――いつから、そうしていたのだろうか。
文字数 2,313文字
いつから、そうしていたのだろうか。
鳥井寿郎 は、いつの間にかそこに立ち尽くし、ほの赤い灯 を眺めていた。
頬を撫でるのは、涼しい夜風。
夜風に揺れているのは笹竹と、枝に鈴なりの赤い提灯 。
ここは、どこだろうか。
誰か、いないのだろうか。
その疑問の答えには、ただ夜の闇があるだけ。
一切が闇に沈んで何も見えず、ただ静かでひと気もない。
寿郎が窺い知れるのは、提灯が照らす僅かな領域だけ。
スポットライトのようだ、と寿郎は思う。
暗転した舞台上に差し込む一条の光、と言えば華々しいが、スポットライトが当たる自分以外はみな闇の中。踏み出そうとする足元も暗く、照明が自分の動きを追いかけてくれるだろうかと不安を感じたことが何度もあった。
光を焚 かなければ、舞台は闇に沈むのが自然だ。
だから、ダンサーは光の中で踊ることを夢見ている。
ぎゅ、と寿郎は二の腕を抱く。指が掴む筋肉はしなやかで脂質が薄い。
指と掌をずらして肩骨の硬さを確かめる。
鎖骨から薄い胸に掌をゆっくりと動かし、心臓を温めるように、祈るように胸骨を抑えると何故だろう、切なくなるのだった。
心の在処 とは、脳が収まっている頭ではなく、心臓のある胸ではないかと思う時がある。
肌に触れた手指、手指に触れた肌。両方の感覚に意識を沈める。
細くて、小さくて、女の子のようと言われ続けた自分の体、男の子の体を確かめる。
体を検 めると、夢を見ていると思った。
身体の感覚は目覚めている時と何も変わらないのに、目の前の景色だけが不自然に曖昧。
そうとも。これは夢だ。
何でも叶うだろう夢の中でも、リアルな身体感覚がなければ出来ないことがある。
寿郎は、夢でも踊りたいと焦がれている。
眠って見る夢、未来を望む夢。どちらも同じこと。焦がれるから夢を見る。
鳥井寿郎は、また舞台 に立ちたいと焦がれている。
練習を重ねて身に沁み込ませた振付が心細くて、いつだって完璧とは程遠いのに、いつだって無慈悲に舞台の幕が上がり、自分はそこに立つ。
寿郎は、その不条理が好きだ。
舞台照明の外は一切が闇、という不安が好きだ。
確かなものがない闇の奥から、五体の動きを伴ってダンサーの心が世界に出現する。
その瞬間の訪れを焦がれていた。
舞台を愛していた。
なのに、その舞台はもうない。
故あって自分の属する舞台を失って久しいのが、鳥井寿郎というバレエダンサーだった。
例えばそれが属するバレエ教室の発表会のような小さな舞台であっても。
自分はプロではなくアマチュアの高校生であっても。
自分が愛し、居場所に求めた舞台があるのなら、自分はダンサーでいられた。
緞帳が上がり、闇に一条のスポットライトが打ち込まれる。
舞台と客席の狭間に並ぶフットライトが、彼岸と此岸の境界のように明暗を別けていた。
魂が震えるような光と闇が、寿郎の記憶の奥底に焼き付いている。
今も、光と闇に彩られた舞台の夢を見ている。
ほの赤い光に向けて、寿郎はゆっくりと手を差し伸ばした。
――踊らなくちゃ。
舞台に立ったのなら。
今が夢でも構わない。
誰も見ていなくたって、構わない。
提灯を吊るした笹竹を舞台の中心に据える。
頭の中に劇伴 を鳴らそう。
光を、笹竹を巡るように踊ろう。
光と闇に惹かれた者の物語。その即興 に相応しい原典 とは何か。
――『白鳥の湖 』。
目指すところを得て、寿郎の足は堪らず、軽やかにステップを踏み出した。
寿郎がバレエを習い始めたのは三歳の頃だったそうだが、よく憶えていない。年齢の自覚と記憶がない時分から踊っていた。
自分が何者で、自分がしているものが何であるのかについて疑わない頃は幸福だった。バレエとは自分であり、自分とはバレエだった。
自分が揺らぐのは、いつも他人と関わる時。
小学生の頃だったか、踊っている寿郎が周囲には奇異に映ったようで――そしてこの国では何故か、バレエとは女性の芸事であるという誤解があるようで、珍しがられたり、悪くするとからかわれたりすることも多くあった。
バレエについての無知や誤解に晒される時、寿郎は自我の危機に陥った。
どうして自分はこんなに弱いのだろう、と嘆いた。
他人に何を言われても踊り続ける強さがなければ、今までのように自分とバレエを同一に出来ないと思った。そしてそれは、自分の中にない力であることも。
――鳥井さんが弱いままで、何故いけないのかしら?
立ち止まり戸惑う、幼い寿郎にバレエの恩師は言った。
傷つき迷うのはあなただけではない。王子様も、お姫様も、妖精も、みなそうだ、と。
クラシックバレエの多くは御伽噺 に題を採っていて、つまりバレエダンサーとは御伽噺 の登場人物の演者に他ならない。
――ねえ、鳥井さん。舞台に上がったら、あなたが王子様になるのよ。
目に妖しい光を宿して、恩師は熱っぽく続けた。
――私が好きなのは、傷ついて、迷っている王子様なの。
その心の悲鳴を、王子様の涙を愛している。
そう断言する恩師は、その年の発表会に『白鳥の湖 』の一場面を小品として切り取り、王子様であるジークフリート役に寿郎を指名した。
彼は、迷いを抱いて夜の森を彷徨い、美しい運命と出会う。
頬を撫でるのは、涼しい夜風。
夜風に揺れているのは笹竹と、枝に鈴なりの赤い
ここは、どこだろうか。
誰か、いないのだろうか。
その疑問の答えには、ただ夜の闇があるだけ。
一切が闇に沈んで何も見えず、ただ静かでひと気もない。
寿郎が窺い知れるのは、提灯が照らす僅かな領域だけ。
スポットライトのようだ、と寿郎は思う。
暗転した舞台上に差し込む一条の光、と言えば華々しいが、スポットライトが当たる自分以外はみな闇の中。踏み出そうとする足元も暗く、照明が自分の動きを追いかけてくれるだろうかと不安を感じたことが何度もあった。
光を
だから、ダンサーは光の中で踊ることを夢見ている。
ぎゅ、と寿郎は二の腕を抱く。指が掴む筋肉はしなやかで脂質が薄い。
指と掌をずらして肩骨の硬さを確かめる。
鎖骨から薄い胸に掌をゆっくりと動かし、心臓を温めるように、祈るように胸骨を抑えると何故だろう、切なくなるのだった。
心の
肌に触れた手指、手指に触れた肌。両方の感覚に意識を沈める。
細くて、小さくて、女の子のようと言われ続けた自分の体、男の子の体を確かめる。
体を
身体の感覚は目覚めている時と何も変わらないのに、目の前の景色だけが不自然に曖昧。
そうとも。これは夢だ。
何でも叶うだろう夢の中でも、リアルな身体感覚がなければ出来ないことがある。
寿郎は、夢でも踊りたいと焦がれている。
眠って見る夢、未来を望む夢。どちらも同じこと。焦がれるから夢を見る。
鳥井寿郎は、また
練習を重ねて身に沁み込ませた振付が心細くて、いつだって完璧とは程遠いのに、いつだって無慈悲に舞台の幕が上がり、自分はそこに立つ。
寿郎は、その不条理が好きだ。
舞台照明の外は一切が闇、という不安が好きだ。
確かなものがない闇の奥から、五体の動きを伴ってダンサーの心が世界に出現する。
その瞬間の訪れを焦がれていた。
舞台を愛していた。
なのに、その舞台はもうない。
故あって自分の属する舞台を失って久しいのが、鳥井寿郎というバレエダンサーだった。
例えばそれが属するバレエ教室の発表会のような小さな舞台であっても。
自分はプロではなくアマチュアの高校生であっても。
自分が愛し、居場所に求めた舞台があるのなら、自分はダンサーでいられた。
緞帳が上がり、闇に一条のスポットライトが打ち込まれる。
舞台と客席の狭間に並ぶフットライトが、彼岸と此岸の境界のように明暗を別けていた。
魂が震えるような光と闇が、寿郎の記憶の奥底に焼き付いている。
今も、光と闇に彩られた舞台の夢を見ている。
ほの赤い光に向けて、寿郎はゆっくりと手を差し伸ばした。
――踊らなくちゃ。
舞台に立ったのなら。
今が夢でも構わない。
誰も見ていなくたって、構わない。
提灯を吊るした笹竹を舞台の中心に据える。
頭の中に
光を、笹竹を巡るように踊ろう。
光と闇に惹かれた者の物語。その
――『
目指すところを得て、寿郎の足は堪らず、軽やかにステップを踏み出した。
寿郎がバレエを習い始めたのは三歳の頃だったそうだが、よく憶えていない。年齢の自覚と記憶がない時分から踊っていた。
自分が何者で、自分がしているものが何であるのかについて疑わない頃は幸福だった。バレエとは自分であり、自分とはバレエだった。
自分が揺らぐのは、いつも他人と関わる時。
小学生の頃だったか、踊っている寿郎が周囲には奇異に映ったようで――そしてこの国では何故か、バレエとは女性の芸事であるという誤解があるようで、珍しがられたり、悪くするとからかわれたりすることも多くあった。
バレエについての無知や誤解に晒される時、寿郎は自我の危機に陥った。
どうして自分はこんなに弱いのだろう、と嘆いた。
他人に何を言われても踊り続ける強さがなければ、今までのように自分とバレエを同一に出来ないと思った。そしてそれは、自分の中にない力であることも。
――鳥井さんが弱いままで、何故いけないのかしら?
立ち止まり戸惑う、幼い寿郎にバレエの恩師は言った。
傷つき迷うのはあなただけではない。王子様も、お姫様も、妖精も、みなそうだ、と。
クラシックバレエの多くは
――ねえ、鳥井さん。舞台に上がったら、あなたが王子様になるのよ。
目に妖しい光を宿して、恩師は熱っぽく続けた。
――私が好きなのは、傷ついて、迷っている王子様なの。
その心の悲鳴を、王子様の涙を愛している。
そう断言する恩師は、その年の発表会に『
彼は、迷いを抱いて夜の森を彷徨い、美しい運命と出会う。