文字数 19,325文字

 3

 肩を激しく揺すられて目を覚ます。 
「ちょ、なんでここで寝てんだよ!」
「……んあ? ああ……」顔を上げると、ベッドから上半身を起こした雄大が俺を見下ろしている。「んんっ、んぁああふぁああ~。おはよう」
「おはよじゃなくてさ」
「きつかった?」
「別に起きるまで気づかなかったけど……そうじゃなくてなんでここで寝てんだよ」
「じゃあなんで雄大もこっちで寝てたんだよ」
「え?…」
「ははははっ。ま、そういうことだよな」
「何が! 間違えたの!」
「朝飯つくっから。今日なんか予定あんの?」
「八時にみっちゃん家」
「あと三十分しかないじゃん」
「ご飯いらない」
「駄目。作るし食べろ」
 ソーセージの表面がきつね色になったところで目玉焼きを落として、水をひとすくい入れてフライパンに蓋をする。ご飯は……、炊いてないからレトルトご飯をチンして、チルド室にあったプラムを洗って、そのころには目玉焼きがちょうどいい感じだ。
「ねえ、ちょっともう時間ないんだけど」
「今できるから」
 テフロン加工のフライパンの表面をスサーっと滑らせて皿に目玉焼きとソーセージを乗せて、レトルトご飯を持っていって、はい、完成。
「どうだったの圭太」
「思ったよりも元気。雄大と電話で話した後」
「まじ!?」
「それまで不安そうだっけどそれからは途端に元気になってた」
「まじかー」
「何話したの?」
「あれねー」
「なにあれ?」
「秘密」
「いいじゃん、教えろよ」
「だめ」
「ケチ。圭太も教えてくれないんだよ」
「いやいや、ケチとかそういう問題じゃないでしょ内緒って」
「まあそうだけど」
「子供には子供の事情ってもんがあんですよ」
「あぁそうですか」
「手術するの?」
「わかんない。検査次第かな」
「痛いこととかすんのかな」
「雄大も来る?」
「駄目だって。みっちゃんちで夏休みの宿題すんだから」
「そんなの断ってくればいいじゃん。圭太も喜ぶし」
「いいって俺は」
 雄大の箸が止まる。
「やっぱまだ、怖いのか?」
「うーん、わかんないけど……」雄大は腕を組んで天井を見上げる。「なんかね、俺色々考えたんだけど行かない方がいいと思うんだよね。また圭太に嫌な態度とっちゃうかもしれないし。あの傷見ると、こう心の深い部分を揺さぶられるっていうかさ、見たくないんだよね。自分がどうにかなっちゃうような気もして……とにかく近づきたくないわけよ」
 雄大はあの傷に何を感じているのだろう。
「まあ来たかったらいつでも来いよ」 
「あ、圭太には今の言わなくていいから」
「わかってる」
「てかお父さん仕事は?」
「やべ連絡すんの忘れてた」
「もう休んじゃえば?てか俺、そろそろ行くから」
 雄大が出て行った三〇分後に俺も家を出る。病院行きのバスを待っているときに会社に休みの連絡を入れる。
「はい、パプリカでございます」
 この声は島原さんかな。朝来るの早いなー。
「おはようございます。企画の渡久地です」
「ああ、おはよう」
「あの~……」この人色々厳しい人で事情説明するの面倒くさいから風邪引いたことにしようかとも思うが、親が子どもが心配で会社を休むことの何がいけないんだと思い直す。
「ちょっと子どもが怪我しちゃいまして、病院付き添いたいんで今日お休みさせてもらってもいいですか?」
「そんな大きな怪我でもしたの?」
「いやあ、昨日ちょっと転んじゃったんですけど打ち所が悪かったのか夜中に痛がって今入院してまして」
「え、大丈夫なのか? 渡久地君子ども二人いたよね?」
「下の子です。手術するかもしれないみたいになっちゃってて、なんで――」
「手術!? それは心配……。んー……午後からとかでも出て来れない?」
「ちょっと今日だけは一緒にいてあげたいんで。ご迷惑おかけますが」
「奥さんは?」
「……いますけど?」
 島原さんは黙ってしまい、無言の圧力を俺は感じる。けれど俺もここで引き下がるわけにはいかない。これくらいのプレッシャーに負けていたら雄大と約束した有給なんてのも夢のまた夢だ。
「心配なのはわかるけど私としてはちょっとだけでも出てきてほしいと思っているんだよね」
 ちょっとだけ俺が出社して何になるって言うんだ。
「本当申し訳ありませんが、今日はお休みいただきます。すいません」
 島原さんの声を聞かずに俺は電話を切ってしまう。
 途中、バスが信号待ちしていると、後ろからサイレンが聞こえてくる。救急車だ。バスはゆっくりと路肩に寄せる。横を通り過ぎて行く救急車を見ながら一瞬でも! 一秒でも! 早く! 病院に患者を運んでくれ!! と思うのは昨日のことがあったからだけど、前の車はあんまり避けようとしていなくておまけに渋滞気味で救急車は思うように進めてなくてもどかしい!!
 バス停に着いて病院へは駐車場をショートカットして正面入口を目指す。薄汚れた白い外壁の大学病院のバックに真っ青な空が広がっていて、屋上の上に太陽が頭を出しかけている。しかし、朝見た瑞々しさはもうない。
「あ、パパ~!」
 病室に入ると圭太の明るい声が出迎えてくれる。昨日の村井先生や看護士さん、三智子も一緒だ。
「おはようございます」
「おはようございます。これから昨日ご説明した検査に行くんですが……」という村井先生。「昨日より小さくなってる気がするんですよね。そう思いませんか?」
「ほんとだ」
 昨日より白いたまごの頭が確実に傷口に引っ込んでいる。
「だよねだよね!」
 横で腕を組んで見ていた三智子が強く頷く。
「だって昨日はこーんな感じでぷくう~ってなってたもん。ね? タケユキこれ治ってるってこと?」
 タケユキ? 村井先生の胸についている名札を見る。村井健之。
「すいません。呼び捨ては駄目だぞ」
「いやいやいいんですいいんです。他の子どもたちにも名前で呼ばれてるんで」
 名前に健康の健が入ってるところとかさすが医者になるべくしてなったな。
「健之ねーパパとおんなじ歳なんだよ。にじゅうきゅう!」
 圭太は右手で二、左手で九を作ろうとしてうまくいかなくて五と四をすばやく入れ替えて表現している。
「じゃあ検査室行こっか」
「はーい」
 圭太は車イスに乗せられて病室を出る。
「ずいぶんご機嫌だな」
 俺は三智子に耳打ちする。
「朝起きてからずっとあの調子。相当先生のこと気に入ってるみたい」
 それももちろんあるだろうけど、傷の具合がいいっていうのが精神的な余裕をもたらしているのでは? 昨日までは今にも膝からこぼれ落ちそうなくらいだった半球の白いたまごが、今日は皿の方に沈んでいて頭を出している程度だ。相変わらず周りの傷はぐじゅぐじゅだけど。
 CTスキャンのある部屋に入って、圭太はドーナツ型の機械から伸びるベッドに仰向けに寝る。
「じゃあ、そのままじっとしててね」
 看護師さんに説明を受ける圭太。
「これに入ってくの?」
「そう、このベッドが動いて穴の中にはいってくからじっとしててね」
「すげーエントリープラグみたいじゃん」
「たしかにエヴァっぽいなあ」
 と、俺が言うと、
「これは普通のX線CTですけど、ポジトロン断層法ってやつもあってそれは名前モロにエヴァですよね」
 と健之が俺に言う
「ちょっと音がうるさいけど怖がらなくていいからね。全然痛いとかないから」
 圭太が元気よく頷く。
「え、お姉さん行っちゃうの?」
 隣の部屋に移動しようとすると圭太が言う。
「大丈夫、あっちの部屋から見てるから」
 そう言った看護師さんに促されて俺たちは隣の部屋に移動する。
「これ、どのくらいかかるのかな?」
「十五秒くらいですよ」
「そんなに早いんだ!」
 と俺がびっくりするのは、三年前に三智子に甲状腺に腫瘍が見つかってそのときにやったMRIの記憶があるから。あれはすごい時間かかった覚えがある。
 三智子の首から鎖骨へと伸びる傷……。三智子を見ると曇った顔をしている。三智子もあのときのことを思い出しているのかもしれない。
「圭太、私じゃなくてあの人のこと呼び止めた」
「え?」
 聞き返すけど三智子はもう何も言わない。もしかして嫉妬?
 すぐに終わり、圭太のところへ行くと、「え、もう終わりなの? まだ全然余裕なんだけど」と強がる圭太。看護師さん意識してる?
 再び診察室に戻り、CTの結果を伺う。やっぱり白いたまごは皿の骨から出ていて、それぞれが独立していることがわかる。つまり、皿が変形してあのような形になっているのではない。膝蓋骨とは別の何か。
「圭太君、いま痛くないんだよね?」
「全然。ちょっとかゆいけど」
「かゆい?」
「なんかむずむずする」
「そういえば昨日風呂でも言ってたんですよね」
 俺は昨日風呂で圭太がかゆいと言い出したことを村井先生に説明する。
 村井先生は、形成外科や骨に詳しい専門医の先生、そしてなぜか内科の先生まで連れてきて、彼らは入れ替わり立ち代わり圭太の膝の白いたまごを観察する。しかし誰一人はっきりとしたことを言ってくれない。
 結局、また検査入院という話になると、それまで黙っていた三智子が口を開く。
「ねえ? 圭太連れて帰ろ?」
 入院がいつまで続くかわからないし、検査の項目によっては圭太に苦痛なこともあるらしく、かわいそうというのがその理由だ。
 白いたまごに穴を開けて組織を採取するとか聞いてるだけで辛そうな検査もある。でも骨自体には痛覚ないから痛くないのか? という疑問に「いや骨の表面にある骨膜というのがり、そこには痛覚神経が走ってるから痛いはずなんですが」と健之は説明しながら白いたまごにステンレスの棒でそっと触れるけど圭太は痛がらない。謎。
 白いたまごは骨ではない?
「でもさ、昨日みたいに発作的に痛みがくるかもしれないじゃん」
「圭太、もうおさまってきたもんね?」
 三智子は勝手に話を進める。
「うん。もう全然痛くない! けどま、俺はどっちでもいいけどね」
 と格好つける圭太は、絶対すぐそばにいる看護師さんを意識して言っている。
「あっ、そう」
 三智子……?
「夜とかも意外に怖くないし、入院とか意外に平気かも」
「……」
 三智子の表情がみるみるうちに無表情になる。
「わかった。じゃあ圭太ずうーっとここに入院してれば」
「え」
「ひろ、行こう?」
 と言ってドアに向かって歩いていこうとするのを慌てて三智子の手を取り止める。
「なに言ってんだよ」
「なにって、だって、圭太ここにいたいんでしょ?」
 三智子を見つめる圭太目がみるみる潤んでいく。で、すごい勢いでブルンブルン顔を左右に振る。
「……やだ」
「きれいなお姉さんに優しいお兄さんがいて、圭太全然寂しそうじゃないもんね。一人で大丈夫だよね」
「おい三智子」
 俺は今にも涙がこぼれそうな圭太を抱き寄せる。
「圭太はもうお兄ちゃんだし一人でがんばれるでしょ? ね? というか本当もうそろそろがんばってもらわないとね」
 三智子の発言を聞いて、この状況に困惑している先生たちが一つの可能性を疑っているのを感じる。でもそうじゃないってことを説明している暇はない。
「なんで圭太にそういう言い方すんだよ」
「もう私の気持ちなんか誰もわかってない!」
 三智子はくるんと回ってドアに一直線。
「おいっ!」
 三智子は俺を無視して部屋を出て行ってしまった。
「渡久地さん……」
 と、俺のことを姜尚中ばりの渋い声で呼ぶのは、健之と一緒に説明してくれていた、彫りの深い髭を生やしたダンディな顔した形成外科の先生。
「っぅぐっ……ふっぐっ、ぐ、ぐわっぷ、ぷふぁああああん!」
 泣き出す圭太をなだめなていると、ちょっとお話させてよろしいですかと尋ねられて、あーこれややこしくなってきたぞと思う。


 圭太の服やズボンをめくられて傷がないか念入りに確認されたときには三智子がそんなことするわけないだろ! と怒りがこみ上げてきてで卒倒しそうになる。
 圭太はプレイルームで看護士さんに相手をしてもらって、その間に俺は髭の先生と健之と三人で話す。
 形成外科の髭の先生の名前は天野道法。
「『てんのみちのり』ってすごい名前でしょ?」
 天野先生は彫りの深いダンディな顔で俺に微笑み。、その笑顔だけで俺はこの人は信用できると思ってしまう。まず声が渋いってのは、何をしゃべっても発言に説得力が担保されるからずるい。
 天野先生は職業柄、日頃肩が外れた子供や骨折の子供を見たりしていて、その中にはある一定の割合で幼児虐待方面の可能性がある子を目にすることがあるそうだ。
 三智子のことを尋ねられるけど、別に隠すことなんてないから正直に話す。
「普段はさっきみたいなこういうことはないんですか」
 と尋ねられて、海水浴のとき以来、雄大や圭太に妙に強く当たる三智子が思い浮かんでちょっと返事に躊躇しそうになるけど、あれだってたまたま虫の居所が悪かっただけで、子育てをしていたらあのくらいのことは日常茶飯事だ。
「まったくないっすね」
「圭太君大きな声や音で体を硬直させたり怯えた顔したりすることとかもないですか?」
「特には」
 誰だっていきなり大きな声や音を聞いたらびっくりするだろうと思うけど。
「さっきの三智子の行動には、ぼくもちょっと驚きました」
「ストレスが溜まってきてるのかもしれませんねー」
 健之が天野先生に言う。
「そのストレスの原因が子育て、だとすると裕史さんにはこれから奥さんのことちょっと注意して見ていただきたいんですよ」 
 天野先生が俺を見る。
「それは、あの、先生さっきから何言いたいんですか?」
 しびれを切らして俺は単刀直入に尋ねる。
「今後虐待に走るといったことも、可能性としては考えられます」
 俺は深呼吸にも似た重たいため息を吐く。
「まあ可能性の話ですから、そんなこと言ったら誰にだってそういう可能性はあるんですけどね。それまですごく育児に熱心だった人が、ある時急に嫌になって育児放棄や虐待に走ってしまうことはままあることなんですよ」
「いや別にそんな心配しないでください、これは三智子さんが特別というようなことでもありません。どんな人だって我が子が憎らしく見えてしまうときはあります。大抵そういう感情は一時的なものなので」
「……」
「裕史さん、虐待のニュースなんか見たり聞いたりしたことこれまであると思いますが」
「……はい」
 ついこの間もラジオで聞いた。
「虐待をしてしまう過程とそうならない家庭に海の底より深い溝はないんですよ」
「どういうことですか?」
 俺はそういうニュースを見たり聞いたりしたとき、そのクソ親のことをまったく別の人間、いや人間だとすら思っていないが。
「誰にだって起こりえることなんですよ。いくら子供といえどさっきも言ったように四六時中付き合ってたらむかつくこともありますしね、人間ですから」
「でも――」
「ええ、もちろん、そこで虐待に走ってしまうか否かというのは大きな差がありますし。でも、実は思っているよりも虐待というのは誰にでも紙一重の部分があるんです」
 俺は先生の説明に納得できない。
「でもやっぱ先生、自分の子供を虐待するとかちょっとおかしいし、正直言ってそんな親は許されるべきじゃないと思うんですけど。理解できない」
「裕史さんは正しい。まったく持って間違っていないです。でも、虐待を心の底から子供のためになる、正しいものとしてしてしまう人もいるんです」
「え?」
 俺は先生の話を聞いてるうちにものすごく緊張してきた。何かこう今まで信じていたものが揺らぎ崩されようとしているような感覚。
「躾だって言うんですよ」全身に鳥肌が走る。「熱湯をかけることが、骨が折れるほど殴ることが、蹴飛ばし転ばすことが躾だと言い張るんです。僕はね、最初それ聞いたとき、虐待をごまかすためのいい訳だと思って聞いてたんでけど、何人とも話しているうちにちょっと違うなって気が付いたんです」
「本気で躾だと思っている……?」
「そうなんです。彼らは子供のためになると思ってやってるんです。自分が絶対に虐待しない、俺はそんなやつとは違うと思っている人は、虐待してしまったときにもそれを虐待とは思わずやっている可能性があります」
 俺は何も言わずに天野先生に何度も頷く。
「裕史さんは子育てにどれくらい関わってます?」
「どれくらいって……」
 一緒に風呂入ったり、海だって行ったし……と指折り数えて行くがそれって子育てか? 積極的に関わってますと胸を張っては言えない。そもそも、子育てってどこまでの話なのだろう。
「日中は仕事なんで基本三智子に任せっきりになっちゃってるところも多いっすね」
「三智子さん、何か打ち込むことができる趣味とかは?」
 子供できる前は、ジムとか行ったりマラソンしたり体動かすことが好きなようだったけど……。
「そういうのは子供生まれてからはないかも」
 答えながら、これは三智子だけの問題じゃないのだと気づく。三智子がなにがしかにフラストレーションを溜めていて、それが原因で圭太たちに当たっているとすればそれは俺も悪いのだ。
 そして天野先生は三智子に対してというよりむしろ俺に警告しているのだ。虐待なんか絶対するはずがないと思っている俺にこそ、この話を伝えたかったのだ。
 俺は考えを改める。子どもに虐待する親は価値観のまったく違う遠くの人間のように思っていたが、ちょっと振り返って考えるとあの時あの瞬間、自分の感情のはけ口として手を上げそうになったことは一度や二度ではない。幸いそこで立ち止まっているからよかったものの、もしかしたら俺だって三智子だってその可能性はあった。夜と朝しか子どもと一緒にいない俺ですらそうなんだから、俺以上に子供と一緒にいる三智子のストレスたるや大変なものだろう。
 三智子は誰に当たれるのだ?
 これ、子供の悩みと同じじゃないか。俺は子供はコンプレックスを抱えて多いに悩めばいいと言ったが、それはいつでも周りに相談できるって条件というのがあって言えることであって、子育てにも当てはまること。三智子の子育てに対する悩みや不安をちゃんと相談できる空気を俺は作ってやれていただろうか? 彼女がそういったものを溜め込んでしまっても当然といえる環境だったのだ。
「先生」と部屋に入って来たのはさっきの看護士さんとは別の人で、村井先生がが呼ばれて退席する。
 その時、俺のポケットの中のケータイに電話がかかってくる。
「すいません、妻から」
「どうぞ」と天野先生が言ってくれるので、俺は電話に出る。
「もしもし」
「……」
「もしもし」
「……今どこ?」
「病院だよ。さっきは――」
「ごめん。ほんとごめんね」三智子の声が震えている。「圭太は?」
「看護士さんと遊んでもらって」
「……そう」
「私、なんであんなこと言っちゃったのかな……」
「どうした?」
「わかんない。圭太があの女の看護士さん……」
「うん」
「とかあの男の先生にすっごいなついてて、しかも帰りたくないとか言うの聞いてなんかすごく腹立って。心配して一緒に一晩過ごしてあげたのになによそれって」
「圭太は三智子が泊まってくれたの感謝してるし嬉しがってるよ」
「うん。わかってるんだけど……。ひろ今何してんの?」
 俺がこの状況をストレートにしゃべっていいものか悩んでいると、天野先生にも三智子の声が聞こえていたみたいで言わないでいいとい顔をする。「圭太が落ち着くの待ってた」
「あーどうしよう! 私圭太に嫌われちゃったかな?」
「それはないよ」
「許してくれるかな?」
「わかってくれるよ」と言いながらも不安なことはちゃんと聞いておいた方がいいだろう。「三智子、またああいうこと圭太にしたりしそう?」
「え?」
「んーだから嫉妬とかしたときに冷たく当たったり」
「私だって別に全然やろうなんて思ってたわけじゃないの!」スピーカーが割れるほどの声。「でもふと気がついたら言ってて……。なんか最近そうなることが多い……」
「雄大や圭太のことが憎かったり嫌いとかじゃないんだよね?」
「私が本心からああいうことを考えてると思ってるの?」
「そうじゃなくて確認だよ。でもちょっと最近の三智子は二人に対して辛く当たってたところもあったからさ」
「確認て……え!? まさか私が二人に虐待とかしそうと思ってるわけ?」
「だから違うって」
「ちょっとショック。信じらんない」
「おい、聞けよ。三智子が二人のこと愛してるのはわかってるよ」
「じゃあなんで疑うようなこと言うの?」
 そう言われて言葉に詰まる。疑っているわけじゃないんだ。でも、それを説明する言葉が見つからない。
「……三智子今どこいるの?」
 背後で聞こえる音が建物の中かあるいは屋内の広い空間にいる感じで家ではないことはわかる。
「あーやっぱ私ダメだわ。今そっち向かってる。あと十五分くらいで着く」
「わかった」
「……ごめん」
「それ、俺じゃなくて圭太に言ってあげてね」
「うん……」
 電話はそこで切れる。
「圭太、入院はした方がいいんですよね?」
 天野先生は手元の紙に何か書きながらしゃべる。
「僕たちとしては入院してゆっくり検査してもらいたいのですが……。さっきのやりとりとか今の感じお聞きしてて、この状況で三智子さんから圭太君を離すのはどうかなってのは個人的にはちょっと思いました。圭太君見てると差し迫ったってわけじゃなさそうですし、無理にとはいいません。もし帰られるのでしたら化膿止めの抗生物質とかは出しますんで。あとこれ」天野先生がメモを差し出すので受け取ると、そこには電話番号が書かれている。「なんかあったら、いつでも遠慮せずご連絡ください」
「ありがとうございます」
 席を立ち部屋を出ようとドアの前に立ったところで、向こう側からドアが開く。
「あ、」
「あ、どうも」
 部屋に入ってきたのは圭太のお気に入りの看護士さんで俺は会釈する。
「圭太君のあの白いあれが……」
 背後で先生が立ち上がる気配を感じつつ、俺は部屋を飛び出す。


 あれ?
 泣き叫んで痛がっているのを想像していた俺は、プレイルームで他の子供と一緒にミニカーで遊んでいる圭太を見て拍子抜けする。膝の傷にガーゼがないのが気になるが。
 看護士さんが「膝からガーゼ取れてて傷口みたらまたちょっとたまごが膨らんできてるみたいなんです。別に痛くないみたいなんですけど」と俺の疑問を説明してくれる。
 天野先生が圭太に近づき、膝の状態を確認する。
「あれ、健之は?」
「健之君はちょっと今仕事。圭太君今痛くないの?」
「うん。痛くないよ。俺まじ強いし」
 天野先生の後ろから覗き込むと、昨日ここに運び込まれたときほどじゃないけど、たしかに膝の傷にはまたぷっくり白いたまごの頭が出ている。
「このガーゼ圭太君が取ったの?」
「気づいたら取れてた」
 でもがっちりテープで止められてたガーゼが普通に遊んでいるだけで取れるだろうか。
「ねえ?」
 圭太は俺を見る。
「なに?」
「ママに僕捨てられたの?」
 心臓に杭を打ち込まれたような衝撃。淡々とした口調で言うからすべて受け入れてしまったように見えてしまい俺は焦る。圭太と天野先生の間に体を入れて俺は圭太の肩を抱く。
「そんなことないって。ママがあんなこと言っちゃったのは、ちょっとママあのとき気持ちが不安定で……」と言いながら嫉妬しちゃったんだよってことも言ってしまおうか迷う。余計なこと言わない方がいいのかもしれないけど、俺は圭太を安心させたいから言う。「圭太、嫉妬ってわかる?」
「嫉妬?」
 という圭太の発音が「Siht」に聞こえて俺はもう一度言う。
「うん、嫉妬。圭太、葵ちゃん好きだろ?」
「え! なんでパパ知ってんの?」
 葵ちゃんは同じマンションに住む小学三年生でよく圭太は遊んでもらっている。
「パパは圭太のことなんでも知ってんだよ」
「葵ちゃんがどうしたの?」
「葵ちゃんがさ、他の男の子とすげー楽しくしてたらどう?」
「う~ん、うれしいかなあ。あ、でもなんかもぞもぞするかも。なんかやだ」
「そのもぞもぞな感じとか嫌な感じが嫉妬ね」
「うん、わかるっちゃわかる」
「ママもそれ。あのとき嫉妬しちゃったんだよ」
「なんで?」
「圭太が好きすぎて」
 圭太が村井先生や看護士さんと仲良くしててと具体的に言うと、もしかしたら今度から三智子が一緒にいるところでは誰かと仲良くしちゃいけないんだって思っちゃうかもしれないなあと思いながら話している。うーん、なんて伝えればいいんだろう。
「じゃあ、パパとばっか仲良くしてたらママ怒っちゃう?」
 大丈夫、とはっきり言うべきなのに言葉に詰まる俺。もしこのまま三智子がストレスを感じたままでいたら、そういうことにもひっかかってくるかもしれない。
「圭太君。君は別にそんなこと考えなくていいんだよ。圭太君は自分の好きな人と好きなだけ仲良くすればいいしそれを遠慮することは全然ない」
 と、天野先生。
「でもそしたらママ怒っちゃうんじゃないの?」
「大丈夫、さっきはたまたま機嫌が悪くてあーいうことになっちゃっただけだから。むしろ、ママは圭太君が誰かと楽しく過ごしてくれてた方がうれしいはずだよ。だって、パパはそうだよね?」
 天野先生が俺を見る。
「そりゃもうもちろん! 俺は圭太がいっぱい友達作って楽しくしてくれるのが嬉しい」
「そっか、わかった。つーかなんでパパ葵ちゃんのこと知ってんの? あっ」
 俺を見ていた圭太の視線が後ろに飛ぶ。
 振り返るとプレイルームの入り口に三智子が立っている。
「圭太!」
 走ってきた三智子に、俺も天野先生も突き飛ばされる。
「けいた~! ごめんね。ママ、ほんとひどいこと言っちゃったね。ごめんね」
 だっこして抱きしめるママに、圭太が一言。
「ママ、嫉妬だって」
「え?」
 三智子は動きを止める。緊張感が走る。
「ごめんね、圭太……ママ最低だよね」
「ママー」
 と言いながら圭太が泣き出す。それをしっかり受け止める三智子。
「もう帰ろうね。一緒に家帰ってご飯食べよ」
「ぐひぃっ、ふぅん、『スタミナ亭』がいいぃ~」
 天然だとは思うがこの状況でちゃんとリクエストする圭太に思わず笑ってしまう。『スタミナ亭』は圭太が大好きな焼肉屋なのだ。しかもちょっと高めの。
「うん、行こうね行こうね。おいしいお肉食べようね」
「お薬出しときますよ」
 天野先生が俺に耳打ちをしてくる。すいません、と俺は会釈。
「じゃあ、圭太君、膝の傷ガーゼしてお家帰ろうね」
 という看護士さんを無視して三智子は圭太を抱っこしてプレイル―ムを出て行ってしまう。
 呼び止めるがもうこっちを振り向かない。


 三智子の運転で家に帰る。
 三智子は運転しながら、ネットで見たらしいさっきの病院や先生の悪口やよくない噂話をずっーーーっとしゃべっていて、へいへいへいって感じで聞いてたら、多摩センターを超え松が谷トンネルを超える頃にはすべて吐き出したようで大分落ち着きを取り戻す。
「あれ、そういえば今日会社は?」
「休むことにした」
「そう」
「じゃあ一日パパと一緒に入れるの!?」
 圭太が後ろの席から言う。
「ああ、一緒だよー」
 堀之内の坂をぐうーっと登って長池公園にかかる橋を通り過ぎるときに、公園で親子が遊んでいるのが見える。
 海で圭太にごねられたときもあれだけ会社休むことを躊躇していた俺だったが、今日はちゃんと休みを取れた。取ろうという気持ちがあれば簡単に取れるのだ。休みが取れないことを理由に、三智子や雄大や圭太の相手をしないことは間違っている。
 我が家に到着。俺と圭太だけ家の前で降りて、三智子はちょっと先にある駐車場に一人で車を置きに行った。
 昨日からいろいろ起こりすぎてぐったりで今すぐベッドに入りたいけど、せっかく休みなんだし圭太とも遊ばないともったいない。
 リビングに入ると、雄大がテーブルにノートを広げている。
「友達んとこ行ったんじゃなかったの?」
「つまんないから帰って来た。やっぱ勉強は一人でした方がいいし」
 と言うけど本当は圭太のことが心配だったとか?
「ただいま~」三智子が帰ってくる。「あ、ひろひろ?」
「うん?」
「お母さんから今連絡あって、今から来るって」
「今から!?」
「圭太のこと話したら、お母さんが今はまってる体にいいお水持ってきてくれるって」
 またそういう類いですか……。
「癌とかにも効いた人がいる水らしいよー。それ飲んで末期癌から完治とか――」
 なんだよその無敵水。
 勘弁してくれー! と叫びたくなるのをぐっと堪える。


「よっ、よっ、よよぉ~」
「よっ、よっ、よよよぉ~!」
 圭太と雄大が歌舞伎揚げを両手に持ち俺の前までやってきて見栄を切る。俺は冷蔵庫に直行して午前中からビール、は贅沢だけど、この後予定ないし……というかこれから始まる大ボスとの対峙を前に景気付けしないとやってられない。缶ビールを掴み、雄大の手から歌舞伎揚げを一つ取ってソファに座る。一気に半分くらいビールを飲み歌舞伎揚げを食べてると、二人がソファの前に移動してきて俺の正面でオリジナル歌舞伎を見せてくれる。
「あははっ、うまいじゃん」
 圭太は傷を負った右膝をちゃんと膝曲げてて気にしている様子もない。
「うん。じゃあ、そこで待っててよ。はい、はいはーい」
 廊下から三智子の声。なんだよ、まさかもう来たっていうのかよ。
「もう駐車場着いたって」
「早いなあ」
「って、なんでビール飲んでんのよこんな真っ昼間から」
「いや、別に予定ないし」
「ママぼくもコカコーラ飲みたい~」
「もーう……。ほら、立って。行くよ」
「え? 俺も行くの?」
「ねえ? 飲んでいい? 飲んでいい?」
「お水運ぶの手伝ってあげてよ。ほら二人もおばあちゃんたち来るからおもちゃ片しちゃって」
「よっよっ、よよよ~!!」 
 と言いながら雄大がよたよた三智子の前に行って、でんっ! 目の前で大きく見栄を切る。
「はははははっ!」
 圭太と一緒に声を上げて笑うが三智子は全く笑わない。
 駐車場に行くと、うちの車の前にマークXが止まっている。お義父さんの車だ。
「ゆ~うだ~いさ~ん」
 手を振ってきたのはお義母さんの富美代で運転しているのはお義父さんの健司。
「あ、どうもこんにちわ」
「ちょっと待ってて。今、車どけちゃうから」
 三智子もやってきて、アコードに乗りこみうちの駐車場を譲り、そこにお義父さんが運転するマークXが停まる。
「なんか水持って来ていただいたとかで……持ちますよ?」
「あ、大丈夫大丈夫。持ってくるのは私たちじゃないの」
 どういうこと?
「その代わり裕史さんには、はいこれ! けいちゃんとゆうちゃんに巨峰ね」
「あ、すいませんわざわざ。この前もいただいちゃったのに」
 袋の口からちらっと見ると、やっぱりけっこう痛んでそう……。この前のもそうだったけど、こういうところお義母さんちょっとがさつだよなあ……。
「早く持ってて洗って食べさせてあげて。あ、ちょっと! 潰れちゃうから傾けないで水平に!」
 もう下の方は熟れ過ぎてて潰れちゃってますよとはもちろん言わない。
 玄関を開けると、「よっ! よよよお~」と二人が出迎えてくれる。
「あ、なんだ。パパか」
「なんだってなんだよ」
「おばあちゃんかと思ったのに」
「そのおばあちゃんからぶどうもらったぞ。食うか?」
「またぶどうかよー」
「毎度毎度ぶどうってもう飽きたんだよなー。皮剥くの面倒くさいし。たまにはミスドとかがいいよな」
「ミスドがいい!」
「ぶどうで孫が喜ぶと思ってるとかどんだけ昭和脳だよ」
 昭和脳……。俺は慌てて後ろを確認するがまだ来てない。
「雄大。それおばあちゃんの前では言うなよ」
 はいはいと言いながら雄大はぶどうを持ってキッチンに行く。
「おっひさしぶり~」
 お義母さんを先頭にリビングに三人が入ってくると、当初の計画通り二人はスーパー歌舞伎を披露する。
「あらー上手上手! 海老蔵さんみたい。二人ともなんかお稽古事とかさせたらいいのに。ね、裕史さん?」
「えびぞーってなに?」
「俺、海老蔵な。圭太お前カニ蔵だから」
「えー僕も海老がいい!!」
「だめ」
「じゃあ僕サメ蔵」
「はー? なんだよそれ」
「だってサメかっけーじゃん」
「見た目だけで格好いいとかそういうの古いから」
「いいか、二人とも元々歌舞伎ってのはだな……」
 圭太と雄大の話に割って入ってきたのはお義父さんで、歌舞伎とはみたいな講釈垂れ始めるもんだから、いやいやそういうことじゃないんだよなーほんとしらける、みたいな顔をあからさまに二人がしていて俺は笑いそうになる。おじいちゃんの話をちゃんと聞きなさいとはとてもじゃないが二人が気の毒過ぎて言えない。だってお義父さんの話はいつだってつまらないから。
 玄関の能天気なチャイムが鳴る。
「あ、来たんじゃない? はいはーい」
 お義母さんが玄関に走る。
「誰?」
「水の人みたいよ」
 三智子が当たり前のように答える。
「感玉の水の人だよ」
 お義父さんが得意げに言う。かんぎょくの水? ああ、無敵水のこと? って、え? 勝手に誰呼んでんだよ。
「いやいや、どうもどうも~でございます~」
 お義母さんについてリビングに入ってきたのは、ダブルのスーツを着た四十代半ばくらいの恰幅のいいおっさん。肌が黒く前髪に金のメッシュ、右手に二つ、左手に三つのごつい指輪をしている。絵に描いたような胡散臭さ! おっさんは腰の高さほどある箱と、その上にそれより小さい正方形の箱を抱え入ってきた。
「誰?」
 圭太が俺のズボンを引っ張る。
「この人はね、圭ちゃんのお膝の傷を治す魔法の水をもってきてくれた人なの」
 お義母さんは圭太の目線に合わせてしゃがんで、ゆっくりと話す。 
「いやあ、暑い暑い。今年は猛暑ですねえ。あ、すいません、お水いっぱいいただけますか?」
「あ、はいはい」
 お義母さんが冷蔵庫を開けてお茶をグラスに注ぐ。
 セールスマンが客の家来ていきなり水くれかよ。
 えっ……つーか待ってくれ、それで飲むのは止めろ!! と叫びそうになるのは、おっさんが今その分厚い唇をねっとりつけて飲んでいるのは、俺と三智子の結婚記念日に買ったペアグラスの割れなかった方。
「いやあ~ありがとうございます。おいしかったです。って、お水いっぱい持ってるんですけどね。あははははっ! でもね、今いただいたお水に負けず劣らずこのお水もなかなかですよー」
 そういって箱の小さい方を開ける。中には水の入ったプラスチックのタンクだ。
「まずはこちら、あ、すいませんねちょっーっとテーブル借りますよーっと」水のタンクをテーブルに置いて「で、こちらが……」と下の段ボールから引っこ抜くようにして出してきたのは白い長方形の機械。
「これサーバーなんですけど、この上にタンクを乗っけて……」タンクをくるくる回してサーバーと接合。
「そしてここのつまみを下げるとほら、水が出てくるの」
 とセールスマンからバトンを受け継いだお義母さん。ぽぽぽこぽこぽこっとサーバーとの接続部から気泡が浮いてきて、つまみの下の蛇口から水が出てくる。ウォーターサーバーだ。
「これ、うちの使ってるやつより一回り小さいやつよね」
「はい、富代美さんのところに置かせてもらってるのは業務用のフルサイズ規格でございますので」
「このタンクに入ってるのがお母さんの言ってた体にいい水なの?」
「あ、奥さんお話伺ってらっしゃる?」
「ワ! タ! シ! が! ちゃんと説明しといたわよ! だってほんとこの水飲んで調子よくなったんだもん」
「なるほどですね! ありがとうございます。じゃ、とりあえずサーバーここ起きますね」
「いや、ちょっと……」
 俺は止めようとするが、スーツのおっさんはタンクを乗っけたサーバーを勝手に冷蔵庫とキッチンの間に差し入れる。そうそう、たしかにそこの隙間、中途半端でデッドスペースになってたからぴったりじゃん。て、そういうことじゃねえ!
「ちょっと待ってください。お気持ちは嬉しいんですがうちこういうのはちょっと正直いらないんで」
「まあまあ旦那さん。ちょっとお話させてください。あ、お名刺渡すの忘れてましたね。わたくし有限会社金光イオンウォーターの営業をやっております、石神と申します」
 ギラギラと光る成金な指輪をつけた太い指が俺に伸びてくる。誰がどう聞いたってイオンウォーターかと思うだろうけど、名刺を見ると「金光イオンうぉ~た~」で、ああ! もう! すっげーいかがわしい!!
「聞きましたところによると、お子さんの膝に原因不明の腫瘍が出来たとか?」
「今検査してるところなんで腫瘍かどうかはわからないです」
「あ、僕の膝かな?ちょっとこっち来てくれる?」
 石神さんは圭太の前にしゃがんでガーゼのあたりを見てる。で、ばりりりと躊躇なく外す。
「ちょっと石神さん!」
「ああ、これねこれ、なるほど……」
「あら、石神さんわかるの?」
 お義母さんが尋ねると、石神は大きく頷く。
「これね、うちのお客さんにも似たような症状の人いましたよ。ええいました。でも大丈夫です、その人もこの水飲んだらすぐ治りましたから。あ、その人の場合は膝じゃなくて肘だったんですけど」
 ありえねえ……。なんだこいつのこのうさんくささ全開のくせして開き直った態度。こんなペテン師のペースにしてはいけない。
「水飲んで治るんだったら医者なんかいらないでしょ」
 こいつまじ完璧に論破してやんぞと思って吹っかけたら、石神さんはパチンッ! 指パッチンして俺を指差す。
「そう! そうなんです。この水飲めば医者いらずなんです!」
 そう言うと鞄からパンフレットの束を出してテーブルに載せる。
「まず水というのはエッチツーとオーがくっついた分子構造をしていまして……」
「この『感嘆たる岩清水の真心の玉』はそこにイオン分子がくっついてハニカミ構造を構築してるのよね! あ、三智子メモしなくて大丈夫? 裕史さんもちゃんと聞いて?」お義母さんが嬉々として説明し始める。「ハニカミ構造っていうのは、自然界の中にあるとっても強い形で例えば蜂の巣なんかがそうなんだけど、これってつまり自然の中にある強い形がこの水にも入ってて、それってとっても体にいいことなのよ。で――」
 これまでもいろんな知り合いにこうやって説明してきたのだろうと思わせる説明慣れした口調で滔々と語る。まず、ハニカミじゃなくてハニカムだろ。ってそんなことは些細なことで、突っ込むところが多すぎな説明を聞いてられず、俺はほげーって顔してほぼ思考停止になりそうになる。でも実際に思考停止になっちゃってるのはお義母さんで、だからここまでのめり込んじゃっているのだろう。
 俺と三智子が結婚した直後くらい、一時、新興宗教にはまっちゃったときのことを思い出す。あのときもこんな目をして俺たちに布教してきてた。
「富代美さん、おいしいとこ全部話しちゃうんだもんなあー。僕の話すところなくなっちゃたわよお~」
 石神、なぜ急にオネエ言葉……。
「へーほんと体によさそうね」
「え、三智子まじで言ってんの?」
 三智子がまさかの陥落。しかも今の説明で!?
「え?だってほら、体験記とかすごいいいこと書いてあるよ? この人は肌荒れでしょ、この人はへえ! 胃癌が治ったの? で、この人はぜんそくとアトピー。ちょっとよさそうじゃない?」
「三智子もほら、甲状腺アレしたじゃない。だからあなたなんかにもすごくいいと思うわよ」
「あら、奥様、甲状腺煩ったのでございますか? それじゃあ何かと今後も心配おありでしょうけど、でもこれからはご安心ください。この『感嘆たる岩清水の真心の玉』はそういったことに効果抜群です。例えば、この胃癌の方、実はワタシが担当させていただいていたお客様なのですが、そこに書いてある通り、当初初めてお会いしたときは医者も匙を投げるほどの末期で余命いくばくもないという状態だったんですが、この水を毎日飲み続け、お風呂にも使い、そしていま私がつけているこのブレスレットですね。これはのちほどまた紹介させていただきますが、簡単に言うとこれは高周波な磁気が出ていまして、あのよく肩こりに効くなんていって張るタイプのものとか磁気ネックレスとかありますよね? あのもっと強力なやつでして、それをネックレスの素材に練り込んでいるんですよ。南米はチリから採掘した高い周波数を内包する石を。これが体にとてもいい影響を及ぼすんですね。ちなみにネックレスに練り込む技術はうちの会社で特許を取らせていただいております」
「ほら、湯治とかあるじゃない。温泉のゲルマニウムが出す放射能が体にいいとかで。これは首にかけるだけでその効果があるのよね」
 という、お義母さんの首にはギラリと光る石神と同じネックレス。恐る恐る後ろを振り返ってソファに座り新聞を読んでいるお義父さんの首元を見ると……、ああ、よかった、ない。
「お父さんはブレスレット!」
 嬉々とした表情でお義母さんが俺を見る。もう確認する気も起きない。
「全部科学的根拠がない話でしょこれ」
「いや、そういうわけではございません。科学的にもちゃーんと証明されております。ほら、ここに、えーとこれがですね、ネックレスをかけたときの体温のサーモグラフィなんですがネックレスの部分色がかわってるでしょ」
「これが別に体にいいのか証明してることにはならないじゃん」
「いやいや、そう結論を急がずに。いいですか? 見てください。ここですこここ!」石神の指差すところには、白衣を着た丸メガネで髭の老人の写真がある。「アメリカはペンシルバニアの数学学者、ケリーマクドネル博士のお墨付きでございます」
 と石神は一人で拍手。それにつられて圭太も拍手。
 写真の下にはマクドネル博士の絶賛コメント。
「これが証明? ちゃんと統計とか疫学的見地からもの言ってよ」
「いやあ~裕史さん、世の中には数字や科学じゃ解明されていない不思議なことがあるんですよ」
 てめえが科学的に証明されてるって言ったんだろ!
「そうよ、私もデータとか数字とかそういうもので証明しちゃうと切り捨てられるちゃうものは絶対あると思うの。そういうことばっかり言ってるから世の中息苦しくなっちゃうのよね」
「まあ、先進的で世界を根本から揺るがすような考えや発見や発明というのは、必ず最初は叩かれるんもんなんでよ。そんなのあるわけないって。地動説とかまさにそうでしたからね。でも我が社は負けませんよ~!」
 と言って、石神は力こぶを作る。なんだそれ……。
「違いますよ。よく勘違いされてるけど、科学ってのはこっちとあっちをばっさり分けて切り捨てるんじゃなくて、こっから先はわかんないことだからって曖昧にしておこうぜってところを決めるんだと思いますよ。その曖昧な部分とか、もうすでに科学ではそこの部分に関しては絶対効果ないってわかってるところを、これは体がいいだの健康にいいだのとか言いきっちゃうのがおかしいって言ってるの。まずマイナスイオンがどうのとかって、マイナスイオンて別に体に害はないか、むしろ害があるってくらいしかなくて少なくとも体にいいなんてことはねえよ。それとこんな癌にも効くなんて水が本当に実際にあったら大企業が買い占めてるっしょ」
「いや、ですからまだこの水はあまり知られてなくて――」
「俺がこういうのを問題だと思うのは、通常医療をオミットしちゃう場合があるってこと。あんたのそのでたらめな話聞いて信じちゃう人もいるだろうし、つーか末期の癌患者とかだったら藁をもすがる思いだろうから冷静な判断も出来なくなってる場合もあるじゃん。そんな時に変な説明されて、西洋医学排除してこの水だけ飲んでればいいとかそういう人も出てきちゃうでしょ? で、気がついたときには手遅れとかどうなのそういうの」
「……どうなのって言われましても。もちろん効く人効かないという個人差はありますし、私どもも絶対という言葉は使ってないので……」
「効く効かないとか病気が治った治らなかったとかも、この水やネックレスが本当に効いてるかちゃんと証明してないじゃん。それは別になんもしなくても自然治癒力で治ったものかもよ? 末期癌がこの水だけで全快するとはちょっと考えられないけど」
「ひろの言ってることあってるような気もするけど……。んーやっぱ私あんまよくわかってないけどさ、でも別にいいんじゃん? だって水だよ? いくら飲んだって体に害はないわけでしょ? そんで治るかもしれないって飲めばプラシーボ効果でもなんでもいいけどさ治るかもしれないじゃん。だったらいいじゃん別に」
「そうですそうです。そういうことなんですよ! 病気に打ち勝つのに一番必要なのは、絶対治るんだ! って強い意志ですから。そこを私ども後押しするとともに――」
「強い意志だけで治ったら病院いらねーよ。三智子、効果ないものに高いお金払うのは馬鹿でしょ?」
「裕史さんの言いたいことはわかりましたっ!」
 と激昂しているのはお義母さん。
「お金は私が払います!」
「え、いや……」
 は? なにこの結論!?
「飽きれましたよ、最終的にはそういうことなのね。証明されていないことにお金を払うのがもったいないと」
「いや、ちょっと待ってくださいよそういう話じゃないですよ」
「いいです。うちが出しますから。圭ちゃん、心配しないでいいのよ。圭ちゃんのこの傷は私が治してあげるからねぇ~」
 ギロリと睨むお義母さんの眼鏡の奥の目が俺を殺す。
「ちょっとだけやってみようよ?」
 三智子が俺にパンプレットをひらひらさせる。
 いいわもう。金がどうとか言われて完全に言い返す気なくなったから。えー……でも……なんで今までの俺の話が、こんな結論になるわけ? と思ってると、いきつく先はさらにもっと向こうの彼岸。
「お金お金っていうなら、この家だって半分はうちが出したじゃない。あんま言いたくないけど……。ねえ、お父さんもなんとか言ってよ。ちょっとお父さん」
「え? ああ……」
 お父さんは眠そうな声を上げると、新聞をたたみテレビを付ける。
「もう。ほんとにあの人は。面倒なときだけ耳が遠くなるんだから。あんま言いたくないけど、こういうこと言われると、婿養子でよくもまあ……って思っちゃうわよね。」
「ちょっとお母さん!」
 すべての思考と脳のしわが消える「パンッ」て音が頭の中で鳴って俺は茫然自失……。
 え……。
 え?
 なんでここで婿養子が出てくる訳? 関係なくねえ?
 あー駄目だ、ここにこれ以上いたら俺多分お義母さんにとんでもないこと言いそうだ。ごめん俺マジ駄目だわ。あーやばいなんか泣けてきた。
「ちょっとひろ! どこいくの?」
 三智子を無視して俺は家を飛び出した。
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