第8話

文字数 5,295文字

 フラスカは途方に暮れていた。図書館のあらゆる本をかき回し、街路で聞き取り調査を繰り返してみても、「時計術」が何かということに関する情報は一向に得られない。
どころか調べれば調べるほど、情報が減っていくような気さえした。しかしだからといって、あのパーティーの得体の知れない怪事が起ったあとで、時計術士に協力者を募ろうという気にはとてもなれなかった。
モルトケ通りの館で住み込み労働に従事することをはじめ、今では毎日定時になると教会へ祈りを捧げにやってくるラーヤモンは、
そんなフラスカを宥めすかして明るい言葉で励ましはしたものの(彼はフラスカに対して深く感謝の意を抱いていた、館での仕事によって言葉遣いもよくなり、上品な笑顔が顔に浮かぶようになった)、
みずからがそういった魔術的知識に精通しているわけでもなく、また以前のように窃盗では役には立てないとはっきり、残念そうに述べた。
 フラスカは日に日に気を病むようになった。自分の無力と徒労について。いまだ本国に対して、報告すべきろくな成果も挙げられていない。
以前フラスカが送った時計は、魔法絡繰仕掛(マジック・マシーン)をもちいた成分分析に掛けたところ、流通している普通の時計と何ら変わらないという事実が判明した。
盗人の眼を欺くための贋物だったのか、あるいはラーヤモンが取る時計をまちがえたのか、それはわからなかった。
とはいえ今や完全な善人の小市民となったラーヤモンをこそ泥の技術で責めるなどということは信心深いフラスカの直観に反する行いである。
今度はどのようにして念入りに隠している秘密の時計術を盗み出そうか、フラスカは気を揉んだ。そうやって企んでいるときのみが救いだった。
 あくる日、帝立図書館のレファレンスサービスに「時計術とは何であるのか、その歴史、成り立ちの経緯、現在の状態など」を、素直に教えを乞うて教授賜ることにフラスカは決めた。
司書のリザード種族の300歳の女性は、資料室の机へフラスカを案内し、いくつかの歴史的巻物と統計調査資料をもちいながら、一から時計術の講義を行った。
それは様々な角度から、社会学的、歴史学的、心理学的、ポストコロニアル理論的、統計数理的、大衆文化的、妖精学的、現象法学的、正統呪術的、流体魔法学的、宗教的、
不可不可知不可知道的、オブジェクト指向的、とにかくさまざまな時計術像を、懇切丁寧にフラスカに噛んで含めるように教えた。その合計時間はまったく休憩を挟まず22時間にものぼった。
フラスカはその教えられる一つ一つのことを正確に読み取り、綜合的に理解をしようと努めた、それは希望にも等しい精一杯の努力の時間だったが、ところがどんな観点から説明されようが、
このたわいもない時計術について理解することは彼女をひどく困惑させ、拒ませ、そしてその現象がフラスカをますます焦々とさせた。

「申し訳ないがミセス・ヨナルデパズトーリ、私には無理だ。時計術なんてまるで解らない。理解ができない。彼らの使う術式の最小単位さえ、
わたしには何か捉えどころのないように思えて……〈切断の原理〉とは何なのだ? なぜ彼らはそれを積極的に勲章しようとする? ……ああ、私は正直に言って、机の上で考えることが余り得意ではないのだ。
せめて彼らと一戦、剣を交える機会さえあればよいのだが!」

お気になさらないで、と蜥蜴語の南部リザード言語変種で女司書はフラスカに声をかけた。いつか時計術の本当を知ることができますよ、と。
しかし今の貴女の状態では、必ずや時計術師に勝つことはできません、負けます。この女司書は彼女に念話(テレパシー)をつかって云うのだった。
フラスカはその場から逃げ出すように、図書館の中央出口からホワイトヘッド通りへと転がるように身を投げ出し、その投げやりなる儘に往来をふらつきながら歩いて行った。
一番近い末月教会はあと三丁先で、見上げた空は真っ黒な緞帳に蔽われていた。

 「ああ! なんて無駄骨だ! なんて無駄足をしてしまったのだ、わたしは。そもそも奴らを理解しようなどと……セクシストのあいつらを理解しようなどとしたのがいけなかったのだ!
そうだ、そうに違いない。この多様な価値観の中で、いまさら男女差別などしているような時計術師が、崇高なるわたしたち国教教徒に理解できるような論理を喋っているはずもないのだ。
それだからあいつらの歴史もデタラメ、慣習もデタラメ、新聞記事に書かれていることもデタラメ、教科書も何もかもデタラメだった!
あいつらはわけの分からない文化に身を染めている、理解する価値もないのだ! その上で、ラ・メトリがあれらを通じて政略的観点で優位に立つ可能性があるというのなら、
剣の聖人サティヤサイババに誓っても、斬り捨ててくれよう!!!」

 吐き出すようにフラスカはまくし立て終えると、空をふりさけみ、鳶色の眼を血走らせた。この深夜に道行く呪術師たちは、彼女がクリスタル・メスでもやっているのかと思った。
信心深い商人たちはフラスカが狐に取り憑かれているのだろうと推測した。
道路の反対側を歩いていた中年の男が囃し立てるように、向かいのフラスカへこう言った。

「その言説は不充分ですよ! われわれの社会に存在するジェンダー的な差異を全く根本からなくしてしまうには、時計術師への不満をぶつけるだけでは足りません。
そのもとからの歴史をラディカルに介入して変えてしまわにゃならんですよ! 歴史から時計術を修正しましょう、神話のセックス、歴史のセックス、家庭のセックスもです。
ジェンダーをつくったわれわれの社会構造的なイデオロギーを支持している奴らをみんなばらばらにするのです! 時計術反対! セックス反対! そうではありませんか!? 
あなたは父権主義者か? ペニス羨望信者か!? フェミニズム・バンザイ!バンザイ! フェミニズム・バンザイ!バンザイ!」

 フラスカは空恐ろしくなり、この頭のおかしな男と目を合わせないように早足でそそくさと路地を抜けていった。きっとあの男はボルボル教徒だ、もっとも唾棄すべき異端的存在め……いつか火刑にしてやる……
そう心の中でそう固く誓いながら。

 ジョン・メイナード中央銀行が不景気の終わりを景気良く告げた翌朝、人びとはそのあまりの歓喜に大通りへ出て浮かれ騒いだ。
もちろん現実の経済状態の遷移とは別段関係もなしに、これはラ・メトリで12年に一度開かれる祝祭ルーシュンの開催を告げる開幕の儀礼(しきたり)である。
新首相アンドレジードとその妻ヴェイユも出席していた。フラスカはラーヤモンと連れ立ってこの非常にもの珍しい行事を見物しに行った。彼から気晴らしでもしないかと誘ったのだ。
目抜き通りを練り歩くパレードは、ふたりの目にとってはあまりに奇妙で不可思議といってよい華形の行進だった。それはある数式をモチーフとしており、
伝統というレギュレーションの都合上、ありとある現象の視覚表現となっているようなものでなければならなかった。一例として、三次元位相空間に投影された多様体、
複雑な増殖模様を描くセルオートマトン、絶え間ない連続写像の変換によって浮かびあがるアトラクタ、強制法によってジェネリック拡大される正則宇宙の真実の姿などが、
粗末な鉄骨の骨組みと木のみを使って極座標の上に出し物として装飾され、表現され、陳列され、大いに大衆の目を楽しませていた。
セラフィーニ商店街の意向により、「シャノン」と呼ばれるラ・メトリできわめて重大な意味を持つ楽器が識者によって演奏された。それにあわせて合唱曲マハラノビスが99回伴奏された。
ロバートブロック工場から排出される無痛の光化学スモッグの向こうでは空は燦々と晴れ渡り、冬空の大気は震えるように澄んでいた。
 ことによるとクラークの全住民が集っているかもしれないこの大祭りの会場で、偶然にも、フラスカがジェクの姿を発見したことを奇跡と言わずには居られない。
ふたりの顔立ちの整った男女に囲まれて、ジェクは何やら陽気な談笑に耽っていたが、特徴的なシャノンの音にかき消されてそれも聞き取れなかった。
フラスカは驚愕を憶えた。ジェクに連れ立っているふたりの男女は、このハレの日に陰気なキルヒャーなどを纏っていたからだ。時計術師だったのだ。
が、マハラノビスの大合唱が両者のあいだに怒涛のように割って入り、天使がその川を泳いで飛び立ってしまうように、彼らの会話は聞こえなかった。
フラスカは絶望に駆られた。ジェクはもう目的を遂げようとしていたのだ。任務の相方である前に騎士団内で立場が上であるはずの自分に何も知らせずに。
フラスカはまるで自分自身が先程のパレードで見たばかりのシンプレクティック多様体や、正八胞体や、調和形式や、代数幾何の複素数パラメータのひとつにでもなってしまったかのような心地を憶えた。
群衆の誰かが、時計術師もこのような催しに参列するものかねときこえよがしに囁いて、フラスカの耳をくすぐった。当然のなりゆきとして、
フラスカはジェクの方にも時計術師のほうにも気取られないようこそこそと近寄って会話を聞いた。ジェクが陽気に口ずさんでいた。

「オーケー、認めよう。こんな楽しいお祭りはわれらがアトリアには”非在”なようだ。毎年やっているレーニン祭りはあるけど、こんなに派手にできない。ところでワイル、このパレードはどこに行くんだい?」

「これからパレードはハイゼンベルク広場に行くだろうね、数ブロック先の。その経路はいくつかある。われわれはアダマール通りを通ってきた仲間とそこで落ち合うことになっているんだ。
あるいは彼らがパウリ通りを通ってきたものだとしても、一向に気にすることはないけど」

ワイルが答える。

「ねえジェク、ハイゼンベルク広場で自動証明による算術的階層の打ち上げ花火を見たら、一緒にメタ構文変数をプロットしましょうよ。わたしたち、みんな時計術師のお仲間なんだし、ね?」

シェラハはワイルに確認するような調子でいう。

「しょうがないなあ、ふたりとも気をつけてくれよ、モック・テータのインバースだろ? だれも何次元ベッチ数かなんて気にしないんだから、孤立特異点はこっちにあるんだ」

「えへへへ、やったねジェク、準同型よ?」

「まあ、興味深くはあるね。さもコンパクトな確率空間なんて」

フラスカには理解できないこんな親しげな会話の向こうで、なにやらささやかな計画が進行しており、どうやらそれをジェクが参与観察の妙によってあらかじめ知っているらしいのだ。
フラスカは嫉妬を抑えながらこの一団から離れ、まだ見回りたそうにするラーヤモンと分かれを告げたあと、素知らぬ顔をしてハイゼンベルク広場より北西にあるパウリ通りへ向かった。
貧民街の一つで、排他律的な雰囲気が漂っており、つねに労働者階層のフロマートカ人が屯している……掏摸、強盗、殺人、盗品売買、テロリズム、保険営業など、あらゆることが横行しており、
逆に言えばここで事件が起きたとしても、羈束できない野蛮な異民族同士の諍いごとという仕儀に片付けられることは言うまでもない。
 フラスカがこの通りに入ったとき、路上ではふたりの失業者が目を血走らせて雇用統計の集計をしていた。フラスカのことなど気に留めもしないようだ。
時刻は夕食時であり、表通りに立ち並ぶ料理店はみな忙しそうに営業している。ここは一帯を貫く裏道で、そうした料理店の裏口ばかりが並んでいる。
しばらくすると彼(か)の予言通り、パウリ通りを似つかわしくないキルヒャーで裏道を歩くひとりの男がフラスカの目に映った。時計術師だ。
もしも2人連れなら、フラスカは躊躇っただろう、だが彼女はこの時計術師を襲ってジェクたちがいったこのあと何をするつもりなのか聞き出そうとした。
だが不躾にも不意に襲うのは卑怯だと思いなして、人通りのない場所をみはからってみずから決闘のていで名乗り出た。
「末月教会の騎士フラスカというものだ。決闘を申し込みたい。もし私が勝てば、おまえたちに私が聞きたいことをすべて教えてもらおう」
「ほう。つまりその剣で、私を殺そうということですか? 何とご乱心でしょうか?」
相手はやや小太りの中年めいた男性だった。運動能力が高いようには見えない。物珍しげにフラスカを観察して、交渉しようとしているようにも見えた。
騎士と名乗ったが正装でないことに訝しんでいるのだろうか、この祭日に荒事を起こそうとすることを不思議がっているのだろうか。
フラスカの手に握られた業物を眺めてはおそろしげにちぢこまって首を傾げている。フラスカは、相手がいつ術を使うかも分からないので、魔術師を相手にした時よりも更に慎重になっている。
あたりの破落戸たちは皆目を逸して雇用統計に没頭していた。決闘が、まもなく開かれようとしていた。
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