いざや、十五夜

文字数 10,508文字

 みずほはソファーに沈み込み、ジャムおじさんとバタコさんのやりとりを真剣な眼差しで見つめている。
 その横顔を眺めながら、風花はスコーンに手を延ばした。
「美味しい! なんかこのボロボロっと崩れて口の中の水分を全部持っていかれる感じって、たまに食べるとすごい美味しいわぁ」
 その表情が一瞬ぱあっと明るくなって、しかしすぐに天を仰いだ。
「あぁ、でもみずほがソファーにいっぱいこぼしてると思う…」
「大丈夫よ。スコーンじゃなくたって、いっつも盛大にこぼれてるから」
 穂波はわざと皮肉っぽく言ってみたが、心の内で楽しんでいることは風花にも伝わっている。
「あー、そうだよね。よく考えたらうちもあり得ない場所にピスタチオが転がっててさ。殻付きのやつ。それを踏んじゃったときの激痛。たまったもんじゃない」
 目を細めながらみずほを見つめる妹は、すっかり母に似て母親らしい。
「これはどこのやつなの? いいところのなんでしょ?」
 今度は別に盛られたクロテッドクリームを塗りながら風花が尋ねた。
「これは銀座のオーウェンって店のよ」
「へぇ、これも例の変なおじさんと?」
「変なおじさんって」
 穂波には風花の視線が訝しむように感じられ、それも否定したくなった。
「これは出張帰りに一人で行ったの。それに、真田さんは別に変な人じゃないよ。って言うか、寧ろすごくしっかりした人」
「ちょっと変わった人だけど」と付け加えるかを迷って、結局穂波は言葉を呑み込んだ。
「ふぅん」
「美味しいものもいっぱい知ってるし」
「お姉ちゃんより?」
「うぅん。守備範囲が違うから単純に比較はできないかなぁ」
「お姉ちゃんにも守備範囲とかあるんだ。わたしから見れば、美味しいものならなんでも知ってるように思うけど。取り敢えずお姉ちゃんに聞いておけば手土産に困ることもないし」
「そりゃあ手土産の類いはバッチリわたしの守備範囲だもん。でも、そうだなぁ。例えばお薦めのラーメンなんて聞かれても答えられないし、やっぱり守備範囲があるのよ」
「それもそうか。でも、こういうお菓子とかがお姉ちゃんの守備範囲に入っててよかったー」
 風花は呑気に笑っている。
「お義母さんのところに行くときとかさ、これでも気を遣うじゃん? そういう時には、いっつもお姉ちゃんちで食べたお菓子を思い出して持って行くの。まぁ外さないね」
「姉の力は偉大でしょ?」
「偉大も偉大! 本当、感謝してます」
 風花はおどけて頭を下げる。
「まあ、でもこれでおあいこかな」
 穂波は、冷蔵庫にタッパーを詰めながら答えた。
「それはそうね」
 南瓜の煮物、きんぴらごぼう、カポナータ。今日もタッパーの中身は色とりどりに輝いている。どれも美味しいに違いない。
 二人分のコーヒーを淹れて、ダイニングに腰掛ける。
「ありがと」
「インスタントよ」
「自分でやらなくていいってだけでありがたいの。なんなら、自分の分があるってだけでも満足」
「そっ。まぁ、うちでは存分にだらけて行きなさい」
「そうさせてもらうー」
 母にもこうやって羽を伸ばす時間があったのだろうか。あったと思いたいが、本人に聞いたところではぐらかされるのだろう。
 風花だって、行きたいところに行けるわけでもなく、食べたいものを食べられるわけでもなく、様々な制約の中で暮らしているのだと考えると、穂波には、何でも好きな物を食べに行ける自分が社会から浮いた存在に感じられた。もっとも、四十手前の独身女性にとっては、否が応でもそんなことは日々考えさせられるわけだが。
「次からはちゃんとした美味しいコーヒー淹れてあげる」
「うん。期待してるー」
 風花が嬉しそうに頷く。その横顔は、昔のまま変わらないように思えた。
「期待のしすぎはダメよ」
「えー。だって、お姉ちゃんの舌は、わたしの癒やしなんだもん。お姉ちゃんが選りすぐった美味しいものを食べたり飲んだりするのが嬉しいし楽しいんだから」
「そう?」
「そう! だから、美味しいものに関しては手を抜かないでよねー」
 風花は本当に楽しそうにスコーンを食べて笑っている。
 自分の舌が、自分の趣味が、風花の人生を少しでも豊かにしているのであれば、穂波にはそれが嬉しいと思えた。
 不意に、「何者にでもなれて、何者にもならなくていい」と言った鶴野の、あの楽しそうに笑っていた顔を思い出す。
 千鶴には、その後幾度となく通っている。常連と言って差し支えないだろう。
「今度来るときには、どら焼きを用意しておくわ」
「千鶴の?」
「うん」
「それ最っ高!」
 風花の頬が、まるで子供のそれのように柔らかく持ち上がった。

 みずほがすっかりソファーと一体化して眠り込んでいる。少し窮屈そうな寝相を見かねて、風花が楽な姿勢に変えてあげると、逆に詰まった鼻がピーピーと楽しそうになった。
「昔の風花みたい」
「やめてよー。わたしあんなにだらしなく鼻ピーピーさせてないって」
「そうかなー。ピーピーなってた気がするけどなー」
 言いながら穂波がコーヒーのおかわりを促すと、風花がマグカップを差し出した。
「あぁ、どら焼き楽しみっ!」
「気が早いわよ」
「だって、あれ本当に美味しいんだもん。やっぱりその辺のどら焼きとは違うんだよねー」
「この間真田さんにもらったんだけど、やっぱり美味しかったなー」
「へぇ、変なおじ…真田さんも千鶴知ってるんだ」
「まぁ、グルメ界隈じゃ有名な店だからねー」
「真田さんとはまだ一緒にお出かけしてるの?」
 風花が今度はクッキーを頬張りながら、おかわりしたコーヒーに口をつける。華奢な身体の割によく食べるのはこの姉妹の特徴だろう。妹の食べっぷりを見ていると、穂波はまるで鏡を見ている気分になる。容姿は似ても似つかないのに。暮らしも人生も似つかないのに。
「たまーにね」
 風花は一瞬ソファーのみずほに目を向ける。寝顔を確認すると、またクッキーに手を延ばす。
「だって、見られちゃうと絶対ねだられるから」
 穂波の視線を感じたのか、風花が投げやりに言った。
「あんたも昔は良くねだってたもんねぇ」
「それはお姉ちゃんが見せつけるように食べてたからじゃん」
「違うよ! 風花がいつも真っ先に食べちゃってただけで、わたしはわたしのペースで食べてたのに、気が付くとあんたが先に食べ終わってこっち見てるんだもん」
「そうだっけぇ?」
「それで渋々分けてあげてたけど…」
「お姉ちゃん優しい!」
 風花の笑顔はあの頃の様に無邪気で、まるでみずほと変わらない。
「で、最近はどんなところ行ったの?」
「真田さんと?」
「うん」
「この前はお肉を食べに行ったよ」
「えっ! いいなーお肉! 焼肉?」
「ううん。ステーキ! このぐらいあったかなー」
 穂波は両手を使って大きな肉の大きさを示した。
「すごっ! 塊じゃん!」
 風花が目を見開いて前のめりになる。
「美味しかった?」
 穂波は、口の中に唾液が溢れるのがわかった。あの光景を、あの香りを、あの歯触りを、あの味を思い出せば、無限に唾液が湧いてくる。
「そりゃあもう、すっごい美味しかったよ!」
「えぇ! いいなあ、わたしも食べたいなー」
「でも、みーちゃんにはお薦めしないなぁ」
「なんで?」
「あんなもの子供に食べさせたら、ませちゃってスーパーのお肉を食べてくれなくなっちゃうかもしれない…」
「それは困る!」
 風花はカラカラと笑った。
「じゃあ結構お値段するんだー?」
「そうね。百グラムで二千円とか三千円とか…」
「ひゃぁぁぁ…それはあの子には勿体ないわ」
「わたしにとっても偶の贅沢だもん、みーちゃんには二十年早いわね」
「さぞや美味しいんだろうなー」
 風花はコーヒーカップを持ちながら中空を見つめている。
「今度連れてったげるよ。みーちゃん達にばれない時に」
 風花はカップを持ったままの両肩を上下させ「やった」と呟く。一瞬みずほをチラリと見て嬉しそうにコーヒーを啜った。
「そのお店はお姉ちゃんが見つけたの?」
「ううん。真田さんのお薦め」
「へぇ。パフェだけじゃないんだー」
「そんなにパフェの印象強かった?」
 風花がニコニコと頷く。
「あの人、伊達にモグニケ投稿者やってるわけじゃないね」
「お姉ちゃんが認めるグルメなんて、なかなかね。何者なの、その真田さんって」
 そう聞かれて、穂波は固まった。両腕を組んで首を傾げる。確かに何者なんだろうか。考えたら、よく知らない。
「謎かも」
「謎なの?」
「宮城県出身で、小さい頃の課外活動の思い出は芋掘りで…ええと、あとは何だろ?」
「芋掘りって! ほかにまともな情報ないの?」
「あっ! 今年四十一歳になるって言ってた」
「…それだけ?」
「だって、モグニケ仲間だよ? 特に気にしてなかったし」
「じゃあ、今年四十一歳になる宮城県出身のスマートなおじさんで、趣味は芋掘りで…」
「芋掘りは趣味じゃないでしょ」
「深まる謎…」
「確かに謎だけど、変な人じゃないから大丈夫」
「本当?」
「流石にそれなりに人生経験積んできて、それぐらいはわかる」
「…新手のロマンス詐欺とかじゃないよね?」
 風花の真面目な顔が、穂波の笑いに拍車をかけた。
「そんなわけないじゃん! ロマンス詐欺って!」
手を叩きながら穂波は目を拭った。
「大丈夫よ、お姉ちゃんを信じなさい」
 風花が唸りながらクッキーを囓る。穂波も一緒にクッキーをつまんだ。ダイニングでバキバキザクザクと二人の咀嚼音が心地よく響いた。

 ******

 今年の十五夜はタイミング良く九月十五日だと、先週末のニュース番組でキャスターがコメントしていた。なかなか珍しいらしい。そう言われると、十五夜にきちんとお団子を食べたくなるのが日本人だろう。
 更に素晴らしいことは、十五日には千鶴で月見団子を販売するということだ。電話越しに鶴野が「予約もできますよ」と教えてくれた。
 千鶴ではどら焼きの取り置きを行っている。予約なしでは早々に売り切れてしまうどら焼きも、あらかじめ電話をしておけば取り置いてくれるのだ。穂波は毎回電話での取り置きをお願いしている。それにより、仕事帰りに閉店間際の千鶴に寄っても、どら焼きをゲットすることが出来るのだ。
 そして、どら焼きを購入しようと思っていた金曜日が十五夜であり、千鶴で団子を販売する。これは和菓子の神様が穂波に「団子を買え」と言っているのだ。穂波はそう理解した。
「じゃあ、月見団子もお願いします」
 穂波は迷わず答えた。
 そうして迎えた十五夜当日、いつもよりそわそわしながら職場を後にする。
「なんか楽しそうだね」
 偶々エレベーターで一緒になった同期の涼子が穂波を見て微笑んだ。
「知ってる? 今日十五夜なんだよ」
「知ってるも何も、今日は早く帰って娘と団子食べないといけないのよ」
「義務なの?」
「半分は義務ね。娘のクラスの学級通信で月見の話があって、ご丁寧に『是非皆さんも家で月見を楽しみましょう!』って。そんなの書かれたらさぁ、やらなきゃいけないじゃない? どうせ後から『誰々ちゃんちではあーだった』『誰々くんちではこーだった』とかって話になるのが目に見えてるのに、やらないわけにはいかないのよ」
「ママは大変ね」
 涼子は同期の中でも結婚が早い方で、確か娘はもう小学校の高学年のはずだ。だから多少遅くまで仕事はできるものの、今の話を聞く限りまだまだ子育ては大変なのだろうと想像できる。
 穂波は時々、涼子を見て自分にもあったかもしれない別の道に思いを馳せてみるが、大概は想像途中にクソ野郎の顔が浮かんでゲンナリして終わるのがオチだ。
 風花やみずほも団子を食べているのだろうか。みずほの丸い頬に団子が詰め込まれる姿を想像する。手もベタベタになっているだろう。きっと風花はそんなみずほを見て「みずほのほっぺた食べちゃうぞ」なんて言っているのだろう。きゃーきゃーと逃げ回るみずほの足音が聞こえてきそうだ。
 なんてことを考えながら、浅草駅を出て千鶴に向かう。すっかり日は落ちているが、生憎薄い雲がかかり月は拝めない。そして何より、暑い。まだまだ夏が残っていて、秋なんて宗谷岬の辺りで止まっているんじゃないかと思う。天気予報によれば、来週以降もずっと三十度を超える日が続くらしい。汗を拭いながら引き戸に手を掛けた。
「いらっしゃいませ、お待ちしてました」
 女将の鶴野容子(ようこ)がいつもの笑顔で穂波を迎える。因みに夫の菓子職人は義弘(よしひろ)というのだが、二人が名前で呼び合っているのを穂波は見たことがない。「あんた」とか「お前さん」とか「おめぇ」とか。何なら「あー」でも通じている。結局そういうことらしい。
「いつもギリギリですみません」
「いいのいいの、どうせ夜なんて暇なんだから」
 容子は、ガラスケースの背後の棚にずらりと並んだ取り置き分の紙袋の中から、穂波の分を手に取ってガラスケースの上に乗せた。
「ええと、どら焼きと、今日は月見団子もよね。お団子はこんな感じだけど大丈夫?」
 容子の手には十センチ四方の箱に真っ白い団子が九つ詰められた箱が乗せられている。
「美味しそう! それでお願いします」
 見た目にも、しっとりむっちりとしたシンプルな団子は、赤子のお尻が並んでいるようでもある。
「本当は十五個積み重ねるらしいんだけど、そうは言ってもここは現代の東京だからねぇ。大家族ばかりじゃないし」
 容子の言うことはもっともだ。何でもかんでも古来のやり方を踏襲すれば良いと言うものではないのだろう。文化として続くためには、時勢に合った変化も求められるし、変化できない物事は廃れていくのかもしれない。
 例えば、歌舞伎なんてそうだろう。伝統的な演目もあれば、スーパー歌舞伎なんてものもある。そうやって、根付いてきたものを変わりゆく社会の中で変化させ継承することが、伝統であり文化なのだろうと思う。
 和菓子だって、常にそういう土俵に立たされているのかもしれない。そう思うと、容子や義弘がどんな覚悟を持って店を続けているのか、穂波には想像も出来なかった。ただ、単純に「このどら焼きをなくして欲しくない」と思うだけだ。
 穂波の背後でガラガラと引き戸を開ける音が響いた。
「あら、いらっしゃい」
「こんばんは」
 聞き覚えのある声に驚いて、穂波は瞬時に振り返った。
「あれ、高梨さん?」
 白いワイシャツの袖をたくし上げた真田が、後ろ手で戸を閉めるところだった。
「真田さん!」
 真田が穂波と容子ににこりと視線を送る。
「びっくりしたー、こんなところでお会いするなんて。真田さんもお団子を?」
「はい。お団子と、それと勿論どら焼きも」
「あら、なになに、二人はお知り合い?」
 目を丸くする容子に、真田が頷いた。「グルメ仲間なんです」と説明する。
「でも不思議。お二人が知り合いって、全然違和感ないわ」
「ははっ、そりゃそうですよ。高梨さんも私も、このお店のどら焼きが大好きで、こうして店に来ているんですから」
「それもそうね」
 容子は妙にしっくりと納得して後ろの棚をゴソゴソする。
「はい真田さんも、お団子とどら焼きね」
「ありがとうございます」
 真田が頭を下げて紙袋を受け取る。
「高梨さん、明日大丈夫ですか?」
「大丈夫って何がですか?」
「今日お団子食べるんですよね? 明日もお団子になっちゃいますけど…」
 穂波と真田は、翌日に団子を食べに行く約束をしていた。十五夜直後だからと思いついたわけだが、まさか互いに団子を食べる予定があるとも思っていなかったし、そもそも穂波が団子の予約をしたのは真田との約束の後であったから、真田が知らないのは当然だ。もし知っていたら、真田が団子を提案することはなかっただろう。
「真田さん、知ってます?」
「何ですか?」
「お団子って、いつ何時、どれだけ食べても美味しいんですよ」
 穂波は大袈裟に真面目な顔で言ってみせた。
「それじゃあ、何も問題ないですね」
 真田の顔が綻んだ。
「なぁに? 二人は明日ご一緒にお団子食べに行くの?」
 容子がニコニコして会計の手を動かしながら聞いた。
「はい、新宿の――」
「新宿なら、内藤団子でしょう?」
 容子は、答えようとする真田を制して胸を張って人差し指を立てる。
「どう? 正解?」
 真田が頷くと、容子は両手を腰にあてて顔をつんと上に向けた。まるで小さな子供が「偉い」と褒められた時のように。
「どうして分かったんですか?」
「お嬢さん、それはね…」
 容子が焦らすように間を空ける。
「あの店のお団子が、とっても美味しいからよ」
 ピシャリと音が鳴りそうなほど、堂々と、はっきりと、容子が言った。
「それ、理由になってます?」
 真田が正論を呟く。
「だって、内藤さんのお団子美味しいもの! 美味しいものを食べるのに、理由なんていらないでしょ? あのみたらし団子、あたしも食べたいわー」
 答えとしては明らかにずれているが、容子の笑顔にはそれを正解にさせる不思議な力が宿る。
「容子さんが美味しいって言うのなら間違いないですね」
 穂波はそう笑って、でも、千鶴以外の店の話をしていることがすごく失礼なように思えて、慌てて付け加えた。
「でもすみません。他のお店のお話をしてしまって」
 しかし容子は、寧ろ驚いたような顔で答える。
「全然よ。大体他のお客さんも、やれ『あの店のあんこが美味い』だの『あそこの大福が最高だ』だの、平気でそんな話ばっかりするんだから」
 容子は呆れた顔で、しかしすぐに笑顔になって続ける。
「でも、そもそも他のお店がライバルだなんて、そんな考え方してないの。日本なんて、今後どんどん人口も減っていくっていうのに、人を取り合うなんて考え方が間違ってるのよ。一緒になって、和菓子を、お菓子を好きだって言ってくれる人を増やすって方が正しいと思わない?」
 絶対に正しい。
 その考え方は、前向きで、豊かで、尊敬に値する。
「それじゃあ、私たちも沢山お菓子を食べて、その美味しさをもっと広めていかないといけませんね」
 真田の目元に皺が寄る。
「そうよー。だから明日は、美味しいお団子食べてきてね」
 容子がチラリと時計を見る。
「真田さん…」
「ああ、そうですね。そろそろ」
 真田は紙袋をひょいと上に持ち上げて会釈をした。
「じゃあ高梨さん、また明日よろしくお願いします」
「ええ、また明日」
「またいらしてねー」
 真田が背中を折り曲げて暖簾をくぐると、ちょうど同じタイミングで店の奥から義弘が顔を出した。
「おう、お嬢ちゃん来てたのか」
 顔馴染みになると、義弘はすっかり穂波のことを「お嬢ちゃん」と呼ぶようになった。穂波は最初こそ「お嬢ちゃんなんて歳じゃないですよ」と謙遜したものだが、容子や義弘にとっては娘ぐらいの年齢だと言われ(実際には、娘と呼ぶにはもう十歳は若くなければいけないのだが)、ついつい受け入れてしまった。
「こんばんは。お邪魔しています」
「なんだぁ。居たんだったらもう少し早く来れば、真田さんも来てたのに」
「あぁ、そうか。今日は十五日だったな」
 ケースに並ぶ月見団子を見ながら、義弘が呟いた。
「それで、真田さんと高梨さん、お知り合いだったのよぉ。明日一緒に内藤団子に行くんですって」
「へぇ、内藤団子か。そりゃいいな! お嬢ちゃん、あそこに行ったらな、みたらしは食べておくといいぞ」
「やっぱりみたらしなんですね。先程奥様もおっしゃってました」
「かぁーっ。なんだいお前さんもみたらしかい」
「あんたこそ、そんな厳つい顔してみたらしなんてさ」
 義弘はガハガハッと大きく笑う。
「そりゃおめぇ、俺の面みたいな団子想像してみろよ? 誰も買うわけないじゃねぇの」
「そりゃそうだけど」
「団子は、ああいう、つるんと、もちっと、テカっとしている見た目がいいんだよ。穴だらけで、ゴロッとして、まだら模様のどら焼きとの違いだな」
「確かにあんたはどら焼きらしいわね」
 夫婦仲が伝わるいつもの会話に、穂波も混ざることにした。
「でもこの月見団子は、つるっと、まるんとして、すごっく美味しそうですよ?」
 義弘が再びガハハと肩を揺らす。
「お嬢ちゃん、そりゃそうだよ。だってこの団子は俺じゃなくてこいつが作ってるんだから」
 義弘が容子を見て笑う。
「あたしは、つるつるもちもちで若々しいからねー」
 まるで化粧品のコマーシャルのように、自分の頬に指をあてた容子が自慢気に笑っている。
「これ、容子さんが作ったんですか?」
「そうよー。どら焼きとか他のは全部この人だけど、お団子だけはあたしの仕事なの。あたしが『月見団子作りたい!』って言ったからね」
「でもお嬢ちゃん、安心してくれ。俺がバッチリ監督してるから、味は保証するよ」
「この人、見た目の割に細かいのよ?」
「かぁーっ! そりゃそうだろうよ。客に出すんだ、変なもん作れないだろって」
 容子がウフフと肩をすくめる。
「それはそうね」
「お二人は本当に仲良しですよね」
「違う違う。あたしが仕方なーく、仲良くしてあげてるの」
 容子は右の掌を顔の前で左右にバタバタさせながらにんまりしている。
「あぁそうですね。いつも仲良くしていただいて、本当ありがとうございますね」
 義弘は呆れた様子で両手を上に向け、お手上げのポーズをとった。
「それじゃあお嬢ちゃん、いっぱい持ってってな」
 そそくさと奥へと引っ込んでいく義弘を見て、容子が笑う。
「面白いでしょう? からかい甲斐があって飽きないわー」
「本当、仲良し」
 容子がエレベーターガールを思わせる上品な笑顔を見せる。頷きもせず、首を振ることもしなかったが。

 風呂から出てタオルを頭に巻きながら、穂波が窓の外に目をやると、先程までの雲が流れ、月が綺麗に浮かんでいた。
「綺麗な丸」
 月見団子を膝に乗せのソファーに座り、月を見ながら団子に手を延ばす。
 しっとりもちもちの団子は、ふんわりと上品な甘さで、柔らかく穂波を包み込む。
「あぁ。やっぱりこれは容子さんが作ったんだなぁ」

 ******

 九月とは即ち夏である。天気予報では本日も真夏日になると言っていたが、まだまだ強烈に輝く太陽のせいで、酷暑も酷暑。歩けばすぐに汗が噴き出す暑さだ。
 地下鉄の駅を出て少し歩いただけだというのに、穂波も真田も汗を拭いながら着席した。
「昔は九月ってもっと涼しかった気がするんですが。それとも田舎が涼しかっただけなのかな」
「いや、絶対暑くなってますよ。東京だって、もっと涼しかったはず」
 小学生の頃は、九月に冷房の無い教室で授業をしていたのだ。こんな苛烈な暑さを経験していたら間違いなく覚えている。
「そうですよね。でも今日は、そんな時のためのこれです」
 真田は、冊子とは別にラミネート加工されたメニューを掲げる。
「へぇ、栗のかき氷ですか」
「ほかのかき氷もありますし、それ以外にもセットのメニューなんかもあるので」
 真田が冊子を開きながら穂波に渡す。
 団子は勿論、あんみつ、くずきり、かき氷なら宇治金時やクリーム小豆。セットメニューも悩ましい。甘味処は甘美処でもあるのだ。穂波の心が踊った。
 しかし、即断こそが穂波の流儀である。
 顔を上げた穂波の表情が決意に満ちていたのだろう。真田が察したように言う。
「相変わらずお早いですね」
 穂波は自慢気に頷いた。
「とは言うものの、実は私ももう決まっているんです」
「珍しい!」
 穂波が目を丸くした。
「いつもはメニューとの睨めっこも大切な過程だとおっしゃってたような」
 茶化された真田は、ははっと笑って答えた。
「私も偶には一途に心を決めていることだってあるんですよ」
「へぇ、じゃあ今日はどれに?」
「勿論、この栗のかき氷。加えて、お団子二本のセット」
「お団子はどの味で?」
「みたらしと、あとは抹茶や小倉も捨てがたいですが、こしあんにします」
「なんと! わたしも全く一緒です」
「本当ですか?」
 穂波は目を丸くして頷く。
「何か嬉しいですね。認められた気がして」
「認められるって、そんな大袈裟な」
「そうですか?」と笑いながら真田が店員に注文を済ませる。
「栗とかき氷ってあまり結びつかなかったなぁ。栗って秋のイメージだったので」
「かき氷が夏ど真ん中の食べ物で、マンゴーとか夏のフルーツをソースにするイメージですしね」
 真田が今更ながらメニューを眺めて続ける。
「でも、和栗って早い物だと八月から出始めるみたいですよ。品種によるんでしょうけど、早生のものを使ってるんでしょうね」
「へぇ、じゃあ旬なんですね。俄然楽しみになってきました」
「お団子も」
「勿論お団子も! そう言えば、千鶴の義弘さんも『みたらしを食え』って言ってました」
「あぁ、何かその光景が目に浮かびますね」
「仲良しですよね、あの二人」
「ガッチリ噛み合ってますよね、お二人の空気が」
「そうそう。二人とも優しくて、あの美味しいどら焼きを作るのにぴったりな人達」
「あの人達じゃないと、あの美味しいどら焼きは作れないんでしょうね。作り手の、優しさとか、潔さとか、強さとか、美味しいものを作るには、そういうのがないとダメなんだと、あの二人を見ていると分かります」
「全く同感です!」
 真田の言葉に、穂波は首がもげるぐらい頷いて続けた。
「昔、ジャン=ポール・エヴァンさんが日本の高校生にお菓子作りを教えるテレビ番組を見たんですけど、それを見ていて思いました。美味しいもので人を感動させる人は、その人自身に人を動かすだけの人柄が備わってるんだなって」
「きっと美味しいものだけではないんでしょうね。人に何かを伝えるということは――」
「同感です」

 栗の香りが存分に生きた甘いソースは、モンブランとは違ってベルベットを思わせる滑らかな口当たりが優しい。
 隣に並んだみたらしはあまじょっぱくて、柔らかくて、誰からも愛される素朴さを、こしあんは作り手の丁寧な仕事ぶりを感じさせる。
 優しくて、素朴で、丁寧な、そんな菓子職人を勝手に思い浮かべる。本当はどうかなんて分からない。でも、穂波は勝手に納得する。
 向かいに座る真田の満足そうな顔を見るに、きっとそうに違いないと、勝手な納得に説得力が湧いた。
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