どら焼きガール

文字数 8,382文字

 穂波はソファーに深く腰掛けながら、真田にもらったどら焼きを食む。「これこれ」と思わず唸る。
 そしてその味は、漏れなくあの頃を思い出させる。

 穂波には二十代後半から長く付き合った男性がいた。名前は、思い出したくもない。
 男は、穂波の会社の同期だった。仕事ぶりも真面目で、社内の評判もまずまずだった。
 三十になるのを前に、穂波は結婚を意識していた。勿論、男も結婚を視野に入れていたのだと思う。
「そろそろこのマンション、契約の更新なんだよねぇ」
 家に遊びに来ていた男に、穂波は少しだけ期待して言ってみた。
 感付いたのか、男は正面を向いて覚悟を決めた顔をして見せた。

「穂波、ごめん。俺、他の人と結婚する」
 
 正に絶句である。

 男が何を言っているのか、穂波は理解出来なかった。おそらく瞬時にそれを理解出来得る人間など、この世には存在しない。
男が続けた。
「営業部のリサちゃんっているだろ? あのコと結婚することになった。お腹に赤ん坊もいるんだ」

 え?
 何言ってるの?
 他の人と結婚?
 しかも営業部のリサちゃん?
 え?
 二股?
 私、二股されてたの?
 しかも、相手はリサちゃん?
 で、彼女を妊娠させたって?
 どういうこと?
 ねぇ、どういうこと?

 少しずつ男の言っている意味が分かってきたところで、その衝撃的な内容に、穂波は打ちのめされた。
 たぶん男は、「ごめん。じゃあね」と言い残して去った気がする。

 捨てられた。裏切られた。

 漠然とそう思い、また、そう思い続けた。
 何が事実かなんて、考えられなかった。
 怒りは湧かなかった。怒る力さえ失った。
 粘度の高い真っ黒い何かが脳の周りに纏わり付いて、接続する神経から伝達される情報の全てが、「捨てられた」と「裏切られた」に変換されるのだ。
 そして、穂波は影になった。
 影になっている間の記憶はほとんど無い。記憶されるほどのことが無いとも言えるか。
 覚えているのは、「こんな状態になっても、お腹は空くんだ」と思ったこと。
 そして、何を食べても味がしなかったこと。
 一応、生存本能に任せて何かを口に入れるが、そこに空腹を満たす以外の意図はなく、寧ろ味がしないものを摂取しなければならないことを苦痛にさえ感じた。
 妙にジャリジャリとザラつく物を口に入れ、我慢し、呑み込む苦行。
 その苦行を終えると、後はひたすら動かずにいたはずだ。立ち上がるのは、トイレに行くときぐらいだった。
 後に妹から聞いた話では、三日もそんな状態だったらしい。

 そんな穂波を救ったのが、風花であり、風花の作った豚汁だった。
 もう少しおしゃれな料理だったら、多少はドラマチックだったかもしれない。この出来事を思い出す度、穂波は「豚汁って…」と笑ってしまう。
 しかしこの時は、間違いなく姉妹にとっての最適で最高の料理だった。
 食べることは命の基本であり、穂波にとっては、生きる喜びでもある。
 あの美味しくて熱々の豚汁が、穂波の人生を救った。穂波の頭に巣食っていた黒いモノを打ち払ったのだから。
 風花は、穂波にとって、大好きな妹であり、大袈裟に言えば命の恩人にもなった。
それからである。穂波はモグニケの投稿を始めた。
 それまでに食べた美味しいものを思い出し、また、今はまだ知らない美味しいものを探し、実際に食べに、買いに行く。そして食べたそれらの感想をモグニケに投稿する。
 自分にピッタリの趣味だと思えた。実際、今までずっと続いている。

 振り返れば、件のクソ野郎となんて結婚しなくて良かったと、心の底から思えているが、当時はそう思えなかった。
「若かったな…」
 どら焼きをもう一口かじる。
「美味しすぎるうっ!」
 頬を緩めながらなぜそんな男の話を思い出すのかと言えば、光の世界に復帰後、記念すべき最初の口コミ投稿が『浅草千鶴のどら焼き』だったからだ。
 そう言えば、レイザー・フットはジョニー・ゲップのその口コミを見たのだろうか。もしそうならと考えると、穂波は少し恥ずかしく思った。なんせ初投稿である。今振り返れば、そのクオリティには疑問の余地が無いことも無い。
 が、そんなことが吹き飛ぶぐらい、やはりこのどら焼きは美味しい。
「んんっ、しあわせーっ」
 因みに男とリサは、その後すぐに社内に居られなくなり退職した。当たり前の話である。今となってはどこで何をしているかなど知る由もない。

 ******

 もともと食べることは好きだった穂波だが、風花の豚汁によって光の世界へと戻った穂波は、味も色も無い世界の住人だった反動か、或いは一人で過ごす時間の暇つぶしか、「美味しいものを食べたい」と思うことが増えた。
 「美味しいものを食べる」ことや「美味しく食べる」ことへの思いは日増しに強くなり、すぐに溢れ出した。
 それはついに執念とも思えるほどまで膨れ上がると、まるで未解決事件の手掛かりを追うベテラン刑事のように、美味しいものの情報を追い、モグニケに行き着いた。「自分でも投稿しよう」と考えるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
 少々大袈裟だが、これが、穂波がモグニケの口コミ投稿を始めた経緯である。
 しかし、いざ自分で投稿をしようと思うと、記念すべき最初の店をどこにしようか考えあぐねた。
 様々なお店を調べ、また思い出した。ランチでよく行くイタリアン。同期との女子会で定期的に使う居酒屋。近所で有名なビストロ。一度食べたショートケーキが美味しかったパティスリー。
 どれにしようか。どれも良い気がするし、どれでもいい気もするし、でもどれも違うような気もする。ピンとこなかったと言えば良いのだろうか。
 何かあるはず。そう考え続けていたある日、気を抜きながら歯磨きをしていた穂波にある考えが過ぎった。
「あのどら焼きにしよう!」
 何ヶ月か前に、クライアントの会社でもらったどら焼きだった。

 その日は約束より五分ほど早く到着したところ、オフィス内で何やらセレモニーが行われていた。様子を見るに、真ん中に経つ女性が退職するらしく、花束を受け取ってスピーチをしていた。
 その女性とは直接仕事で関わることはなかったが、穂波がこのクライアントを担当することになった時には既に在籍しており、顔馴染みと言った感じでいつもにこやかに会釈をしてくれる人だった。寿退社だろうか。それとも転職だろうか。どちらにしても穂波には遠い世界に思えた。
スピーチが終わると大きな拍手に包まれた。セレモニーがお開きとなったところで、主役の女性が口を開いた。
「ほら、田中さん。高梨さんがいらっしゃってるよ」
 彼女は穂波を見つけていた。「私の名前を知っていたんだ」穂波は驚いた。
担当の田中が穂波に駆け寄ってきて会議スペースに誘導される途中、女性がこちらに近付いてきた。
「高梨さんにも、これ」
 彼女はどら焼きを一つ、穂波に差し出した。戸惑う穂波に彼女が続けた。
「もらってもらえる? みんなに配った余りみたいで申し訳ないけど」
 雪のように白い肌に咲いた笑顔が素敵だった。
「い、いえ。ありがとうございます」
 穂波は慌てて受け取った。
「よかった。すっごく美味しいのよ、このどら焼き」
「あの、ご退職されるんですか?」
「ええ。色々あってね」
「そうなんですね…今までお世話になりました」
「ありがとう。まぁ、高梨さんとはまたどこかで会えるかもね」
 真っ白くて美しい笑顔は、蛍光灯の光にぼやけて消えてなくなりそうな程だった。
「仕事の邪魔をしてごめんなさい。じゃあ」
 穂波は、淡い光の軌跡を残して去る彼女の背を見送った。
「お元気で」

 穂波は家に帰って早速どら焼きを食べた。彼女が言ったとおり。
「すっごく美味しい」
 透明なフィルムの包装には『浅草 千鶴』と記されていた。

 ******

 二月とは言え、東京にしては珍しく朝から雪が降っていた。まだ積もってはいないが、天気予報によれば雪は更に降り続き、午後からは積もり始めるらしい。交通網への影響もあるからと、不要不急の外出は控えた方が良いとも呼びかけていた。
「不要不急と言われればそうかもしれないけど…」
 穂波の家から浅草までは、地下鉄を乗り継げば三、四十分ぐらいだ。昼までに帰れそうなことを考えれば、皆が外出を避けるであろうこの日は寧ろ、計画の実行に好都合だと思えた。
 ダウンコートとマフラー、ブーツも履いた。それでも、墨が滲んだような重々しい空の冷たさが、白い雪を通して世界に放たれ、すぐに傘を持つ手が痛くなった。
「まぁ、駅までの辛抱か…」
 仕方なく左右の手で傘を持ち替えながら、もう片方の手をコートのポケットに突っ込んで歩いた。最寄りの駅までは歩いて数分。すっかり見慣れた街並みすらも切なく見えるのは、この空のせいだろうか。鼠色に縁取られた妙に立体的な光景をもう少し見ていたい気もしたが、凍える手が穂波の歩みを急かす。
 いつ以来の浅草だろうか。中学生の頃に課外活動で伝統工芸品の工房を見せてもらった記憶はあるが、もしかしたらそれが最後だったかもしれない。当時の記憶がおぼろげな上、十五年も経てばそんな僅かな記憶がろくに役立つはずも無く、初めて訪れる旅行先のように思えた。
「この出口を出て右、次を左に進んで―」
 浅草に着くと幸い雪は小康状態で、傘が無くとも平気そうだった。傘をスマートフォンに持ち替え、表示したモグニケの地図を確かめながら歩く。
 流石浅草だけあって、どんよりした空に負けること無く賑わっていた。大型バスが何台も乗り付け、人々が一様に雷門に吸い込まれていく。その先に軒を連ねた店からは元気な声が響いて、街に力が漲っていた。
 千鶴は、そんな喧噪から少し離れた路地にあった。静けさの中で、大きな一枚板を刳り抜いた『浅草 千鶴』の看板が艶黒色に煌めいて、江戸時代創業の歴史を感じさせる。ガラス戸の入口ではあるが、少し色あせた橙色の暖簾に遮られ、店内を窺うことができなかった。
「何か緊張するな…」
 入口を前に、穂波がなかなか引き戸に手を掛けられずいると、突然扉がスライドした。思わず仰け反った穂波の横を、浅草マダムが「あら、失礼」と通り抜ける。手には、大きな紙袋が揺れていた。
「ありがとうございました。またお越しください」
 マダムの見送りをしたらしい女性店員が入口で深々としていたお辞儀から直ると、すぐに穂波に声を掛けた。
「いらっしゃいませ。どうぞお入りになってください」
 その言葉に促され、穂波が敷居を跨いだ。
「寒かったでしょう? 今あったかいお茶お持ちしますから」
 女性は奥の暖簾をくぐっていった。
 歴史を感じさせる店内には、正面にガラスケースが二つ並び、一つには饅頭や最中、きんつばが慎ましく陳列してある。そしてもう一方には、どら焼きが目一杯に敷き詰められていた。
「お待たせしました。あったかいほうじ茶です」
「ありがとうございます」
 冷えた体には熱いくらいのお茶が食道を伝って、胃袋の形に沿って身体に流れ込んだ。
「ゆっくりご覧になってください」
 小柄な女性の白い頭巾と白いエプロンがまるで給食のおばさんを連想させ、穂波に安心感を与えてくれた。胸には『鶴野』と書かれたネームバッチがついている。
 お茶を片手にどら焼きのケースを覗き込む。三段のケースの中は更に三列に仕切られており、『つぶあん』『しろあん』『うぐいすあん』がそれぞれ列ごとに三段並んでいる。
 あの女性にもらったのはつぶあんだったが――
「どら焼きは三日間持ちますので。お遣い用ですか?」
 穂波の表情を汲み取ったのか、鶴野が声を掛けた。
「いえ、自宅用で」
「そうですか。疲れている時や寒い時に甘いものは最高ですからねぇ。って、和菓子屋の私が言うのはわざとらしいかもしれませんが」
 鶴野が大きな笑顔を咲かせる。
「『自分へのご褒美だ』なんて言って買ってくださる方もいて、本当にありがたいかぎりなんです。大体そう言う方はね、つぶを二つ、しろとうぐいすを一つずつ買って行かれることが多いですけど」
「なるほど」
「まぁ、お客様の参考になるかはわかりませんが」
「いえ、すごく参考に」
 穂波は頷きながらもう一度ケースを覗く。
「最近はお客様のようにお若い方にも来ていただけることが増えて、何でしょう、パンケーキブームに負けずどら焼きも意外と人気があるみたいで」
「美味しいですもの、どら焼きも」
「そう言っていただけると嬉しい」
彼女は笑った口元を隠すようにして言った。
「ごめんなさいね、おしゃべりで。いっつもしゃべり過ぎちゃって」
「いえ、おかげで心が決まりました。つぶあんを二つと、しろあんとうぐいすあんを一つずつお願いします」
 鶴野は、手際よくガラスケースからどら焼きを取り出し、紙袋に詰めると、隣のケースからきんつばを一つ取り、それも袋に入れた。
「これ、よければ召し上がってください」
「え? でもそれ…」
「どうせ今日はお客様もいらっしゃらないでしょうし。あ、お一人分で大丈夫かしら? ご家族とか…」
「一人分で大丈夫です」
「お一人暮らし? 聞いてもいいかしら」
 手を動かしながら、チラリと上げた彼女の視線は優しいものだった。
「はい」
 鶴野は楽しそうに続ける。
「最高よね、一人暮らし」
 まさかそんな言葉が続くとは思わず、穂波は驚いて返した。
「そうですか?」
「だって、何だって出来るじゃない? どこへだって行けるし、逆に何もしなくたっていい。そうやって、日々何者にでもなれて、何者にもならなくってもいいって」
「何者にでもなれて、何者にもならなくてもいい…ですか」
「あたしは若いころにこの店に嫁いで、そこからはもう『千鶴の女将』になっちゃったからねえ。『千鶴の女将であるあたし』っていうのがずっとあって、本当はケーキを食べたくても、そんなこと外じゃ言えなくなっちゃったのよ」
 鶴野は相変わらず笑顔だ。
「『千鶴の女将』にならなかった人生を想像すると楽しいのよねえ。こう見えても若い頃は銀座のエレベーターガールだったのよ。あのまま働いていたら、なんて考えると…まあそれはやっぱり、現実よりも百倍も千倍も美化した想像なんでしょうけどね。うふふ…」
 鶴野はまるで現役のエレベーターガールのように、『上へ参ります』のポーズをとっている。その顔はキラキラと輝いて見えた。
「エレベーターガールなんて素敵ですね」
「六階、紳士服売り場でございます。とか言っちゃってねえ」
「やっぱり女将は…その、大変なんですか?」
「大変も大変」
「やっぱり…」
「だけど、すっごく楽しいわよ」
「てっきり不満とか後悔があるのかと思ってしまっていました」
 穂波は、予想外の言葉に不意を突かれて考えずに言葉を発してしまった。失礼に思えたが、鶴野は笑顔で答えた。
「そりゃもう大変だけど、こうやって楽しく仕事できるし、素晴らしいことがたくさんあるわ。それに、あたしは今ここにいるんだから、無い物はねだらない、有る物を最大限楽しむ。今は自分の選択の結果だからね。『後悔』ほど幸せを奪うものはないわ」
「後悔ほど幸せを奪うものはない…」
「まぁ、唯一後悔があるとすれば…もうちょっと旦那がイケメンだったらってことかしらね。これに関してだけは、間違いなく不幸よ」
 鶴野が振り返ると、ちょうど暖簾の奥から、いかにも菓子職人風の中年の男性が顔を出した。
「なんでぇ? 俺の話か」
「そう! あんたがもう少しイケメンだったらって話」
「十分イケメンだろうがよ」
「お客さんの前でバカ言うんじゃありませんよ。もう…」
「俺だって昔は下町の勝新太郎なんて…」
「そうやっていっつもくだらない嘘ついて、あんたはせいぜいラッシャー板前よ」
「いいじゃねぇかラッシャーで!」
「なんで竹野内豊とかトヨエツとか福山雅治とか大沢たかおを選ばなかったのかしら」
「おめぇの方がよっぽど馬鹿な話してんじゃないかよ」
「最近だったら横浜流星くんもいいわぁ」
「っかぁぁぁっ、ったく! すみませんねぇお客さん。うちのがバカ言っちゃって。おしゃべりが好きなもんで、この辺は年寄りばっかりだから、特にお客さんみたいな若い方と話すのが楽しいんですよ」
 そのやりとりは、どう見ても息がピッタリだった。
「仲良しなんですね?」
「違う違う! 依存? 寄生? そういうあたしが一方的に寄りつかれちゃってるのよ」
「なんでぇ、また可笑しなこと言いやがって…ったく」
「奥様はエレベーターガールだったんですよね?」
「そうそう。昔はなぁ、もっとお淑やかに『上へ参ります』とか言っちゃって、大和撫子だったんですわ」
「今だって大和撫子よ」
「よく言うぜ。こうやって、壊れたエレベーターの中に閉じ込められちゃったってわけなんですよ」
「はいはい。あんたも十分故障してるわよ。昔はあんなに無口だったのに」
「かぁーっ、参ったね! お客さんごめんなさいね。詫びにいっぱい持って帰ってちょうだい」
 そう言い残して、男は暖簾の奥へと引っ込んだ。
 同時に、鶴野は肩を下げながら大きく息を吐いた。やれやれといった顔だ。
「確かに楽しいですね」
「飽きもせず、毎日あんなだからねぇ」
 呆れたような鶴野の目は、しかし、慈しみで満ちている。
「人生なんてきっとみんな、上に行ったり下に行ったりを繰り返してるのよね。でも結局、上か下かは自分の中での相対的なものでしかないから、自分が上に行ったと思えばそれが上なのよ。それを他人が見て、やれ大変だの、やれ不幸だの、やれあんな旦那に嫁いじゃって可愛そうだの、やれ寂しい生活を送ってるだの、そんなの所詮、断片しか見てない他人の言葉だもの。だからあたしはこうね」
 そう言うと鶴野はやはり『上へ参ります』のポーズで続けた。
「屋上、『幸せ』でございます」
 鶴野の顔は、確かに幸せで満ち満ち、それがこぼれ落ちるように頬を緩めていた。
 温かさを胸に、穂波が引き戸を開けて暖簾をくぐる。
「あら、雪降ってきちゃったわね。変な話で引き留めちゃってごめんなさいね」
 鶴野が見送りに出てきて袋を手渡した。
「いえ、すごく楽しかったので」
「よろしければまたいらしゃってください」
「はい。是非」
 振り返ると、鶴野は『上へ参ります』のポーズをしながら手を振ってくれた。

「んー! 美味しいっ!」
 家に帰って早々にどら焼きを一口頬張る。
「ダメダメ、ちゃんと感想を…」
 二口三口と食べ進めたい欲望を抑え、とことん味わう。
 確かにパンケーキを思わせるしっとりふんわりの甘い生地。挟まれた餡は、しっかりと濃くて甘い。
「最っ高!」
 二口目を食べる。やはり美味しい。三口目を食べる。やっぱり美味しい。四口目を食べる――
 この味をどう表現すれば良いのだろうか。穂波は考えながら食べ、食べながら考えた。味、香り、舌触り、余韻。何を、どんな風に書こうか。
 考えながら、ワープロソフトにそれを打ち込む。直接モグニケに入力しないのは、勝手が分からずに間違ってアップロードしてしまうことを避けるためだ。それに、きちんと推敲したい。ある意味、仕事よりも慎重だ。
 そして、何度も推敲した後、漸く出来上がった口コミを遂にアップロードする。
 初めてのことは何でも緊張するものだが、たかだか口コミを投稿するだけでもそれは同じらしかった。
 穂波は妙に高鳴る鼓動を感じながらモグニケを開き、口コミ投稿の画面へと進んだ。
 そうして気付いた。
どうしよう――
 口コミ自体は問題ない。何度も推敲して、内容にも満足している。写真も大丈夫だ。スマホで撮った写真でも十分美味しそうに見える。問題は。そう、名前だ。
 投稿者は、ユーザーネームを設定しそれを公開するが、それがすっかり抜け落ちていたのだ。まさか本名を名乗るつもりはないし、かといって何かしらちょうど良いニックネームも持ち合わせていない。学生時代の『ほなみん』はズバ抜けてイタいし、同じく『なっしー』や『たかなっしー』も流石に厳しい気がする。新しい名前を考えなければ…
 なかなか良い名前が思い浮かばず、部屋の中を視線が舞う。ポット、カーテン、赤べこ、サボテン、キングダム、マグカップ、羽毛布団、ハチミツとクローバー…
 部屋の中を何周しても、どうも心に刺さらない。やむなく、そのままソファーに寝転がった。
窓の外は、すっかり日が暮れた街に降り続く雪に街灯のオレンジ色が反射して、暖かな光に包まれている。
 テレビでは、たまたま流れていた昔の映画の中で、男が雪を降らせていた。
 それを見て、どうしてかピンときてしまったのだ。
『ジョニー・ゲップ』
 迷うこと無く打ち込んでいく。
 ここで迷わなかったことを、後に穂波は大後悔するわけであるが、何かをやり遂げた達成感が指を滑らせ、彼女は思い切りエンターキーを叩いてしまった。
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