第4話

文字数 4,794文字

 ラ・メトリ中央特許管理センターと歴史省恒久平和調査局の合同棟が正面にそびえるタレブ通りを馬車も捕まえずとぼとぼと歩きながら、フラスカは白昼途方に暮れていた。
ことのはじまりは、時計術ギルドの窓口らしき胡散臭く薄暗いレンガ造りの建物をジェクと一緒に訪ねてみたものの、さんざん待たされた挙句に何も分からぬまま門前払いされたことだった。
「いやー成果なし、でしたね」

「”毛唐風情に情報は教えられぬ”、か?」

「毛唐って、いまどきめずらしい言葉を使いますね……」

ジェクは呆れたような同時に関心もしたような口ぶりで彼女の顔を眺めていた。さてこれからどうしたものか、という状況だったのだが、そのとき不幸にもささいなすれ違いが起こった。
それは昼の祈禱において引用された聖句のちょっとした言い間違いに関するもので、ジェクが本来「父から」と言うべきところに余計な一節を付け加えたとフラスカは非難してやまなかった。
スラスカたちはこのことによってひどく喧嘩し、今後の調査行動は別行動にしようと冷然と言い放ったのだ。新人類的なところのあったジェクは淡白な態度でその提案に賛成し、
かくしてチームははやくからバラバラになってしまった。
 互いに互いの成功を形ばかり祈ったあとで、一刻も早くという風にそそくさと彼らは別離した。
あとからみても、気取られずにゆっくりと時計術の同僚集団に浸潤しようとするジェクと、必要とあらば強硬な手段も辞さないフラスカは元からかなり馬が合わなかったに違いない。
とは言うもののこのような形で二手に分かれるのはやはり手痛い損失である。
フラスカはカフェーで一杯のバングラッシーを飲みながら、あのジ・ジェクという若い男ともう少し打ち解けるべきだったかと今更思い悩んだ(が、いま思い返してみてもどうやらそんなチャンスはない)。
他方心の奥底では蟠りが解け胸がすくような爽快な感情を抱いていることもまた否定できなかった。
 カフェ―からの帰途、街路を歩く多民族の人波に気だるげに目を遣り、剣士、魔術師、行商人、狩人、技術屋、世捨て人(サンニャーシ)、ドラァグクイーンなどの様々な職業・階層の人々を見つけては
思いつく。そう言えば時計術師に特徴的な服装というものはあるのだろうか? と。その他もろもろの考え、あらゆるつまらないアイデア、ここぞという軽快で愉快な現象などを低回させながら、
そのまま記憶も曖昧なままに数ブロックを横断し、みずからが拠点とみなしている教会支部へ帰ると、昨夕の盗人少年ラーヤモンがフラスカをこころよく出迎えた。

「なあ、ここは最高だよ。食べ物には困ることないし、雨風だって凌げら。明日のよすぎを考えて憂鬱にすることもない」

この混迷の時代、教会は往々にして教護院の役目を引き受けることがあった。ラーヤモン少年もここでは生きるためのやむを得ぬ犯罪をしなくてよいので、
まさに罪から解き放たれた人といった感じに羽根を伸ばして、生来のやや尖った唇の端に夕餉の食べかすをつけて鳩のように憩っていたのだ。
遠くのブロックでは乱倫で無計画な都市開発のはてに齎されたゴミの違法投棄によって異常発生したカラスが、薄汚い廃墟の一角にみずからの縄張りを主張して甲高く鳴く声が断続的に響いていた。

「そうか、気に入ってくれたかい。君のご両親には見つけ次第連絡をしておくが、引き取りの話が付くまではいつまでも此処にいていいからね」

そう言うと、フラスカにとってもはや唯一の頼みとなったこの少年はますます目を輝かせて、世界はなんて素晴らしいところなんだろうという信心深い者なら必ず観じているような世界観に酔いしれたまま、
ふたりはそのまま中の聖堂へと入っていった。末月教会堂の内部では細長い腰掛けに並んだ二人の男が熱心に何か1冊の本を読んで、
その内容についてときどき話合いなどしており、またその他には誰も居なかった。

「祷りを捧げよう」

何時ともなくフラスカがゆっくりと切り出した。少年は「まあ、当然。」という風にその指示に従ったが、動作はまだまだぎこちないものだった。
彼らがつくりだした沈黙を遮るようにして中途、座っている紳士風の男たちが侃々諤々の議論をはじめた。それはいまアトラスの都でも流行している進化論にまつわる議論だった。

「われわれの棲む世界がすべて自然の作用によって齎されたというのは驚嘆すべきことだ。自然はさまざまな生き物たちを作り出し、
峻厳な母にも例えられるその自然の環境によって子等を淘汰し、より生存に有利な形質を持った遺伝子のみを次の世代へと生存させていく」

「そうさ、何万世代というスケールに渡る生存競争の結果、ナメクジのような愚鈍な生物でさえ眼や翼を持ち空を駆ける鳥になるかもしれないのだ。
不完全な眼や翼は役に立たないから漸進的にこのような変化が起こったとするのはおかしいと主張する人々もいるが、半分の透明さしかもたない水晶体も
あたかも皮膚の温度感覚を感じるだけの器官と同様にみずからの条件をさだめる感覚器官として役に立つし、
不完全な翼も滑空ができることによって生存上有利に働く。
ただし我々がそれを進化と呼んでいる所以は、単なる適応に与えたただの主観だということに注意しなければならない」

「なるほど、どの通りだ。愚鈍な生物が賢い動物になることだけがこの驚嘆すべき自然の促す選択の作用ではない。
たとえば暗い洞窟に閉じ込められた哺乳類の一群は長い時間を掛け遂には白い毛並みと盲目をもった生物に変化することが知られているが、
これも確かに自然選択の齎す悠然たる進化の証明だ。
複雑な眼をつくるコストは暗闇の洞窟の中では何の役にも立たなくなってしまう。やがて眼を作るという複雑なプロセスは不要のゆえに失われるのだ。
自然は何も考えず、いつも鏡のようにそこにあるだけなので、我々が進化という言葉に主観を込めることを注意しなければならない」

「なるほど不要のゆえに失われるというその理屈ももっともだが、暗い洞窟のような環境でたまたまアルビノや盲目などの特徴を持った個体が誕生した時のことを考えてみると、さらによく分かる。
彼等は周りの他の個体と同じくらいの適応度をちゃんと持っているのだから、生存環境が光のうちにある場合と違って並大抵と同じ程度に生き残り、子孫へと遺伝子を残していく。
そして世代を経るうちそのような遺伝的欠損はすべての個体に高い確率で起こりうるはずなのだから、ついには目のない個体や肌の白い個体が大多数を占めるに至るのだ」

などと話し合っていた。なるほど進化論ならフラスカも心得ている。進化論とは、隣の大陸で20年ほど前にひとりの天才と呼ぶべき博士によって明らかにされた生物理論だ。
この遺伝と選択にまつわる学説は、その核心が浸透し理解されるやいなや国中の人々に快く迎え入れられた。
これまでどのように雑種が改良されてきたかとか、生物の求愛行動がどのような理由で発達したかなど、多岐にわたる事柄をほぼ完璧と言えるまでに解明し、
これを境に魔法生物の発明もいっそう加速することとなった。つまり新しい時代が幕を開けたのだ。
幸い博士の綿密なる証明指針と膨大な研究資料の裏付けによって、加えて現実に止(とど)まること無く刻々と起こっている生物たちの自然における活動が何よりの証拠となって、
懐疑的に見る者もひとたび精を尽くして原理論と向き合って見ればたちどころにその考えに納得するに至った。民衆はどこもかしこも新しいアイデアに熱狂して沸き立ったが、
なかんずくこのアイデアの恩恵を一番に受けたのは、なんと言っても聖権力たる教会だった。
各派の教会は自然にまつわるこの素晴らしいアイデアにそれぞれのやり方で目をつけ、みずからの教義の中に組み入れて、
既存の教義をより美しく洗練された新しいものへと蘇生することに成功していった。その結果として待っていたのはリバイバルの到来だった。
国の中でもっとも無神論に傾きつつあった都市さえ、進化論を建設的に話し合える講義が催されるとあれば地元の教会に駆け込んで、
古めかしい椅子と掲げられた聖なる象徴(シンボル)にかじりついた。神父は学者よりもよく血縁度を求め、牧師は劣性遺伝子にまつわる嘆かわしい誤解について誰よりもこころを痛めた。
この騒動についてラ・メトリでおそらく最大の宗教的指導者である教皇ユージェンティスは、
「純粋なる宗教はいかなる科学理論によっても傷つけられはしない。善良な人々の心に根付く宗教的美観を傷つけうるのは、偏に間違った宗教的教えのみである」と述べている。
おそらくこの片言さえも、彼の為人とこの国の世俗主義をよく反映するものだろう。
 フラスカとしては理論のそこまで込み入った部分まで理解しているわけではないものの、
男たちの熱の入った会話(利他行為についての議論へとすみやかに移行していた)の様子をどこか憧憬の入った目で見つめていた。
だがやがて議論も終わった。男たちが消え辺りが完全にふたりきりになってから、

「なあラーヤモン、人は働くことでその日の糧を得なければならない。私のためにひとつ働いてみないか?」

周囲に細心の注意を払いつつフラスカは切り出した。少年は無論のこと目を輝かせて承諾する。

「ああ、なんだ、何をすればいいんだ? おれをこんな快適な暮らしに導いてくれた大姐(ねえさん)のためなら、精一杯働くさ」

フラスカは少年に与えられた使命のことを簡便に説明した。

「…つまり、それが私がこの国まで来た理由というわけだ。わかってくれたか? 私の国には時計術という分野がない。調べようと思ったら、わざわざ隣国まで出向かなければならない」

「ああ、そう言えばあのクソ陰湿な野郎どもはって大姐の国にはいなかったな。……幸せものめ!」

「知っているか?」

「ああ、いつも路地裏をウロウロとうろつきまわってるぜ。ギルド棟の近く。黒いキルヒャー着て2,3人で」
「キルヒャー?」

「時計術師の普段着みたいなもんのことだよ」

やはり彼らにも同属意識を高めるための指定衣装が用意されているらしいことを、フラスカはそのときはじめて知った。
居心地の悪い同僚など居なくともひとつの収穫を得られたことに内心満足を覚えつつ、彼女はすみやかに次の質問へと向かう。

「それで、彼らはどんな術を使う?」

「”時計術”さ」

「そんなことは分かってる。彼らが脅威を排除するために具体的にどんな方法を使うのかが知りたい」

「それは専門的なコトになるから、実際なってみないと説明は無理ってトコだよな」

「そうか。納得する。ところで時計術師は秘密主義で通っているが、どうにかしてその秘密を暴けないものだろうか?」

「どうにかって?」

「たとえば奥義書のようなものを盗む、本部に忍び込んで」

「わかったぜ! それが恩人の頼みとあっちゃあ」

こうして話は纏まった。その晩、本国への報告書を書くために形ばかり同僚のジェクと再び面会したものの、昼からの論争が片付くことはなかった。
そもそも発端となった句は、フラスカが子供の頃に教えられたままの形がもっともよくアトラスで流通している。
しかし、それに2・3のバリエーションを伴ったものがたしかに婚礼など公式の場で使われることもあったのだ。
しかし、フラスカにとってはその付け加えられた句はどうしても余分なものに思えた。神聖なる句に余分なものを付け足すなど、我慢がならない。
あまつさえそのバリアントが正統であるなどと誤認しているうちは、この同僚と共に仕事をするのは御免だとフラスカは結論づけた。
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