「そのおっさんには、本当に世話になった。一から十以上のこと教わった。でも、心臓病を抱えてて、俺は医師免許取って、そのおっさんを助けてやるって思ってた。ま、若気の至りだけどな。退学になった学校にも口利きしてくれて、また通わせてもらえた。でも・・・。」

辛いだろう過去の記憶を紡ぎながら、しっかりと歩いて生きている英明は、最初から軸がしっかりしていたわけではないと今分かった。

「大学四年の春に、おっさんは死んだ。」

「・・・。」

淡々と話しているけど、英明の肩が少し震えているように感じた。

紀貴だって、自分がそんなことになったら、どうなるかなんて分からない。自分の兄貴がそういうことをするとも思ってはいないけど、親戚が助けてくれる保証なんてどこにもないのだから。

そう思うと、悔しくて悔しくて拳に力を入れていた。

「おっさんに言われたことがあんだ。」

「?」

急に口元を緩ませて、目尻も少し下がり、懐かしそうに英明は言葉を続けた。

「人生、笑い話にしたもん勝ちだ!」

英明には似合わないような明るい言い回しだった。その言い回しはきっと、その『おっさん』の言い回しなのだろうと理解できた。

そして、「・・・らしいぞ。」と続けた。

「へ?」

突然話を振られたから、なんて答えればいいのか迷った。それに気付いた英明が、紀貴の方を見て笑いだした。

―ああ、榊さんも、こんな風に笑うんだ。

顔をくしゃくしゃにして、腹を抱えて笑っている。いつものニヤッともフッともワハハとも違った、その本当に可笑しいと見てとれる笑い方を見て、紀貴達を覗いていた翔も笑いだしたから、驚いた。

英明と同時くらいに、扉の方を見ると、翔が口元を手で覆って笑っていた。

「こら、翔!てめぇ何サボってんだ!」

「ククク・・・。まぁ、いいじゃねぇの。楽しそうで何よりだ!」

英明が片膝を立てて、翔の方へ行こうとしたけど、翔は堂々と入ってきた。

そして、何事も無かったかのようにして、紀貴の隣に腰を下ろした。

―なんか楽しそう・・・。

「ほら、続けて続けて。」

「・・・はぁ。」

言っても聞きそうにないからか、英明は諦めたように座りなおした。

「なんていうか・・・。大したことねぇんだよ。俺達が生きてることなんか。俺の悩みも苦労も、梶本の悩みも苦労も、翔の悩みも苦労も、誰も他人の辛さを共有することなんざ、出来るわけねぇんだ。」

「あ、俺の悩み聞いてくれる?」

「それなのに、この世の中は無責任だから、痛みを分け合うだの辛さを分け合うだの言ってる。」「俺さー、最近ケツが痛くてさー。何でかと思ったんだ。」

「挫折を味わうことだって、そりゃ大切だとは思う。・・・でもな、挫折だと感じる暇があるなら、それは挫折じゃねぇんだ。」

「この間、身長が伸びるように、背筋を伸ばしてケツの穴をしめるようにして、姿勢正しくして一日過ごしたんだ。」

「挫折だと思った瞬間、その出来事が挫折に変わるんだ。挫折じゃなかったのにだ。」

「なんと、それが原因だったらしい!」

「俺達は何百年も生きられるわけじゃねぇ。たった数十年の間に起こった小さな不幸を、敏感に察知して、それを立ちはだかる壁だの、逆境だの、挫折だのなんて言って騒ぐ。」

「いやー、びっくりだよ。そんくらいで、俺のケツの筋肉は悲鳴を上げたんだからな。」

「ただ、それを過去の不幸として引きずるのか、それとも、笑い話の材料として前進出来るか。それは俺達自身で決めて、考えていくしかねぇ。」

「だから俺は、腕の筋肉より、足の筋肉より、ケツの筋肉を鍛えようと思う!!」

ゴツンッ!!!!!

英明が真面目な話をしているというのに、紀貴を挟んだ隣で、まさかケツの話を熱弁されるとは思っていなかった。噛み合っていないというよりも、もともと翔は、英明の話を聞く気なんか無いようだ。

まあ、聞いてる紀貴からしてみれば、この上ないくらい楽しい会話?だったのだが。

拳を出して、『俺なら出来る!』とか叫んでる翔を見て、本当に、何をしに来たんだと思ってしまう。

翔は、英明に回し蹴りをされたらしく、背中を撫でながら、若干涙目で英明を睨んでいた。英明は煙草に火をつけて、『一服してくる。』と言って、座禅室を出て行った。



「・・・。榊さんって、なんか、すごいっすね。」

「ん?・・・ああ、英明の過去の話?」

「ん~・・・。よく分かんないんすけど。」

本当によくわからない。ただ、紀貴は自分も英明みたいになりたいと思った。

世の中を批判するのも、他人を誹謗中傷するのも、自分を否定するのも、すごく簡単だ。きっと。・・・でも、それじゃあ駄目だ。

時代のせいにしても、親のせいにしても、世間のせいにしても、何も進まない。と、言うことなんだと紀貴は受け取った。

―笑い話にする・・・か。難しいな。

最後に思ったことを、口に出していたようだ。

「難しいか?」と、翔が首をコキコキ鳴らしながら言った。ズレたニット帽を直して、紀貴の方を見て、ニカッて笑った。歯をむき出しにして、目はギュッて瞑っている。

この笑顔が紀貴は気に入っている。嫌なこと全部吹っ飛んでいきそうだ。

「難しくはねぇと思うぜ。英明が特別なわけじゃねぇんだし。紀貴にだって出来るはずだ。ま、もちろん俺にだって出来るって俺は思ってる!」

どこからそんな自信がくるんだと聞きたいくらい、満ち溢れた自信。

いいなぁ・・・と思ったけど、調子に乗られても困るので、言わなかった。でも、まだ出来ていないらしい。そして、それを自分で分かっているようだ。

紀貴と翔が軽く笑いあっていると、「・・・いいから早く出ていけ。」という台詞とため息が聞こえた。

いつの間にか、英明が戻ってきていたのだ。『邪魔だ、気が散る。』と言って翔を追い出した。

翔は、しばらくの間、座禅室の扉を少し開けて覗いていた。どっかで見たことのある光景を、じばらく眺めていた。

でも、竹刀を持った英明を見て、一目散に逃げ出した。

「・・・。隼さんって、自信満々で羨ましいっす。」

「翔か・・・。最初はひねくれたガキだったんだけどな。」

またもや意外。

生まれながらのナルシストかと思っていた紀貴は、人は見た目では無い。見た目だけで性格を全て把握出来るわけではないことを学んだ。

そう言いながら、またため息をついた。

―榊さん。ため息つく度に幸せが逃げるらしいです。俺は信じてませんけど・・・。

「翔は、母子家庭でな。父親が誰かわからない。母親がしょっちゅう遊んでたらしい。小さい翔の世話も適当に済ませて、毎日違う男を家に連れてきてたらしい。愛されることも愛することも知らねぇ、そんなガキだった。」

「そ・・・そうだったんですか。」

「喧嘩したり暴力沙汰起こしたり、恐喝まがいなこともしたりしてたらしい。」

「・・・。」

―こ・・・怖い。

翔なら、していそうだと思ったから、それに関して驚くことはないが、顔は引き攣った。

「ま、そうまでして、母親に構って欲しかったんだろうな。愛情をくれっていう、合図だったんだろーよ。結局、母親は男とある日蒸発したって言ってたけどな。」

『無責任な親だよな』と英明は付け加えた。あんな風に笑っていた翔の笑顔は、濁っていないと勘違いしていたのだと、紀貴は人を見る目がないのかと、少しショゲた。



「・・・そんなことより。」

「?そんなことより?」

「梶本・・・。そんなに叩かれてぇーのか。今は何の時間だ?」

黒いオーラが英明の方から漂ってくる。

片手は白衣のポケットに突っ込んで、もう片方の手には竹刀を持って、肩でポンポンやっている。その姿は体育の先生よりもおぞましい。英斗にも劣らないほどの黒いオーラが漂っている。いや、英斗の場合は、腹ん中が、なんだが。

紀貴は急いで、「ざ、座禅の時間です。」と伝えた。

「・・・わかってんならいーんだ。」

―・・・ほっ。







どれくらいの時間が経ったんだろう。紀貴の部屋には時計が無いため、時間を確認する術が無かった。足は痺れていて、感覚が無い。頭もボーっとしてきた。英明も、紀貴の隣で座禅しているが、ピクリとも動かない。

―・・・寝てんのか?

なんて思って、英明の顔を覗き込んで見て、寝てるとこ見てみたいと思ってた。

「寝てねぇーぞ。」

「!!」

起きていた。

―何で人の心を読むんだ。

咄嗟に身体を離した。人の心を読むのがうまいのか、気配を感じやすいのか、そんなの分からない。だが、英明たちは、マンガみたいに気配を感じやすいと思う。足音とか物音とかにも機敏に反応を示す。それを見て紀貴は、頭に?を作っている。

「・・・もうこんな時間か。そろそろ夕飯の準備始めねぇーと遅くなっちまうな。」

「あ、そうっすね。」

その時、タイミング良く扉が開いた。

「やっほ~。そろそろ終わりにしたら~?」

英斗が呼びに来てくれたようだ。紀貴の顔を見て、プッと笑った。

『顔、死んでるよ~。』なんて言われたが、どうすることも出来ない。座禅なんて一生しないだろうと思っていたのに、一生が始まってから二一年目ですることになった紀貴は、座禅は一番苦手だと感じた。 

話せないとか、理由はそんなことじゃなく、話せないのは全然構わない。ただ、ただ、じっとしてるのがダメらしい。

「潤がお腹空いたって騒いでるから、紀くん、よろしくね~。」

「はい。」

そう言って立ち上がろうとしたら、立てなかった。

―感覚が・・・。足首が・・・。正常に動かせるのかも不安だ。

それを見かねて、英明が肩を貸してくれた。もちろん、ため息をついて。

英斗がドアを開けたり閉めたりしてくれた。





「紀貴!俺、ビーフシチューが食いたい!」

「こら潤。紀くん今大変なんだから、焦らせないの~。」

「潤くん、待ってて。」

足の痺れも無くなってきて、感覚も戻ってきた。

英明に台所まで運んでもらって、料理を作り始めた。英明はソファにドスッっと座って、『テレビの音量上げろ。』と言っていた。どうやら、潤の『腹減った歌』が五月蠅いらしい。お世辞にも上手いとは言えないその音程。

しかも、よくよく聞いていると、歌詞は『腹減った』と、『今日は何かな』のオンパレード。

―楽しそうだから、いいか。

翔が加わって、ハーモニーを奏でている。しかもちゃんとハモッてる。音痴の潤にちゃんと合わせている翔はすごい技術の持ち主だと感じた。

そんなとき、テレビのニュースが聞こえてきた。

《クレイザーが出没したのは、○○×番地の路地裏で、老人と三〇代前半の男性が襲われたようです。老人は首から、男性は顔から狙われた模様です。》

「・・・。顔。」

英明が神妙な顔をした。

「?どうかした?英明?」

翔が歌を止めて聞いた。

「梶本。お前の部屋に、この間渡した本あるよな?」

「へ?あ、はい。」

「翔。持ってこい。」

「・・・はいはい。」

クレイザーに顔を狙われたというニュースを聞いて、英明はピリピリし始めた。

本を持ってこいと言われた翔は、『よっこらせ』と腰を持ち上げて、紀貴の部屋に本を取りに行った。

翔が本を渡すと、英明はペラペラとめくり始めた。

どのあたりに何が書いてあるのかを覚えているのか、ある程度まで適当にめくると、二、三ページめくったところで、目的の文章を見つけたようだ。

「・・・。どうしたんですか?」

料理を運びながら紀貴は自分の椅子に座る。

一通り読み終えたのか、英明は翔に本を渡して、片してこい、とだけ言って、食事を始めた。翔は文句を言いながらも、本をしまいに行った。

潤も余程お腹が空いていたのか、英明と同じくらいのペースで食べだした。

―すごい食欲・・・。人間の三大欲求のうち、最期まで残るって言うしな。俺もこれくらい食わなきゃ、力出ないよなぁ・・・。







その日の夜、また寝付けなくなった紀貴は部屋を出た。水を飲もうかと思って台所へ向かう途中、気配を感じた。誰だろうと思ってそろりと歩いた。

「・・・・・・・・あ。」

英明だった。英明も紀貴に気付いて、「お。」と言った。

「榊さん、寝なくていいんですか?俺よりも疲れてるんじゃ。」

「現段階でお前より体力あるから平気だ。それに、寝付き悪いからいつものことだ。」

縁側に座って、酒と煙草を月見の肴にしているのか、月明かりだけでも十分明るい夜空を眺めていた。

―あ、今日満月だ。そんな能天気なこと思ってるのは、俺くらいかな。

「そういえば、何かあったんすか?クレイザーのこと。」

「ああ。クレイザーが顔を狙った時、目的は二つある。一つは脳味噌を食すことだ。あいつらは元々人間だ。それで、人間の象徴でもある脳味噌を口にすれば、人間の知恵とか思考を得られると思ってる。んなわきゃないんだが。」

「もう一つは?」

「二つめは、顔を剥いで、人間の皮を被ることだ。クレイザーの気配を薄めることが出来て、その人物に成り済ますことが出来る。それから、一番厄介なのは・・・。」

紀貴は思わず唾を呑んだ。息じゃなくて。そこまで言うと、英明はフーッと、煙を吐いた。

「身体さえ手に入れちまえば、あいつらは顔を自在に変えられる。」

「へ?そんなこと出来るんすか?」

「お前が最初にクレイザーに襲われた時のこと、覚えてるか?」

「はい。」

「あんときの顔は、クレイザー自身が変えてた顔だ。奴らは自分の顔を、記憶にある顔に変えられるんだ。だから、知ってる奴だからって信用すんのは危ねぇんだ。襲ったときに顔を剥いどけば、誰が襲われたか分からない。だから成り済ましやすい。」

―それって、すごい進化だよな。そんなこと出来たら、ノーベル賞も吃驚だ。てか、ノーベル賞もんだ。

せっかく、英明とか英斗とか潤とか翔にも会って、前までの日常とは違って刺激もあるし、楽しいと感じることが多いし、大切なことだって教わった。

「それ、見極める方法とか、あるんすか?」

「・・・。ねぇな。」

紀貴は、クレイザーになんかなりたくないし、みんなにもなってほしくはなかった。

「あるとすりゃあ・・・、微かな違和感を感じられるか、くらいだろうな。」

「違和感?」

「顔だけ真似しても、その人物になりきることは不可能だ。内面的な部分であったり、癖の違いで見抜くことは出来るかもな。」

―なるほど。

人間観察が趣味の紀貴にとっては、うってつけなのかも知れない。性格や癖までは真似できないってことは、結構重要だ。紀貴は自分もなんか目立つ癖とか作ろうかな・・・。とか、考えていた。

「一番手っ取り早いのは、あいつらを全員ぶっ潰すことだ。連鎖を止めない事には、どうすることも出来ない。」

「あの、榊さんたち以外の、その・・・普通の人っていないんすか?」

「いるよ~。」

ふと、独特の口調で現れたのは、間違えようのない、英斗だった。

―この人たち、基本的にあんまり寝ないのかな?睡眠学習っていう言葉を知らないのか?人は寝ている間に脳が休んで、整理してくれるというのに・・・。実にもったいないことをしている。

「でも、み~んな避難してるんだ。クレイザーから己の身を守ってくれる兵隊たちのところでね~。」

「避難所とかあったんす!?」

そんな場所が合ったとは知らず、自分もそこに行こうかと考える紀貴。

「確かに、奴らの戦闘力は高い。だが、多くの人をかくまうということは、逆に大きなリスクを背負うことにもなる。」

「リスク・・・。」

食糧とかであろうと、紀貴の頭で考えられるのは、そのくらいだった。なんて浅はかな知識しか持ち合わせていないのだろうかと嘆いていると、英明の落ち着いた声が響く。

「食いもん、寝床、それは基本として、クレイザーも簡単に入り込めるっていうことだ。一人でも入り込めば、そこから腐ったミカンみたいに、増殖していく。避難所内でそんなこと起こるわけないと思うのも危険ってことだ。」

「そう。人が増えれば増えるほど、リスクも増えていくってこと~。だから、俺達は多少危険でも、ここで暮らしてるってこと~。」

そういうことか、と納得する。ずっと親しくしていた人の変化なら分かるかもしれないけど、知らない人の癖や仕草まで知る由もない。

誰がクレイザーかも分からない状態で緊張感ばかりが先走りしたら、誰も信頼出来ないだろう。

緊張状態が続くのは精神的に辛い。いつ精神が崩壊してもおかしくはないだろう。

すると、英明が衝撃の一言。

「そういや、英斗。お前、解剖したのはどうなった?」

「か・・解剖?」

「うん♪この間捕まえたクレイザーを解剖してみたんだ~。何か分かるかと思ってね~。」

恐ろしい人だと再認識。科捜研じゃないんだから。監察医じゃないんだから。

英斗の解剖の技術や知識はどこで培ったんだろうかと疑問に思うが、聞くに聞けない。

きっと英明はこんな危ない人に教えないだろうと信じる。でも、英斗なら、いろんな方法で何とか聞き出したのかもしれない。

「で?結果は?」

英明が新しい煙草を取り出して、口に咥えた。胸をごそごそしている。きっと、ライターを探しているんだろう。

「な~にも。普通の人間と何もかも同じだよ。当然だよね~。実際の人間なんだから。」

「・・・そうか。」

ライターを探していた手を止めて、火の付いていない煙草を咥えたまま喋った。

「でも、面白かったよ~。なんせ、身体の中の臓器が、全部逆だったんだからね~。」

英斗はケラケラ笑いながら、『解剖するのも大変だったんだから~。』なんて呑気に言っている。―柏木さん、あなた今、重要なこと言ってましたよ。

気付いていないのか、それがワザとなのかは、紀貴には分からなかった。

ただ、その言葉を聞いた英明の額に浮かびあがった血管は、紀貴はきっと一生忘れないだろう。首筋にも同じものが見えた。

「・・・。てめぇ。それを世間じゃ発見って言うんだよ。」

少し苛立ったようにも、呆れているようにも見えた英明の手には、いつの間にかライターが握られていた。正論であるため、紀貴もツッコミそうになった。

「まあまあ、そう怒らないでよ~。」

英明の肩をポンポン叩きながら、相変わらず笑っている英斗は確実に面白がっている。

英斗はこうして英明の恨みを買っていくんだと理解した。

「ほら、所見の結果報告書。それから、俺の手書きの臓器の位置~。なかなか上手いでしょ~?」

紀貴も覗いてみたが、お世辞にも上手いとは言えない絵だった。

そんな紀貴と同じことを英明も思ったのか、英斗に、『お前には絵心がねぇ。』と言っていた。

「あ、本当だ。心臓が逆についてる・・・。」

「襲った人間の身体を奪うとき、逆になっちまうのか?」

「俺の意見を言ってもいい~?」

英斗が欠伸をしながら言った。

「多分、剥いだ顔を自分の顔に被せて、そいつの臓器も自分の中に埋め込んでるんだよ~。本来臭うはずの腐敗臭をかき消すためにやってるのかもね~。」

真面目な事言ってる・・・。と、紀貴は感心してしまった。

「・・・。」

英明は英斗から受け取った資料をジッと見ながら、ん~・・・、と唸った。

「あの、どうして自分の身体に埋め込むときに逆になるんすか?」

紀貴は、ただの馬鹿なのか?とも思ったが、聞いてみることにした。一つでも多くの情報を紀貴は欲しいと思った。役に立てるかなんてわからないが、気になったのだ。

「・・・梶本が鏡を見ながら運動してるとして、鏡の中のお前は、本来のお前と同じほうの手や足を動かすか?」

「え?」

そりゃ、動くわけない。自分が右なら、鏡の中の自分は自分から見て左を動かすからだ。

「つまり~、左にあるはずの心臓は、こっち側から見て右にあるから、左に持っていくよりも右の方が、他の臓器との位置関係も分かりやすいでしょ~?」

「・・・ああ!」

対角線よりも、直線的に運んだ方がそのまま運べるってことを、ようやく理解する。

「その方が早く処理出来るだろ。それまで自分の中に埋め込んでいた臓器は、襲った奴の身体に移して、顔も交換することで、自分は新品になりながらも、クレイザーを確実に増やすことが出来る。そしてクレイザーの臓器を付けられた奴はクレイザーとなり、そんな身体嫌だと言わんばかりに、新しい身体を欲して、人を襲うってわけか・・・。」

「・・・。でもそれだと、正確な位置に臓器を持つクレイザーもいるってことっすか?」

―交互にそんなことしてたら、正位置と逆位置のクレイザーが出来るよな・・・?

「いるよ~。今まで解剖したクレイザーはそうだったからね~。」

―・・・。何体解剖してるんだ。

「諦めかけてたんだ。仮説は立てていたんだが、証拠が無かった。臓器を丸丸交換するメリットなんて、襲った奴の健康状態や年齢によるしな。」

「デメリットの方が、むしろ多いんじゃないかってね~。でも、今回証拠が出てきた。クレイザーが欲しがってるのは、若々しい臓器でもなんでもない。」

口元はいつもみたいに笑っているのに、視線は真っ直ぐで、紀貴は英斗に全て見抜かれてるような気分になった。そして、英斗はニヤッと笑った。

「さっきまで生きていた、という新鮮な臓器だ。」

英明が目を閉じて、英斗に資料を返しながら言った。火を付けていないまま咥えていた煙草を、もとの箱に戻して、寝る、と言って部屋に戻ってしまった。

「じゃあ、俺達も寝よっか~。紀くん?」

「あ、そうっすね。」

英斗にそう言われて、紀貴は眠かったことを思い出した。



寝床についても、紀貴は寝られなかった。それは、怖かったから。

ついこの間まで、自分が平和な世界で生きていたこと。平凡な、の間違いかもしれない。

でも、その実感は無かった。ただ息をしている、ただ勉強してる、ただ死ぬのを待ってる。そういう風にしか感じていなかった。

何が嫌だとか、何が不満とか、そういうのも無い。自分自身の歪んだ視界や、ネジ曲がった性格とかが嫌いだった。わかっているけど、変えられなかった。

「・・・。俺は、なんなんだろう・・・。」

その一言を言うと、頭が眠いと誘ってきて、紀貴は意識を手放した。





―ああ、また怖い夢かもしれない。海の中へ堕ちていく。

深く・・・深く・・・。海の底に近づいているのかも分からないが、きっと近づいているんだ。

だんだん暗くなっていく。

それに、見たこともない海の生き物、それもクジラより大きい生物が、牙をむき出しにしながら、闇へ堕ちていく俺の周りをグルグル回っている。

俺は、息をしてるのか?誰か教えてくれ。

此処は海の中だ。それなのに、息が出来るわけはない。

焦ることは無かった。夢だとわかったから。

口から出ていく僅かな空気へ手を伸ばして、掴もうとした。

けど、力が入らなくて、そのまま空気だけが海から脱出した。

それでも、俺は抗おうとなんかしない。

疲れた。

脱力したまま、重力に逆らうことなく、俺は沈んでいく。

それさえも心地良いと感じる。呼吸が出来ないのに、それを幸せに感じてしまっている。

ああ・・・。俺は死ぬのか。

お腹の辺りに重みを感じた。痛い。痛い。金縛りか?―







「ぐえ・・・。」

「お。起きた。」

紀貴の腹の上に肘をついてのんびりしているのは、翔だった。

「・・・。どいてください。」

「怒るな怒るな。紀貴が悪いんだからな。いくら夜遅くまで起きてたからって、炊事当番が寝坊するってことは、俺達までお預けくらうんだからな。」

ケラケラ笑いながらどいていった翔は、部屋を出ようとしたところで、思い出したように、あ、といって紀貴の方を向いた。

「あ、そうそう・・・。」

何を言うのかと思ったら。

「英明がご立腹だ。早く準備しろよー。」

「え・・。」

英明が起こしに来なかったのは、怒ってるからか、と理解したものの、もう時すでに遅し。

紀貴はすぐ着替えて、平謝りをしながら食事を作って並べた。

―うう・・・身体がギシギシと鳴ってる。俺には聞こえる。そう、身体の泣き声が・・・。

「わっ。今日は鮭だ~。」

なんて喜んでる英斗はいいとして、英明が一向に何も言ってこない。やっぱり怒ってるのだろうかと思い、恐る恐る声をかけてみる。

「あの、榊さん・・・。」

「あ?」

「えと、その、すみませんでした。寝坊して。」

「・・・。」

何も答えないのを、紀貴は怒っていると認識した。

「・・・んなのいつもだろ。」

「へ?」

予想とは違った返事に、きょとんとしてしまった。

まだここにきて日が浅いのに、なんて言われようだろう。でも、怒ってはいないようだ。

―怒ってるんだよな・・・。怒ってるんだよな?怒ってるんでしたよね?隼さん?

と怒ってはいない様子の英明を見る。

「梶本が寝坊することなんざ百も承知だ。」

そう言いながら黙々と食べている。翔はウソついたようだ。

『今日は珍しく、翔が起こしに行くって言ったけどな』という言葉で、やっぱり嘘ついたんだと認識し、翔の方を見ると、顔を合わせないようにして笑っている。というか、笑いを堪えている。

―くそ・・。

「それより、梶本。」

翔に気を取られていたせいで、少しだけ驚いてしまった。

「はい。」

「今日は昨日よりも練習量多いから、お前もちゃんと食っとけ。あと、潤もだ。」

「え~!!俺も!?俺より英斗鍛えてよ~。」

確かに。潤もそう思うようだ。

「今日は体力馬鹿の潤に付添ってもらえ。」

紀貴の相手は体力馬鹿ばっかだ。

「榊さんは、何かするんすか?」

「まぁな。調査だ。」

「そ~、俺とね~。」

英斗と・・・。調査・・・。この二人にタッグを組ませて良いのだろうかと、自分が思うのも失礼とは思ったが、思わずにいられない。

下手したら、一般人を解剖しそうな英斗と、怪我人がいても助けそうにない英明のタッグ。



「俺は?」

さっきまで笑っていた翔が聞いた。自分の役割が無いことに気づいたようだ。

―さっきまで、腹抱えて笑ってるからですよ。まったく・・・。

「翔は、梶本と潤の面倒見てろ。ボクシングはお前の方がリズムが良い。」

「あ、褒められた。俺照れるよ~。英明ってツンデレなんだな。」

そんな翔の冗談を右から左に流した英明は、一旦部屋に戻ると、一丁の拳銃を持ってきて、それを翔に渡した。

「・・・。」

「なんかあったら、それ使え。許可する。」

以前にもあったようで、翔は目で合図をすると、その拳銃を懐に隠した。そんな危ないものを持っているという時点で、医者ではない。

だが、翔の『ツンデレ』発言をかわすところは、さすが、大人の対応だと思った。それ以前に、この榊英明と言う男に、『デレ』なんて存在しないと思う。

「じゃ、夕方までには戻る。サボんなよ。」

「行ってくるね~。」

英斗が英明の後ろをついて行きながら、紀貴達に手を振った。

「おっ始めるぞ~!!」

元気溌剌の声が聞こえてくると、その元気を、このおじちゃんにも分けてくれないか、と歳の差を感じてしまう。







―ああ・・・。今日も俺は限界に近付いてる。

腕立てと腹筋をし終えてヘバッていると、隣で、翔を背中に乗せながら腕立てをしている潤がいた。まぁ、さっきからこの状態で頑張っているのだ。

「翔!てめえ・・・英明にチクってやる!!」

「へいへい。お前はガキだなー。すぐにそれだ。いいか?英明は父ちゃんじゃないんだぞ?すぐに頼っちゃいけません!」

「あんなのが父ちゃんなわきゃねーだろー!!」

―いや、言ってることは正しいんだけど、説得力に欠ける行動を取ってるんだもんな・・・。

文句を言いながらも、腕立てのスピードは加速していく。その上に乗ってる翔も同様に揺れていく。ちょっと面白い光景だが、していることはすごい。

そんな会話をしながらでも、翔はなぜか真面目な目つきをしていて、どこか一点を見ているように感じた。

「隼さん・・。どうかしました?」

なんとなく気になって聞いてみた。朝の拳銃と言い、まだ紀貴には調査とかもよくわからない。

「あ?何でだ?」

「いや、さっきから・・・その・・・。」

「紀貴。黙って続けてろ。気付かないふりしろ。」

「気付かないふりって・・・隼さんガン見じゃないっすか。」

そう言い終えると、草陰から物音がしたと思うと、それと同時に、翔は潤から降りて拳銃を構えた。

潤は潤で体勢を整えているが、そんな二人についていけない人が一人いた。

紀貴は・・・身体をとりあえず起こした。

「・・・来るぞ。」

「うん。」

阿吽の呼吸のように、翔と潤は草陰から出てきたクレイザーに立ち向かっていった。

まず翔が拳銃でクレイザーの足を狙うと、バランスを崩したところで、潤が頭を蹴った。首と背骨が一直線の格好になった。そこへすかさず、潤が脳天へと踵を落とす。

潤の後ろに潜んでいたもう一体のクレイザーに気付いたが、紀貴は、危ない!と言うことしか出来なかった。でも、そのクレイザーが潤に襲うことはなく、その場で倒れた。

それは、翔が撃ったからだ。

「翔、もっと早くしてよ!俺ちょっとビビった!」

「俺は、ピンチの時に現れる、正義のヒーローだ。」

拳銃をくるくる回して、腰にしまうポーズを取って、翔は少しズレたニット帽を直した。

紀貴はただ、それを呆然と見ていることしか出来なかった。あまりにも早く、一瞬の出来事だったのだが、翔も潤も息一つ乱していない。

「大丈夫?紀貴?もう終わったから、続きしよーぜ。」

「紀貴。お前、チビッた?」

「・・・・・・・。チビッてないっすよ。」

吃驚はしたが、怖くは無かった。やっぱり、翔はどうもデリカシーに欠ける部分があるようだ。

「それにしても、何で隼さんは素手じゃないんすか?拳銃とか・・・。」

「素手でもイケっけど、それじゃ近距離戦しか駄目だろ。中距離戦・長距離戦では、こういう飛び道具を使った方が、倒せる確率はグンと高くなんだろーが。こういう戦闘ってーのは、より効率が良い方を選ぶもんだ。」

一仕事終えたからなのか、翔が煙草を吸い始めた。

副流煙のこと教えてやろーか、とも思った紀貴だが、何も出来なかったから、なんとなく言えなかった。







「ただいま~。」

英斗と英明が調査とやらから帰ってきて、もうそんな時間になったのかと気付いた。

紀貴は翔にボクシングの指導をしてもらっていて、その間潤はサンドバッグに戦いを申し込んでいた。一人遊び上手だな~っと感心してたら、翔に思いっきりアッパーをくらった。

「思ったより早かったな。」

翔が、預かっていた拳銃を英明に返した。英明はぐったりしていて、ああ・・・とだけ返し、英斗の方をちらっと見て、額に手をあてて、深くため息を吐いた。

―・・・お気持ちお察しします。大変だったのでしょう。俺も別の意味で疲れましたけど。

「ヤダな~英明ってば。そんな、あからさまに疲れたようなため息つかないでよ~。」

「・・・。英斗を連れていった俺がバカだった。」

「ダハハハ!!英明、そりゃ、英斗はダメだろ~。俺とか、潤にしとけばよかったのに~。」

「・・・。はぁ。んで?お前らの方はどうだった?」

「二体来たぜ。ま、俺が倒してやったけどな!」

確かに翔も倒したんだろうが、なんというか・・・。まあ、嬉しそうだし、いいか、と適当に笑う。正確には、潤との連携プレーが良かったのだけれど。

「翔はボクシングと狙撃に関しては抜きんでてるもんね~。」

「英明と英斗の方はどうだったの?」

潤が話に入って行った。紀貴は一人黙々と料理の準備をする。

―あ、前より焦げが少ない気がする・・・。

一人で感動していると、それに気付いた英斗に笑われた。

「避難所の方をみてきたんだけど~、軟禁状態だったね~。食料とか生活必需品は、必要な分足りてなかったように感じたし~、受け渡しにしても、部屋の扉の下についてる、縦五・横一五くらいの隙間から、兵士が不規則に投げ込む感じだったね~。」

「兵士たちに食料も何もかも優先してるんだろうな。男どもは、年寄りだろーと子供だろーと、一日荷物運びをさせられてる。女は・・・。」

そこまで言うと、英明は口を閉ざした。

「・・・女ならではの奴隷ってことか。」

翔がポツリと言った。その意味は、疎い紀貴にも察しがついた。避難所なのに、そんなことがあって良いのだろうか。

「あの、此処の一番偉い人って誰なんすか。」

「国王とかはいねぇよ?」

潤の一言に驚いた。

「じゃ、統制する人がいないんすか。」

「いないんじゃねぇよ。命狙われっから、誰もならねぇんだ。」

英明がソファに座って、スプーンをもって料理を口にする。

「国王に成り済ますことが出来れば、簡単に避難所にも入れるし~、国王ってだけで、み~んな跪いちゃうでしょ~?」

それはそれで危険だし~、と、英斗はのんびりとした口調を続ける。

「ここら辺にクレイザーがうろついてるらしい。そろそろ、ここもやばいかもな。」

「そうだな。今日は俺がいたからよかったものの・・・。」

翔が英明に頭を小突かれた。

「じゃあ、新しい拠点でも探す~?」

「いや、どうせすぐ見つかんだろ。」

「え~。楽しい引っ越しかと思ったのに~。」

どうするんだろう。と、紀貴も一応考えてはいたが、何にも考えが思いつかなかった。

「梶本。」

「はい。」

急に話を振られたから、変な声だったかもしれない。

英明が、怪訝そうな顔をして、紀貴を見ていた。煙草に火を付けると、翔が、俺も、と言って火をもらっていた。

―この二人、絶対肺がんになるよな・・・。まあ、この際大目に見よう。

「お前はどう思う?」

「へ?」

「言ってみろ。」

―どうって言われてもなぁ・・・。

紀貴はここにきて時間もそんなに経ってないし、みんなほど、この家に未練があるわけでもない。それに、まだ強くなってないし、筋肉痛が酷くなる一方だ。

これからも役に立てるかなんてわからない。戦える立場にない自分が決めても、批判を浴びるだけのように思う。

こういう戦闘とかに関しては、ド素人なのだから。みんなの命に係わることなのに、自分が簡単に言っていいのだろうか。

紀貴がいろんなことを悶々と考えていると、

「紀くんの考えでいいんだよ~。正解なんてないんだし~。」

「そうそう。思ったこと言えぁいいんだ。」

と、英斗と潤の言葉に少し勇気をもらい、紀貴はとりあえず言ってみようと思った。

「俺は、ここで良いと思います。」

「どうしてだ。」

―・・・。面接じゃないんだから。俺、面接みたいなのって嫌いだ。

「例え拠点がバレテいても、戦えばいいんだし、移動するのって、逃げてるみたいで、俺は嫌っす。」

簡単に言ってみた。嘘ではない。今はそれ以上言えなかった。

「まだまともに戦えない奴が・・・。」

英明にそう言われ、少し落ち込んだ。

自分でも分かってはいたけど、ちょっとくらい、受け入れてくれるかと思っていたから。やっぱり、こんな自分を受け入れてくれるわけないか。

そう思っていたが・・・、違った。

「じゃ、そうすっか。」

英明の一言で決まった。

「え?」

「なんだ。お前が言ったんだろ。それとも、今のは嘘か?」

「いや、嘘じゃないっすけど・・・。俺の意見でいいんすか?みんなの意見の方を尊重っていうか・・・。」

紀貴がモゴモゴと言っていると、背中を叩かれた。翔だ。

「お前は気にし過ぎだ!俺達は正直、どっちでもいーんだよ。何処に行ったって狙われんだし。来たら戦えばいーんだしな。それに、やっと紀貴も成長してきたしな!」

ニシシ・・・と笑いながら、紀貴の髪の毛をぐしゃぐしゃにした。

「そうだよな!紀貴、やっと”焦げ゛が無くなってきたしな!」

「座禅室で意識失くすことも無くなったしね~。」

「一丁前に口答え出来るしな。」

最後の英明のはいらなかったが、それでも嬉しかった。

自分でも気づいてない成長を、見ていないようで、ずっと見ていてくれたんだと、嬉しくて、思わずニヤけてしまった。

―うわ、自分でも分かるくらいにニヤけてる。すっげ、恥ずかしい。

「・・・やっと普通に笑ったな。」

「え?」

紀貴の頭に乗せていた手をどけると、翔は俺の横を通り過ぎて、英明と向かい合うようにして、ソファに座って、また煙草を吸う。

「紀くんさ~、いっつも人の顔色うかがってて、今みたいな笑いしたことなかったんだよ~。」

「そ、そうなんすか?」

「言いたいこと我慢してたら、身体に悪いぞ!」

・・・なんか、潤の言ってることがズレてる気もしたけど、それは置いといて、紀貴は周りを気にし過ぎていたらしい。今まで通りに過ごしてきたはずなのに、そこまで見抜かれていたとは。







その日は、身体が痛くてじゃなく、嬉しさで眠れなかった。

もしかしたら、英明や英斗が起きているのでは、と思って、紀貴はリビングへ向かった。

「・・・またか。」

―やっぱり。

英明が起きていた。縁側に座り、また酒をちゃんと用意して、煙草を吸っている。どうして、こういう事はちゃんとするんだろうか。

「・・・身体に毒っすよ。」

いつも思っていたことを言ってみた。英明は、俺は丈夫だから、とか言っていたけど、何度も言うが、医者なんだから・・・。自分の健康管理はくらいはきちんとしてもらいたいものだ。倒れられたら、弱い紀貴が死にますから。一番最初に。

「さっきは、ありがとうございました。」

「あ?何がだ?」

「いや、俺の意見、聞いてもらって・・・。」

「ああ。そんなことか。」

「あんま、聞いてもらえなかったっすよ。俺の意見なんて。言えば生意気だの、そんな事は聞いてないだの言われて。だから俺、自分の意見否定されるのが怖くなって、言うのやめたんです。」

「ま、それはそいつらが小さい人間なんだろーな。」

何気ない言葉なのに、紀貴は妙に納得した。

「俺達はみんな小せぇーんだ。だからデカく見せようとして、固意地張ったり、大口叩いたり、力のある奴の金魚の糞になったりする。でも、それってすごく情けねぇ事だ。小さいなら小さいなりに、出来ることをすりゃあいい。仲間を作って、束になりゃあいい。」

「・・・。なんか、榊さんって、大人ですね。」

「・・・。お前、それ三〇代のおっさんに言う事じゃあねぇだろ。」

「プッ。そうっすね。」

笑ってしまった。しまった、と思って英明の方を見てみると、英明も笑ってた。

結局その日も、寝るのが遅くなってしまった。

ひねくれていた翔が素直になった理由とか、みんなが腹割って付き合ってる理由とか。紀貴にとっては、すごく貴重な日になった。



「おはようございます。」

紀貴は寝坊することなく、早速朝食を作っていた。英斗が起きてきて、翔が、まだ夢の中であろう潤の首根っこを掴んでリビングに入ってきた。

「あれ?」

いつも早く起きるであろう人物の姿が確認できず、珍しい、寝坊かな、と思ってキョロキョロしていた。

―いつもならソファにドカッと座ってるのに。

「英明なら、もうとっくに出てったぜ。」

紀貴の考えていることが分かったのか、翔が答えた。

「え、また調査っすか?」

「偵察ってやつだな。クレイザーの拠点がつかめるかもしれないって言ってたぜ。」

「一人で行ったんすか?」

―危なくないか?

英明はすごく強いと思うけど、それでも、一人で行くなんて危険極まりない。せめて英斗と行けばよかったのに。英斗だって決して、弱くない。むしろ強いと判明はした。でも、横着な性格なところがある。

潤はまだ寝てるらしいく、翔が『俺も行く』と一応言ってはみたようだ。

だが、英明は首を横に振ったらしい。大丈夫とは思うけど、万が一ってこともあるのだが。

「拳銃も持って行ったし、英明なら大丈夫だろ。」

「・・・。そう・・・なんすか。」

紀貴の立場で強いことは言えないと思った。

―きっと、この人たちが大丈夫と言うなら、大丈夫なんだろう。少し心配したけど。

「俺達は俺達の出来ることすればいいんだよ~。それに、お昼には帰って来るって言ってたから~。」

英斗の言うとおりだ。一番鍛えなきゃいけないのは自分なんだからと、そう思って、また一日のメニューに入る。





数時間経った頃。

翔と試合にならない試合をしていた。

―フットワークが軽いんだよなぁ、この人・・・。

紀貴は防護用のヘルメットみたいのを付けているのに、翔の頭には、いつものニット帽だけ。

―・・・馬鹿にされてる?いつかあのニット帽を外してやる。きっと禿げを隠してるんだ!

とか勝手に思いながら、翔のニット帽だけを狙っていた。

―・・・全然だ。掠りもしない。

休憩に入って、時計に目をやり、お昼がとっくに過ぎているのに、英明は帰ってきていないことに気付いた。周りを見ても、やっぱりいない。

「あれ?」

英明にしては珍しいと感じていた。

いつも、お昼には、気付くと椅子に座って、食事が出てくるのを、頬杖をついて待っているというのに。

―今日に限ってお腹が空いてない?いや、それはない。

「榊さん、どうしたんですかね?」

まだ帰ってきてないのかと、そう言ったのと同時に、ドアが開いた。

其処には、血だらけの英明がいた。

「どうしたの!?」

潤が走り寄って行った。翔も英斗も駆け寄って行った。

紀貴も傍に行こうとしたら、制止をかけられた。潤がすごいスピードで、掌を紀貴の方に向けてきたのだ。

「?」

紀貴は、制止をかけられた意味がわからなかった。

「・・・紀貴。お前なのか?」

潤が、いつもと違う低音で、腹の底にまで響くように言った。

「へ?」

潤にそう言われたが、言われている意味が分からなかったままだったが、とにかく、血だらけの英明を処置しないとと思っていた。

怪我の具合などはよくわからないけど、早く治療が必要なことは分かった。

紀貴が何事かという顔をしていると、翔が潤に向かって、「紀貴なわけないだろ。さっきまで俺とボクシングやってたんだから。」と言っていた。

翔がそう言うと、潤が、でも今・・・、と言って紀貴を見てきた。

潤の目は、世間が自分を見る目と似ていて、とても胸がザワザワとする。

「潤、俺と部屋に行こうか~。」

英斗が潤を連れて、潤の部屋に入って行くその後ろ姿を眺めていたが、それどころでは無かったと思いだし、救急箱を持ってきた。

「サンキュ。さて、まずは・・・消毒でもすっか。」

「あの、隼さん出来るんすか?」

さっきのことが気になる。

「まあ、なんとかなんだろ。英明はこんくらいで死ぬような奴じゃねぇし。」

「・・・さっき、潤くんが言ってたのって、どういう意味っすか?」

紀貴は気になって仕方ない。あんな事を言われたうえ、あんな目で見られたのだから、当然の感情だった。

「ああ・・・。」

濁したまま、翔はガーゼにではなく、直接肌に消毒液をぶっかけた。

「ちょっ、何してんすか!」

大胆にも程があるだろうと思って叫んでしまった。

「なんだ?いつも英明こうやってるぜ?」

翔はキョトンとしていた。当然こうだろ、みたいな顔をして。どこまでも適当だな、とは思ったが、紀貴に医療の知識があるわけでもないし、何も言えなかった。

常識なんてあって無いようなものだと、昔誰かが言っていた。

「・・・さっきのこと、誤魔化さないで言ってください。俺、別に怒ったりしませんから・・・。」

もう一度言った。言ってくれると信じたかった。これでまた濁されたら諦めようとの覚悟の上で。

「・・・何でもねぇよ。ただ、」

「ただ?」

「倒れながら英明が、梶本、って言ってたんだ。」

「え?」

「だからといって、紀貴がやったって意味にはならねぇ。・・・だろ?」

紀貴との会話をしながらも、着実に作業が進んでいく。器用な人だ。それでいて正論だ。

医療の知識が少なからずあるのか、それとも英明の見よう見真似なのかは分からないけど、動きに無駄があるようには見えなかった。

それに、焦っている様子もなく、淡々とこなしていた。

「俺の名前を・・・。」

「ま、まだガキの潤は勘違いしたみてぇだけどな。きっと、心配してんだよ。紀貴のこと。潤は、今頃、英斗から言われてんだろ。だから言ったろ?何でもねぇって。」

―・・・まあ、そうなんだけど。それでか。潤くんが勘違いしたなら、怒って当然のことだ。

「でもまあ、よくもここまでヤラれたもんだな。こんな瀕死の英明見たの初めてだ。」

「・・・クレイザーにやられたんすかね。」

「そうとは限らねぇな。」

「へ?」

「クレイザーにやられたなら、瀕死どころか死ぬな。それに、英明がクレイザーにやられる確率は低い。どんな人数が相手だろうとな。拳銃だって持って行ったんだ。ここまで帰ってきたんだから、その線は薄い。・・・となると。」

「?」

紀貴は分からずに、真面目に語る翔を見ていた。

翔は納得したように、指を顎に持って行き、軽くうんうんと頷いていた。

気付けば大方の治療は終わっていて、とは言っても難しい治療ではなく、包帯を巻くとか、傷口を止血するとかそういうものだけど。それでも紀貴には真似できないことだ。

「手際いいですね。」

ぽかんとしたまま紀貴が言うと、翔は残った包帯を救急箱にしまいながら笑っていた。

「英明に怪我診てもらうとき、一人でも出来るようにしとけって言われてさ。簡単な方法とかが載ってる本借りたりしたからな。」

英明一人で診るのも大変なのだろう。

医者という立場上、一応医療器具を勝手に使わせる事は出来ないんだろうし。

そこへ、落ち着いたであろう潤を引きつれて、英斗も戻ってきた。英斗が潤の背中を優しく叩いて『ほら』と言った。

「紀貴、ごめんな。」

とても申し訳なさそうに言った潤を責める理由はひとつも無かった。

しゅん・・・と、まるで犬の耳がついているかのように見えた。

いや、それが可愛い、可愛くないとかじゃなくて、そういう風に見えたっていうだけの話だ。そういう趣味はしていない。

「気にしてないよ。」

気にするわけない。紀貴はこう見えて撃たれ強いから。

「それより、英明はどう?」

珍しく真面目な顔と口調でそう言ったのは英斗。処置されてソファに横たわる英明を見て、悔しがっているのかと思いきや、

「ククク・・・。今なら英明を解剖できるな~。抵抗されないし~。」

なんて、恐ろしいことを考えていたようだ。どこまでもマイペースだ。

―榊さん、万が一、万が一柏木さんが解剖しようとしたら、俺がなんとか止めてみせます。

―・・・俺が解剖されそう。





英明を自室のベッドに寝かせ、紀貴達四人はリビングで話し合っていた。

「きっと、兵士の仕業だね。」

英斗の一言に、翔と潤は頷いたが、紀貴だけは、えっ?と驚いた。

「なんで、兵士の人が榊さんを?」

紀貴の質問に、翔がコーヒーを飲みながら話してくれた。

―隼さんってコーヒーが好きなんだ・・・。しかもブラック。

「・・・避難所の兵士の奴らにとって、俺達は目障りな存在でもあり、一方で奴に立つ存在でもある。クレイザーから身を守ってやる、という公約を掲げて避難させたのはいいが、避難場所で奴隷のように扱われてたら、いつか暴動も起こる。そんなとき、他に行くあてがないならいいが、俺達の存在を知って、次の避難場所として逃げ込まれたら面倒ってこと。んでもうひとつの方は、俺達は死んでも文句言えねぇ立場にあるってことだ。」

「そうなんすか。」

「避難しない方が悪いってことだ。だから、兵士の奴らの中には俺達を殺そうとするやつもいる。クレイザーと間違えて撃ったって言えぁ、いいんだからな。」

「じゃ、榊さんはそういう理由で・・・。」

「ああ。ま、それを分かっていながら偵察行くんだから、英明も熱心だよな。」

紀貴は、なんかイラッとした。そんな理由で殺すなんて馬鹿げてる。

「でも、なんであそこまで怪我したんすかね。どう考えても榊さんの方が強いと思うんすけど。」

「ああ、英明はクレイザー以外には手を出さない主義らしいからな。」

翔の煙草の臭いも可愛く感じるくらい、紀貴は苛立っていた。こんなに腹立たしく感じるのは初めてのことだろう。

ちゃんとした表現が出来ないけど、きっとコレが怒るっていう感情なんだろう。

「それで死んだらどうするんすか。それこそ馬鹿げてる。」



紀貴がそう言うと、寝ていたはずの英明が起きてきて、ドアを開けながら、「だれが馬鹿だ。」

と言った。回復の早い人だ。瀕死って言葉が合わなかったくらいに、もう煙草を吸っている。

「お、早いな。英明、そんなんじゃ早死にするぞ。」

開いているソファにドカッと座って、両肘を背もたれにかけた。

「あの野郎・・・絶対ぇ一発ぶん殴ってやる。」

「あ~あ~、英明にそう言われたら、その人一発KOだよ~。」

「俺も!俺も!俺も殴る!」

元気に参戦しようとしていた潤に、紀貴が若いな、と感じたのは、此処だけの話。

手を高く上げて、目をキラキラと輝かせている。

―潤くん、そういうことじゃないんだよ。そんな無邪気に笑ってても、この子は徹底的に殴るだろう。

「で?拠点はどうだった~?」

英斗が真面目な話に戻す。

潤も諦めたようで、シュン・・・としながら大人しくソファに座りなおした。わかりやすい子だ。おばちゃんはこういう子も可愛がる傾向にある。お菓子なんかをタダで貰えるタイプだ。

「最悪だな。」と、兵士の人にやられたのが余程気に食わないのか、少し機嫌悪そうな口調で英明が答えた。

そりゃあ、最悪だろうな。本来であれば勝てる相手だったのだから。

「やっぱり、避難所の地下だったんだ~。」

―・・・!? 

声にならなかった。

―え?避難所の地下?どういうことだ?

紀貴の頭はフル回転しているはずなのに、その言葉を理解することは出来なかった。頭では否定を繰り返している。

「どういうことっすか!!」

・・・やっと出たのはコレ。すると、嬉しそうにした男がいた。

「つーまーりー。」

翔がニヤッと笑って、紀貴が教えてやると言わんばかりに、背もたれにくっ付けていた背中を背もたれから離し、前かがみになるような体勢をとり、お腹の前あたりで両手の指を交互にして軽く絡めた。

―なんか、こういう格好が似合う人だなぁ。脱力系っていうのか・・・。

「クレイザーを生んだのは、避難所ってことだ。」

潤のオレンジジュースが飲み干されたらしく、ズズッと音が聞こえた。ニット帽の缶バッジがキラッと反射する。

「避難所が?どうして?」

「この世界は貧困層が激しくてな。裕福な奴らはより裕福に。貧困な奴らはより貧困になるだけ。最初は裕福な奴らだけに的を絞ってたようだが、いきなり目にした金の束に、感覚が麻痺しちまったんだよ。今はもう死んでていない国王がな。」

「国王?え?クレイザーが出てきたからいなくなったんじゃ・・・。」

「最初に生み出されたのはクレイザーというより、ただの恐喝野郎だった。国王が死んで、その遺体を改造して生み出されたのがクレイザーだ。改造した奴も、クレイザーに襲われちまってもう死んでるがな。」

「???」

整理しきれていない頭がボーっとする。紀貴にとってはもうとっくに現実離れし過ぎていて、よく分からない。

「兎にも角にも、自分たちで生み出したモノは、自分たちで片づけるって言ってた連中も、金に目が眩んだり、私利私欲のために人襲ったりし出した。その結果が、今の状況を作った。」

「でも、俺たち以外にもう人はいないんすよね?避難所行ってるんでしょ?だったら、何で今でもそんなこと・・・。」

「梶本・・・」

翔の説明を黙って聞いていた英明が、まだ吸えるであろう煙草を灰皿に押しつけた。

「避難所って言っても金を払った奴しか入れないんだ。一人分さえまともに払えないとこは、どうすることもできない。そういうとこからも、まだ絞り取ろうとしてんだよ。あいつらは。」

「そんな・・・。」

あまりに酷い状況に、紀貴に出来ることが見つからなかった。

「金払わない奴は生きてる価値が無ぇってよ。」

翔の言った一言は、とても冷たくて、とても残酷だった。紀貴の世界にも、そういう人はいる。ホームレスがその例だ。街を歩いててよく見かけるが、助けることなんか出来なかった。

だが、汚いだとか、臭いだとか、ゴミだなんて思ってる奴がいることの方が、紀貴には信じられなかった。

いつどうなるかも分からないこの御時世に、人を非難なんか出来なかった。

「欲ってのは、理性の制御が必要だ。程度ってもんを知らなきゃならねぇ。一度崩れた理性は、そう簡単には直せねぇからな。」

改めて突き付けられた現実に、紀貴は何も言えなくなった。いや、非現実だとしても受け入れたくない。

―くだらない。くだらなさすぎる。

紀貴は下を向いて、唇を噛みしめた。

「だから、俺達はクレイザーと戦っていくんだ。例え、この中の誰かが死んでもだ。」

その言葉は、聞くに堪えなかった。誰にも死んでなんかほしくない。

死んだら終わりだ。何も残らない。

勇敢なんて自慢にはならないと思う。自分では後悔しない生き方だったとしても、必ず誰かが悲しむんだ。

それを見えないふりをしてまで、立ち向かっていくことに意味なんてあるんだろうか。

「俺は・・・。」

紀貴は泣きそうになったが、迷惑をかけてはいけないと思って、耐えた。みんなに死んでほしくない。一日でも長く、みんなと一緒に暮らしたいんだ。

「俺は、それは嫌です。」

「あ?」

眉をピクッと動かしたまま、一層英明の機嫌が悪くなったようだ。

でも、これだけは言わないと気が済まない。ここだけは引くわけにはいかなかった。

「俺、誰にも死なれたくないっす。死ぬ覚悟は必要かも知れませんが、生きてなきゃ意味無いっすよ!この中の誰かが死ぬなんて、考えたくもない!」

最後は怒鳴ってしまった。でも、紀貴は後悔してない。

―言うべきことは言ったんだ。これでここを追い出されても、俺は泣きついたりしない。

「・・・。キレイ事だな。」

英明の台詞は、鋭く尖ったナイフのように、紀貴の心臓を突き刺した。

今の紀貴にとって、そのナイフは氷よりも冷たかった。立っているのがやっとなんだと、この場から逃げることも出来ない足を感じて分かった。

唇を噛みしめながら、英明を見据えた。

「ま、梶本らしい考えだな。」

新しい煙草に火を付けながらそう言われ、あれ?と思った。

「なんだ。そんな間抜けな顔して。」

『追い出されるとでも思ったか』と言われ、それが図星だと分かったのか、隣で翔がプッと吹き出したのが分かった。

―本当にこの人は・・・。

「そう思うんだったら、さっさと強くなれ。」

嬉しい一言が降ってきた。

そして、急に『血が足りねぇ、なんか食い物。』と言った英明に、急いで食事を作った。

それを見て、潤がつられてかは知らないが、『俺も!なんか腹減った!』っていうもんだから、もう夕飯作ろうと思って食材を大量に取りだした。

「よし、やるか。」





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登場人物紹介

梶本紀貴(かじもとのりたか):毎日がつまらないと思っている青年。異世界へぶっ飛んでいく。


『明日なんか来なくていいよ』

榊英明(さかきひであき):医者の不摂生おっさん。梶本たちの面倒を見る。


『考えすぎるから嫌になんだよ』

柏木英斗(かしわぎえいと):青汁と解剖が大好きな不審者。英明をおちょくるのも好き。


『嫌いなことは~、運動かな?』

隼翔(はやぶさしょう):ニット帽を被った青年。ポジションで、銃やボクシングが得意。


『道なんざ繋がってんだよ』

小早川潤(こばやかわじゅん):中性的な顔立ちの青年。だいたい翔と一緒に遊んでる。音痴。


『え?ズレてる?おっかしーな』

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