プロローグ 『金の代紋』

文字数 4,078文字


 北国の春は遅い。
 4月に入ってもなお、街には雪の姿が残っていた。国内有数の豪雪地帯ということもあり、車道の隅には押し積まれた雪が未だ山と高い。気温も低く、夜ともなれば氷点下を下まわることも珍しくなかった。

 その夜もまた寒かった。
 防寒着姿で歩く者も目立ちはしない。むしろ普通だった。この時期、地元に住む者なら冬着の外出が多数派を占める。黒革のトレンチコートを身につけた壮年の男が夜道を歩いても、とくに人目を引くものではない。

 とはいえ、男は堅気(カタギ)には見えなかった。
 前時代のマフィア映画で見たような黒い中折れ帽(ソフトハット)つば(・・)を目深に下げているものの、(くせ)のついた銀髪を隠しきれてはいない。細眼鏡(ほそめがね)にはブラウンが入って色濃く、月明かりに表情をより(くら)く見せている。革靴の底音を殺して歩く黒ずくめの姿は、奇妙なほど北国の夜に調和していた。

 中折れ帽の男は裏路地を歩く。
 (すた)れた歓楽街のさらに片隅(かたすみ)、酔っ払いの影すらささない寂しい路地である。男が足を向ける先には、テナントの大半が歯抜けした古い商業ビル。ネオン看板の幾つかは不良点滅し、入り口のガラスドアにはひび(・・)すら走っていた。

 ガラスの裂け目を気にするでもなく、男は重い扉を押し開けて通る。
 狭い通路には複数の姿があった。いずれも若者である。カップルの姿もあり、(さび)れたビルの外見には似つかわしくない客層だった。

 男にとっては意外でもなかったのか、若者たちに視線を移すでもなく通路を進んでいく。空間に余裕がないために、壁にもたれる青年の顎をトレンチコートの肩がかすめる。

 青年はダウンジャケットを着崩して厳つい印象の筋肉質。
 首元を広く開いたシャツから膨らんだ大胸筋が自己主張していた。金ネックレスの鎖ひとつひとつが肩凝りを想像させて大きい。いかにも勝ち気で、路上での喧嘩経験を誇りそうな人種だった。

 だが、その風体に反して青年が声を発することはなかった。
 顔を上げてはみたものの、色のついた細眼鏡の奥を覗く気概まではなかったらしい。すぐに(うつむ)いて道を譲った。

 黒ずくめの男は無造作に歩を進め、やがて看板も掲げていないドアの前に立つ。ノックをひとつするも、中からの返事はない。さらにひとつ。ふたつ。みっつ。繰り返すごとに音が大きくなっていく。

「なんだよ、うるせえな」

 声は返ってきたが、扉は開かれない。
 中央に設置されたドアスコープから覗いているのだろう。ドスの効いた声が近かった。

 男は答えない。さらにノックを重ねた。さらに強く。さらに強く。

「おい! 何のつもりだ! 警察を呼ぶぞ」
 
 男は答えない。さらにノックを重ねた。さらに強く。さらに強く。

 もはや殴りつけているのと同じだった。
 金属扉を叩きつける轟音がビルのフロアを支配している。外にまで漏れ響きそうだ。通路にたむろっていた若者たちも逃げるように去って行く。

「よ、よせ! もう、やめろ!」

 慌ただしくロックを解除する音が聞こえ、ようやく中折れ帽の男は拳を下ろした。

 ノックが止んでから数秒後、ゆっくりと扉が開かれる。
 中から長身の男が現れ、扉の外を睨みつけるように見回す。ほかに連れがいないことを確認したのだろう。やがて手招きをしながら奥へ戻っていった。黒革のトレンチコートが後へ続く。

 室内は変わった造りになっていた。
 入り口から数歩の位置に、いかにも売買を行うようなカウンターが据えられている。

 それだけだった。
 カウンター越しに来客者の応対をする構造なのだろうが、商品らしきものは見当たらない。台の上には何も置かれておらず、カウンターの左右にも棚ひとつなかった。内側には人ひとり動けるスペースがあるだけ。背の高いパネルパーティションが後ろを(さえぎ)り、奥を覗くこともできない。殺風景としか表現できない、狭い空間だった。

「アンタ、何者だよ。いったい何の用なんだ?」

 目を泳がせつつ長身の男が訊ねる。
 不審な客を前に動揺を隠せない。
 明らかに黒ずくめの男が周囲に向ける視線を気にしていた。悪ぶった口調だが、まだ若いのだろう。派手なロゴの入った厚地のパーカーにも違和感がない。頬にはニキビが広く残っていた。

三下(サンシタ)に渡す名刺はない」
「な、なんだと、てめえ」

 三下という言葉の意味は理解できなくとも、侮辱されたことだけは伝わったのだろう。ニキビ(づら)が赤く染まる。自制心などまるでないのか、本能のまま左手でトレンチコートの襟を掴む。わかりやすく激高していた。

 中折れ帽はというと、なされるがままだった。 
 長身の若者を挑発するように、頬から口へと皺を寄せている。つくり笑いにしても不自然な表情だった。

 薄気味悪く感じたのか、パーカーの右手が跳ねることはなかった。
 代わりに身長差を活かし、見下ろすかたちで細眼鏡の奥を睨みつける。威圧するつもりだったのだろうが、まるで相手にされずに(かわ)されてしまう。黒ずくめの視線は下へと注意を促していた。

「……あ?」

 苛立ちながらもニキビ顔が視線を追う。
 目に入ったのは小さな記章(バッチ)だった。

 はだけたトレンチコートの内側で、丸い記章(バッチ)がスーツの左襟に(きら)めいている。黄金色の輝きは(まばゆ)いほどで、メッキの安物などではあるまい。照明に反射して刻まれた模様が読みとれないほどだが、極道の代紋であることは間違いないだろう。所作や服装からして、とても弁護士や検事には見えない。 

「あんた、極道(ヤクザ)か?」

 黒革のトレンチコートから手を離しつつ、長身が問う。
 黒い帽子のつば(・・)が小さく上下する。心なしか、ブラウンカラーのグラス奥が誇らしげにも見えた。  

「は、はは、はははは! 極道(ヤクザ)! いまどき極道だって?」

 代紋を見せつけられた若者の反応は、容赦のない嘲笑だった。

「極道なんて、まだ居たのかよ? 絶滅したかと思ってたぜ。おっさん、もしかして幹部ってやつ?」

 目の前の男が取るに足らぬ存在だと認識したのだろう。
 態度が一変していた。怖じ気も憤りも消え、(あなど)りを隠そうともしない。極道だという男を見くびり、(さげす)んで(はばか)らない。舐めに舐めきっていた。

「で? 何の用よ」

 いまやニキビ顔の若者は完全に弛緩(リラックス)していた。
 カウンター台の上に片肘をつき、パーカーの腰から背までをも預けている。向かい合う黒ずくめに手が届く位置だ。まるで注意を払っていない。

「扱ってるだろう。薬物を」

 抑揚に欠けた低い声だった。
 嘲りに動じた様子はまるでない。細眼鏡の奥から突き刺すような視線が迫ってくる。

「知らねえな。なんだそりゃ?」

 まともに答えるつもりなどないのだろう。 
 ニキビ顔から薄ら笑いが消えない。向けられる鋭い眼光も、はったりだと信じ切っている。

バイト(・・・)餓鬼(がき)どもも、そう言ったよ」

「な、なんだと?」

「6条高架下、朝町ファインマート裏、東町無人駅。どの売人(プッシャー)も連絡が取れなくなってる。違うか?」

 長身が黙りこむ。
 カウンターに置いた拳が握りこまれて硬い。余裕の態度が嘘のように消えていた。 

「おぼえておけ。極道に証拠は()らない」

 トレンチコートのポケットから、膨らんだ布切れが取り出される。
 折りたたんだハンカチに何か包まれているらしい。なにやら生臭(なまぐさ)く、(いびつ)な形の膨らみだった。

 中折れ帽の男は、それ(・・)を置いた。
 カウンターの上に。
 無造作に。若者が握る拳の、すぐ先に。

 白い生地の中央が、赤黒く染まっている。

 ごくり、と。
 パーカー着の喉が鳴った。
 台の上に置かれた肘から先が小刻みに揺れはじめる。すっかり青ざめた顔を動かすこともできなかった。視線をハンカチの上から逸らすことも。震えはしだいに全身へ広がって、自分の意思では止められない。

「……いらないのか?」

 いったんは置かれたハンカチに、ふたたびトレンチコートから手が伸びる。
 ニキビ顔は淡い期待を抱く。
 しまって(・・・・)くれるのではないかと。(ふところ)に戻してくれるのかもしれない。しかし、そんな都合の良い展開になるわけがなかった。
 
 ゆっくりではあったが、丁寧ではない。
 雑ともいえる手つきでハンカチが広げられていく。

「…………ッ!」
 
 ニキビだらけの顔が醜く歪む。

 悲鳴を呑みこんだのではなかった。
 息を呑むことしかできなかったのだ。
 根性を見せるとか、(ハラ)を据えるとかいう次元の話ではなかった。

 広げられた布の中央には、半ば想像どおり、そして想像より怖ろしいものが入っていた。
 
 親指が、6本。
 
 親指である。
 ほかの指ではない。
 ものを握れなくなる。ものを掴めなくなる。親指を失えば、手の働きの大部分が機能しなくなるのだ。もう普通の生活は、二度と望めない。

 指の中でもっとも重要な、親指。
 それが根もとから切断されていた。 
 どす黒い血に、まみれたままで。
 6本の、親指が。

 しかも。
 連絡が途絶えた売人(プッシャー)は、3人。
 3人、なのである。

「あ……あぅ……ああ……」

 ようやく喉から声が出るも、言葉にはならない。
 若者の目から、ぼろぼろと涙があふれ落ちている。
 鼻汁まで垂れていた。

 ニキビ顔は恐怖に憑かれていた。
 脳裏にさまざまな未来を想像してしまう。
 残酷な結末ばかりが頭に浮かんでは、消えない。

 怖い。怖かった。
 この場にいたくない。
 逃げたい。走って逃げたかった。でも脚は震えて動かない。
 いったいどうしたら。考えがまとまらない。

「いけないねえ。極道に断りもなく、こっち側の商売に手を出すのは。……いけないねえ」
 
 やはり抑揚に欠けた声。
 冷たい声。

 だが憤りが混じった響きではない。
 怒ってはいない。
 それどころか。
 (さと)しているようにも聞こえる、ような。

 そう。
 そうだ謝れば。
 土下座でもなんでもして謝れば。
 仲間のことでも何でも正直に話して、心の底から謝れば。
 ひょっとしたら。

「おい」

 声をかけられた。
 一縷(いちる)の望みをかけて、若者が顔を上げる。

 目が合う。
 ブラウンカラーの細眼鏡。
 その奥に訴えかければ。

「おまえはバイト(・・・)じゃない。だから、指で済ますってわけにはいかない。……わかるな?」

 ニキビ顔が目にしたのは、声よりもずっと、はるかに冷酷な瞳だった。

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