第8話

文字数 13,024文字

 本日も雅は真面目に学園で授業を受け、放課後春日家にいったん戻り、着替えてから目的の病院へと向かった。
 まだ日も高いため、バスを利用した移動で病院に到着し、そこで昨日の昼前に別れたきりだったロンと、ばったり会った。
「あら、お見舞い?」
「ええ。あなたも?」
 ロンも一緒とは聞いていなかった雅だが、ランホアの先の拒絶を忘れられない今、同行者がいるのは有難い。
 だが、男の方は曖昧に言葉を濁した。
「お見舞いというか、事情聴取したいんだけど、中々通してもらえないで、立ち往生していたと言うか……」
「もしかして、メイリンさんにですか? でも、目を覚ましたのは一昨日の夜でしょう? 怪我をした場所にもよりますけど、事情聴取までは、厳しいんじゃあ?」
「そう言う理由なら、あたしも諦めるんだけど、違うみたいだからどうにかして会いたいのよね」
 悩まし気な男に頷き、雅はあっさりと言った。
「メイリンさんの病室なら、知っています。一緒に行きましょう」
「あら。手はずが出来てるの?」
「ええ。セイが、ゼツに話を付けてくれたんです」
「あら。それは、好都合ねえ」
 一瞬、太い声がさらに太くなった。
 思わず男を見上げたが、ロンはいつもと同じ笑顔を浮かべたまま、変わらない。
 何かを企んでいるようだが、自分が困ることではないだろうと、雅は気にせずにゼツとの待ち合せ場所へと向かった。
 白衣を纏ったままの大男が、喫茶室のベンチに座って迎えてくれたのだが、雅と一緒にいる男を見て、分かりやすく動揺した。
「え? どうして、あなたが?」
「あら? あたしが一緒じゃあ、不都合でもあるの?」
「いえ、そういうわけでもありませんが……昨夜も、来ていましたよね? 面会時間が過ぎていたので、対処できませんでしたが」
 戸惑う医師に、ロンはやんわりと頷いた。
「ええ。だから出直してきたんだけど、今度は体調が急変したとかで、拒否されちゃったのよ」
「え? じゃあ、私も出なおした方がいい?」
 ゼツが、天井を仰いだ。
「……」
「ねえ。話が合わなくなっちゃったんだから、この際、全て暴露しちゃったら? ミヤちゃんを連れていく場所も、どうせフェイクなんでしょ?」
「何処まで、分かってしまったんですか?」
「そうねえ。事件に関係した母子が、実在していないってことくらいかしらあ?」
 目を見開いた雅の前で、ゼツが大きな溜息を吐いた。
「そうですか。ようやく、そこに気付いてくれたんですか」
「本当にねえ。あたしも完全に、調子が悪かったみたい。反省してるわ」
 大きな男二人が、妙に息の合った会話をしている間で、女が一人戸惑っている。
 それに気づき、ロンは笑顔のままで言った。
「行きましょ。あなたもちゃんと、あの二人に会わなくちゃ。今まで騙していた付けは、ちゃんと払ってもらわなくちゃね」
 楽し気な男に促され、ゼツは諦めたように立ち上がり、二人を連れて歩き出した。
 エレベーターで最上階まで上がって廊下に出た時、丁度一番端の病室の扉が開き、誰かが出てきた。
 長身のその男は、中の患者に気遣いの声をかけ扉を閉め、エレベーターの方に向かって歩き出そうとして、止まった。
「は?」
 男がつい、間抜けな声を発したが、それを聞き咎める余裕はなかった。
 雅も同じような声を発し、その声が揃ってしまったのだ。
 立ち尽くす男に、ロンは呑気に手を振った。
「やっほー、久しぶりね、エンちゃん」
「え、ええ。な、何でこの階に?」
 戸惑う男、エンの目は男女の見舞客の後ろにいる、大柄な医師に向けられていた。
「……すみません。もう、誤魔化さないほうがいいと、判断しました」
「そ、それはっ、不味い」
「あら、不味いって何が? あなたが関わっているのも、水月ちゃんが関わっているのも、分かってるのよ? これ以上、隠す方が不味いわよ? ミヤちゃん的には、ねえ?」
 突然振られた雅だが、返事は出来なかった。
 先の声を発したのは、エンと思わぬ場所で再会したせいではない。
 もっと、別なことに気付いたせいだ。
 エンが出てきた病室に、患者としている人物が誰なのかに、気づいてしまった。
 無言で廊下を歩き、一番端の病室の扉に立つと、震える手でノックした。
「……」
 ゆっくりと病室の扉が開き、患者が言った。
「よくここが分かったな。というか、誰だ? 雅に話したのは?」
 言葉もなく見つめる娘を前に、森口水月はけだるげに笑いながらそう言った。

 話は、約四十年前にさかのぼる。
「安藤克実と和実は、カスミの旦那の息子であるのと同時に、ある獣の庇護を受けて育った兄弟だ」
 言わずと知れた、兎の獣の庇護だ。
 そのため、子を産み落とした後、もう一度通ってしまうと言う、カスミの珍しい行動を受けた母親の元で、二人はすくすくと育った。
「二人は、あの旦那の子にしては見目がよくてな、その上、芸達者であったために、芸能関係の仕事に就いた」
 舞台俳優として技を磨きながら、少しずつ人脈を作り、事務所を立ち上げた頃、克実は結婚して子を儲けた。
 和実も一人の女性と恋に落ち、結婚も秒読みだったのだが、その女性とその母親が、突如行方知れずとなった。
「それが、チョウ・メイリンだった。国際結婚になるから、様々な問題もあるが、順調に手続きも進んでいて、双方の親との顔合わせの段取りが、整った頃だったそうだ」
 突然連絡が取れなくなったチョウ母子を心配し、和実はあらゆる伝でその行方を捜したが、手掛かりがいくつか見つかっただけだった。
 ベットに上がった水月がそこまで話し、息をついている間に、その傍に立つ男がその後を続けた。
 見たことがない男だ。
 ロンより長身だが、ゼツほど高くはない。
 肉付きもそこまでよくなく、どちらかというと貧相な体つきなのだが、顔つきは整っており、一癖も二癖もありそうな男だ。
 その男が水月の様子に気遣いの目を向けながら、話を続けた。
「そのうちの一つが、真田商事の社長との血縁関係だ。丁度あの頃、難病にかかった社長の元、真田商事は後継者問題を引き起こしていた。今は全快し、昔以上に活躍しておるが、あの後からきな臭い話が、漂い始めていたようだな」
「……」
 時期的に、この問題に巻き込まれたのではないかと考えた和実は、ようやく育ての親の一人の兎に、相談してきたのだ。
「それが、四年前だ」
 水月とエンが、今の仕事と兼業し、休みの日の殆どを当てた仕事は、これだった。
 背中に流れるほどに伸びた黒髪の頭を、乱暴に掻く水月を見ながら、男が続けた。
「カスミ殿は、何故か当時真田社長のお気に入りになっていてな、今でも友人と呼べる間柄なのだそうだ。だから、真田商事の今の状況もよくご存じだった」
「犯人の目星もついたが、明確な証がなかったんだ。だから、納得できる証拠をつかむために、囮作戦を決行することにしたんだ」
 兎はいくつかの事を、カスミに頼み込んだ。
 とある事件の証拠写真の作成と、それを材料に黒幕を脅し、その証拠をこちらに渡すことを。
 こんな簡単なことで食いつくとも思っていなかったのだが、真田商事の経営状況の変化で役職を変えられたらしい黒幕は食いついた。
「初めに視線を感じ始めたのは、一年ほど経ってからか。女の名前とあの証拠だけで食いつくには、それだけの時が要ったようだ。当時生死が不明確だったんで、女たちの姿を取るのはどうかと考えてな、結局この(なり)に落ち着いたんだが……」
 この形……。
 ロンはベットに座る水月を見下ろし、しみじみと呟いた。
「やっぱり、ミヤちゃんとは似てないわね、あなた」
 同じくらいの髪の長さになった父子を見比べての、本気の感想だ。
 眉を寄せて水月が返す。
「ランホアも言っていたな。あんたがすぐに、雅がオレの子だと分からなかった理由が、分かったとか何とか。どういう意味だ?」
 ちらりと一瞥されたエンが、苦笑しながら答えた。
「あなたも寿(ことほぎ)さんも、見た目以上に雰囲気が、性別独特の色気を放ってるんですよ。それが似ていないと、錯覚させてるんですね、きっと」
「それはお前、雅に欠片も、色気がないと言ってないか?」
 初めの一年は、安藤和実役の男とランホアとの三人で、仲睦まじい姿を見せる作業をしていた。
「所謂、休みの日にいろんな場所に遊びに行く、仲のいい家族だな。それなりに楽しかったが、そのせいで、年末年始と盆くらいしか、顔を見せてやれなくなったのは、申し訳なかった」
「……」
 神妙に謝る水月を、雅は黙ったまま見下ろしていた。
 不自然な黙り方に違和感を覚えながらも、話を続ける。
「ランホアの方は、兎の手を借りたんで手が込んでいるんだ。元の姿に戻るのにもあの姿になるのにも、時間がかかる。貴重な休日を、無駄に潰す事態になってしまっていた」
「本当は、メイリンだけを泳がせるつもりだったのだが、子連れの方が油断を誘うと言う意見があってな、メイリンの母親の名の子供を、登場させてみたのだ」
「オレ一人では、隙が出来ないなどと言われてはな。意外に、いい女っぷりだと自賛していたんだが」
 実物を見せるにしても、今はその体力がなく体を変化されることができないと、男は残念そうに言う。
 娘が不自然に黙ったままなのに、水月は変わらず話を続け、その内容に頷いたロンが、雅の様子を気に掛けながらも、携帯機器を取り出して言った。
「叔父様が、あなたから送られた画像を、提供してくれたわ。本当に、ノリノリじゃない」
 その中には、娘の雅なら絶対に浮かべない満面の笑顔になった、完全に自己アピール用の画像があった。
 本当は、否定されたときの証拠として送ってもらったのだが、全く違う場での披露となってしまった。
 食いついた獲物が焦るように仕向けるため、目立つ芸能事務所への入所を考えたようだ。
 その時に撮った写真らしいと、叔父には説明された。
「ああ。だが、今更それは、不自然だろうという事になって、それならば、子供役のランホアの方がいいんじゃないかとなって、今回の事件に繋がってしまったわけだ」
 水月の傍に立つ男が、反省の色を見せながら言う。
「ランホアからの連絡を待って、メイリンの具合を報告すればよかったのだが、先走ってこちらから連絡してしまったがために、ランホアの皮を破裂させてしまった」
「刺した奴は、さぞ驚いただろう。十歳の女の子が突然破裂して、中から大の男が、血塗れの全裸で現れたんだからな。悲鳴も上がる」
 真顔で言い合う二人と、顔を覆って唸るエンを見比べ、ロンは溜息を吐いた。
「……女児が大怪我を負った上、行方知れずになったと言う事件じゃないと分かって、ほっとしたわ」
 世間を誤魔化せれば、この問題は表には出まい。
 その辺りをどうにかするのが、自分たちの課された仕事の一つでもあるから、ある程度の事情の把握をしたかった。
「その、行方の分からない女性たちの事は、何か分かったの?」
「顔合わせのために国際空港に着いたところまでは、痕跡が残っていた。だから、この国のどこかに手掛かりがあるだろうと、探してはいたんだが……」
 差し伸べられた手を取った兎は、自分の持つ情報網をすべて使って、母子の行方を追ったが、中々見つからなかった。
 ごく最近まで。
「和実とその母親は、ある情報を元に現場に向かっている。ある山中の、土砂崩れでむき出しになった地から、二人分の白骨した遺体が見つかったと、知り合いの獣が教えてくれたそうだ」
 メイリンの事件の前に出発し、未だ戻ってこない所を見ると、目的の母子である可能性が高い、という事だろう。
「後は、どう報復するかが課題だな。囮での炙り出しは成功とは言えなかったが、それがきっかけに主犯を捕まえられた。黒幕の処理は、これから考えることになっている」
 被害者家族が戻ってから、その希望を聞いて決めることになると、水月は重々しく話を終わらせた。
 そして、未だ黙ったまま自分を見下ろす娘を見上げ、静かに言った。
「お前まで巻き込む事態になっているとは、知らなかった。今朝、聞いて驚いたところなんだ。首尾が杜撰すぎて、迷惑をかけた。いや……」
 神妙に言ってからふと、傍に立つエンを見上げ思い当たる。
「ランホアから、事情は聞いていたか? その上で協力してくれていたのなら、更に申し訳ないな……」
「いいえ。聞いていません」
 優しい女の声が、患者の言葉を遮った。
 笑顔を浮かべた雅は続ける。
「どうやら私は、ランホアちゃんには、嫌われていたようなので」
「ん? どういうことだ?」
 目を見開く父親に、女は答えた。
「分かりません。初対面だったはずですが、その時点で嫌われていたという事は、あなたやエンと近しい私が、疎ましかったのかも」
「は?」
 額を抑えている医師と小さく笑う刑事、最後に不自然にこちらから顔を背ける婿候補を見た水月は、固まった。
 その珍しい状況を、傍に立つ男が解除するべく、患者の肩を軽く叩く。
「嫌いだと、ランホアが、言ったのか?」
 低い声の問いに無言で頷く娘を見つめ、また娘婿を一瞥する。
 頑なにこちらを見ないエンから視線を外し、水月は優しく微笑んで頷いた。
「そうか。ならランホアは、後できっちり締めておこう。どうなっていても気にするな。子供の皮を被った大の男だったんだ。もうお前とは、会う機会はない」
「……カスミと言う人の、子供の一人だとは聞いていたんですが、男の人だったんですね」
「ああ。あの旦那の子供は、腹黒が多いからな。本当に、困ったものだな」
 優しい笑みを浮かべながら、小さく声をたてて笑って見せた父親に、雅はやんわりと尋ねた。
「で? あなたがメイリンさんだったのなら、どういう理由で、あんな事態になったんですか? 入院しているという事は、重傷だと言うのは本当だったんですよね? さっき、車椅子に座ってらっしゃいましたし?」
 妙に迫力があるが、水月は目を丸くしただけで答えた。
「まだ歩くなと言われたんで、車椅子でこの病室に移動してきたんだ。今夜から、普通病棟に移れたらしい。まさか、個室とも思わなかったが」
「話しても、大丈夫なほどには、回復したんですか?」
「ああ。今の医学はすごいな。急所は辛うじて逸らしたが、鋭い刃物だったせいで、皮膚はざっくりと切れてしまってたんだ。それを、しっかりと縫い合わせてくれた」
「……そうですか」
 明るい答えに頷き、雅は優しい笑顔のまま再度尋ねた。
「で、どういう理由で、あんな事態になったんですか?」
 それを答えるのには躊躇いがあったが、水月は仕方ないと溜息を吐いて答えた。
「調子に、乗ってたんだ」
「……どういう風に?」
「長く女の格好をやっているとだな、その格好を極めたくなる衝動が……」
「……すみません。オレも、つい調子に乗って、煽ってしまいました」
 これは、玄人二人が調子に乗り、恐ろしく難しい事を挑戦していた矢先に、起こった事件だった。
「難しい事って?」
 首を傾げたロンに、水月は真顔で言った。
「女はすごいな。あれを履いて歩く事が、あんなに苦行だとは、思わなかった」
「……ちょっと、まさか、あなた、仕事中にっ」
 襲撃があったあの夜、水月はランホアに迫る刃にいち早く気づき、駆け寄ろうとした。
 だが、ほんの小さなアスファルトのくぼみに、躓いてしまったのだ。
 その日履いていた、ヒールの高いパンプスのせいで。
「あんなところで、皮を破裂させるわけにはいかんだろう? だが、躓いたことで身を躍らせて庇うほどの間しか、残されていなかったんだ」
 何とか急所は逸らし、刃は内臓にまでは通らなかったが、腹を深く抉られてしまった。
「元に戻って後を追おうとしたんだが、すぐに睡魔が襲ってきて、犯人を取り逃がしてしまった」
 中身まで女に変えるすべは、水月も血縁上の理由で知っていた。
 だが、完全に男の自分は従弟の鏡月とは違い、性別を変えると普段の半分ほどの体力と、技術しか発揮できなくなってしまう。
 そんな理由で、昔から女としての囮や引き込みは避けていたのだが、今の自分ならばその半分でも対処可能と太鼓判を貰い、この仕事に望んでいたのに、思わぬ失態だった。
「そのせいで、ロンの旦那や他の奴らにまで迷惑をかけてしまうとは、本当に面目ない」
 意外に、落ち込んでいる。
 だが、笑い話にしようとしているのか、その口調は明るい。
「……」
 笑みを浮かべたままの男を見下ろしていた雅は、優しい笑顔のまま振り返った。
 ぎょっとする二人の大男の内、医師の名を呼ぶ。
「ゼツ」
「は、はいっ」
 つい背筋を伸ばし、いい返事をしてしまった大男に、やんわりと問う。
「本当に、傷を縫い合わせるだけで、大丈夫だったのか?」
「は、はい。急所は確かに逸れていましたから。ただ、血液がかなり流れてしまっていて、輸血が必要に……」
「血液型、分かったか? 日本人の典型な型だったはずだから、大丈夫だと思うが」
「あ、はい。それは心配には及びません」
 気楽に問い、その答えを得た水月は、大きく頷いて嘆いた。
「律が知ったら、大目玉確実だ。これ以上、病院生活していたくはないんだが」
 言った途端、空気が凍った。
 何事かと顔を上げると、優しい笑顔の娘が、こちらに向き直っていた。
「……御父上?」
「ど、どうした? 呼び方が、おかしいだろう。それに、父親を呼ぶ声音じゃないぞ」
 つい本音を返してしまったが、気づいてしまった。
 どおりで先程から、男たちが妙に静かだ。
「な、何をそんなに怒っているんだ? ああ、こんなことで、エンをこき使っていたのが、気に入らないのか? それは、本当に申し訳なかった」
「怒る? ええ、そうですね。こんな状況になっても、自分の娘が心配しているのを、理解できていない父親には、腹が立ちますね」
 優しく言い切った雅を見上げ、水月は目を見開いた。
「は? 心配? 何をおかしなことを……」
「どっちが、おかしいんですかっ」
 突然の怒鳴り声に、室内の男全員が飛び上がった。
「刺されたのに、犯人を取り押さえようとしたっ? まさか自分の事を、異形と勘違いしてませんよねっ? あなた、人間でしょうがっ」
「……そうなのか」
 無感情な声が、静かに呟く。
「ああ。こいつとそこの(じゅう)、それからお前の父親は、原始の人間というだけで、人間だ。寿命は長いが、オレたち獣やカスミ達のような異形とは違い、体に傷がついたら致命傷だ」
 それに答えたのは、全く別な男の声だ。
「だからな、オレとしてはカスミの父君が付けた呪いの心配より、怪我を負う事の方が心配な訳だ。それは、雅も同じのようだな」
 廊下の方からの会話に振り返ると、開け放たれたままの扉の外で、男にしては小柄な二人が会話をしていた。
 薄色の金髪の高校生と、白髪で赤目の男だ。
 毒気を抜かれて我に返った雅を見ながら、セイはなるほどと頷いた。
「だからですか」
「ん? 何だ?」
「いえ。水月さんと初めて会った時、腕から変な物が出ていたので、引っこ抜いたんですけど……」
「根菜でも、引き抜くような言いようだな」
 兎の男が小さく笑う横で、高校生は天井を仰いだ。
「それが二つ混じった呪いだったようで、一気に抜けたと思ったら、水月さんの体の強度が、極端にもろくなったんです。何か別な物まで抜いてしまったかと、慌ててしまってつい……」
 躊躇ったセイはそこでいったん口ごもり、続けた。
「別な呪いを、入れてしまいました」
「どんな?」
「本当は、鏡月のあのおかしな力を真似ようかと思ったんですが、この弱さだと耐えられないと思って、私の体質を真似てみました」
「……真似るって、それは、呪いじゃないよな?」
 呪いではない。
 セイの場合は、ある違和感に対し、体が反応したために起こる生理現象のようなものだ。
 動きをほとんど停止しないと、不具合の出た部分を治せないと、体が判断してしまっているのだ。
 その違和感とやらが何なのか、セイ自身は分かっていない。
 だが、人の体にそれを備えさせることは、出来てしまった。
「おい、まさか、オレがあの時眠くなったのは……」
「セイ、でかした」
 雅の怒りに慄いていた水月が我に返り、先の自分の症状の正体に思い当たる中、エンは思わず弟を褒めてしまった。
「ついで、そんな訳の分からない呪い、入れるんじゃないっ」
「すみません。すぐに解きます」
 水月の正当な文句に、セイは慌てて近づこうとしたが、それは雅に止められた。
「いや、そのままでいい」
 目を剝く父親に、娘は優しく言った。
「だって、御父上の事ですから、病室の中で大人しくはしていないでしょう? 傷が開いても、激しい運動をする姿しか、思い浮かびませんもの。傷が開いたら眠くなる。そう思えば、しっかりと全快して、退院するまでは大人しくしていますよね?」
「だ、から、その呼び方はやめろ。本当に怖いぞ」
 何で、娘に凄まれて慄かなければならないのか。
 そんな思いで訴える水月と、かなり怒っている雅を見比べ、セイは首を傾げた。
「もしかして、かなりひどい修羅場だった、のか?」
「ええ。怪我人相手だし、ミヤちゃんも心配しての怒りだから、建物崩壊はなかったと思うけど。……久しぶりに、怖かったわ」
 何より、あの沈黙が。
 苦笑する刑事に首を傾げ、大事なことを確認する。
「? よく分からないけど、事情の把握は出来たのか?」
「ええ」
 親子の修羅場を見物しながら、ロンはにこやかだ。
 父子の間で、重と呼ばれた男が苦笑しつつ雅を宥めているのを見ながら、エンが溜息を吐く。
「……こうなると思ったから、わざわざ分かりにくい病室を選んでもらって、移動したのに」
 雅にバレることだけではなく、水月にバレることも恐れていたエンは、匂いで判別できない場所をわざわざ見つけてもらっていた。
「事情の把握だけなら、この人とエンだけの説明で、事足りるでしょうに」
 その手助けをしたゼツも、溜息を吐きながら言うが、こちらはロンの気持ちも察していた。
「だって、ここいらで発散してもらっておかないと、セイちゃんまた、格技室に連れ込まれちゃうもの」
「あ、そうですね。また、おかしな疑いをかけられるのは、困りますね」
 曖昧にそう説明されたのに、すぐに察したエンは頷いたが、その襟首を突然掴まれた。
「っ?」
「何故、君が、それを知ってる? そんなに近くにいたのかっ?」
 身長の差で浮くことはないが、こちらの背が低かったら完全に吊り上げられる、物凄い力だ。
 父親を黙らせた勢いのままの雅を見て、セイは首を傾げた。
「あれ? まだ、分かってない?」
「ええ。でも、もういいんじゃない? ランホアちゃんは、もういないんだから」
「初見で分かる、あの刑事共も大概だったから無理はないが、気づく方が本来はおかしいからな」
「匂いは、一緒だったんですけどね」
 それだけでは、本人とは思えないかと、ゼツは考える。
 血縁者と疑うのは、当然の反応だ。
「……そうか。まあ、いいや」
 その辺りも、無理に分かる必要はない。
 そんな年長者の言葉に頷き、セイは右腕の小脇に抱え込んでいた物を、隣に立つ兎の男に差し出した。
「? 何だ?」
「昨日集めた、例の黒幕の埃、だ。この数か月で、随分頑張ったようだ。公にするなら、これも警察側に渡す」
 囮として使った画像の類は、既に警察の手の中にある。
 メイリンが倒れた後、ランホアが警察に提供したのだ。
 あれも大概、根が深くて世間への公表を躊躇うものだったのだが……。
 一通り流し読みした兎が、つい低い声を上げた。
「……おい、これ、まさか……」
「模倣、だな。人間のみで、ここまで再現するのは、賞賛すべき話だとは思う」
「確かにそうだが、これは無暗に、公にはできんぞっ?」
 顔を引きつらせた兎は、怪訝な顔になったロンに、その資料を差し出した。
 一通り読んだ刑事も、悩ましげに溜息を吐く。
「事件にしたら、混乱が起きそうね。これは、秘密裏の方がいいわ」
「何の事だ?」
「あなたは、休んで下さいね。起きたら、律さんにチクりますよ」
 ベットの上で興味を示した水月には、太い釘を刺しておいて、雅もその資料を覗き込んだ。
「え。これ、日本の企業、ですよね?」
「ええ。真田商事って、確かに最近は海外への商品を、手広く扱ってるけど……」
 小さなスーパーから始め、この地の至る所に支店を作っている会社だ。
 数年前には通信販売を始め、最近では多岐の商品の売買の仲介を行い、信頼度も高まってきている中、海外にも手を広げ始めた。
「あそこの社長も、曲者だからな。早い段階でその問題の部署だけ、一気に切り離せる手はずでいるようだ」
 カスミ経由で会ったことがある兎が苦い顔で言うと、ロンが戸惑って首を傾げる。
「わざと、泳がせてる部署、ってこと? という事は、その部署に配属されているのは……」
「あ、この人なんですか、黒幕?」
 覗き込んだ雅が見つけ、その部分を指さした。
 そこには、真面目な顔を作った、厳つい面立ちの三十代の男の顔写真があった。
「真田社長の、甥っ子だな。商品の売買の請負だけではなく、生産にも手を広げたいと、意欲を持った男だが……それを、自分が引っ張りたいと思ってしまったようだな」
「そんな馬力が、ある人なんですか?」
 素朴な問いに、兎は苦笑して首を振った。
「馬力があれば、多少し信頼関係に不安はあっても、あの社長が目をかけないはずはない」
 つまり、意欲だけの男、だ。
「口だけは一丁前なんだが、自分では動かない。口で理想を伝えただけで、作成を強要していたんだろうな」
「そういう杜撰な生産計画だったから、まさか完成しているとは思わなかった。あの作成者、根性あるよな」
 無感情に頷き、セイはその部署の面々についても説明した。
「そこにもあるけど、そこに異動した従業員は数名。いずれも行動に問題があり、血縁や配偶者に害をもたらしている者たちだ」
 そんな奴らを選って移動させる真田社長も、カスミが親しくなるだけの何かがあるのだろう。
 最近は簡単に解雇宣告できない経営者側は、自社の困難期に備えて、切り捨てられる場所を設け、見過ごせない問題を起こした従業員を、辞令でそこに飛ばしていたようだ。
「異動先が合わなければ、すぐに辞職しているから、しがみついている従業員は、数えるほどだ」
「つまり、何人前だ?」
「それなんだがな、エン」
 別な思惑で問うエンに、兎の男は言いにくそうに言った。
「差し入れの件は、無理そうだ」
「え? どうしてですか?」
「調理場所の確保が、出来ない」
 現実的な理由を突きつけられ、男は短く声を上げた。
「お前の職場を使うわけにもいかんし、ここの調理場も、シャレにならんだろ?」
「そうですか。じゃあ、差し入れではなく、別な方法を考えなければ」
「困ったの。唐揚げの材料は、揃えたと言うのに」
 重が呟くのを見上げ、ベットに横になることを強要され、素直に掛布団を被った水月が天井を見つめた。
「唐揚げ……まだ、病院食しか許可されていないが、固く強い味のついた肉を、ビールで味わいたい」
「完治したら、婿殿と娘とで、晩酌でもすればいい。まだまだ先であろうがな」
「……くそっ。この程度の傷、暴れていれば知らぬ間に治っているものっ……」
 悔しげに吐き捨てる小柄な男の口に、慌てて蓋をした重は、目を細めて振り返った雅に笑いかけた。
「寝言だ寝言。話を続けなさい」
「……」
 疑いのまなざしの女を一瞥し、セイはエンにあることを切り出した。
「あの獲物を見逃してもらう代わりに、葵さんへの料理の振る舞いを申し出たんだ。鳥の丸焼きがいいって」
「鳥? 鶏でいいのか? それとも、鶴?」
「何で鶴を出す? 七面鳥でもいいだろう」
「いえ、大きい方がいいかなと。あ、でも、あの大きさを丸々焼くオーブンは、見たことないな」
 エンがそちらの方に頭を悩ませ始め、刑事と兎の男は、今後の話で盛り上がっている。
 医師の大男も、その会話に加わって、完全に蚊帳の外になりつつあるセイは、そろそろお暇することを考えていた。
 雅も、久しぶりに会った師匠と父親が気になるだろうし、このまま自分だけ辞しても、誰も気にしないだろう。
 そう考えて、お暇の挨拶を口に乗せようとしたその時、ロンが気づいてしまった。
「……あら?」
「ん?」
 それは、報告書の中の、件の部署が注文を受けた相手と、詳細が記載されている部分だ。
 刑事はその部分を兎の男に見せながら、戸惑いの混じる声で言った。
「懐かしい国の名前が、出てきたわ」
「ああ、だが、その国は、そこまでの脅威でもない……ん?」
 指で示された部分を覗き込んだ兎は、すぐにそれに気づいた。
「セイ、これは……」
「対処済みだから、心配ない」
 この一週間で、どれだけ動いたと思っているのだか。
 そちらに情報を渡すにあたり、この地を脅かしかねない部分の不安は、既に取り除いている。
「これは何処まで対処済みなの? まさか、ここの部分だけ、じゃないわよね?」
「そこの部分だけ、だよ。最後の仕上げは、後ほどになる。それでも、あんたらの動きには触らない」
 答えたセイに考え込んだロンに代わり、兎が慎重に尋ねる。
「後ほど? それで危険はないのか?」
「見つけた時には、すでにぎりぎりじゃないかってところだった。あれ以上何かされなければ、手遅れにはならないと思う」
「それは……」
「あんたら警察にまで、波風立たせたくないんだ。分かるよな?」
 まだ何か言いたそうな刑事に、セイは内心面倒くさいなと思いながらも、指折り数えて説明する。
「まず、その国との取引は、あんたたちが思う理由以前に、この国のあの会社のどこかでの引き渡しになるから、報復には向かない」
「まあ、行商で出国するのは、許可されているらしいからな。異国人の入国は出来ないが」
 良く知ってるなと、兎の言葉に軽く驚きながら、高校生は続けた。
「あんたが気にしている件は、実際に見て確認した。その取引の後処置しても急いでも、結果は一緒だ」
「一緒って、どちら側に?」
「それも、言ってどうなるんだ? 今更だ」
 苦い顔で黙り込んだロンに構わず、セイは続ける。
「これが一番の理由なんだけど、その資料にある通りその取引、二日後なんだよ。どう考えても、水月さんは全快しない」
「歩けるほどになった頃でも、一向に構わんが」
 横になったままこちらの目を向けた水月に、セイは溜息を吐いた。
「そんな半端な状況で、動く許可を貰えるとでも?」
「塚本の倅は、復活が早かっただろうが」
「あれは金田さんが、離れ業を使ったからです」
 この金田とは、この分院を受け持つ金田医師ではない。
 その義理の父親の方だ。
 副院長である金田朔也(さくや)は、まだ父親の技量にまで行きついていない。
「……」
「あなたが全快するまでは、泳がせることができる程度には、対策しておきます」
 そのために、久しぶりに人の手を借りることになった。
 自分が動けないのは、本当に不便である。
 そう言って話をまとめて、そのまま帰る気になっている高校生を見ながら、水月は後ろの二人へと視線を投げた。
 口をつぐんだ刑事と兎は、困惑したように顔を見合わせ、掛布団から顔を出している患者へと、資料を差し出す。
「……」
 問題の部分を見た水月は、二人の気持ちを察し、溜息を吐いた。
 それを一緒に覗き込んだ重が、微笑みながら声をかける。
「全快したら、私が手合わせしてやろうじゃないか、本気で」
「本当か? じゃあ、そっちの場所の確保を、誰かに頼んでおく」
 微笑み返した小柄な男は、横になったまま兎の男に声をかけた。
「……確認に行った和実たちに、一応断りを入れておけ。要望に沿えない旨と、侘びも」
「……ああ」
 その意を悟った兎はすぐに頷き、ロンを見上げた。
「難関の説得、頼めるか?」
「……仕方ないわねえ。それ、完全に投げてるじゃないの」
「じゃあ、あんたは許せるのか? この黙認を?」
 話が見えない男女が、そっとベットに置かれた資料を覗き込み、意味不明なこの会話を理解して振り返ると、医師とセイは廊下に出ていた。
「じゃあ、後はよろしく」
「はい。お休みなさい」
 無感情な声に、無表情な男が頷き、セイはその場を後にしてしまった。
「……二日後、ね。何としても、説得しなくちゃね」
 誰を、とは言わない。
 だが、苦笑している面々には、伝わっていた。
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