(1)「ほら、行くぜ。――」

文字数 705文字

 青年の黒い髪を、淡い色の風が撫でる。
 春の匂いをかぎ取って、青年は鼻を鳴らした。一人で歩みを進める。
 彼の進む先には、長くなだらかな坂道が続いている。青年の本拠地から伸びる坂道は、そのまま都市の市門に続いているのだ。
 車に踏み固められた地面と、両脇には森の木々が並ぶ。革の靴で踏みしめれば、しっかりとした感触が返ってくるだろう。
 本拠地の正門を潜る寸前、青年は後ろを振り返った。
 石で造られた建物は、文字通り砦だ。ひとではないものに対峙するための砦。
 見上げて、瞬いて、正面に視線を戻す。名残を惜しむ様子もなく再び歩き出す。
 青年の手には、革の鞄があった。旅慣れた彼は、僅かな荷物で何日も拠点から離れて過ごす。
 青年の持つ鞄が、背後から奪い取られた。
 気配に全く気づかなかった。振り返れば予想通り、見慣れた子どもが不満げな表情を浮かべている。
「僕をおいていこうとしないでよ、イズキ」
 イズキと呼ばれた、青年は――。
「お前がいつまでも朝メシ食ってんのが悪いんだろ」
 構わずに歩き出す。坂道を下り始める。
 勝手についてくるかに思われた子どもは、隣には並んでこなかった。奪い取った荷物を背後に隠すようにして、正門の手前でとどまっている。
 置いていこうか、とも思った。けれど、荷物を取りあげられたままというのは些か困る。
 ほとんど諦めるような気持ちで、青年は子どもの名前を呼んだ。相手の思惑に嵌まっていると知りながら。

「ほら、行くぜ。――」

 呼ばれた子どもが、満足そうに微笑む。青年に追いついて、並んで歩き出す。
 二人の後ろを、少しばかり気の早い春の花の花弁が流れていった。
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