第7話

文字数 12,398文字

 固まった葵が、恐る恐る振り返った目の先を追うと、廊下側の襖が静かに開き、立ったままの見慣れた女が顔を出した。
 静も志門も、見慣れた人だ。
 こちらが挨拶する前に、女の方が二人と他の来客を見回し、優しく微笑む。
「君たちもいたのか。お邪魔するよ」
「あ、いらっしゃい……と言うか、お邪魔しています」
 どうしてそんなに緊張しているのかと、葵が顔を引き攣らせているのを見ながら、静は挨拶したが、その女の後ろに立つ男を見て、目を見開いた。
「おや、志門君だけだと聞いてたが……まあ、良かった。大目に作ったから、昼を一緒にどうだい?」
 女の頭の上から部屋を覗きこんだ男が、穏やかに微笑みながら客たちに呼び掛けると、伊織が慌てて首を振った。
「今日は、ご挨拶に参っただけですので、これで……」
 息子を促してセイに礼をし、立ち上がった。
「あら、そうなの? まあ、仕方ないわね。退院したとはいえ、まだ無理は駄目よね」
 それを受けて、やんわりと太い声が言うと、朱里が深い溜息を吐いた。
 葵の方も、緊張した顔のまま息を呑み、塚本親子を座ったまま見送ると、何とか新たな来客を仰ぎ見る。
「中途半端な時間に来たな。何事だ?」
 話しやすい、穏やかな笑顔の男に呼び掛けた言葉に、呼びかけられた優男はそのままの表情で訊き返した。
「そちらこそ、この子に何か御用ですか? それなら申し訳ないですが、お受けしかねますが」
「そ、そうか。いや、別に今、受けて貰わねえでも、いずれ折を見て……」
「だから、それは……」
 あくまでも、相談事を通そうという構えの大男に、セイはつい呆れて遮りの言葉を投げるが、それは三人の目線で途切れた。
「……何だよ」
「何だよじゃ、ないだろう。お前、一週間も前に、病院から戻っていたんだってな?」
「ああ」
 素っ気ない返しに、男エンの笑みは深くなった。
「ああ、じゃないだろう。何で、オレが、ここを留守にしていたと、思ってるんだ? お前が起きた後連絡をくれたら、迎えに行くつもりで、この人の家にいたからだぞ?」
「そのまま、もう少し暖かくなるまで、山の下で過ごしておけば良かったのに」
「セーちゃん? 驚いたわよ? ゼツちゃんに連絡して、もう病院にはいないと聞いた時。どうして、連絡を入れてくれない訳?」
「戻る報告の約束、したか?」
 やんわりとした笑みを濃くした大男、ロンの言い分にも、セイは無感情で返し、首を傾げた。
「大体、たった数日寝ていないだけで、どうしてそこまで言われなきゃいけないんだ?」
「……その数日が、命とりだからに、決まってるだろう」
 優しい笑顔のまま女、(みやび)が答える。
「君は、寝不足の自分が、どれだけ危うい状態になるのか、自覚がないのか?」
 どちらの味方にもなれない少年少女と市原夫婦が、思わずその言葉に同意して頷いてしまった。
「叔父様があの時病院に来たのも、金田医師がそれを考慮した結果だったのよ。少し、反省なさい」
「あんたらが、あの時素直に引いてくれていれば、そんな心配されなかったんじゃないのか? 私は静かに休んでたんだから、考慮して欲しかったのは、あんたらの方だ」
 三対一なのに、どちらかというと、客側の方が押されている。
 もしかして、自分達がいるからかと思い当たったが、それを深く気にする前に、エンが咳払いして全く別な事を言った。
「まあ、いい。これからしばらく、大人しくするのなら。朝は食べていないんだよな?」
「ああ。お蔭で空腹で、眠い」
「……だから、何で、そこで眠くなるんだ、君は」
 雅が呆れて呟き、廊下からようやく部屋の中へと入って来る。
「急ぎの相談なら、私でも乗るけど?」
 恐縮する朱里に気楽に優しい笑顔で言い、葵に激しく首を振られた雅は、少しだけ眉を寄せた。
「私じゃあ、難しい相談なのか?」
「い、いえ。急ぐ話じゃねえってだけで」
「今しか、この時期は捕まりそうに、なかったものですから」
 夫婦してそう言い訳するのを聞き流し、女の後に部屋に入った二人の男を目で追っていたセイが、ふと問いかける。
「この二人が来るのは覚悟してたけど、ロン、あんたが今日来るとは思わなかった」
「え、どうしてよ」
 睨む大男に、若者は全く怯えることなく、あっさり答えた。
「今、ユメさんが来てるんだろ?」
 その情報を知っている事に驚いたのか、ロンは目を見張ってから、ゆっくりと首を振った。
「この国に入っているのは事実だけど、まだうちには来てないわ。近い内に顔を出すようにとは、言っているんだけど」
 何故か、セイの目が丸くなった。
「そう、なのか」
「出迎えも出来なかったから、コハクちゃんも気にしてるのよ」
「へえ」
 どこかで聞いた名だなと思いつつ、若者の曖昧な様子に疑問を持った静だが、それは一足早く腰を落ち着けた雅も、同じだった。
「由良君も、一緒に来てるんだって聞いたけど、君も知ってたんだ。その事?」
「まあ、一応は」
 目を細める女の言葉への返事も、どちらかというと生返事だ。
 不審気になる客三人と、当惑顔になる市原夫妻に、セイはゆっくりと説明した。
「どうやらその由良君を、凪や志門が出た学園に、中等部から通わせる手続きが終わったらしい。塚本家の聖と同い年の子だから、塚本さんから話は聞いてる」
「・・・・・・」
 市原夫妻が、無言で目を交わす。
 志門と静は、あまりに露骨になりそうで、自分達が同じことをするわけにはいかなかったが、動きは同時で同じ場所を見てしまった。
 それが逆に目立ったらしく、少年少女が同時に天井を仰いだのを見て、今度はエンが目を細めた。
「それは今、訪ねて来た時の報告か?」
 違う、と察しての問いかけだ。
 それを承知のセイも、首を振って答えた。
「聖の件が、ある前だ」
「……」
「知っての通り、由良って子は気難しい子だ。通学させることも心配だが、引き籠らせたままなのも心配だと、リヨウと相談して決めたらしい。あの学園なら、他の所よりはましだろう」
 無感情に説明する若者の目線の先で、雅が中庭の方に目を向けた。
 雨戸を開け放った縁側から見える中庭ではなく、その先の生垣の向こうを見ている。
「……」
 山の頂上付近の森を切り開いて、この屋敷紛いの建物は建てられている為、その他はうっそうとした木々が広がっているだけのはずで、その目線の先にも、変わった光景は広がっていないはずだが……。
「げっ」
 雅の視線の先を伺い見た葵が、思わず声を出してしまった。
「え? 何?」
 ロンが怪訝な顔で問うと、同じくらいの大男は慌てて首を振る。
「い、いや。何でも……」
「何でもないなんて、言える状況じゃない。どう言う事だ、セイ? 今は、仕事の『し』の文字も、許さない期間だと、承知してるよね?」
 取り繕うように言いかけた葵を遮り、雅が呆れたように若者へと言葉を投げる。
「それに、あの人は、不味いだろう」
 無感情のまま天井を仰いだセイから、不意に立ち上がって縁側から中庭に出た雅に目線を映したエンは、そのまま生垣の向こう側に向かい、連れて来られた人物を見て、目を見開いた。
 そんな会話の間に腰を落ち着けたロンが、同じように目を見開き、再び腰を浮かす。
「ゆ、ユメちゃん?」
「……すまない。玄関が分からないでうろついてる内に、先越された」
「先越されたって……こんな所に、一体何の用があって……」
 ロンが呆然と口走ると、雅と同じくらいの長身の女は、大男を鋭く睨んだ。
「あんたは、そのこんな所で、入り浸ってんじゃないかっ。自分の女房もほっぽって」
「そ、そんな事はないわよ。ちゃんと、夕方には帰りますっ」
 いつもの態度からは想像もつかない程の、取り乱し方だ。
 朱里は、目を見張ったまま葵を見上げたが、それを見返した大男は複雑そうに笑っていた。
「……オレは、自分じゃあ分からねえんだけど、里沙の前じゃあ、ああなってるか?」
「え?」
 どうしてそんな事を訊くのかと、困惑する細君の代わりに、エンが苦笑しながら答える。
「葵さんは、何の後ろめたさもないんですから、ああいう態度にはなっていませんよ」
「しかし、あそこまではなくても、やっぱ、娘には嫌われたくねえって、思っちまうんだよなあ」
「そうか……あんたも、本当に、父親の自覚が、出て来たんだな」
 無感情な声に、若干の感慨深い気持ちが混じっているのが分かり、志門は思い当たった。
 朱里も思い当たったらしく、ロンとユメと呼ばれた女を見比べる。
 小麦色の肌と、癖の目立つ黒髪。
 男と女という違いと、髪の長い短いで体格と雰囲気に違いはあるが、かなり似ている。
 十人中八人は、一目で血の繋がりを感じるだろうが、年齢が似通って見える為、親子とは思われない。
 顔立ちは美形と言うよりも、甘いという印象だから、母親の方に似たのだろう。
 そんな女が、憎々し気に父である大男を睨んでいた。
 女を見ながら、静も思い出していた。
 真倉ユメ。
 確か最近売れ始め、旦那の女関係の報道を機に別居を決め、日本の事務所と契約したために、この国に来日して来た、ミュージシャンだ。
 しっとりとした歌が主で、女にしてはハスキーな声が、心地よい歌手の一人だ。
 そんな、世間で有名な人が、目の前にいる。
「長生きしてみるものですね……」
「……静ちゃん、十代の美空で、何言ってるんだ」
 呆れると言うよりも、過去を思うと洒落にならないと言う思いが、雅に窘めさせたのだろう。
「あ、すみません、つい」
 そんな会話の間に、ユメは父親からセイへと目を移し、素っ気なく言い放った。
「先越されたなら、仕方ない。また、出直す」
「……そうですか。では、お見送りを……」
「いいよ」
 控えめに言う若者に、女は冷たく返した。
「この面々に、見送られると思うとぞっとするから、お前はそのままで」
「ちょっと、待ちなさい。ユメちゃん、あなた一人? ユラちゃんは?」
 狼狽えながらも、何とか心配を乗せる父親に、ユメはようやく笑顔を見せたが、それは冷ややかな笑みだった。
「こんな所に、わざわざ早朝、連れて来るはずがないだろ? そんな事も分からない程、変人慣れしてしまったんだな」
「それは、仕方ないでしょう。その変人の代名詞が、あなたの父親なんですから」
「……セイ、塩だよな、ロンの傷口に刷り込んだのは? 別な劇物じゃないよな?」
 冷ややかな娘の声に衝撃を受け、それに頷いた若者の無感情な言葉で、大男は完全に止めを刺された。
 異常な衝撃を受けているように見受けられ、いつもは気にしないエンが、ついついセイに穏やかに確認してしまった。
「水に薄めた塩程度のはずだけど、娘の毒舌の後では、やっぱり答えるのかな」
 セイとユメを見比べながら雅が小さく笑い、女に呼び掛ける。
「折角来たんですから、お茶でも飲んで帰って下さい。お父さんが邪魔なら、すぐに追い出しますから」
「……ミヤちゃん」
 止めを刺された大男に、すかさず追撃する言葉をさりげなく混ぜる女を、ロンは恨みがましく睨んだ。
 そんな珍しい様子に苦笑しながらも、エンは雅の言葉に頷いた。
「よろしければ、昼ご飯でも持って帰って下さい。すぐ、詰め直しますから。由良君にも……」
「有難いけど、それは遠慮する」
 小さな容器を探すために立ち上がろうとした男を、ユメは立ち尽くしたまま遮った。
「まだ寒いけど、傷んだら勿体ない。あの子の口に、いつ入るか分からないから」
 妙な言い分に、一同が不審な空気になる中、セイは一瞬目を細め、慎重に返した。
「今日は、その相談、ですか?」
「いや。ただ、愚痴りに来ただけ。日が悪いみたいだから、帰る」
 ユメも慎重に答えると、セイは頷いて立ち上がった。
「下まで送ります。……それ位は、いいだろう?」
「あ、ああ」
 我に返ったエンは、つい頷いてしまったが、ユメと立ち尽くしていた雅は首を振った。
「その前にユメさん。由良君、食事も出来ない程、不安定なんですか?」
 優しい笑顔で問いかける女に、ユメは冷たい笑顔を向けた。
「そんな事、赤の他人に答える義理が、あるのか?」
「私にはなくても、そちらの人には答えを知る義理位、あるでしょう?」
「そ、そうよ、ユメちゃん」
 ようやく、我に返ったロンが口を挟む。
 睨むように娘に見つめられ一瞬怯むが、気を取り直して問いかけた。
「そんなに、不安定なの? 土地が変わったせい? お仕事の都合は仕方ないけど、あの子までこちらに連れて来る事は、なかったんじゃないの?」
 勢い込んでつい、矢継ぎ早にまくし立てた大男を、ユメは無言で見つめた。
 言い切ってから我に返り、ロンはその冷ややかな目線を見返す。
「ゆ、ユメちゃん?」
「ゴシップ記事は、見ないのか? あれ、事実なんだよ。リヨウの奴が、女を作ってたって記事」
「え?」
 これには、雅もエンも目を見開いたが、それはロンが知らなかったという、事実に至っての事だ。
「り、リヨウちゃんが? 確かなの?」
「本当に、知らなかったのか。呆れた」
 ユメが露骨に呆れて首を振り、更なる事実を暴露した。
「しかもそのお相手、リヨウの子供を二人、産んで育ててる」
「子供っ? それも、二人っ?」
「双子の男の子だってさ。そんな事実を知って、一緒に暮らせるか? 子供の事は、世間に知られる前にもみ消したけど、リヨウの顔は、暫く見たくないんだよ」
 吐き捨てるように言い、雅を一瞥する。
 それを見返した女は、優しい笑顔を浮かべたまま、頷いた。
「不倫は、許せないよね」
「そうだろ?」
「でも、知ってるのかな? その不倫のお相手も、お子さん達も、日本にいるんだよ? どうして、あなたが、この国を別居地に選んだのか、理解に苦しむんだけど?」
 ユメはまた、冷ややかな笑顔を浮かべた。
「決まってるだろ? 女と子供を探し出して、話を付ける」
 静と志門は思わず、息を呑んだ。
 リヨウと言う名に聞き覚えがあり、まさかと思っていたのだが、雅が目を細めた上エンまで目を見張ったのを見て、確信した。
 真っすぐな言葉を聞いた雅は、頷く。
「具体的に、どう話を付けるんだい? 産み育ててると言う事は、子供はもう、世に出てしまってるんだろう?」
 目を細めて女は続ける。
「まさかとは思うけど、由良君と引き合わせるつもりか? そのつもりだからこそ、由良君は心労で、食事もとれないんじゃないのか?」
「……そうなの? そう言う事なのっ?」
 悲鳴に近い大男の声が、娘の顔を顰めさせているが、雅は追及を止めるつもりはない。
「別に、由良とその女を会わせる気はない。ただわたしは、女やその子供の顔を見たいと思ってる、それだけだ。だから、心労があるなら、この父親に会わせないわたしの心境を、察してくれてるからだ」
「本当に、会うだけで済ませるつもりなのかな?」
 優しい笑顔の女を見返し、ユメはやんわりと見えるように、笑みを浮かべた。
「向こう次第、だな。ただ生意気なら、それ以上もあるかもな」
「へえ」
「何を考えて、あいつの子供を生んだのかは知らないけど、何か期待しての事だろ? だったら、不倫相手の末路と言う期待通りの展開を、くれてやるのもありだろ?」
 本妻の言い分としては仕方がないが、あんまりないい様だ。
 困惑する市原夫妻の前で、静かに聞いていたエンが、やんわりと口を開いた。
「何も期待していないかも、知れないですよ。最近では、一人で子供を抱えていても、真面目な方が多いと聞きます。その方も、その類かもしれませんよ」
「言い切れるほどの世間知もないわたしには、それを信じることは出来ない」
 大体、と一度言葉を切った女は、セイを見据えて冷ややかに笑った。
「そいつやあんたを見てると、二親が傍にいなかった子供が、まともに育つとは、思えないんだよ。実例が、こんな連中なんだから、仕方ないだろ?」
「……」
 空気が凍った、そんな感じがした。
 思わず大人たちを見回した志門は、エンが更に深い笑顔を浮かべたのを見、静は反対に、朱里が素直に顔を顰め、葵が眉を寄せるのを見て目を見開き、無言で顔を見合わせてしまった。
 そんな中、優しい声がユメに言う。
「この二人を、他の子供たちの標準と考えないでよ。本当に真面目な子も、中にはいるんだよ」
「その実例が、お相手の子供たちなら、いいんだけどな」
 鼻を鳴らして返すユメを、セイは呆れたように見返している。
「……余計な話をしてしまったな。そろそろお暇する。お邪魔しました」
 素っ気なく頭を下げ、踵を返す女を止めたのは、穏やかな男の声だった。
「待って下さい。お茶、淹れましたので、飲んでいって下さい。それに……」
 その声に振り返ったロンが、小さく唸る。
 引き攣った珍しいその顔を横目に、エンは笑顔を浮かべたまま続けた。
「昼ご飯に、少し持って帰って下さい。見目新しい物なら、手を付けてくれるかも知れないですから」
「だから、別に食欲がないって事じゃない」
 対するユメは、男を見返しながら、冷ややかな笑顔を崩さない。
「単に今は、食べたくても食べられないだろう、って事だ。いつ、食べられるかも、今は予想出来ないんだよ」
「何故ですか?」
 深く尋ねる男に、ユメは一度躊躇い、セイを見た。
 無感情のまま見返した若者を見ながら、静かに答えた。
「……昨夜、いなくなった」
「えっ」
 大人たちの声が、数人分重なった。
「いなくなったって……どう言う事っ?」
「家出だよ、家出。他に考えられない」
 思わず立ち上がったロンに、娘は吐き捨てるように言い切った。
「ポチも連れて行ったから、間違いない」
「家出って……行く当てはっ?」
「あるわけないだろっ。あの子はまだ、あんたの家なんか、知らないし。ちょっと甘え過ぎなんだ。少しくらい、痛い目見た方がいいだろ」
「そんな、いい加減な事……」
 取り乱す大男を宥めるように、エンは穏やかに尋ねる。
「その相談をしに、今日はここに?」
「まさか」
 ユメはその疑いを、あっさりと一蹴した。
「でも、愚痴位は聞いて欲しいと思ったんだよ。……どこかで、そのリヨウのお相手の話を聞いたらしくて。その上、兄弟が二人もいると知ったらしくて。折を見て、話すつもりだったのに」
 女の顔が、初めて歪んだ。
「あの子の頭が冷えた頃、探しに行くから、大丈夫だよ。リヨウには、言わないでくれよ」
「そんな訳には、行かないじゃないのっ。いえ、先に、コハクちゃんに……」
「それだけは、絶対にやめてくれっ」
 鋭く睨む娘に、大男が大きく怯む。
「あんただけでも問題なのに、娘や孫にまで問題があるなんて、あの人に悩まれたくない」
「……それは、手遅れじゃあないですか?」
 言い返せない父親の代わりに、従弟の子に当たる男が穏やかに返した。
「あなた、昔からこの人には、つらく当たってるそうじゃないですか。まあ、気持ちは分からなくはないですけど、それをコハクさんが知らないはずはない」
「どうとでも言ってくれ。兎に角、あんたらに話しても、これに関してはどうにもならないだろっ」
 鼻を鳴らすユメに首を傾げ、それまで黙っていた朱里が呼びかけた。
「居場所の見当は、ついているんですか?」
 眉を寄せて見返す女に、おっとりと微笑む。
「頭が冷えた時に迎えに行くにしても、居所が知れないのでは、それもすぐには出来ないのでは?」
「そんなの、どうとでもなる。一応、情報網は持ってるし」
 にべもない女の言葉に、葵がわざとらしく唸った。
「見つけて迎えに行くのは簡単だろうが、連れて帰れるんですか?」
「……どういう意味だよ?」
 ユメが睨む先にいる大男は、険しい目つきで見返しているが、これでも穏やかに見ている方だ。
 そう見てもらい難いと分かっている葵は、出来るだけ声音を優しくして続けた。
「思春期の子供ってのは、頭が冷えても素直にならないもんです。塚本の聖と同じくらいなのなら、そろそろその時期でしょう? 説得できるんですか?」
「まだ保護してやってる立場の子を、説得して連れ帰らなきゃいけないなんて事は、ないだろ? 無理やりにでも連れ帰るから、問題ない」
 ひどい言いようだが、親としては出来ない話ではない。
 なるほどと頷く葵の横で、朱里が今度は声をかけたが、それはここまで、殆ど蚊帳の外になっていたセイに向けてだった。
「お兄様」
「何だ?」
「この件、私たちが戴いてもいいですか?」
 何のことだと眉を寄せるユメを一瞥し、セイは無感情に返した。
「その人を、説得できるんだったら、好きにしろ」
「はい」
 微笑んだ朱里の顔は何故か、にやりと笑ったように見えた。

 つまり、真倉ユメは暫く、息子の家出は放置の方向でいるつもりでいたのを、市原夫婦とエンの説得で仕事の依頼にし、それを新入社員の研修にしてしまった、そう言う事の様だった。
 敏腕刑事として恐れられているはずの大男が、何度か制止をかけようとしたのだが、どうしても止まらなかったようだ。
「その時から、由良君の近影は判明していましたが、やはりペットのポチの方は、正体が知れませんで……」
 エンの指示で、志門がユメの知るその姿を霊視した。
「どんな奴なんだ?」
 色々なショックで固まっている幼馴染の中で、その度合いが薄い和泉が、身を乗り出して尋ねると、志門は少し考えて答えた。
「そうですね……うちの母校にも、いました」
「は?」
 思わず間抜けに返してから、生き物が迷い込むことはあっても、養っていたという話は聞かないと、冷静に考える少年の代わりに、話の間中何故か顔を引き攣らせていた伸が、絞り出すように言った。
「確かに、学園にあるのは事実ですが、あれとは全く別種です」
「そうですか?」
 それを聞いて志門は首を傾げ、静も思い当たったように頷く。
「A5サイズのノートに描いた姿が、少し大きめだとユメさんがおっしゃっていました。それほどの小ささのものは、初めて見ましたから、確かに別種ですね」
「……そう言う意味の、別種ではなくてですね……」
 何と言えばいいのかと、伸は頭を抱えている。
「つまり、聖くらいの子供でも、抱えられる大きさの生き物、という事か」
「はい。ただ、これが重要なのかは、分からないのですが……」
 そして、その姿は口止めされているから、志門はそれを曖昧に答えているという事だ。
 そう察した和泉に頷き、志門はさりげなく同行者たちを見回しながら、さらりと告げた。
「そのペットの寝床は、ユメさんの住居に残されていたそうです」
 伸が、頭を上げた。
 顔は未だに引き攣っている上に、今は青褪めていた。
「寝床が、残って?」
「はい。それを聞いたエンさんが、とても嬉しそうにしていたのが、印象的でした」
 何かとんでもない思惑が、ここまでで隠されているのは分かったが、その何かが全く分からない。
 言いようのない不安が漂う中、志門が静かに言った。
「若から、このお話を私に振られたら、と言伝られた言葉があるのですが……」
 絶望の色が漂う空気が、一気に吹き飛んだ。
「ど、どんな言葉だっ?」
 晴彦の期待に満ちた問いに、志門は申し訳なさそうに答えた。
「由良君を見つけるのは簡単だと思うが、ポチの状態がどう変わっているかは想像が出来ない。サイズに惑わされず、冷静に対応しろ、だそうです」
「……それだけ?」
 凪が、呆然と呟くと、申し訳なさそうに少年が頷く。
「何でっ。それだけで、正体も分からない生き物相手に、どうしろとっ?」
「それを考えて、どうにかするのが、あなた方の研修でもあるのでしょう」
「いやいや、それは、興信所の仕事じゃないっっ」
「伯父様、助けてくれないのっ?」
「それは、出来ないと思います。先程お話にあったように、若は、謹慎中でございますので」
「何で、そう言う所だけ、律儀なんだようっっ」
 別に、こう言う所だけ律儀、という訳でもないよなと、健一は意外にも冷静に考え、頭を抱え絶望する先輩たちを見学する。
 若者の兄貴分と市原夫婦が、揃ってカチンとなった言動は、ユメの二親がいない子供云々の意見で、間違いない様だ。
 その怒りの延長で、自分達がとばっちりを受けているようだ、と言う事も何となく分かったのだが……。
 隣に座る友人の様子が、おかしい。
 話の途中から、段々おかしくなってはいたのだが、今は引き攣った青褪めた顔に、困惑も混じっている。
 それに気づいたのか、比較的冷静な和泉が、静かに伸に呼び掛けた。
「お前、さっきから様子がおかしいが、そのポチと言う名のペットに、心当たりがあるのか?」
 その声にゆっくりと顔を上げた少年は、困惑したまま力なく口を開いた。
「……父と、そのエンと言う人は、古くからの知り合いなのだそうで、その、由良君にペットを贈った事情も、聞いています」
 伸が、自分の父親の事を話すのは、珍しい。
 目を見張る健一と反対に、和泉は目を細めて続きを促す。
「普通の生き物では、逆に障りがあるだろうと考え、エンさんにその生き物の居場所を特定してもらって、父が捕まえて寝床を作り、由良君に贈ったそうです」
「そうか。だからその人が、そのペットを見つけ出せたんだな」
 だから、一緒にいた由良も見つかったのかと納得した先輩に、伸は力なく首を横に振った。
「あくまでも、居場所を見つけて教えただけ、なんですよ」
「? どう違うんだ?」
「その生き物とエンさんは、不味い意味で相性がいいようで、鉢合わせは禁忌のはずなんです」
 嘆き節の説明だが、全くの意味不明だった。
「何で、ここまで人を巻き込む事にまで、話を大きくしてしまったんでしょうか……」
 傍に存在を知られたくない少年がいるからなのか、うまい説明が出来ないようだ。
 その辺りの事情は承知している健一は、小さい頃にお世話になった、速瀬(りょう)を思い出していた。
 この国から遠ざかり、戸籍上では故人となった伸の父親は、医者と言う優秀な人材だったのだが、浮ついた話が多い男だった。
 確か今は英国の方で、本妻と子供と共に、暮らしている筈なのだが……。
「ん?」
 そう言えば、さっきまでの話で、引っかかる名前があった。
 それは……。
 悲鳴が漏れそうになり、健一は青褪めて自分の口をふさぐ。
 一つ思い当たると、色々とその話に黒い意味が出て来る。
 その考えに、一足早く至ってしまった友人が、困惑するのは無理もない。
 後輩二人が黙り込んだのを見ながら、何とか気分を変えようと、和泉はもう一つ気になった事を口にした。
「それにしても、あの真倉ユメの旦那の話、本当だったんだな」
「しかも、隠し子もいたのね」
 全く関係ない弥生が、呆れたように頷き、朋美も呑気に笑う。
「市原さんの所に、いずれ依頼が来るかもしれませんね。その隠し子探しの」
「それも、この依頼を成功させたらの話でしょうね」
「そうかな? 無理に依頼にした印象が……」
 気を取り直して期待を口にする里沙に、晴彦が懐疑的に返して唸ると、志門が困ったように答えた。
「それは、もう見つけられそうだからと、断っておられました」
 どうやらユメにも、情報網があるらしい。
「その双子の兄弟の特徴も、旦那さんから聞き出しているので、後は簡単だと」
「そうなんだ。そんなに特徴がある子たちなの?」
 残念そうな姉の隣で、少しだけ興味本位で凪が問うと、静が弟子仲間の一人を一瞥して言った。
「今年、中学を卒業した男の子ふたりで、弟さんの方がとても珍しいらしいんです」
「へえ、どう言う風に?」
 珍しいと言っても、程々だろうと軽く問う晴彦に、少女は意味ありげに答えた。
「瞳の色が左右で違う、所謂オッドアイなのだそうです。片方が水色で、片方が鳶色の」
「え、そんな色合いの目の人が、いるの?」
 学園には色々な生徒がいるが、今の所見た事がない。
 驚いた凪は、正直に言った。
「それは確かに、すぐに見つかるわね」
「ええ。本人が見つけられたくなくて、隠していない限りは、すぐに見つかるでしょうね」
 わざとらしく響く少女の肯定を聞きながら、和泉はふと顔を上げてぎょっとした。
 向かいに座る、今日初対面の少年が、目を剝いている。
「ど、どうした?」
「え、あ……」
 思わず身を乗り出して、その顔を覗きこむと、章は我に返った。
 同じように驚いて、自分を見る少女を見返す。
「いえ。その、真倉ユメって人の、旦那さんの子供が双子で、弟の方が、そう言う珍しい目の色をしている、と?」
「ええ。そうですが……」
 先程の軽さが微塵もない真剣な顔で、少年は慎重に問いを重ねた。
「その二人と母親を探し出すと、その人は言ってるんですか? 場合によっては、害するつもりで?」
「ええ。そう言うお話でしたが……どうしましたか?」
 強張った顔を目の当たりにし、静が戸惑っていると、章は小さく笑って答えた。
「い、いえ。うちも元々は片親で、双子の弟がいたもんで……ちと、驚いてしまって」
「そうなのか? そっくりなのか?」
「ええ。まあ、当然、性格は違いましたけど」
「ふうん。その言い方だと、今は一緒に住んでないの?」
 曖昧に答えていた章が、凪の何気ない問いに詰まった。
「……実の父親って奴が、引き取っていきました」
「……どこかで、聞いた話だな」
 晴彦が首を傾げる。
 藪蛇な話が出て来そうな気配に、焦った健一が話題を戻した。
「つ、つまり、その研修の内容は、その由良君を説得して、出来ればペットも回収、という事でいいんでしょうか?」
「そういう事になるかしら」
 不自然な話題転換に首を傾げながらも、里沙が受ける。
「私とあなた達は見届け役。手に余るようなら手を貸すけれど、決着をつけるのはあくまでも、凪と晴彦君と和泉君よ」
「……分かりました。やります」
 色々と不安はあるが、三人はそう言って承知するしかない。
「兎に角、話の内容を吟味して、対策を練っておきましょう。じゃないと、お仕事で時間を取って、遊べないかも知れないもの」
 聖の頭の上から顔を出した凪の提案に乗り、幼馴染三人組が真面目に話し出すのを聞きながら、健一が隣の友人の顔を伺った。
「おい、大丈夫か?」
「……混乱しかない」
「だろうな」
 小声で返した伸は、顔を上げて向かいに座る先輩の一人を見た。
 見返す志門に、声を潜めたまま尋ねる。
「……ユメさんが本当に、旦那さんのお相手と子供たちを、害すると言っていたんですか?」
 その声は怯えではなく、困惑が混じっている。
 それに気づいて、意外そうに静が目を見張り、志門は微笑んだ。
「先程のお話の通り、確かにその意味合いの事を、口にしておられました」
「……」
 戸惑っている友人に首を傾げる健一に、志門はそっと切り出した。
「実は、このお話には、更なる裏があります。その裏のお話の件で、あなた方にお手伝い願いたいのですが……」
 まだ、話していない事がある、そう言う事だ。
 息を呑んだ二人の少年は、図ったわけではないが揃って頷いていた。
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