(5)「魔物を、狂わせる、――滅びの匂いだ」

文字数 2,374文字

 男が、命を失った少女の体をあっさりと放り捨てた。半分ほどしか残っていない首から流れ出る血になど、もう興味もないというように。
 へたり、とイズキは力を失って座り込んだ。
 視線は転がった少女から動かない。青年の眼には、少女の姿が青色に重なって見える。
「テディ、」
 ずるり、と萎えた足をそのまま腕で強引に体を引きずって、少女に近づく。
 少女の赤らんだ頬からはどんどん血の気が失われて、震える手を口元に当ててももう呼吸はない。イズキはほとんどパニックになって、少女の体を必死に揺さぶった。
「テディ、テディ!」
 イズキの視界には、忘れもしない一年前の光景が広がっている。
 イズキの全てが、イズキの何もかもが失われた日。パートナーを奪われた日。

 ――眼の前に迫る吸血鬼のことなど、頭から抜け落ちたまま。

「ハン、ター……」
 男の低い声が落ちたと同時、
 鈍い音を立てて、太い枝がイズキの右肩を貫いた。
「ぐっ……!?
 不意打ちの衝撃に視界が明滅する。だらりと顔を上げたイズキの思考が、灼熱に染まる。
 熱い、と思った瞬間、熱は痛みに変わった。
「……あ、くそ、」
 ぼんやりとした視界に、見知らぬ男が映る。それから、白い牙。
 唇が裂けるように広がって、笑うように牙を剥く。たらり、と唾液が落ちる。
「ハンターの、血」
 相手が適性吸血鬼である、という思考にすら、イズキは思い至れなかった。覆い被さってくる男を無防備に見上げる。
 ただ思考を埋め尽くすのは痛みと、
 ただ思考を埋め尽くすのは傷みと、

「――テディ?」

「いつもの威勢はどこに行った、イズキ・ローウェル!」
 淀みを切り裂く声が、イズキの脳を殴りつけた。


 炎の槍が、男の体を縦に両断した。
 男は血を噴き出す暇すら与えられないまま、切り口から焼き尽くされていく。灰に変わる肉体も残されずに、何もかもが炎に飲まれていく。
 吸血鬼を舐め尽くす白い炎を、イズキは呆然と見上げた。ややあって、腰の日本刀に手を当てる。
「遅い。もう終わった」
 我に返ったイズキの動きを止めたのは、既に聞き慣れた声だった。イズキが顔を向ける。
 青年の視線の先で、キットが何故か不機嫌な表情で佇んでいた。
「お、お、」
 ようやくまともに回り始めた脳で、現状を理解する。我を失って吸血鬼に食われかけたところを、少年に庇われたのだ。
「れ、礼は言わねーからな!」
「そこは言う場面でしょう、とは思うけど」
 植物使いの吸血鬼の体は、未だにくすぶり続けている。男を見下ろしたキットが、興味なさげに吸血鬼の遺体を蹴飛ばした。
「それだけ元気があれば大丈夫だね」
 ついで、イズキの前に横たわっている少女に視線を向ける。
 イズキは僅かに腰を浮かして身構えた。少年が魔術を使うと判ったいま、彼を前に警戒しないわけにはいかなかった。
 そんなハンターの反応に、気づいていないわけではなかっただろう。
 青年の眼の前で、キットは躊躇なく地面に片方の膝をついた。イズキの視線を気にする様子もない。
「ジェシカ。ジェシカ・パクストン」
 そっと紡がれたものが、少女の名前であることにはややあって気づいた。イズキは言葉を失って、少女に手を伸ばす少年を見守る。
「恐かったでしょう。お休み」
 既に事切れた少女を慈しむように頭を撫でる、キットを。
 自分が見て良い光景ではないような気がして、イズキはそっと視線を逸らした。気まずい空気を誤魔化すように口を開く。
「……お前、何モンだよ」
 青年の問いには答えないまま、キットはジェシカの肩をそっと叩いた。少年に促されるように、少女の体がほどけていく。
 次々、次々ほどけて、綻んで、小さな欠片になっていく。黄色や、白の蝶だ。
「何してんだ、キット!」
 慌てて止めようとしたイズキの手を、キットは抑えた。
「家に帰らせてあげるだけだよ。知らない男に運ばれるより、こちらの方が良いでしょう」
 キットの言葉を肯定するように、蝶たちがくるりと頭上で一度だけ回って村の奥に飛んでいく。小さな命の欠片たちを見送って、イズキは少年に視線を戻した。
「……お前、何モンだよ」
 先ほどは答えの返らなかった問いを繰り返す。
 未だに座り込んだままのイズキを、キットはまじまじと見下ろした。ややあって、小さく鼻を鳴らす。
「また怪我をしてるね」
「……あ?」
 言葉に含まれる微妙な棘に、イズキは訝しげな声を上げた。少なくともイズキの知るキットは、ひとが傷ついたときに冷たい反応をする子どもではなかった。
 ほんの短い、付き合いであっても。
「いやだな、その匂い。どうしたって、鼻につく」
 言って一歩、キットがイズキに近づいた。
 青年は迷って、迷ったあげくに、――日本刀に、手をかけた。注意深く、少年を見上げる。
「……匂い?」
 さらに近づいて、
 キットはイズキの肩から流れ出る血をつつ、となぞった。お菓子を食べるような気軽さで、自分の指を口に運ぶ。
「バッカ、何やって――」
「まだ気づかない?」
 慌てて止めようとしたイズキの手を、大人の男の手(・・・・・・)が掴んだ。
 瞬く間に姿を変えるキットを、イズキは唖然と見守った。茶から白銀に色を変えた髪が、さらりと風になびく。
「お前、」
 見た目の年は、イズキより幾つか上だろう。子どもから大人に姿を変えたキットが、金色の瞳で瞬く。
 対峙するイズキは、昨夜自分を襲った男の姿を認めて眼を見開いた。
「昨日の、吸血鬼……!」
「俺の獲物が、勝手に食われるなよ」
 ひとではあり得ない金色に、赤を散らしながら。
「その匂い、本当に毒だな」
 魔器に手をかけたままのイズキの右手を上から抑え込んで、キットは唇の端を上げた。薄い唇の隙間から、牙が覗く。
 するり、と両手の指の間に指を差し入れる。強引に青年の体を引き寄せて、吸血鬼は吐き捨てるように言った。

「魔物を、狂わせる、――滅びの匂いだ」
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