杏子に浸る

文字数 1,925文字

 俺は十年間、親を知らなかった。
 物心ついてから特別不運だと思ったことはないが、運が悪かったとすれば、産まれた直後に赤ちゃんポストへ置き去られたことだろう。だから六十を過ぎたおじさんが細々と営む施設が実家だった。
 おじさんは控えめに言って貧相な出で立ちだった。痩せっぽちでドクロみたいな皺だらけの顔。肋骨は薄いワイシャツに浮かび、爪は萎れた杏子みたいに黄ばんでいた。俺と一緒に五人ほど年上の子どもを育てていたが、自分が苦労してまで他所の子に金を使って何の意味があるのだろう、と幼心に疑問だった。もう独り立ちした子どもに対して「全然帰ってこねぇなぁ」とボヤいていた記憶さえある。毎晩子どもに見られていないと思って手酌で四合瓶を飲み干すものだから、よく顔がむくんでいた。
 小学校に行くと、おじさんのことでからかわれる。苦労人の見た目は子どもにとって珍獣と同じで、病原菌塗れだから細いのだとか、生き長らえるために子どもを育てて食ってしまうのだとか言われた。俺は恥ずかしさや怒りでおじさんに告げ口したけれど、笑うばかりで相手にもしてくれない。馬鹿にされたのに怒りもしないなんて格好悪い、ヒーローなら悪い奴をやっつけるものだ。率直な気持ちも伝えてみたが、それも笑いながら飄々と誤魔化された。しっしっ、と追い払うような仕草をする杏子の爪があまりにも腹立たしかった。

 気分の悪い日々が続いていた時、施設に一人の女が現れた。厚塗りの化粧で、唇がマゼンタの絵の具くらい派手で明るい。縄で縛ったような腰の細さで、ミニスカートから覗く足は病的に白かった。目と胸が不自然に感じるほど大きく、カートゥーンアニメの悪い魔女みたいだと思った。
「私、この子の母親なのよ。ちょっと前にポストへ預けたの」
 魔女は十年前に捨てた俺のことを『不在票の届いた荷物』くらいのテンションで迎えに来たようだった。おじさんも他の子も怪訝な顔をしたが、無下に扱う訳にもいかず、魔女の言う通りDNA鑑定をすることになった。
 結果は見事、百パーセント一致。俺は魔女の腹から産まれ、珍獣に育てられた子どもだということを思い知らされた。
「ほうら! これでこの子を引き取る理由は正当になったでしょう?」
 魔女はとびきり喜んだ。こうなったらもう、獣に食われるか、実験中の鍋に突っ込まれるかの二択だ。俺は自らの行く末を悟り、せめて楽に死ねる方にしてください、と神頼みして沙汰を待った。すると、丹念に育ててきた肉を横取りされるのが嫌だったのか、おじさんが悔しそうに尋ねる。
「お母さん。どうして急にこの子を引き取りたくなったのでしょうか。念のため、理由を教えてくださいませんか」
 始めこそ魔女は「何で自分の子を引き取っちゃいけないの」とか「お前なんかに教える義理はない」とか反発していたが、おじさんがあまりに何度も食い下がるものだから、とうとうその本性を露わにした。
「今度の旦那が子ども好きだから喜ぶのよ。私はもう産むなんて懲り懲りだから、引き取ってあげようって言ってんの!」
 その瞬間、おじさんの顔がみるみる赤くなった。皺よりも深く血管が浮き出て、獣を通り越して鬼だった。
「帰れ! お前のような人間に大切なうちの子をやれるかっ」
 烈火の如く怒れるおじさんは、黄ばんだ杏子の爪を掌に食い込ませるほど握り締め、今にも魔女を殴り飛ばす勢いだった。
 気圧された魔女は、悪役の下っ端みたいな台詞をいくつも吐きながら、真っ赤な口を引き攣らせて帰って行った。おじさんは興奮冷めやらぬまま、唖然とする俺を抱き寄せる。
「ごめんなあ。俺は少しでも、本当の母親のところへ帰してやるのが、お前の幸せなんじゃねぇかって思っちまった。ダメな親父で、ごめんな」
 いつの間にか鬼の面は剥がれ落ちていた。嗚咽を漏らすおじさんの手の熱が伝わって、俺もわんわん泣いた。安心したのか嬉しかったのか、訪れた感情の正体は今でも明確にできないでいる。しかしあの日、俺は親が子どものために涙を流す生き物だと知ったのだ。

 あれから十年が経った。施設も出て、二倍の人生を歩いてきたけれど、おじさんより尊敬できる人には出会っていない。それは俺がまだ世間知らずな青二才であると同時に、幸福なのかもしれないとも思う。
 ようやく酒が飲める年になったので、スーパーで二種類買ってきた。一つはおじさんがよく飲んでいた日本酒。しかし試飲したら辛くて飲めそうになかったので、自分用に甘いと評判の杏子酒を選んだ。
 ドクロが音を立てて笑ったような写真の前に日本酒を飾り、一人で線香の香りを肴に酒を含む。黄ばんだ爪で手酌していたおじさんの姿を思い出しながら、とろけるほど優しい熱に浸っていた。
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