第2話 熱いボルシ

文字数 1,461文字

「ウーー、ウーー」
 朝、高校野球の試合開始の合図音に似た低音のサイレンで飛び起きた。携帯にも英語でメッセージが入る。空襲警報だ。それ以外はウクライナ語でどうし分からない中、街頭スピーカーからはウクライナ語で男性の声が響く。
 寝巻のまま貴重品を持ち1階に駆け下りた。だが、受付の若い女性は何でもないというように掌を左右に振り笑った。隣の食堂では宿泊客が平然と朝食を取っている。一人慌てているようでばつが悪く、いそいそと部屋に引き上げた。
暫くして二人が迎えに来た。歩いて施設に向かいながら、空襲警報の話をした。
「心配ないよ。パトリオットが撃ち落とすから!」 イワンはウクライナ語のアクセントの英語で笑って言った。
 郊外のNATO軍の訓練施設や発電所などのインフラを狙ってロシア軍のミサイル攻撃はあるものの、今では殆どがウクライナ軍戦闘機か西側供与のミサイルで撃墜されていた。そうした事もあり、いつしか誰も空襲警報に警戒しなくなったらしい。それでも、稀に撃ち漏らしや、市街地に破片が落下し被害を与えるという。そうしたミサイルの破片がぽつねんと市内に展示されていた。

 施設の孤児の多くは激戦火の東部地域と占領下のクリミア半島とからで、トルコ系やジプシーの子供もいた。トルコ系やジプシーは歴史的にクリミア半島に多く住んでいたので、ロシアによる民族浄化も行われている可能性が高い。
戦時下の混乱で引き取る里親も居らず、子供たちの状況は厳しい。どの子も顔色が悪く栄養状態が良くない。アナはこちらの懸念を察したのか食事はジャガイモやパスタは出せても、資金難で野菜や果物が不足していると言った。渡した少ない義援金に心が痛んだ。

 一日援施設を見て回ると、心身共に滅入り、疲れと寒さで体が重くなる。夕方、帰りの列車の前に腹ごしらえをしようと、駅前の食堂に三人で入った。
「寒い時はボルシチだね」 何気なく言うと、二人の顔色がサッと変わる。
 一瞬、しまったと思ったが手遅れだった。日本でもロシア料理として知られるビーツのボルシチは元々ウクライナ料理でボルシと呼ばれ、ソ連時代ロシアにも広まったという。どの家にもそれぞれの作り方があり、その家の数だけ味が違うウクライナのおふくろの味だ。
 数百年にも亘りロシア人によるウクライナの収奪が続き、その中でボルシはロシア人に奪われたモノの筆頭という思いが強い。
 湯気が立つ赤いボルシの皿が目の前に置かれた。サワークリームと黒パンが添えられている。かき氷の苺シロップと同じ真っ赤な色で、甘い味を反射的に期待する脳はシチューの味を中々納得しない。スプーン三杯目でやっと味覚と視覚が一致した。透明だが赤いビーツと一緒に煮込まれた野菜から濃いウクライナの大地の恵みが凝縮されて滋味一杯の味が体に染みていくのを感じた。
 ふーっと溜息と共に緊張が和らぐのを感じた。戦場から遠く、戦火に巻き込まれる可能性が低くともここは戦時下だ。体が温まり、胃も満たされると不思議と元気が湧いてきた。

 ボルシを一気に平らげる帰りの列車の時間が迫っていた。二人に見送られポーランド行きの国際列車に乗り込む。帰国か休暇なのだろうか、軍服の表情が険しい外国義勇兵の一団も乗車する。

 車内は往きと同じように女性と子供で一杯だ。戦闘が激化する地域から逃れるのだろう。ペットの犬や猫を連れた女性も多い。
彼らはいつまた熱いボルシを家族と共にウクライナで食べられるのだろうか。列車に揺られそんなことを考えながら車窓から暗く凍てつくウクライナの大地を眺めた。
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