――岳中市の夜は静かなものだ。

文字数 10,895文字

 岳中市の夜は静かなものだ。まるで時さえ止まっているかのようである。
 時折、道路を走り抜けていく自動車の走行音が、この街の時が動いていることを知らせてくれるが、それも過ぎ去ってしまえばまた静かな闇が残るばかり。
 街を練り歩いて、すっかり夜も()けた。
 猫の子どころか酔っ払い一匹にも遭遇しない。
 ポワール・グレイグースがこの街の夜に求めるものも姿を見せない。
 ――さて。
 夜が最も深くなる時刻、と呼ばれるものがある。
「オランジェ、今の時刻は?」
 歩み続けるポワールは、まるで電話機能付き携帯コンピュータに音声入力するように、傍らの人形に声をかけた。
「午前一時、五十七分。三十秒です」
 まるで電話機能付き携帯コンピュータのバーチャルアシスタントのように淀みない返答、デジタルクロックが内蔵されているかというと()(あら)ず。
 製作者のいうことには自動発条巻(オートマティック)機械式(アナログ)時計、それもジャイロ・トゥールビヨンを備えている。心臓の位置で正確な鼓動を刻み、ズレは百年にコンマ一秒だと豪語していた。
 本当かどうかはポワールには判らない。愛娘の心臓を開いてみたことはないし、愛娘を分解できる制作者はずっと昔に逝ってしまった。
 時は流れる。
 夜が最も深くなるまで、あと二分と少々。
「この国だと、午前二時は『草も木も眠る』時刻って言うわよね」
 まるでその闇の時刻に侵入していくように、ポワールは散歩のような歩みを止めない。
「正確には時刻ではなく時間。この国では古くから、午前二時から三十分間は『(うし)()(どき)』と呼ばれ、信仰されたそうです」
 挟む解説と同じように、オランジュの歩みも淀みない。
 どこか舌足らずな気配を残したオランジェのソプラノが、知識を平易に砕いて述べる。
「信仰の基礎(ベースメント)は、汎アジアに分布する陰陽五行思想にあり、丑三つ時にはこの世の外の怪物に出会うと言われ、更に古くには神仏に願い事をすると叶うとされたと」
「《怪物》と、《カミ様ホトケ様》じゃ意味が正反対のようだけど、アタシにはこの時間の本質がひとつに見えるわ」
 ポワールの女学生時分の肉体の、張りのあるアルトが女教授のような口を利く。
「この世の外のもの、という意味では両者は同じだもの。闇夜におぞましい怪物を見るか、闇夜に清浄な信仰を抱くかという差でしかないし、そしてそのどちらも幻。清く美しいものだけが実体を持つと希望したいところだけど、どちらも形象(かたち)のないものよ。
 ね、どうして人はこの時間に、この世の外の形象(かたち)ない幻を強く意識するのかしら?」
 女学生の声をした女教授のごとき魔女――正確には死んでも消えずに残っている魔女の魂が、傍らの妖精人形に謎をかけた。
 答えは当然、オランジェが記憶しているデータの中にあるだろう。人類史とは人類についての考察についての記録、データでもある。誰かが同じことを悩み考え、哲学を編みだし、後世に語り継いだ。それはデータとして残っている。
 だが、ポワールは、オランジェの、考えを聞いていた。
 オランジェの口を接いで、ふと言葉が出た。
「ひとは誰もが、自分が幻であることから逃れられないから、でしょうか」
 それは、オランジェ自身の心でもある。
「いい答えね」
 そして、ポワール自身の心でもあった。
 夜は思索を雄弁にするわ、とポワールは前に言葉を置く。
「自分という者がここにいると誰もが信じている、いいや、自分という者は本当にここにいるのだろうかと言う疑いを忘れて、誰もが生きているのかも知れない。今ここにいる自分が幻だったらどうしよう、ふとした拍子に消えてしまったら……いいえ、人間は誰だって幻なのよ。だって人間は死んでしまうのだから。今ここにいるかも知れないけれど、明日にはもういないかも知れないなんて、人間と幻の違いはどこにあるのかしら。(くつがえ)しがたい幻を生きる者は、夜の闇に(まぼろし)(おも)うのかも知れない」
 ――幻想(げんそう)
 オランジェが、二文字の熟語を呟く。
 そう、幻を想う。幻想(ファンタジ)――オランジェの呟きをポワールが受け取る。
「幻想の反対語は現実ではない、幻想は現実を包むものよ。現実と思っているものの多くは、幻想のフィルターを通している。現実を生きていると思っていても、自分の存在という最大の幻想からは逃げられない。形象(かたち)ある身体で現実を切り開く人間の本質とは、いつだって形象(かたち)ない幻想、正体のない心や魂……」
 ポワールの語る所とは、つまり、不在の存在である。
 形のない物は存在しない、ということの真逆である。
 形のない物はどこにでもある、と説いている。
「……妖精のように」
 オランジェが、ポツリと呟いて、ポワールに和した。
「ええ、妖精のように」
 全ての人の心のように、とポワールは続け、
「アタシたちのように」
 自らの存在にも、容赦なく不在の烙印を押すのだった。
 死んだのに今なお残る自我も、動かない筈の人形を動かす自我も、いずれ消え去る幻に過ぎない。ひと時の仮初めに得た形象はいずれ失われ、形のないものに必ず還るのだと。
「そして、この夜のように」
 ポワールは、夜という者がまるでそこにいるかのように、虚空に微笑みを向けた。
「妖精は存在しない。いいえ、存在しないことこそが妖精たちの在り方なの。形象を持たず、本質だけが世界に遊離する……でも、形象(かたち)がないのがどうだっていうの?」
 ポワールは、乳房の狭間の心臓の上にそっと、掌を置く。この街の夜を歩き続けたまま。
形象(かたち)のないものは、ここにあるのよ」
 その言葉は、現実を幻想と言い切る、魔女の言葉だった。
 言葉が走ると、二分と少々など足早く過ぎ去る。
 かつてこの国で、丑三つ時と呼ばれた時は既に、訪れていた。
 迷路のような路地を抜け。
 小川のせせらぎを暗闇の奥に聞き。
 ポワールはふと、公園に立ち入る。
 真昼であれば街の人々の憩いの場であるだろう広大な公園だ。その敷地内に県立の図書館、博物館、美術館を有しているが、今は街燈の灯りがあるばかり。
 平行に位置する旧国道と現国道を、縦に繋いで県庁舎まで貫く大道であり、公園も兼ねるその一帯は、パークロードと呼ばれていた。
 ポワールは芝生の上に立ち止まると、ハーフコートを脱いで、
「帽子を頂戴」
 ――はい、と答えてオランジェは手に提げていた革張りのトランクから帽子を取り出し、熟練の女中(セルヴァント)のような流れる仕草で渡し、返す手でハーフコートを引き取る。
 ブラウスの上にジャケット一枚で、ポワールは夜気の冷たさに立ち。
 幅広の帽子を逆さに、夜という液体を満たした大杯のように、両手で捧げ持つ。
「ねえ。目に見えないものを探すには、どうすればいいのかしら?」
 コートを早々とトランクに仕舞ったオランジェは答えない。何故なら、ポワールはオランジェに対して問いかけておらず、オランジェはその機微を聞き逃さないためである。
 まるでぼんやりと、ポワールは公園に満ちる夜の気配を見ていた。
「目に見えないものに、アタシを探してもらうのが簡単だと思わない?」
 知っていたわ。ずっと、判っていた。
 ポワールは、言葉の内に笑みを忍ばせて、楽しそうに呟く。それは魔女の愉悦である。
「アタシをずっと、殺すつもりで追いかけてきていたのでしょ? この丑三つ時を待っていた……そうよね?」
 ポワールはこの夜に、姿のない者を求めた。
 そして、姿のない者がポワールを追うように仕向けた。
 姿のない者は発見されないため追跡に不自由しない。そして、何のために追跡するのかとは、追う対象が危険であるかを見極め、危険とあらば始末をつけるためだろう。
 ポワールは、彼らを探す危険人物として振る舞うだけで、彼らに追われるに充分だった。
 彼らにとって、彼らの本質を滔々(とうとう)と語る異国の小娘など、さぞ薄気味悪かったろう。
 そうとも。最初からポワールは彼らの領域(テリトリー)である、夜に向けて言葉を発していたのだ。魔物を呼び寄せる、魔法の呪文のように滔々(とうとう)と。
 後は、接触の場所をそれとなく整えるだけ。
 この草も木も眠る、僅か三十分の間。
 この街灯に照らされて闇が一層濃い、公園の芝生の上。
 魔女ひとりを殺害し、人形ひとりを破壊するには打ってつけの時と場所に彼らを誘ったのは、ポワールの方なのだ。
 深く帽子を被る。広く丸いつば、背の高いとんがり帽子――魔女の帽子を。
「世界の目に留まらないものは、世界に働きかけられない。あなたたちはアタシを殺すために形象を現す必要がある。そんな芸当がもし本当に出来るというのなら――」
 ポワールが両手を虚空に差し伸ばし、その十指を広げた。ポワールの背後ではオランジェがトランクを取り落として項垂(うなだ)れる。いきなり立ったまま睡眠に落ちたような不自然な動きの後に、最小限の力だけで立つ姿は、不可視の操作糸(コード)に吊られた操人形(マリオネット)が、人形劇(グラン=ギニョル)の開演を待つ姿のようだった。
 舞台が始まる直前の静謐な空気に、演者たちの緊張が闇を歪めそうなほど(みなぎ)る。
「――返り討ちになりにいらっしゃいよ」
 まるで闇夜に中指を立てるような不遜極まる一言が、舞台の幕を切り落とす。
 いきなりポワールを囲む八方に羽音が重層した。大きな羽ばたきが幾つも夜を打つ。
 そして、羽音の騒乱が一斉にポワールに襲い掛かってきた。
 ――滅多刺し、とはこれであった。
 不敵かつ不遜な態度は何処へやら、ポワールは、いやだ、やめて、いたい、ぎゃあ、などと悲鳴を上げるのだが、やがてそれも潰えた。
 七人で何度も刺すのだから、ひとひとり声も出せなくなって死ぬなどすぐのこと。
 芝生に仰向けに倒れるポワールの、もはや動くことのない死相を見下ろすのは、七人だった。各々が手に提げているのは、刃渡りが一尺あまりの短刀。手元に鍔のない合口(あいくち)(こしら)え。
 白い、布の多い(きぬ)を七人が揃えてまとっている。水干(すいかん)、と呼ばれる様式の衣服。それは、とても古い時代のスタンダードだ。貴人、神職、または芸人が日常的に着用したという。
 ――なんじゃ、他愛もないのう。
 男とも女とも判らぬ掠れ声(ハスキー)が、落胆を露わにする。七人が揃って烏帽子(えぼし)と呼ばれる帽子をつけ、顔は白い布で一面覆っているので、男なのか女なのかは外見でもそうと知れない。
 ――『匹夫(ひっぷ)の勇、一人に敵するものなり』。この小娘などは、うちら八人の内の一人をも敵すること(あた)わざりき、まさしく匹婦(ひっぷ)の中の匹婦よ。
 (しか)り、然様(さよう)()うじゃ、と哄笑が起きる。
「ええと、それはつまり、どういうことなのかしらじゃのう?」
 アルトを頑張って低くしましたという偽物ぽいハスキーが教養高い笑いの輪に水を差す。
「愚か者は蛮勇に駆られて、敵ひとりと戦うのが精々である、という教訓です。この女は、更に口だけ達者でたったひとりとも戦えずに死んだと、皆様お笑いになっておられます」
 出典は儒教思想書『孟子』。説いたとされるのも、孟子と伝わっています……と、そのソプラノは出典の補足を欠かさない。
「口だけ達者とは言ってないんじゃないのかのう? それは貴女の主観でしょうかのう?」
 インチキくさく形を真似きれない方言が不服そうで、でもどこか楽しそうに笑う。
 ()が笑っておるか……死者を嘲笑(あざわら)っていた者たちが逆に笑われて色を失い、そして誰が自分たちを笑っているのかを完全に見失っていた。
「ええ、お母さんは、いつも口ばかりです。何故なら、それは――」
 もうひとりの童女(わらわめ)何処(いずこ)じゃ、七人にざわめきが広がる。
「『論理は言葉を駆使するから』よ」
 自らの矜持に胸を張るその声は、もうハスキーの真似は飽きたらしく、澄んで凛と張りのあるアルトであった。ところで、と面々に問いかける。
「みなさま、数学はお得意かしら? 『八引く一は七(8-1=7)』で合ってるわよね?」
 こいつは何を言っているのだ、と白い者たちは立ち止まる。思わせぶりな一言、しかし何か大切なことを見落としているのではないかと、思考に行動のリソースを割かれて動きが止まる。謎掛けとはそういったもの。謎を掛けて縛り上げるもの。
 回答を、真実を問うことで、事態を主導する。
 重い沈黙をその声は嘲る。命を嘲った者を(ゆる)しはしない。より深く、芸術的に嘲るのみ。
「回答出来る方は挙手の上で発言なさってくださーい」
 ――ひとり足りぬ。
 誰かが、呪わしい事実にやっと気が付いて、血の雫のような呻きをこぼした。勿論、その発言にあたって挙手はなかった。
 彼らは八人で襲い掛かった。
 そして、刺し殺した死体を前に各々愉快に哄笑を挙げた時は既に、七人になっていた。
八引く一は七(8-1=7)』。
 ――何処じゃ、何処に行った。
 口々に狼狽する面々に、それでは答え合わせ、と魔女が笑う。
「お探しの方は、刺されて死んでおられる方なのかしら?」
 七つの眼差しが一斉に、自分たちが凶手にかけた者を見る。直視しづらいほど損壊した遺体は、匹婦と嘲った魔女ではなく、いつの間にか水干姿の白い者になっていた。
 そしてその遺体は形象を急速に失い、切り刻まれた鳥の羽根に変わった。
 白い、鳥の羽根だった。
 自らの手で同族を殺め、更には辱めてしまった七人の心中は如何ばかり、まるでそれを(おもんばか)るように――いいや、最もされたくないことと、最もしたいことを容赦なく分析し、魔女は実行する。
「憎たらしい小娘もセットでお探しかしら。それはこんな顔ではなかったかしら?」
 ぴらり、と口で効果音をつけて、白い者のひとりが顔にかけた布を持ち上げて払った。
 そこには舐め切った笑みを浮かべた魔女の顔面がある。
 六つの短刀の白刃が間髪を入れずにその顔面に突き立つ。
「おおこれは痛い。これでは即死よーっ」
 刺されたはずなのに声だけがその場に遊離する、顔を穴だらけにされた者は地にドウと倒れるや否や、人の形象を失って千切れた鳥の羽根に変わった。七人が六人に。
 ――違う!
 ――奴は何処じゃ!
「ここでーす」
 血飛沫。六人が五人に。
「あら間違えた、今度こそ、ここにいまーす」
 舞い散るのは赤い血と白い鳥の羽根。五人が四人に。
「諦めないでー、アタシはここよ~っ」
 そこに命と形があった証のように羽毛が飛び散る。四人が三人に。
「頑張れっ頑張れっ」
 何を頑張れと言うのか。三人が二人に。
「いい子っいい子っ」
 何が良い子であるものか。二人がひとりに。
 七つ目の羽根が散って、夜に遺されたのは、たったひとり。
 手に提げた短刀にこびり付いた血糊が、赤い色まで揮発するように急速に消えて失せる。
 命を失うと、人の形であったものは全て消える。
 形象も、本質も、全てが大渦のような邪悪に呑まれ、喪失して果てた。
 立ち尽くす最後のひとりの肩に、背後から腕が忍び寄る。
「……ちゃんと、みーんな殺せましたねぇー。えらい、えらーい」
 首でも絞めるかというと()(あら)ず、その腕はいとおしそうに、水干の肩を後ろから抱く。
 ふわりと、少女の艶めかしい体温を首筋にかけるように、アルトが囁く。
「目で見て、声を聞き、こうして抱きしめることも出来る。消えてしまったけど血の匂い、今あなたの首を噛むと、きっと素敵な味がするのでしょ?」
 ――あなたの味を、感じさせて頂戴。
 闇夜がおぞましく口を開ける気配に、白い者は堪らずその腕を振り払い、振り向きざまに喉笛を水平に掻き切った。
 だが、そこには誰もいない。
 悪い夢か、さもなくば。
 姿のない者に七人の同族を殺された、いいや、掌の内で踊らされ殺し合いをさせられて、ただひとり生き残ったなど、なんと(たと)うべきであろう。
 ――(もの)()めが、正体を現せ!
 震える手で短刀を闇夜に構える姿とは、なるほど、闇夜の怪物に怯える者に相違ない。
 とうの闇夜の怪物から怪物呼ばわりとは、ポワールには酷く愉快だ。
 だが正体を見せず、声だけは饒舌。いかにも卑怯、卑劣、ポワールの得意とする所だ。
「そうよね、姿を現さなければ殺し合うことも愛し合うこともできないわ。でもあなたはご存知かしら。妖精は、簡単に姿を現すことが出来ない本質(もの)なのよ。形象を持たない本質は本来、世界に働きかけられないのに……あなたたちの存在とは神秘極まりない」
 夜の闇が舌なめずりをしたかのよう。捕食者と犠牲獣の力関係はここに至って確定した。
「このアタシをモノノケ呼ばわりとは光栄だけど、あなたは一体なんなのかしら。モノノケの自覚をかなぐり捨てて怯えるだけの哀れな本質、それがあなたよ。自分が何者であるのかもどうせ判ってやしないのでしょう? 体に聞いてあげてもいい、あなたが何者であるのか、その神秘の正体を解き明かすためにあなたたちを探していたのだから」

 この街の夜に不思議なものが現れると噂に聞いたポワールは、幾度となく夜を彷徨った。
 そして不思議なものとは、人と触れ合うことの出来る妖精であると知った。
 妖精が人と触れ合う方法。それが判るのなら、キスだって出来る。
 運命の魔法を(ほど)くキスが、きっと出来る。

 何の断りもなくポワールは、その姿を夜の公園に現す。
 魔女の帽子を被った赤毛の少女の形象が捕食者のように笑い、胸の前で交差した両手の十指を、見えない糸を()るように繊細に躍らせた。
 そのポワールの挙動をきっかけに、ポワールの背後に現れるオランジェは、踊っていた……いや、そこにいるのは果たして、光のような白金髪(プラチナブロンド)の少女だろうか。まるで、別人のような動き。思慮深く、知的で、時々人間くさく隙だらけ、自分が何者であるのかに迷い……とは全てオランジェの『本質』であり、心の性質。心が体を動かすというのなら、心が変われば動きが変わる。オランジェは今、オランジェではない者になって踊っていた。
 外見通りなら十歳前後の少女が、悪魔の如く妖艶な舞踏を奏でている。
 それは、欺く者、誘惑する者。真実の心を暴いて欺瞞を明らかにする者。
 それは、悪魔の娘――『白鳥の湖(スワン・レイク)』第三幕、悪魔の娘オディール。
 それが、オランジェが今擬態(ミミック)する妖精の名前。
 生物学での擬態とは、形象を真似るだけではなく本質を――本質を現す動きをも真似ることも指す。妖精の『本質』の極近似値に迫る擬態の舞踏は、妖精の魔力を生じさせる。
 それが妖精人形オランジェの機能――『擬態舞踏(ミミック・バレエ)』。
 そしてポワールとは、魔女とは、妖精の魔力を魔法に変換する者。
 自らの本質に刻み付けた所業である《芸能》によって、ただのエネルギーに過ぎない魔力を、行為手段としての魔法に編み上げて加工する。
 ポワールの指がピアノの鍵盤を奏でるように踊ると、文字通り魔力が編み上がる。魔力を紡績して繊維に、繊維は織り上げられ布に、布は裁断縫合されて服に、それらは一瞬。
 ブラウスの上にジャケット一枚だったポワールの肩に、ロングコートが()かった。生地自体がまるで黒い光を放っている、色彩は濃い紫、暗い輝きは黒鳥とも呼ばれるオディールの魔力由来の相。それは堅牢な魔力の装甲。
 袖を通さずに羽織って、両手を胸の前で軽く組む。殺しの技の支度は整った。
 先ほどはオランジェから供給されるオディールの魔力――『相手を(たばか)る性質の魔力』を用いた魔法で姿を隠し、八人同時に幻を見せて殺し合いを演じさせたが、直接手を下すことも容易い。なす術なく殺されていく絶望を与えることなどは。
「……けれど、まだ、足りないわ。自分が何者なのかも判っていないあなたでは、アタシの求める神秘に到底、足りない」
 まるで相手の眉間に銃口を突き付けるような、いつでも殺せる態勢を維持してポワールは語りかける。
「あなたは自らが何者であるのかが判っていない、いいえ、その問題を考えもしないからこそ他者をも顧みない。アタシを殺そうとした時の素早さ、それは命への思慮のなさとコインの裏表(うらおもて)。幻に踊らされて闇雲に、仲間を皆殺しにしてしまったのも実に(あさ)はかよ。あなたにとって、命とは笑えるほどに軽いもの。誰の命も、自分の命でさえも紙屑以下の価値しかない。紙屑以下の神秘なんて要らないわ。見逃してあげる、行きなさい」
 ポワールは顎をしゃくって彼方を示す。午前二時過ぎの深い闇を。
「あなたが己を知らない群体(コール・ド)でいられなくなった時こそ、また出会うわ。その時こそあなたの体に聞いてあげる、あなたの神秘がどれほどのものであるのかを」
 白の水干姿は、一歩後ずさり、見逃したことをいずれ後悔させてやる、と負け惜しみを吐き、貴様がどれほどのものだというのかと、呻くように吠えた。
 ――そこまで(ほざ)く貴様は何様じゃ。利いた風な口を利く貴様の名を告げよ。いずれうちが殺す者の名を。
 怨嗟の声とはまさにこれであったが、ポワールはそれをまるで軽く受け流す。
「名を尋ねるなら先に名乗るのが礼儀ってのは、洋の東西変わらないと思うんだけど、まあ、良いわ。これで勘弁してあげる」
 ポワールが指先を軽く振ると(フリック)、白い者の顔を覆う布が真横に切られてはらりと落ちた。
 凄まじい形相で睨んでくる(かお)は白く、長い黒髪とのコントラストが映えていた。
 わお、美形。ポワールは小さく快哉を上げる。
「貴女の名前の代わりに、イイ顔頂いたわ。名乗りましょう。アタシは――」

 自分が何者であるのか。
 かつては殺戮の魔女であり、今では鳥井寿郎の中に宿る妖精。
 この街の夜で、自分がかくありたいと思う姿は何だろうか。
 死人(しびと)でも愚者でも幽霊でも魔女でも妖精でもないし、またそれら全てでもある。
 この街に迷い込んだ異物。本来ならここにいない者。
 ここにいない筈の者には役割などなく、何もしなくても良い筈である。
 でも、自分が何者であるのかとは、いつだって、自分が何者になりたいかと同じなのだ。
 少なくとも、ポワールにとっては。
 だから、何をしても良いのだ。望むものになれば良い。好きな姿を思い浮かべるが良い。

「――アタシは、魔法少女(まほうしょうじょ)。その名を《トリー・ラ・ポワール》。この街の夜を調停する者、そして欲望の探究者。アタシを差し置いてこの街で無法を働く者には、殺戮の魔法で懲罰を与え、人と妖精の調停を導くわ。この街の平穏はアタシの所有物、憶えておくがいい」
 一字一句固有名詞、どれをとっても事前の準備はまるでなかった。
 口から特大の出まかせが祭文のように紡ぎ出された。アドリブ芝居は大の得意であるが。
 自分の名前が決まった。この夜を練り歩く時の名前が。
 そうとも。ポワールは魔女だけれど、小娘の時分には物語の魔法少女になりたかった。
 全世界をお花畑にする勢いで、甘い夢を届けてくれた物語の魔法少女たちに憧れた。
 物語の魔法少女たちが命を賭したものは、花と夢と希望と愛。
 戯れに名乗るには重い十字架であろうか。殺戮を(わざ)とする自分の如き薄汚れた魔女には。
 だが、十字架に祈るのは聖女様と相場が決まっている。
 魔女は十字架を崇めない。大切なものは他にある。自分の欲望。そのためには命を懸けるのが当然だ。この街の平穏を所有する。口に出すと胸が震えるほどに巨大な欲望だった。
「アタシはそのためにここにいる。命が惜しくなければいつでもかかってくることね」

「魔法少女……《とりぃ、ら、ぽわぁる》」
 公園外の道路の中央分離帯に、新たに生まれたその名を呟いて反芻する者がいる。
 足袋と草履の踵を揃えて静かに立ち、夜のように黒い僧衣を纏い、密に編まれた網代(あじろ)笠を目深に被り、右手に携えるのは錫杖。
 だが、僧にしては奇妙なことで、編笠から覗くのは頬に掛かろうかという長髪。
 そして、その声は呟き、囁きまでも凛と通る、女声であった。
「夜露朝露にも似た化生(けしょう)の命を、それでも命と呼ぶのか……」
 彷徨う心が形を得ても命は儚い。
 心が形を得た奇縁を解しない者は、可惜(あたら)有為の命を塵芥(ごみあくた)のように自ら捨てる。
 有為を自ら捨てる、即ち無為な命である。
 そんな命でも、魔法少女は命と呼ぶのである。
「魔法少女とは《大乗》か」
 世界一切の衆生(しゅじょう)を救済する大乗の教え。生きとし生ける命は全て救われる定めを説く。
 命の質などは問題にされない。命である限りは衆生であり、救済されるべきものである。
 その行いが友愛と慈悲によるものであれば、必ずや将来、衆生救済の大願は叶うだろう。
「だが、魔法少女が説くのは我欲」
 魔法少女とは、この夜に降り立った魔物であろうか。世の平穏を所有するなど過ぎた事。
 個人が己の欲により行えば、どのような大願も必ずや過ちに転ずるのも世の倣い。
 魔法少女とは、救済の菩薩か、厄災の魔物か。
 または、魔法少女が繰り返し唱えた言葉。露のように儚い化生の命を、何と呼んだか。
「――妖精」
 古代の唐国の記述にもある。闇夜のあやかしを人はその二文字で呼んだ。(あやかし)精粋(せいすい)と。
 不可思議な力の顕形(げぎょう)をして、きっと妖精と記したのだろう。妖精とは力であると。
 生まれ持った力に善悪などなく、善悪を決するものはいつも、力の行使の結果による。
 人も、妖精も、裁きは最後に訪れる。
「我らはいかに裁かれる、調停の魔法少女よ。そして、そなたを裁く者は果たして――」
 ――エン。
 唱えるのは二音による聖音。
 錫杖の石突をアスファルトに打ち鳴らすや鉄輪(かなわ)が鈴のように澄んだ音を奏で、長髪の女の僧は聖音の響きだけを残して、僧衣のように暗い闇夜に消えた。
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