14 『窮鼠猫を……』 

文字数 2,859文字


 
「やべえぞ、朔田(さくた)

 胴真(どうま)の声は珍しく緊張を伴って固い。
 無理もなかった。

 おのれの血で染まりに染まった中年店主は正気を失って見える。
 それでいて強烈な殺意だけは揺るぎない。自身を滅多打ちに痛みつけた相手へ、鋭い眼光を放っていた。

 迷いなき意思。
 対象を亡き者にすることに微塵(みじん)躊躇(ちゅうちょ)が認められない。
 銀髪の壮年へ向けた刃先には凄まじい殺気がこめられている。構えからして殺害予告のようだった。

 両手持ちにされた出刃包丁は、腰の横に携えられて隙間もない。身体ごとぶつかってくることが予想された。危険な構えである。

 刃傷沙汰を多く経験した者ほど、この構えを怖れる。

 勢いよく突進してくる相手をはね返すのは難しい。
 刃を帯びた身体に触れずには始まらないのである。迫り来る刃を避けながら、体重を乗せて加速する相手に対処しなくてはならないのだ。失敗は許されない。わずかの油断が一生の後悔に繋がる。もしくは人生が終わってしまいかねない。まさに命懸けである。殴打で反撃するのも(くず)したり(さば)いて投げるにしても、決して簡単ではない。

 素手で、それも無傷での撃退は困難をきわめる。
 武道や格闘技の達人であっても厳しいといえるだろう。
 専門的な訓練を積んだ武装警官でも刃物を手にして抵抗する者の制圧は容易ではない。相手が死にものぐるいならなおさらだ。

 覚悟を決めた相手が刃物を手にした状況は危険にすぎる。
 刃という凶器は持ち手の戦闘能力を段違いに底上げしてしまう。
 体術に長けた者なら素手で翻弄(ほんろう)できると思うのは間違いである。軽くあしらって打ち負かす姿は妄想か虚構(フィクション)の中だけだ。現実はアクション映画のように甘くはない。

 触れれば切れる。
 押せば刺さる。
 一瞬の動きが致命傷に繋がり、しかも鈍器に比べ格段に軽い。
 下手な素人のパンチよりも素早い攻撃が可能なのである。避けるのも簡単ではなく、人を殺めるのに熟練を必要としない。

 脅すつもりが殺してしまった、ちょっと傷つけるつもりが死んでしまった――そんな事件が多発するのも、刃物がいかに危険な凶器なのかを物語っている。

 まして、完全なる殺意を抱いた者が手にしているとなれば。
 
「おい、朔田」

 かばい気味に前へ出ようとする胴真だったが、銀髪頭の極道は援護を拒む意思を見せた。
 振り向きもせず後ろへ向けて右手を振り、下がれと命じている。

 不安げな表情のまま、寸胴体型はしかし素直に従う。
 数歩下がり、相棒の移動範囲を確保する。空間を少しでも広くしておきたかった。

 中年店主の標的とされた朔田は狭い厨房の通路にいる。
 背後には恰幅の良すぎる胴真とボーイが控えており、逃げ道を塞がれた格好だ。無理に後退すれば押し合いになり、結局は刺されてしまうだろう。背を向けるのは論外だ。撃退するしかない。

 胴真は心配だった。
 歴戦の極道とはいえ、とても楽観はできない。
 相手は正気を失っている。もはや気迫も威圧も通じない。錯乱、いや狂乱状態にあるといっていい。迷いなく、一直線に殺そうと向かって来るだろう。舐めてかかれば命を落としかねない。

 だというのに、朔田は挑発めいた行動をとった。
 左手で手招きをしてみせたのである。

「うお、おおああッ――!」

 激高した店主が突進してくる。
 朔田との距離は3歩から4歩。勢いづいていた。
 完全に(かわ)すほどの空間はない。タックルの要領で激突してくる。一度目の殺傷に失敗したとしても突撃の余勢を駆って突き刺しに来るだろう。きわめて危険な状況にあった。いっぽうの銀髪は棒立ちに近く、いまだ反撃する姿勢をとってもいない。

「朔田――!」

 切迫した胴真の声をよそに、細眼鏡の相棒は落ち着いたものだった。

 背中の腰に伸びていた右手が素早い。
 黒いベストの裏側――ベルトのあたり――から引き抜かれたそれ(・・)を、朔田は敏捷かつ小さな動作で振り抜く。

 中年店主の、目元を横薙(よこな)ぎに。

「うぎッ!」

 視界を失う直前、中年店主の耳に鋭い金属音が届いていたかどうか。  
 朔田市太郎(さくたいちたろう)は丸腰ではなかった。

 朔田が手にしたのは伸縮型の警棒である。
 俗にいう特殊警棒。
 勢いよく振ることで収納された金属パイプが次々と飛び出し、摩擦の力により固定される。フリクションロックと呼ばれる機構だ。格段のパイプが振り出される際の金属音が特徴的で、扱いに慣れた者なら伸ばしきって打撃に移るまで秒も必要としない。

「ぐぅッ! ぎゃッ!」

 短い悲鳴が2度。
 しばしの間を置いて、裏返った声の(うめ)きが続いた。
 苦痛に満ちて弱々しい。虐待を受けておびえる子犬に似た響きだった。

「い、いぃぃぃ……。お、おれた、折れたっ」

 膝を折ってへたりこむ中年店主からは怒気も殺意も失せている。
 激しい痛み。そして驚きと嘆き。
 声音は次々と素直な感情を訴えてはまた戻る。繰り返しだ。混乱しているのだろう。

 店主の視線は自身の手首へ向けられていた。
 目蓋(まぶた)の表面を軽く擦られただけらしい。ぼやけ(まなこ)ながらも視界を取り戻していた。涙ぐみつつも見開かれ、目の前を見返しては「折れた」と(わめ)く。

 ついさっきまで出刃包丁を握りしめていた右手。
 その手首の関節が、ひとつ増えていた(・・・・・・・・・)。本来の関節より数センチ肘側、そこが通常では有り得ない方向に歪んで曲がっている。むろん朔田市太郎の仕業である。

 警棒の先で店主の目を(こす)った直後。
 銀髪の極道は素早く後ろにステップし、盲目状態にある男の胸を警棒で突いた。片手持ちとはいえ、床を強く踏み鳴らす威力の高い突きだ。寸時呼吸は止まり、少なくとも胸骨にヒビくらいは入ったことだろう。

 その時点で中年店主の戦意は喪失していた。
 凶器の両手構えは解かれ、攻撃を受けた眼と胸を(かば)うべく両手が動く。とはいえ包丁は依然として右手の内にあり、その手首めがけて重く鋭い一撃が振り下ろされたという展開だった。

 店主が喚き散らすとおり、右手首の骨は折れている。
 もう片方の手で押さえてはいるものの、痛みがやわらぐものでもあるまい。苦悶の呻きを漏らし続ける男の首が、何度も左右に振られていた。
 
「……い、痛そうだな」

 床に落とされた出刃包丁を拾い上げ、胴真が顔をしかめる。

「しかし朔田。特殊警棒(そんなもの)持ち歩くようになったんだな。……まあ、昔みたいに長脇差し(ドス)振り回されるよりゃ、いいけどよ……」

「こんな素人相手に匕首(あいくち)もないでしょう」

 アロハシャツ姿の相棒に応えつつ、朔田は特殊警棒の先を床に叩きつける。
 固定(ロック)が解除され、音をたてて金属パイプが収納されていく。20センチに満たない長さに縮んだ警棒を腰の後ろ――ベルトに革製の鞘(ホルスター)が横向きに装着されていた――に戻すと、苦痛に悶える店主の頭髪を乱暴に掴んだ。

「ひぃ!」

 負け犬は吠えることも許されない。
 銀髪頭の極道を前にしては、情けない哭き声を漏らすことしかできなかった。

「……吐いてもらうぞ。まずは大麻(クサ)の仕入れ先からだ」
 
 おびえきった眼を逸らすこともままならない。
 中年店主は直視してしまった。
 ブラウンカラーの細眼鏡。その奥を。

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