文字数 19,730文字

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 ぐっちゃん、べろり。
 皮が裂け、肉が露出した圭太のひざの中から白いたまごが現れたのは、俺と三智子と雄大と圭太の家族四人で三浦半島の長者ヶ崎海岸に海水浴に来ていたときだった。
「ゔぁ~ん!!」
 空気を震わすような泣き声に驚いて振り返ると、圭太が潮だまりの中に手をついて泣いている。
「あ、おうどうしたどうした」
「う、うぅ……うひっ、いだい」
 圭太の脇に後ろから手を入れ起こしてやる。うわっ……、右のひざ小僧の皮膚が破けぐちゃぐちゃになって血が出ている。
「いだいだいだいだいいだいよーっぐ、えぐっ、パパッ……っぐパ、ぱぱぁ~……あ、っああん!」
「ママのところいって消毒してもらおうな」
 圭太を抱えて転ばないように注意しながら、ごつごつでぼつぼつの磯の上を歩いてビーチにいる三智子のところを目指す。この上でこけたらそりゃめちゃくちゃ痛てえわ。
「なに圭太どうしたのー? って、え、ちょっと膝すごいことなってんじゃん」
 膝を覗き込んだ三智子がわっ! って顔するから、そのリアクションを見た圭太が火のついたようにまた泣き出す。
「マキロンとか持ってきてる?」
「車にあると思うけど。えー……すごい痛そう。転んじゃったの?」
「ママー!いたっ、いよぉー……。おおぉ~ん……」
「ちょっと持ってきてくれない?」俺は海の家を見る。「あそこでシャワー借りて傷洗ってっから」
「うわっなにこれ。ははっ、すげーことになってる」浮き輪を抱えた雄大がやってくる。「げえーぐちゃぐちゃじゃん気持ちわり。……は! なにこれ、骨見えてんじゃね?」
 心配から言ってるというよりは好奇心から笑いながら言う雄大の言葉にびびったのか、圭太はさらに泣き出てしまう。
「そういう脅すようなこというなよ」
「でもこれってそうじゃないの? つーか絶対そうだし!」
「だからそういう……あ?」雄大が指差す先を見ると、たしかにぷっくり丸くて白い硬そうなものが肉の間から見える。「なんだこれ」
 膝のお皿?
「あはは! すげー。なにこれキモ過ぎなんだけど!」
「雄大、笑いすぎだよ」
「いやほんとだって! ちょっとお母さんもよく見てって」
「あ、ほんとだ」
「うっうぅ、いっぐっ、わーん! ふぁあああああああ!」
「圭太もうちょっとだけ我慢しててね。いますぐ手当してあげるから」
 そう言って三智子は駐車場に走る。だけど、こんな怪我どうすりゃいいんだよ、救急車とか呼ぶべきかな?
 いや、三智子の言動と行動は正しい。みんなで不安になっててどうする。俺は圭太を抱えて海の家を目指す。
「これまじで大丈夫なの?」
 俺の後をついてくる雄大が言う。
「大丈夫だよ。ちゃんと洗って消毒すれば」
「でも、骨はやばいっしょー」
「そんな骨なんて簡単に露出しないって」
 膝の中から見える白くて固いものなんて素人考えだど、骨以外には思いつかないけど、しかし、これ本当に骨か? ぐちゃぐちゃになって血に濡れた傷口の向こうに見えるそれは、白くて硬そうで表面はつるつるで真っ白。膝の皿ってこんなゆで卵みたいなものなのか?
「すいませーん」
「っしゃい。三名っすか? 奥の空いてる座敷に適当にどうぞー」
 渋谷とギャルと走るラブホに改造した愛車が命! みたいな若い男がが、焼きそば片手に海の家の奥からやってくる。
「や、ちょっとシャワー借りたいんですけど。怪我しちゃって」
「えーとうちの利用はないですよね?」
 利用? この海の家で座敷借りてるとかってことかな。
「ないです」
「じゃあシャワー利用料、千円になります。お、怪我ってそれっすか? まじ痛そう~」
 そういうリアクションすんな。俺は圭太がまた怖がっちゃうんじゃないかと心配になる。
 いらつきながらお金を払おうとして財布を出そうとしたときに俺は気がつく。財布がない。一瞬、どこかで落としたか!? と血の気が引くけど、三智子が持ってるんだと思い出して再び血は戻ってくる。
「あ、すいません。今、財布あっちに置いてきちゃって」
「んー、じゃあ取ってきてください」
 男は空いてる席に座って焼きそばを食べ始めた。それ、自分のかよ。
「すぐに妻が来るんで、先借りててもいいですかね?」
「いやいやそれはちょっと困るなあ~。先に金払ってもらうのが決まりなもんで」
「決まりって……。この傷見ればわかるでしょ? 先使わせてくださいよ」
 はふーはふーと焼きそばを口いっぱいに頬張った手を止めて、半笑いで俺を見てくる。
「はあ? ふふ、逆ギレ? ちょっとわけわかんないんだけど」
 これが逆ギレになるのか? 今の若者全然わかんねえ。って、多分こいつと四、五歳くらいしか歳変わんないと思うけど。
「子供が怪我して痛がってんだから先にシャワーくらい貸してくれてもいいじゃないっすか。後で金払うって言ってんだし」
「それね。洗うとかそういう問題じゃないと思いますよ」言いながら兄ちゃんはすぐ脇にあった冷蔵庫からコーラを取り出してラッパ飲み。「磯でこけたんでしょ? やばいっすよ。俺もサーフィンやってんときに磯に打ち上げられて叩きつけられたことあんだけど、ほら?」とTシャツの肩の部分をめくる。肩から二の腕にかけて十五センチくらいのギザギザの傷。
 収まりかけていた圭太の嗚咽が再びひっくひっくし出す。
「ばちー切っちゃって。それ? 骨見えてるじゃないっすか。すぐ医者っすよ医者。ガップッ」
 俺はゲップでキレる。
「そういう子供が怖がるようなこと言うなよ。それにやばい怪我ってわかってんならそれこそシャワー貸してくれてもいいだろ」
 原則はお金払ってからってのが基本なんだから、あまり状況が状況だろ! って強気で言うのもという気持ちは俺にだってある。先に使わせてくれるのはあっちの好意から始まるものであって、俺の方からそれを押し付けるのはさすがにクレーマーの気がしないでもないと思い始めたらもう強く言えなくなってしまう。
「あ、どうした?」
 厨房の奥からKEN craftの帽子を被った五〇代くらいの日焼けしているとかいうレベルではない炭化したレベルの黒さを誇るおっさん登場。
「あ、鈴木さんこのお客さんが無茶言ってくるんスよ」
 鈴木さんて、狙ってその帽子被ってんのかよ! と突っ込みたいが今はそれどころじゃない。でもそのくらいの冗談を考えられるくらいにはおじさんが出てきたことで俺は冷静さを取り戻しつつある。この兄ちゃんよりは話ができるだろうって。
「お客さんが金払わないでシャワー貸してくれって」
「お客さんそんな無茶言っちゃいけねえよ」
「や、全然違いますよ! 話はしょりすぎだから。子供が怪我しちゃったので、ほらここ。洗いたいんですけど今財布なくて。で、すぐに妻が持ってくるので先に貸してもらいたいなーって」
「そりゃ駄目だよー駄目駄目」
 ええ!?
「ちゃんとお金払ってもらわないと。こっちも慈善事業でやってるわけじゃないのはわかるでしょ」
「慈善事業て……」
 俺は言葉を失う。圭太のこの傷見てそういうこと言えるのか。俺は腹が立つというよりもう悲しくなって何も言えない。
「あ、お母さん来たよ」
 雄大がビーチの方に手を振っていた。三智子がこっちに走ってくる。
「おまたせ~。傷洗った?」
「いやまだ……」
「なんで洗ってないの? なにやってたの」
「なんか洗わせてくれなくて」
「洗わせてくれないってなんでぼーっとしてるのよ。圭太かわいそうじゃない」
 あれ、なんで俺怒られてるの。
「お姉さん、シャワー千円す」
「あ、はーい」
 お姉さんて言われたのがうれしいのか、三智子は嬉しそうにお金を払う。まあ、二十七歳なら普通にお姉さんか。
「いいか。物には順序、ってのがあるからな! お父さんおぼえとけよ!」
 鈴木さんに俺は肩を叩かれる。順序って金払うのが先ってこと言ってる? は? そんなの知ってるんだけど???
「これ、マキロンとタオル。早く連れってあげて」
 三智子に急かされて俺のおっさんへの怒りの行き先はなくなる。
「雄大、ここ座って待ってよ。アイスとか食べる?」
 アイスの単語にピンて反応する俺の腕の中の圭太だけど、その興味を引きはがすようにして俺は奥のシャワー室に向かう。「奥さん座敷上がっちゃってよ。というか何歳よ? 綺麗で若くて全然子どもいるようには見えないなあハハハッ」「えーやだ~もう」という鈴木エロオヤジ墨汁顔と三智子の話し声が聞こえてくる。
 シャワー室は全部で五つあって、手前二つが埋まっている。通るときにちらっと見ると、ドアは体の部分だけ隠れるようになってるタイプで、つまり肩から上と膝上から下が見える。普通にビキニ脱いで体洗ってる若い女の子がいて目をそらす。けれど、俺はその次のシャワー室もちらっと見てしまう。その子も普通に水着取って体を洗っている。背中を向けているので幸い彼女たちとは目を合わさずに済んだけど。
 腕の中の雄大がなんか元気ない。
「痛い?」
 圭太は首を大きく横に振る。
 一番奥のシャワー室に入ってキュルキュルキュルキュルッ、蛇口をひねる。チョボチョボボボボボボボ……。
「つめた!」
 お湯出ねえのかよ。しかも全然勢いないしこれで千円とかまじぼったくってんな。観光地価格もいいところだぞ。今の時代こういうげすい商売してっとあっという間に淘汰されてくぞ。というか淘汰されろ。
「膝上げて」
 俺は立て膝をついて、自分のふとももの上に圭太の右足を乗せる。
「うはっ、しみるー! あー! 冷たい!!」
「ちょっと我慢な」
 乾き始めていた傷の周りの血や砂をしゃしゃしゃと払うようにして洗い流す。
「いっ、いたたたっ! もっと優しく!」
「足動かさない。砂とかバイキン落としちゃうから」
「ねえ?」
「うん?」
「さっき怒られてたのぼくのせい?」
「え? んーなわけねえだろ。圭太は全然気にしなくていいよ。なに、気にしてたの?」
「……」
 圭太は無言のまま肯定も否定もしない。
「やさしいなあ圭太は」
「ねえ、この傷、治る?」
「治るよ。全然余裕」
「足とか切らない?」
「なに心配してんだよ、そんなこと絶対なんないから」
 俺は笑って答えるけど、圭太の顔は真剣そのものだ。やっぱりみんなの怖い言葉が圭太を相当不安にさせてしまっているのだろう。
「毎日ちゃんと洗って消毒すれば大丈夫だし、一応病院行こうな。ただ風呂に浸かるのはしないほうがいいかもなあ」
 俺は洗って綺麗になった傷口をちゃんと観察する。ゆでたまごを半球にしたようなものが肉の間からぽっこり出ている。ここだとちょっと暗くてよく見えないけど、骨だと言われればそう見える。けどやっぱりひっかかるのは本当に表面に一切凹凸なく綺麗な弧を描いていて半球になっているのだ。
「圭太ちょっと我慢な」
 俺はマキロンの蓋をパコっと取ってブシューとかける。
「あ、ぁああああ、いぃぃいいい……しみるぅ」
 硬く目をつぶり上を向いて声を漏らす圭太。俺の肩に置いた手にぎゅっと力が入る。
「オッケイ。大丈夫! よく我慢したな」
「あーしみた。けど男だしこのくら我慢しないとまずいっしょ」という圭太の顔はちょっと誇らしげ。「もうきれいきれい?」
「もうきれいきれいだよ。さ、戻ろう」
 店の方に戻ると、座敷に上がってのんびりアイスを食べている雄大に焼きそばを食べている三智子。
「あ、アイスー」
 もう自分で歩けるというので、圭太を下ろすと雄大のところへ駆けて行く。
「僕にもちょうだい」
「だめー」
 圭太から逃げる雄大。
「ねえってば」
「うっせえ骨マン」
 店の外に出て行った雄大を圭太は追いかけいく。
「なんだ、もう走れるじゃん。食べる?」
 三智子がぼくに焼きそばをすすめてくる。
「いやいい」
 この店のものを俺は口にしたくない。
「骨マン、骨マン!」
「骨マンじゃない!」
 二人は店の前のビーチで追いかけっこ。
 転ぶなよー。と口にしようとした瞬間、
「あ」
 俺と三智子は同時に声を上げた。
 砂浜にヘッドスライディングする圭太。
「……。ふぇ、ふぇっ、ふぇぇぇぇぇぇえぇええええええん!』
「あーあ、やっちゃった……」
 俺がため息まじりの声を上げたとき、誰かが俺の肩を叩く。
「しゃあないなあ。シャワー、サービスでいいっすよ」振り返るとさっきの兄ちゃんが俺に向かって親指を立ている。そして俺に顔を近づけてくる。「鈴木さんには内緒にしときますから」
「あら、優しい!」
 横を見ると三智子も親指立て返している。こんなにいらつくサムズアップは初めてだわ。


 フルでエアコンかけて前後ろ四つのドアを開けっ放し五分。ようやく我慢できるくらいには車内の熱気が逃げたアコードに乗り込むが、それでもまだ車内はムッとした空気が充満していて不快だ。ドリンクホルダーに入れていたポカリスウェットを一口飲むと完全にお湯。
 近くのコンビニで買ってきたガーゼと包帯で三智子に手当をしてもらった圭太はもう落ち着きを取り戻していて、後部座席で仮面ライダーWのフィギュアで一人世界の平和を守ってる。
「あれ、雄大は?」
「あそこ」
 運転席の三智子が後ろを指差す。
「おい、もう行くぞ」
 窓から顔を出して雄大を呼ぶが、うつむいて駐車場の隅を行ったり来たり石を蹴ったりしていて無視。着替えろといって渡した服は足下の縁石に置かれている。
「すねてんのかな?」
「多分ねー。早く出発しないと道混んじゃうし。連れてきてよ」
 車を降りて雄大の元へ向かう。
「なあ帰ろうぜ」
「やだ」
 おっ。雄大の肩に置いた俺の手をはねのけるのでちょっとびっくりする。普段こういうことしないのに。
「なんで?」
「だってまだ来て一時間くらいしか経ってないじゃん」
「でも圭太がああいう状態じゃもう海入れないだろ」
「俺は入れるし」
「一人で遊んだって楽しくないだろ」
「楽しいし」
「また来るから」
「またっていつだよ?」
「または、近いうちにまただよ……」
「ほら。どうせ来るつもりもないくせに」
 俺とは一切目を合わせない雄大は、駐車場の裏に広がる防砂林を見つめながら言う。その向こう側から風に乗った波の音が聞こえてくる。
「来るよ、絶対来るから」雄大の反応は、ない。「わかった。夏休み中ににもう一度来よう」
「だからいつって聞いてんの」
「それは仕事とか調整してだけど……」
「まじ嘘。そういう取り繕った言葉とかいらないから」
 取り繕うなんて言葉よく知ってるなあと感心しながら俺は、頭の中にカレンダーを思い浮かべる。八月後半は仕事忙しくなって休めるかわからないし。俺は雄大の言葉に反論できない。
「なんで圭太のせいで俺まで帰らないといけないんだよ。あいつまじ空気読めねえよな」
「でもわざとじゃないんだし」
「わざとじゃなくてもだよ。あいつ、運動会前日とか林間学校とか言って旅館で熱出すタイプだろ。ほんとマジくそ」
 普段雄大はわがままを言うタイプじゃないのにここまですねるって本当に今日を楽しみにしてたんだなあ。でも雄大の方もこれ以上ごねてもどうにもならないということがわかっている顔をしている。雄大は頭がいいのだ。わかった上で雄大はごねている。
 うーむ。ならばこの話の着地は俺が提供してやるべき。
「来週の日曜は?」
 土日仕事入ってるけまあなんとかなんだろきっと。
「無理。野球の試合だし」
 即答。
「野球なんて一回くらい休んじゃえよ」
「休めねーよ。そんな簡単に言わないでよ。じゃあお父さんこそ一回くらい会社休めよ!」
 俺はなにも言い返せない。
「ちょっと早くしてよー。そんなにわがまま言うなら置いてくわよ!」
 三智子が運転席のドアを開けてこっちを見ている。
「じゃあ俺帰らねえし!」
「あ、そう。わかった本当にママたちだけで帰っちゃうから」
「ちょっと三智子待てって」
 雄大の「俺、帰らないし」は売り言葉なんだから、それを三智子が買ってどうすんだよ。
 後部座席の圭太が後ろの窓から心配そうな顔してこっちの様子を伺っている。あいつもしかしてまた責任感じてたりしてんのか?
 バンッ!ドアを閉める三智子。その音ではっと顔をあげた雄大の顔が今にも泣きそう。
 あーもう約束しちまえっ!
「なあ、雄大。じゃ再来週の土曜は?」
「……」
「約束するから」
「……でも土曜もけっこう仕事いってんじゃん」
「休む」
「……絶対?」
「絶対!」
「……」
 無言ではあるけれど、弱く二度うなずく雄大を見て俺はほっとする。俺は縁石に置かれたままの服を拾い砂をはたいて雄大に渡す。
「ほら、着替えちゃえよ」
 休めるか正直微妙なところだけど、俺は仕事より雄大の方が大事。そんなの考えなくたってわかってることで、じゃあなんでこんなにも俺は有給とることを躊躇しているのか。忙しいとか有給取りづらい雰囲気と本当はそんなのどうでもいいことなのに。
 もっと家族のためにどんどん有給使ってやるぞ! という気持ちが強く出てくる。


「ま、でもよかったんじゃないの。この時間なら渋滞とかにも巻き込まれなさそうだし」
「じゃあ帰りは憩いの湯でも寄って……あ、駄目か」
 スーパー銭湯でも寄ろうかと思ったかが、圭太のあの傷じゃ銭湯なんて入れない。
 後部座席の二人を見ると、一切しゃべらず仏頂面の雄大を圭太はちょくちょく横目で様子を伺っている。雄大もテンションを普通に戻すきっかけがないだけで、別にもうそんなに怒ってないだろう。と、思っていたらさっそく圭太が行動を起こす。
「ね、ねえ……」
「……あ?」
「ごめんね? ぼ、ぼくのせいで……」
 ちょっと涙目の圭太。
「あ、ああ? もういいって」
 ほー。俺はそのやりとりににやついてしまう。圭太やるじゃん! ハンドルを握る三智子もバックミラーで二人の様子を確認して微笑んでいる。
 その後はさすが子供だなーと感心してしまうくらいすんなり二人は仲直り。これが大人だと沈黙が気まずくて「もう俺別に全然さっきのこととか引きずってないし!」みたいな変な強がりや無駄な力が入るんだけど、二人は自然に会話してる。
「えー?」
「で、そっから……」
 雄大が何か圭太に何か耳うちしている。
「うそだあ?」
「うそじゃねえって」
「でも、そんなのならないよ。人間に――」
「まじだって。で、傷口からフナムシの卵が、あ、フジツボって知ってる?」
「わかんない」
「磯にあっただろ? 富士山みたいな形して上が穴開いてる貝みたいなやつ」
「岩にいっぱい張り付いててアポロみたいなやつ?」
「そそ。それ、その卵が膝に入ってここでその卵が育ってそのうち全身ブツブツブツブブツブツッって! ははは! こえ~」
「私も今の雄大の話、子どものときに聞いたことある」
 三智子は軽快にギアを三速から四速に変えながら言う。
「フジツボの話?」
「あとフナムシもあったよ。磯で転ぶと傷口にフナムシの卵が入っちゃうってやつ。傷口ってのは適度に湿ってるし温かいし血や皮膚が栄養になるしで産卵床としては優秀だからって聞かされたんだけど、これけっこう説得力あんじゃん? 孵化しちゃうと最初皮膚の内側がかゆくなってきて、そのうち皮膚のいたるところが盛り上がってきて突起みたいのが出てくるのね。それと同時に全身かさかさになってきて、最後に突起が皮膚を破って足が生えてくるの。まじ怖くない? つーか傷口に入ったら本当に孵化しちゃうのかな?」
「なわけないだろ」
 きっとフナムシやフジツボの気味の悪い見た目がそういう話を作り上げちゃうのだ。
「うそだうそだ。そんなの聞いたことないもん!」
 圭太が慌てた調子で雄大の体を揺すっている。
「お前の体フジツボに乗っ取られてフジツボ人間になんだよ。フジツボ人間フジツボだ!」
 なんでフジツボ二回言うんだ?
「雄大!」ハンドルを握っている三智子が大きな声を出す。その声に、雄大だけじゃなくて俺も圭太もびくっ! てなる。「あんまでたらめなこといって怖がらせないでよ。あーもう、なんでこっから渋滞なのよ!」
 前の車が揃ってハザードを点滅させ始めて急に車が詰まる。三智子なんで急に機嫌悪くなってんだよ。
「でたらめじゃねーし」
「でたらめでしょ。消毒してちゃんと清潔にしてれば大丈夫だからね」
 三智子は圭太にそう言って大きなため息。三智子もちょっと前にでたらめ言ってたよなあ。
「もう……。ほんとなんで兄弟なのに仲良くできないわけ」
「でもそういう三智子だってお姉さんと仲良くないじゃん」
 俺が笑っていうと、子供に示しがつかないからそういうこと言わないでよ、みたいな怖い目で睨まれる。
 俺には兄弟がいないからそういう仲悪いってのも含めて兄弟っていいなと思ってしまうところがあるんだけど、実際身内でほんとに仲が悪かったら、家族ってものに縛られ続けて縁を切りたくても切れないみたいな状況がさらに関係を悪化させてすっげー悲惨なことになるのも想像はできる。
 視線を感じて後部座席を見ると、雄大がすっげー怖い顔して三智子を睨んでいる。
 俺は気分を変えようとラジオを付ける。お、合唱? 中学生か高校生の合唱が流れている。


 生きる理由がわからないというなら
 その理由を僕があげよう
 君がいなくなると僕は困る
 だからそこにいてほしい


 サビだ。すげーいい曲じゃん。『僕が守る』って曲で課題曲らしい。ってこれNコンか? NHK全国合唱音楽コンクール。
 
 君がいなくなると僕は困る 

 ここだな、ここ。「困る」って言葉を選ぶセンスすげえな。
 合唱の課題曲になるような曲に感心を持つなんて初めてのことで、世の中には俺の知らない俺の興味のない場所にもいい曲がたくさんあるんだなあと当たり前のことを思いながらラジオを聞いていると、横から三智子の手が伸びてラジオのチャンネルを変えてしまう。
「あ。いま聞いてたのに」
「え? ひろこんなの好きだったっけ?」
「戻していい?」
「えー私やだよあんなの。なんか辛気くさい」
「それ合唱のイメージだけで言ってるだろ。つーか今の歌詞ちゃんと聞いた?」
「いや~私合唱コンとかまじ興味もなかったしいい思い出もないしっつーか、不愉快な思い出しかない」
「どうせ練習とかサボって怒られたタチだろ」
「あれほんとめんどかった。別にこっちはやりたくもないのにやたら合唱部が張り切っちゃって、『このままじゃうちのクラスだけ恥ずかしいことになっちゃうので、明日から放課後だけじゃなくて朝練もします!』とか言い出しちゃったり。まあ私たちみたいのにはびびって直接は言ってこなかったけど、逆にそういう態度もウザかったりしてくるんだよね、腫れ物に触るみたいな接し方。合唱コンくらいで『なんでみんな真面目にやってくれないの!?』とか泣くとかどんだけヒスってんのよ」
「合唱コンくらい、ってのは三智子の価値観だからなあ」
 ひー、俺は三智子に睨まれる。
 三智子がチョイスしたラジオ番組から、パチンコ屋の駐車場の車の中に置き去りにされた子供が熱中症で死んでしまったというファック過ぎてファック過ぎるもはやため息すら出ないニュースが流れてきて気分ガタ落ち。車に乗り込むときの車内の熱気を思い出して、あそこに何時間も閉じ込められたらと想像して軽く吐き気すらしてくるわ。
 だからあのまま合唱聞いときゃよかったんだよ。パーソナリティが「もはや日本の夏の定番ともなってしまった悲しいニュース」って言うから俺は、正月にモチのどに詰まらせて死んじゃう老人のニュースも定番だよなと思うけど、いやいや、ここで「定番」て言葉をチョイスするのはなんかちょっと違うんじゃないか?
 しかしほんとに毎年出るこういう馬鹿親どうにかならんのか。しかもこの馬鹿親が、警察の取り調べで「別に欲しくてできた子供じゃなかった」とか言ってて日頃から虐待していた疑いも出ているらしく俺はもう無力感。こういうニュースは子供ができてからほんとに聞くだけで辛くなってしまった。
「ねえ、これどこまで続いてんの?」
「ん?」
「渋滞」
 横浜新道から第三京浜に入ったところで、車はびっちり渋滞にはまっていた。しかも事故渋滞なのかほとんど進んでくれない。
「十五キロポストを頭にとか今言ってなかった?」
「もう、とっくに過ぎてるんですけど」
「あ、そう?」
 キロポストを確認すると、たしかにもう十五キロポストは過ぎている。
「でも港北までもう五キロもないっしょ」
「どこの馬鹿が事故ったわけ? まじサンデードライバー死ねよ」
 子供の前であまりそういう言葉使ってほしくないけど、今このいらいらした中でそれを言えば「なに? じゃあひろ運転してくれんの?」と返されるのがオチ。ペーパードライバーの俺は何も言えない。とはいえ、運転しないから運転の辛さがわからないって話と、汚い言葉を使うってのはまた別の話だと思うんだけどね。
「ね、痛い?」
「ん? いや、別に」
「ちょ見せてよ」
「え、やだよ」
「いいからいいから」
 なんかまた後部座席でこそこそやってる。おっつ、雄大がゆっくりと圭太の膝のガーゼを剥がしている。
「ガーゼ勝手に取るなよ。せっかくママがつけてくれたんだぞ」
「すげー。ねえお父さんこれやっぱ骨じゃね? 骨だよ」
 圭太の膝を見ると、さっき見た通り肉の間からつるっとした半球の真っ白いたまご的な何かが見える。
「えーこれやっぱ骨なの?」
「ちょ、もうちょいこっち向いて。んーわかんないな。でもこんなきれいに丸いのかな。骨って」
 もしこれが骨なら、皮膚破って露出してるってことなんだから開放性骨折ってことだよな?
「痛みは?」
「さっきよりそんなに」
「断然骨だね! 骨しかねー。お前すげーな、フジツボ骨人間じゃん! ちょ欲張りすぎだろハハハハッ!」
「骨人間は俺も雄大も一緒だろ」
 と俺がツッコミを入れると「じゃあフジツボ骨が膝からでちゃってる人間。というかもはや人間じゃない人間」と丁寧に訂正する雄大。
「あーもう!」
 三智子がハンドルを指でトントントントン叩きながらいらいらした声を上げる。
「とりあえず家までガーゼはしとけよ。雄大戻しといて」
 と言って前を向くと、前方に港北IC出口の標識が見えた。 
「もうあと二キロじゃん」
「これ、下道も混んでるかもね」
「これほどってわけじゃないでしょ」
「でも休日だよ? 港北あたりのおしゃれ好きの勘違いセレブがショッピングに出てくる時間だよ」
「あはは、勘違いセレブって」
 と、声を出して笑い話にするけど三智子の声のトーンはマジ。
「だってそうじゃん。あんな二〇年前は雑木林と山で狸だのキジだの出てくるところになにがオシャレかって話よ」
「いや、実際今はおしゃれだから」
「おしゃれの年期の話」
 年期ってなんだよ……。
 いよいよ俺は三智子の話がわからない。渋滞のいらいらの八つ当たりをされた港北住民には大変申し訳ない。
「これで下道混んでて、勘違いセレブがいっぱいいたらひろのせいだからね」
「なんでだよ」
 頼むから空いていますようにと祈るように高速をを降りる。
「ほらやっぱり」
 ETCを抜けた先の下道もがっつり混んでる。
「ここの交差点はまあ……渋滞デフォルトだから」
「なにその後だし発言。はー早く渡れよー。イケアとか行く私オシャレって思ってる勘違い野郎はひき殺しちゃうぞ」
 三智子はニュートラルに入れた状態でアクセルを吹かす。
「ひき殺すはやめろって」
 さすがに今の発言は見過ごせない。三智子は「何?」って顔して俺を見るけど、彼女自身俺が何を言いたいかわかってるから何も言ってこない。
「IKEAは三智子も好きなくせに」
 俺はエアコンの吹き出し口に取り付けてあるライムグリーンのドリンクホルダーを指で叩く。半年前にIKEAで購入。
「今嫌いになったの!」
 渋滞で険悪になるとかほんと悪夢。俺は三智子には気持ちよく運転してもらいたいし、車内も居心地のいい空間であってほしいと思う。
 しかし、そんな俺のささやかな願いをつんざく奇声が後部座席から聞こえる。
「あぎゃっ! ひいっいたたたたたたたああああぁぁ!!!」
 な、なんだよ!! 振り返ると、え!? 雄大が圭太の右足を両手で掴んで、膝の傷の部分を親指でぎゅ~っと押している。
「何してんだよ!」
「お、おおおおにぃ……ちょ、ああああ~! 痛い! あ、へへっ、い、いたいよ離して!」
 俺はウォークスルーに体をねじ込み雄大の肩を掴んで引き離そうとするけど、雄大の目は見開き狂気すら孕んでいる。傷口を凝視し手を離さない。
「三智子、ちょっと車止めて」
「え、渋滞中だし無理だよ。てか、雄大気でも狂ったの? ほんと何してんのよ!?」
 後部座席に行って二人の間に無理矢理体をねじ込む。
「おま、止めろって」
「うぐぅ~、い、いっひいいいぃ、ひい、っひっひ、ぼ、ぼにいちゃん、やめてぇ~」
 圭太は恐怖と痛さで泣き顔なのに泣き方を忘れてしまったのか、涙は一滴も出ていなくてただただ恐怖の表情が張り付いている。なんとか雄大の手を圭太の膝から離したとき、車は路地に入って停車していた。
「もーう! なにしてんのよ!!」三智子はハンドルを強く叩いた後、運転席を降りて後部座席のドアを開ける。「雄大! あんたちょっと来なさい!」
 力づくで雄大を引きずり下ろす三智子。俺は圭太を抱き寄せて落ち着かせる。
「大丈夫大丈夫だから、な?」
 あ、やべ。圭太はあまりのショックなのか、すっはすっはすっは、息がうまくできなくて泣くことはおろか、ちゃんと息すらできていない状態。これって過呼吸?。
「三智子、ビニール袋どっかある?」
「え? こんなときに何使うのよ」
「いいからどっかないの?」
「バッグの中にたしか……」
 雄大が俺のことをじっと見てる。でもその顔にはさっきの狂気は感じられない。むしろ抜け殻みたいになってる。
 俺は急いで三智子のバッグの中を探す。あった。ビニール袋を取り出して……んーちょっと躊躇。過呼吸の処置としてビニール袋を被せて自分の吐いた息を吸うことによって落ち着かせるって何かの本で読んだことがあって、俺は今それをやろうとしているわけだけど、でも、果たして今の圭太の症状が本当に過呼吸なのかどうか自信がない。けれどそれ以上に俺を躊躇させているのは、子供の頭にビニール袋を被せるってそのビジュアルがどうしても虐待を想像させてしまうからだ。
 でも、圭太の苦しそうな顔を見て意を決して被せる。
「ちょ、ひろなにしてんのよ?」
「ゆっくり大きく吸って吐いてして」雄大も、え!? って顔してる。俺は圭太の背中を呼吸に合わせてゆっくりとさする。「そうそう。過呼吸気味だからこうすると自分の呼気吸って落ち着いてくるんだよ」
 ふぅーぴと。ふぅーぴと。おっと。圭太が息を吸うたびに口のところのビニールの部分が張り付いてしまうのでそこだけで指で摘んで離してやる。
「おーし、おーけいおーけい」
 圭太の呼吸が落ち着いてくる。ビニール袋を頭から取ってやりながら雄大を見るとほっとした表情をしているのがわかって俺も安心する。やっぱり心配してんじゃん。
 って、じゃあさっきなんで傷口をぐいぐい押してたんだ? 圭太の膝からは血が垂れている。
「てか、なんであんたさっきあんなことしてたの?」
「え、なんか……」
「なによ」
「なんか動いた」
「え?」
「あの白いの」
「はあ? 雄大あんたなに言ってんのよ……。次あんなことやったら置いてくからね」
 埒あかないって感じで運転席に戻る三智子だけど、俺は雄大がでたらめ言っているようには思えない。
「雄大、それどういうこと?」
「あ、うーん。俺の見間違えかもしれないんだけど……、その白いたまごがドックンドックンって動いて大きくなった気がしたんだよね」
 圭太が怯えた目をするので俺は頭をさすってやる。
「大丈夫だから。別に圭太を痛がらせようとかしたわけじゃないんだよな?」
「そうじゃなくて俺、それ見て大きくなったらヤバいから止めなきゃって思ったんだよ」
 怒られることが嫌でごまかそうとしている顔じゃない。だいたい雄大は兄弟げんかしても直接的な暴力を振るうような子じゃないのだ。
「これなんなの?」
 尋ねてくる圭太の目にはまだ怯えと不安が見える。
「癌、とかだったりして」
 雄大の言葉に心臓が一瞬止まる。
「ガーン!」
 目を大きく開いた圭太が言う。
「んーなわけねえだろ。こんな癌ないから」
 即否定する俺だけど、もしかしたらと思っている自分もいる。骨の癌てあったよな、もしかしてこれがそうなのか……?
「ガーン!」
「圭太うるさい」
「ガーン!」
「それ全然おもしろくねえっつってんだろ」
「とりあえず家帰ったら病院行って診てもらうかー」
「爆発とかしない?」
「え?」
「ここがぶわーって大きくなって爆発とか」
 圭太が大きく腕を広げる。
「そんなことは絶対起こらないから。ほら車に戻ろう」
 圭太が後部座席に乗り込み、俺がぐるっと後ろを回って助手席に行こうとしたとき、
「俺、やなんだけど」
 雄大が俺を見て言う。
「何が?」
「圭太の隣」
「なんで?」
「なんかこえーじゃん」
「膝のあれが?」
「助手席でいい?」
 窓越しに不安な顔で俺を見ている圭太。ここでなんやかんや言っても圭太を不安にさせるだけだし俺は雄大と席を変わる。
「怖いとかなによそれ」
「まあまあ」あまりこの話は圭太には聞かせたくないから三智子の話をちょんぎる。「ガーゼ張り直そうな」
「パパ怖い」
 圭太が俺に抱きついてくる。お、ひさびさ。ちょっと前までしょっちゅう甘えてきていた圭太だけど、最近は雄大が三智子に「お兄ちゃんなんだから」と言われているのを聞いて、自分も甘えてばかりはいられないって意識になっているらしく自分からはあまり甘えてこなくなっていたのだ。
 雄大が言った「怖い」はこの傷の白い半球が何なのか得体のしれなさと、一瞬大きくなったというところからきてるとして、圭太の今の「怖い」はこういう状況にってことだろうか。
 この傷の存在が圭太を怖がらせている。
 圭太がこの傷を負ってから今日はずっとよくない雰囲気だ。三智子はいらだってるし、雄大はキテレツな行動起こすし。白いたまごの中に悪いものがぐるぐる詰まっていて、俺たち家族の空気を悪くしているような想像をしてしまう。
 俺は圭太を膝の上に乗せて後ろから抱きしめてやる。
 車が走り出し車内にも幾分落ち着きが戻った雰囲気になると「ちょ、ぱぱ~暑いぃし苦しい」と俺の膝の上で圭太がもがきだす。
「お前が怖いっていったんだろお」
「きゃははは、あつーい!」
 膝の上から逃げようとする圭太。とりあえず笑い声が出てよかった。
「後部座席はお喜楽でいいわね」
 と三智子にばっさり言われて、せっかく戻ってきた圭太のテンションがまたシュンとなってしまう。
 なんで今日はそんなつっかかってくるんだろう? 機嫌が悪いとき、三智子はその矛先を割合外に向けるタイプではあるけれど、それにしても今日はひどい。
 でも何を言っても険悪になるだけそうなので聞こえないふりして、圭太をまた膝の上に乗せて抱きしめる。
 圭太はもう熱いとか言わない。


 家に帰るとすぐに雄大が圭太にモンハンやろうぜって誘って、二階の部屋から楽しそうな声が聞こえてくる。あいつらの仲直りの早さはやっぱ異常。素晴らしいことだ。
「ねえ、あの子病院連れてく?」
 うーん……。行った方がいいように思えるけど、骨が露出しているって割にはそこまで痛がっていないのが不思議だ。帰りの車の中でも俺の膝の中でずっと寝てたし。
「今日日曜だから救急とかいかないとやってないよなあ」
「そうなんだよね。今は落ち着いてるみたいしだしちょっと様子見て見る? なんなら私、明日田村クリニック連れてってみるし」
「そうだな」 
「ご飯どうするー?」
「なにあるの? なんでもいいけど」
「えーシャケとアスパラと、あ、あとこの前の肉巻き冷凍したやつくらいかな」
「全然いいんじゃん。いまから買いにいくのもめんどいだろ」
「そうね。あ、ご飯出来る前にあの二人先お風呂入れちゃってよ」
 二階に上がって二人の部屋に入る。
「風呂だぞー」
「今クエスト始めちゃったところだからあとで」という二人のPSPをスリープモード。「風呂とかご飯の時は?」
「ゲームは中止ー!」
 圭太が大きな声で叫び、率先して一階に向かう。こういうときの次男のしたたかさといったら。
「なんかあいつけっこう普通みたいよ。骨出てんのに意外にタフだな」
 PSPを棚にしまいながら雄大が言う。
「でも一応まだなんかあるかもしれないから、ちょっと気にしてやってよ」
「へいへーい。とかいってあれ実は感染力あって一緒に風呂入って俺とかお父さんにも明日朝起きたらたまご出来てたりして」
「んなわけないよ」 
 脱衣所で三人で服を脱いでいると、三智子がタオルやパンツと一緒にビニール袋を持ってくる。
「はい、これ」
「なにこれ」
 ビニール袋は両端が切れていて口が開いている。
「傷濡れちゃうとやばいじゃん。あ、圭太まだ入っちゃ駄目!」風呂の扉に手をかけていた圭太を呼び戻す。「足上げて」
 三智子は、圭太の右足をビニール袋に通して、ちょうど怪我の部分がビニールで覆われる。そして上と下をビィーッとテープで止める。
「これで水はいらないでしょ。でも一応湯船には足つけちゃだめよ」
「え、じゃあどうやって入るの?」
「逆立ちだよ」
「えーできないよ。お兄ちゃん逆立ちできんの?」
「当然だろ」
「すげーうちのクラスで逆立ちできるのまだみっちゃんだけ」
「子供だなあ」
「でもみっちゃん体操クラブ入ってるからあれはノーカンだよね」
「俺が圭太の歳の頃にはとっくに逆立ち出来てたけどな」
「うそだあ!」
「まじだって。お前まさかバク転とかも出来ないの?」
「バク転? なにそれ」
 二人はそろって風呂場に入って行く。
「ひろも水入らないか見ててね」
「りょーかい」
 よかったよかった。やっぱ三智子もちゃんと気をかけてる。機嫌も直ったようだし、俺は気分がよくなって二人と一緒に風呂場で大はしゃぎ。バッシャンバッシャン、水を掛け合ったり潜ったり沈めたりして、
「あ」
 と気がついたときには、なみなみとあった湯船のお湯が半分くらいにまで減り雄大が指摘する。
「ひざ。めっちゃ水入ってるし!」
 傷口は完全に濡れちゃってるようで、こうなったらつけてても意味がない、むしろこのままは良くないと思いビニール袋を外しシャワーで洗いながす。
「しみる~いたーい!」
「今までも濡れてたのに全然痛がってなかったじゃん」
「でも痛いんだもん!」
「もうつけちゃ駄目だぞ。だからここに右足かけて入れよ」
「こう?」
 湯船の淵に膝の裏をかけさせて、風呂に入らせる。
しばらく一緒に湯船に浸かってると圭太が言う。
「パパなんかかゆい」
「かゆい?」
「なんか昼間見たとき、小さくなってない?」
 雄大の言葉に圭太の「ほんとだ!」と喜ぶ声が風呂場に響く。言われてみればそんな気もしないでもないけど、よくわからない。
「腫れが引いてきた?」
「バカ、骨は腫れないって」雄大が圭太に言う。「だから骨じゃなかったんだよ」
「骨マンとか言ってたのお兄ちゃんじゃん!」
「かゆいの?」
「すごいかゆい?」
「うん」
「治りかけなのかも。かさぶたとかできたりしてかゆくなるだろ?」
「じゃあもう治ってるのかな」
「すぐ治るって。心配すんな」
「うん」
素直に頷く圭太と、気味の悪いものを見るみたいな顔して傷口を見つめる雄大。


「あれ、牛乳ないんだけど」冷蔵庫の扉を閉めて牛乳パックを振りながら三智子がこっちを見た。「雄大でしょ」
「俺じゃねえし」
「こんなに飲むのあんただけでしょ」
「圭太かパパかもしれねーじゃん」
「ぼく牛乳なんて飲まないもん」
「圭太は牛乳嫌いだもんね。それにパパは空になったパックそのまま置いとかないよ」
「……」
「まだ半分以上あったのに。……あのね、いくら牛乳飲んだって身長は伸びないんだからね」
「そんなんで飲んでねーし」
「牛乳飲んでも骨が丈夫になるだけなんだからね」
「だからちげーって!」
「いいじゃん、牛乳飲みたいなら飲ませれば。嫌いなのよりはいいだろ」
 俺はたまりかねて口を挟む。
「どんだけ飲んでるか知ってる? 二日で一パックだよ。別にさあ、そんなんいいじゃない背なんか気にしなくたって」
「僕、クラスで後ろから三番目~」
「気にしてねーって言ってんだろ!」
 言い終わると同時に雄大が箸を投げる。俺は怒ろうかどうしようか迷う。
 雄大を怒るか、三智子をたしなめるか。
 三智子は背なんか気にしなくていいって言うけど、雄大がクラスで二番目に低いことをコンプレクッスに感じていることを知っている俺は、三智子ももうちょっとオブラートに言えないものか
 雄大はうつむいて何も言わない。ここで俺が雄大の気持ちを代弁してもいいが、それはそれで雄大にとって辛いことかもしれない。
「そんなのほんとどーでもいいことじゃない。背なんかよりもっと大事なものがあると思うんだけど」
 ガタンッ。椅子をひっくり返して勢いよく立ち上がった雄大はリビングを出て行ってしまった。
「お兄ちゃん、背大きくなりたいの?」
 圭太が雄大が出て行った扉の向こうを見ながら言う。雄大には、もしかして圭太に背を超されちゃうんじゃないかって焦りがあるのかもしれない。
「今の雄大にとっては大事なことなんだよ。そりゃたり人にとってどうでもよく見えることかもしれないけど。それを言ったところで雄大の気持ちはらくにならないよ」
「わかるけど。でも私思うんだけど……」
 圭太は俺と三智子の会話に挟まれて、さっきまで全然見てなかったテレビを凝視している。「僕、テレビに集中していて話聞いてないから」って顔して。
「圭太、パパとママちょっと大事な話するから二階行ってて」
 俺が言うと圭太は待ってましたとばかりに椅子から立ち上がる。
「え、いいよ。圭太も一緒に聞いて」と三智子が止める。
「いやでも――」
「大事な話なら圭太にもちゃんと聞いてもらうべきだよ。圭太ももうすぐ五歳だしわかるって。子供って案外そういうのちゃんと理解するよ?」
 まあ、それはそうかもしれないけど……。
「で、さっきの話だけどコンプレックスだからって周りがそれに気を使って大事に大事に大事にして触れないでいたら、どんどんアンタッチャブルなものになっていかない? それだったら日頃から軽口で言いあえるくらいにしてたら、自分の悩みなんて他人にとっちゃたいしたことないのかもって逆に思えるかもしれないじゃん」
「そりゃ大人になれば……というか時間が経てばあの時悩んでたことなんてちっぽけなものって思えるようになる場合も多いけど、その瞬間本気で悩んでることはそんなこと言われたって俺の気持ちは誰もわかってくれない、って方にいっちゃわないかな?」
「それでもよ。その十年後とか大人になったときのために、今から背なんてなんでもないよって言ってあげるんじゃん」
 うーん三智子の言うこともわからなくもないのだけど……。
「たしかにそういう風に免疫つけていくのも大事かもしれないけど、俺はもうちょい大きくなってからでもいいんじゃないかな」
「だから私はそうは思わないって話だから」
「……」
 こういうときの三智子は、絶対に自分の意見をがんとして曲げないタイプなので俺はこれ以上何も言わない。
「それにさ、私思うんだけど」なに、まだ何かあるの?「大家族とかの子供って自殺とか少なそうじゃん?」
「何の話だよいきなり」
「テレビとかでやってるじゃん」
「何を?」
「大家族に密着したドキュメンタリーみたいなやつ。忙しくて毎日が戦争みたいであんな環境でウジウジ悩んだりしてる暇ないでしょ、家事も手伝わないといけないし兄弟も多いしやるかやられるかで生きてて。だから人生は勝つか負けるかってことが子供ながらに叩き込まれてて、ちょっとのことで悩んだり立ち止まったりしてる暇ないんだよあの子たちは。だから悩みとかコンプレックスとかで自殺する子供はいない説」
「もみくちゃにされて育てられば自殺するほど悩んだりすることもないってこと?」
「極論いえば、そうかなと思ってる」
 むちゃくちゃだ。大家族の子供だって他の子供と同じように悩みを持つ子は確実にいる。それこそ大家族だからこその悩みだってたくさんあるだろう。それを兄弟が多くて忙しくて悩む環境にない、だなんて言い切ってしまう三智子の考えはあまりにも乱暴すぎる。これから圭太や雄大が大きくなっていき思春期特有の、自意識だとか性についてだとかの親が触れるにしてもデリケートな悩みを抱えた、それに対して三智子はどう向き合って行くつもりなのだろう? 今日みたいにそんな悩みは些細なこと、ちっぽけなことと切り捨てやしないか。
「これからも雄大の身長に関しては、バシバシ言っていくつもりだから」
「荒療治過ぎるよ」
「なんでよ? だって身長くらいで悩むなんてバカバカしいじゃない」
「たとえどんなにくだらないと思っても、人が真剣に悩んでることに対してバカバカしいなんて言っちゃいけないって。それは大人だろうが子供関係なく」
 俺と三智子の決定的な違い。
「そもそもなんで三智子は背のことで悩んじゃいけないと思ってるの?」
「だから、そんなのぜんっぜん人生に関係ないじゃん」
 これだ。
 身長でくよくよするのも多いにけっこうだと俺は思う。本人がくよくよしたり悩んだりするってことはつまり、それを本人は非常に大事なことだと思っているわけで、だったらそれでいいじゃないか。どんどんくよくよすればいい。そんでもって、それが悩んでもどうしようもないとかどうでもいいことだったと時間が経って気がつくなら、それがその悩みが解決するのに必要な時間だったって話。
 たしかに人はときにどうでもいいことに悩み、頭を抱えてどんどん落ち込んでいき、悩みのスパイラルを下降していくことになってしまってそこから戻れなくなってしまうこともあって、それはもちろん心配ではあるけれど、そうならないように俺たちが気にかけ、いつでも相談乗るぜって空気を提供してあげればいいのだ。お前、いざとなったら一人で悩まなくてもいいんだぞっていう場所があればいい。
 子供が自分の悩みでどうしようもなくなって袋小路に陥ってしまうのは、相談できる環境を与えられなかった親や周りの人間の問題でもある。
 というようなことをかいつまんで言おうと思ったけどやめた。なぜなら圭太がやっぱり所在なげにしていたからだ。いくら大事な話だから圭太も聞けばいいと言われたって気を使うに決まってる。
「圭太お兄ちゃんとこ行っといで」
俺がそう言って圭太がリビングから出て行くと、「もういいや、疲れた」と三智子はキッチンに立って洗いものを始める。と、すぐにガラスが割れる音がする。
「あ!」
 と言った三智子の後ろ姿が止まる。何か落として割ってしまったらしい。
「……ごめん」
「別にいいよそんくらい」
「いや……これ」
「あ~……」
 三智子が摘んで見せた破片は、一年目の結婚祝いに買ったペアのグラス。
「やっちゃった」
「まあ、割っちゃったならしょうがないよ」
 結婚一周年の記念に買ったグラスがこのタイミングで割れるとか、これどんだけわかりやすいメタファーなんだよ。けど、俺はこんなもんに人生引きずられないぞ。
「大丈夫?」
「うん? いや、もう元には戻らなさそうだけど」
「そうじゃなくて怪我」
「ああ、大丈夫大丈夫」
「また買えばいいよ」
 とかいいながら、正直俺はけっこうショックを受けている。二人の記念の物なんだからもうちょっと丁寧に扱えよ、と言いたい。
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