有里より

文字数 6,035文字

 白くて小さなお店の前で、二人が何やら話している。
 どうやらまた目覚めたみたい。まぁ、目覚めたとは言っても、別に今まで眠っていたわけではなく。わたしがこの現象をそう呼んでいるだけなんだけどね。この現象、即ち、時々この世の流れの中に、ふと放り込まれる現象。しかし、決して存在はしないから、ただわたしにとっての現象。
 要するに、幽霊みたいなもの。

 ******

 わたしが最初にこの現象に遭遇したのは、葬式の時だ。わたしのお葬式。
 まるで鳥にでもなったかのように、でも鳥は空中で静止できないから、ドローンの方が正しいかもしれない。とにかく、上空から葬儀場を見下ろしていた。自分がそうしていることに気が付くと、今度はどんどん地面に近付いて、建物の屋根をすり抜けて、棺桶の真上に移動して。
 棺桶の周りには知っている顔が並んでいて、皆悲しそうな顔だったり、泣いていたりして、そんな顔が取り囲む中心に、人が横たわっていた。死に化粧を施されたわたしだった。
 それで思い出した。
 そういえばわたし、死んだんだった。

 痛くも辛くも苦しくもない。
 こんなにも身体を軽く感じたのは、人生初だ。と思ったが、それもそのはずだ。わたしには、身体がないのだから。重さを感じる要素は何一つない上、何なら人生だって既に終わっているわけで。というか、『人』が『生』きているから『人生』なんだよな。なんて、死んだ人間のくせに随分と俗っぽいことを考えるものだと、我ながら笑ってしまった。
 そんなわたしとは対照的に、葬儀場内の椅子に腰掛けている達大は、生きているはずなのに死んだ人間のように黒くくすんで見えた。
 頬は痩け、目は落ちくぼみ、涙の枯れ果てた瞳は灰色に濁っていた。それはまるで絶望の化身。
 わたしは、自分が死ぬとわかっていた。だから、決して諦めていたわけではないけれど、どこかで自分の生を割り切って、覚悟を決めていた。
 けれど、達大は違ったのだろう。最後までわたしの命を信じていたのか、死を遠ざけていたかったのか。
 彼がそれほどまでわたしを想ってくれていたことは本当に嬉しかったが、わたしの死が彼を苦しめていると思うと、悲しくてたまらなかった。
 そうして彼を見つめていると、次第に意識がなくなっていった。

 次に目覚めたのは、わたしたちの家の中だった。いつものダイニングテーブルには、大きめのマグカップが一つ。熱湯で淹れたはずのコーヒーからは、湯気の一筋も昇っていなかった。その前で静かに腰掛けている絶望の化身の目は、相変わらず光を反射することもなく、鈍く淀んでいた。
 カレンダーには七夕飾りが描かれているが、隣に並ぶデジタル時計はその二ヶ月後を表示している。
(達大!)
(ねぇ! 達大!)
 叫べど叫べど、声など出なかった。
 達大は、窓を開けて空を見上げることも、熱々のコーヒーで舌をやけどすることもないのだろう、ただぼーっと座っているだけだった。
 わたしは達大に前を向いて欲しかった。勿論、一切悲しまずにケロッとしていられたら、それはそれでムカついたかもしれないけど。でも、ずっとわたしの死に苛まれて、自分の人生を捨てるようなことはして欲しくなかった。
 わたしのことを忘れて欲しくはないけれど、再婚だってしたっていい。変なオンナじゃなければね。
 笑って生きて欲しい。幸せな人生を送って欲しい。
 それを見届けるまでは、死んでも死にきれない。
 その思いが、わたしをこの世にしがみつかせているのだと理解した。

 その次の目覚めは意外な場所だった。
「あら、いらっしゃい!」
 容子が、いつもの元気な声と優しい笑顔をこちらに向けている。
「また来ちゃいました」
 驚いて動きを止めたわたしを文字通りすり抜けて、女性が言葉を返した。
「いつもの三点セットと、今日は六個入りの化粧箱も一つください」
「また妹さんの分?」
「はい。正確には、『妹がむこうの実家に持って行く分』ですかね」
 向かい合う二つの笑顔には嫌味も濁りもない。
「そんな重要な場面に選んでもらえるなんてありがたいわ」
 容子とにこやかに会話をするこの女性を、わたしは知っている。

 彼女がうちの会社を担当することになってすぐだった。
 出張の際、折角のランチと楽しみにしていた洋食屋に入ると、偶然、彼女が店の隅の席に座っていた。話したこともないし名前も知らなかったけれど、愛嬌のある笑顔が印象的な彼女に勝手な親近感を抱いていた。当然、向こうもわたしを知らなかっただろうから声を掛けずに大人しく案内された席に腰掛けた。
「お待たせしました。ハンバーグ、シャリアピンソースです」
 年配の女性が丁寧に配膳すると、彼女は目を輝かせながらお礼を言って、ハンバーグに差し向かった。
 丁寧な所作で肉にナイフを入れ、滴るソースを上手に纏わせたそれを、大きく開けた口に運ぶ。ピンと伸びた背筋を更に伸ばすように僅かに上げた顔は、眉間に皺が寄るように目を閉じていた。その八の字の眉の下では、ツルンと綺麗な頬が今にもとろけ落ちそうに緩んでいる。
(美味しそうに食べるなぁ、あのこ)
 華奢な容姿からは想像も出来ないほど豪快で、しかし見た目どおり美しい食べっぷりは、最早神々しいとも表現出来そうで、わたしは益々彼女を好きになった。最後まで美味しそうに完食して静かに手を合わせる彼女に向けて、わたしも心の中で手を合わせた。
(よいものを見せてくれてありがとう、食の女神様)

 結局、高梨という名の女神様と言葉を交わしたのは、わたしが退職したあの日が、最初で最後になってしまったけど。
 女神様が千鶴を出ると同時に、一人の男性が息を切らしながら駆け込んできたところで、また意識が遠のいた。

 その後も度々目覚めたが、その都度、何とか達大が元気になっているように見えて安心したものだった。
 しかし、それでもまだ、目覚めてしまうのだ。
(もしかして、わたし成仏できないの?)
 死んだ人間が皆こうなるのかと考えたこともあったが、どこを見渡しても同じような存在を見つけることはできなかった。姿が見えないだけなのか、存在しないのか。いずれにしてもわたしは独りだ。
(ずっとこのままは嫌だなぁ…)
 そんなことを考えながら、時々目覚めては達大の様子を窺い、また眠りにつくことを繰り返した。
 何度も。何度も―
 その間、現世(と、わたしが呼んでよいかはさておき)では、もう何年もの時間が経過して、達大の頭には白髪が目立つようになった。

 そして遂に、その日が来た。

 青く澄んだ空が気持ち良い。もし風を受けられたなら、その匂いを感じられたなら、きっと思い切り深呼吸して、身体中を初夏で満たしただろう。
 眼下には、店に入っていく達大が見えた。
(確かこのお店って…)
 佇まいが変わったとて、思い出は、懐かしさを運んでくる。あの日食べたハンバーグの味…というよりは、あの日見た食の女神様の美しい食べっぷり。
 そして、彼女が、再び店の前に立った。
(うっそ…。すっごい偶然)
 少し戸惑った様子の女神様は、あの日よりも随分大人っぽくなってそこに居た。それもそうだ。とっくにわたしよりも年上になっているのだもの。
 彼女が座ったのは達大の隣の席だった。ワクワクを抑えられない顔で無邪気にハンバーグを待つ彼女は、やはりイイ感じだ。
 達大が食べているハンバーグを、決してバレまいと横目で見る姿は愛らしく、店内に充満しているのであろうハンバーグの芳ばしい香りに鼻をヒクつかせる姿は愛おしい。
 これぞ、わたしの女神様だ。
 ついぞ彼女の前にやってきたハンバーグを前に、その黒目がちな目をキラキラと輝かせ、相変わらず丁寧な所作で口に運ぶ。何を言わずとも伝わる美味しそうな表情。目を閉じた彼女はまるで楽しい物語でも夢見るように笑顔で咀嚼している。
(やっぱり彼女、すっごくいいなぁ)
 彼女となら…なんて想像をしていた時だった。
 彼女が食べ終わるのを見計らって、あろうことか達大が声を掛けたのだ。
 その内容は、カメラのことなんてしょうもないことだけど、わたしの好きな達大が、わたしの好きな高梨さんと話していることがただ純粋に嬉しかった。
 あるはずのない身体の中心が確かに温かくなった。
いつものように意識が遠のく中、いつもと違う温もりを胸に抱いて、わたしは静かに目を閉じた。

 ******

 小さな白い店の入口に掲げられた控え目な看板の隣で張り紙が揺れている。
 『ショコラトリー・ハル 本日プレオープン』
 店に入っていく二人を見て、ある考えが頭を過ぎった。
 (これが最後だ)
 こんな感覚、今まで感じたことがなかったもの。
 だから、きっと正しい。
 遂にわたしも、成仏なのか、空に還るのか、天に昇るのかわからないけど、要するに、消えるだろう。
 あれ以来、度々二人の姿を眺めてきた。その度に、わたしの胸に温かいものが膨らんで、きっとそれが器いっぱいに満ちて、空へと導くのだ。
 ショーケース越しに並ぶ二人の背中は、誰がどう見てお似合いというもので、あの頃の記憶が宙を舞う。
「いらっしゃいませ! プレオープン中でまだまだ品数が少ないのですが、ボンボンはお一つからお買い上げいただけますので!」
 店主の女性だろうか。白いコック帽とコックコートの所々をチョコレートで味付けて、随分と若々しい笑顔を弾けさせている。
 この人がハルさんなのだろうか。いや、もうハルさんということにしておこう。
「あっ、そうだ! よろしければご試食なさいますか?」
「いいんですか?」
「勿論です!」 
 ハルが店の奥から飾り気のないタッパーを持ってきた。
「まずは、オーソドックスなダークのガナッシュです」
 試食とは言え、正方形のボンボンを半分にカットしたそれは、味わうには十分過ぎる大きさだ。
「エクアドルのカカオを使っていて、華やかな香りと、『これぞチョコレート』って感じの味わいが特徴です」
 目を閉じて味わう二人の様子を目を見開いて窺うハル。何とも対照的で面白い。
「んーっ! すっごい美味しい」
「ありがとうございます!」
 ハルの笑顔は鶴野のそれを彷彿とさせ、楽しそうで柔らかかった。
「それと、こっちはまだケースに並べてないんですけど、ちょっと変わったガナッシュで…」
 二人が同時に口に入れ、揃って目を閉じる。
「何だかわかりますか…?」
「これもすっごく美味しいけど、何だっけ、この香りと甘み…」
 目を閉じたまま、穂波が首を捻って唸る。
「えぇっと…」
 首を右に捻ったり、左に捻ったり、上を向いたり、下を向いたり。コミカルに動く穂波の隣で、達大はにんまりと笑った。
「私は思い浮かびました」
「ちょっと待って。ええっとねぇ… あっ!」
 目を開けた穂波のその瞳は、閃きの輝きで満ちている。
「せーので言いましょう」
 二人がタイミングを合わせる。
「柿!」
「日本酒」
 言葉は不一致だが、しかし、二人は納得した顔で笑った。
「正解です! お二人ともグルメでいらっしゃいますね」
 ハルの言葉に、二人はほっと息を吐く。
「干し柿のコクのある甘みと香り、それと日本酒の華やかな香りと旨味、甘みを活かしたガナッシュなんです。とは言え、これを当てるのは相当難しいと思ったんですけど、お二人とも大正解です」
 そう言うハルの笑顔は、驚きよりも嬉しさが勝っているように見えた。
「こんなチョコレート食べたことないです。本当に美味しい!」
「そう言っていただけるとすごく嬉しいです」
 ハルは恥ずかしそうにペコリと頭を下げた。
「ねぇ…」
 穂波が達大を見ると、達大は笑顔で頷いた。
「あの、お願いしたいことがあるんですけど」
 ハルは目を丸くして二人を見る。
「お世話になった人にお菓子を差し上げたいと思っていて」
 ハルが頷くのを見て、穂波が話を続けた。
「それで、洋菓子と和菓子を詰め合わせたいと思っているんです。具体的には、どら焼きと何か洋菓子を、と思っていたんですけど… こちらのチョコレートを使わせていただませんか?」
「え…」
 ハル表情が固まっている。
「他のお店の物との詰め合わせなんて、やっぱり失礼ですよね。ごめんなさい、忘れてください」
 バツが悪そうに頭を下げた穂波を見て、ハルは慌てて口を開いた。
「違うんです、違うんです! あの、やれます! やります!」
「えっ…」
「やらせてください!」
「でも、ご迷惑なんじゃ…」
「迷惑なんてとんでもない! ちょっとびっくりしちゃっただけなので、大丈夫です!」
「よかった! これで千鶴さんにもお話できる」
 穂波が、嬉しそうに、ほっとしたように肩を下げた。
「え?」
 穂波とは対照的に、今度はハルが戸惑いながら聞き返す。
「千鶴って、もしかして、あのどら焼きが美味しい、あの千鶴ですか?」
「えぇ。浅草の」
 ハルが身を反らせておののいた。
「えぇっと…。一緒に詰めるお菓子が、こんなオープンしたての無名なチョコレート屋のものでよろしいんですか?」
「有名か無名かは関係ありませんよ。わたしたちは美味しいものを贈りたいんだから」
 穂波の言葉を聞いたハルが俯いて、気のせいじゃなければ、身体を震わせている様にも見える。
「大丈夫…ですか?」
 心配そうに下から覗き込む穂波に向き直るように、ハルが顔を上げた。
「ありがとうございますぅ…」
 グスんと鼻をすすった彼女の目に、薄らと涙が浮かんでいる。
「えっ! そんな、泣かないでください」
 慌てる穂波に頭を下げながらハルが続ける。
「すみません。でも、今日オープンして、お二人がこのお店の最初のお客さんだったんです。その人達にこんなに認めてもらえたのが嬉しくって…。すみません、こんな…」
 引き続きグスグスと鼻をすするハルが、仕切り直すように大きく息を吸った。
「それで、時期と個数はどのくらいでしょうか?」
「えぇと――」
「それなら、どら焼きにとびきり合うチョコレート、ご用意します!」

 店を出る二人をハルが見送る。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、ありがとうございます」
 深々と垂れた頭を持ち上げたハルの笑顔を見てから二人が向き直って歩き出したところで、ハルが慌てて声を掛けた。
「あの!」
「あの! お二人ってすっごくあったかいですね! 何か、こう、上手くは言えないんですけど、二人だけじゃなくて、二人の後ろにも何かあったかいものがあって、それが全部合わさって、とってもあったかい感じがして… とにかく、本当にありがとうございます!」
 二人は顔を見合わせて、納得したように笑った。
 その手には、この後わたしのお墓に供えると言って買った、それは美味しそうなチョコレートが揺れている。
(冥土の土産ってやつか…)
 あるはずのない感覚が、あるはずのない頬を伝った気がした。
「ありがとう」
 わたしの意識が、温もりに溶けてまどろむ。自然と口角が上がって頬を伝った温かいものを受け止めると、世界が輝きで満たされた。
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