第1話

文字数 10,139文字

 ゴールデンウイークが過ぎた、週初めの放課後。
 高校三年となった男子が、職員室に向かって歩いていた。
 梅原戒(うめはらかい)
 この三年間の学生生活を送るために貰った姓に、ようやく慣れてきたところなのに、この生活も後僅かで終わりとなる。
 長いようで短い、寂しいようで安堵する、そんな複雑な思いを抱きながら、呼び出された職員室へと向かっていた。
 仕事をせずに、単に学校と住処を行き来する生活が、これで終わりだと思うと寂しいが、自分の容姿を怖いという一言で遠ざける女子に、嫌な思いをする事もなくなるから、それはいいかと己を納得させつつ、職員室に呼び出される理由を思い、気を重くした。
 最終進路を、そろそろ決めるように言われていたのだが、これが中々答えづらく、いい加減に書いた進路志望が通らず、呼び出される羽目になったのだ。
 信じたわけではないだろうが、今年の担任は真面目な教師だ。
 話が長くなりそうでうんざりしているが、姉貴分には釘を刺されているため、理由なくすっぽかすわけにもいかず、渋々向かっている所だった。
 足取りが重い、大柄な三白眼の男子生徒は、暗い気持ちをそのまま表に出しつつ、足取りも重く目的地へと向かっていたが、途中の廊下で足を止めた。
 目の端に映った保健室に、見知った者が入っていくのが見えたのだ。
 戒よりも二年遅く入学してきた生徒で、今は一年のはずのその人物が、保健室にお世話になる事態は、大問題だ。
 考えるまでもなく、男子生徒は教師の呼び出しを、すっぽかすことにしたのだった。

 戒が保健室に入った時、目当ての人物は室内に四つ並べられた机を前に、振り返っていた。
 不思議そうにこちらを見るのに答える前に、戒はその人物よりも早く席についている二人を見て、戸惑ってしまった。
 珍しい組み合わせだった。
 意外そうに戒を見て、とりあえず席を勧め、手慣れた様子で室内の棚を漁り、インスタントコーヒーを淹れる準備をしているのは、この学園の国語の教師だ。
 望月千里(もちづきちさと)望月千里(もちづきちさと)というその女教師は、去年までの二年間、担任だったから、完全に顔見知りだ。
 姉貴分の友人で、気心も知れていたから、色々と便宜も図ってもらっていた。
 その教師と共に、自分たちの向かいに座っている男を見て、何となく相談事の内容は見えた。
 二十代半ばとなったこの男、速瀬伸(はやせしん)は無事医学部を卒業し、今は研修医として病院の各科を転々としつつ勉強に励んでおり、それなりに優秀らしい。
 だが、小さな頃から生き物に好かれる体質で、本人が気づかぬところで、厄介な生き物の妖に好かれることもしばしばだった。
 去年の夏は、昆虫の妖に好かれて憑かれ、本人は全く気付かないうちに命の危機に陥るほどにまでなり、女教師が気づかなかったら、本当に危なかったんだと、姉貴分も言っていた。
 だから、今回もその手の困りごとを、無謀にも相談してきたのかと思ったのだが……。
 カップを前に置かれ、軽く礼をした若者を見て、戒は眉を寄せた。
 入ってきてこの若者を見た時、一瞬誰か分からなかった。
 自分よりも背丈は低いが、長身で体つきも無駄がない、整った顔立ちの若者が、胡乱な目で自分を見た時、思い当たった。
 髪をバッサリと斬り、小綺麗になったその姿には、あの小柄で童顔の、長髪の若者の面影はない。
 だがその目だけは、変わっていない。
 何かを見透かし、こちらの出方を正確に見つけてくる、そんな鋭さを込めた目だ。
 この、見目がいい若者(れん)は、元相棒の姓を借りて戸籍を作り、大学受験に向けた勉強を始めていると聞いたが、何故ここにいるのだろうか?
 神出鬼没だから、ここにいても違和感はないが、この二人と待っていると言うのは、少々不自然だった。
 そんな疑問を持ったのは、隣に座る男子生徒も一緒だったようだ。
 向かいに座る蓮より中性的で、小柄な色白の生徒は、今年入学してきた後輩の一人だ。
 薄色の金髪で完璧に整った顔立ちが、先輩たちにも大人気で、お目付け役の戒の姉貴分も、その絶大な人気に驚きを隠せないようだ。
 古谷渚(ふるやなぎさ)、と名乗るその生徒は、コーヒーカップを前に置かれ、教師が横に置かれた椅子に座った後も、無言で蓮を見つめていた。
 鋭い目つきに戸惑いつつも、話を切り出す。
「話とは、何だ?」
 改めて切り出され、何故か呼び出した方のはずの二人が狼狽え、落ち着きなく蓮の方へと目を向ける。
 これは、切り出すのにも時間をかけそうだなと、戒がカップを傾ける中、眉をひそめた若者は、二人の目を受けて小さく息を吐くと、険しい顔をこちらに向けた。
「単刀直入に訊くぞ」
「? ああ」
 戸惑う後輩に、蓮は特大の爆弾を投げた。
「ミヤと、やっちまったのか?」
 完全に、器官に入った。
 そう思う間もなく、戒は盛大にむせて咳込んだ。
 話を押し付けた二人の男女も目を見開いているが、蓮は全く構わずに後輩の答えを待っている。
 特大の爆弾の被弾にすら気づかず、生徒は答えた。
「やってないよ」
 無感情な声に、蓮が慎重に念を押す。
「本当か?」
「ああ」
 不思議そうに首を傾げた生徒は、やっていないと言う根拠を、淡々と語った。
「ミヤと私では、経験値が大幅に違う。やりあっていたら、私の方が負けるに決まっているんだ。ここにこうして元気でいるのが、やっていない証拠だと言っても、過言じゃないよ」
「……」
 「やる」を「殺る」の意に捉えての弁で、本人以外はその見解に首を傾げるであろうと思われる、的外れな根拠を告げる生徒に唸り、蓮はしばし黙った。
 そして、呟く。
「言い方が、遠回し過ぎたか」
 何処がだっ。
 まだ咳込むことをやめられない戒は、そう突っ込みたいのに突っこめなかった。
 何とか立ち直ろうとしている三年男子に構わず、蓮は更なる爆弾を放る。
「なら、寝たことはあるか?」
 全く、遠回しになっていない。
 机に頭を打ち付けて、その頭を抱え込む戒の横で、後輩は無感情に答える。
「それは、訊くまでもないだろう? 昔から、雑魚寝はしょっちゅうだ」
 もはや、何も気にすまいと諦観した二人の横で、蓮は自分で投げた爆弾を、思いっきり踏みつけた。
「お前、どういえば、分かるんだっ? こういう事を学ぶために、学校に通ってんじゃなかったのかよっ」
 喚くように責められ、後輩は無感情に首を傾げた。
 その感情のままに、問う。
「あんたは一体、何を訊きたいんだ?」
 このままでは、話が進まない。
 ようやく立ち直った戒は、そんな柄ではないのにと思いつつも、蓮に声をかけた。
「蓮、あんた、何を根拠にして、こいつとミヤが、出来ていると思ったんだ? そこから説明しろ」
 ここからどう話が転がるのかは不明だが、姉貴分の(みやび)の名を出されては、戒も気になる。
 そういう思いで口を出した男子生徒を、蓮は鋭い目線で一瞥し、気を取り直すべく息をつく。
 そして、静かに言った。
「……詳しい話は、知らねえ」
「はあ?」
 思わず荒く返す戒に、蓮は咳払いして言った。
「オレは偶々、病院に用があってこの件を聞いて引っ張ってこられただけで、どういう理由でそういう答えにいたったのかは、分からねえんだよ」
「蓮……」 
 一年の生徒も、流石に呆れ顔になっている。
 その様子を居心地悪そうに伺い見、蓮は横を一瞥した。
「詳しい事は、この先公が分かっているはずだ」
「……そうだな、私から話す方が、よさそうだ」
 初めからそうすべきだったが、どう切り出すか迷ってしまった教師が、咳払いをして話の先を引き受けた。
「実は先程、雅にバイトを紹介したんだ」
「へえ、どんな?」
「知り合いの仕事場の、少女の子守りだ」
 妥当だなと頷く戒に、千里は神妙に続けた。
「出来れば引き受けて欲しいと頼んだら、雅は二つ返事で引き受けてくれたんだ」
「ほう……」
 相槌を打った戒は、話のおかしさに気付くのが、数秒遅れた。
「っ、引き受けたっ? こいつを放ってっ?」
 思わず指さした後輩が顔を顰めているが、構う余裕はない。
 それを注意する立場の教師も、大きく頷いた。
「そうなんだ。今思うとそこから変なんだが、あの時はあまりに自然な対応で、全く疑問に思わなかったんだっ。先に、世間話から入っていれば、バイトをお願いしようなどとは、考えなかったんだが……」
 悔しそうな顔で千里は言った。
 バイト先の知り合いも切羽詰まっており、ついつい社交辞令を後回しにして、直入で頼んでしまったのを、教師は盛大に悔やんでいた。
「バイトの時間まで間があったもので、学園生活には慣れたのかと気楽に尋ねたら、随分と申し訳ない状況になっているようで……」
 春日(かすが)という姓の夫婦の娘として、この学園に入学してきた雅は、優しい顔立ちの長身の少女だ。
 大人しく見える割に、隣の男子生徒と一緒に行動することが多いため、やっかみは茶飯事らしい。
 その上、男子よりも女子に人気のある、望月先生とも仲良く話しているのを見とがめられ、嫌みや嫌がらせを受けているらしい。
 それを申し訳ないと告げる教師に、戒は頷きつつも姉貴分の考えを伝える。
「実害はないし、子供の可愛らしい嫉妬だと、ミヤ本人は気にしていないぞ。机に直しようのない傷をつけられた時は、衝撃を受けたらしいが」
「ああ、あれは酷かったよな。学園の備品に」
 ある日、移動教室から戻ったら、雅の机が油性のマジックとカッターナイフで、落書きされていた。
 学園に申請を出し、新しい机に変えてもらいはしたが、文字を書くのにも苦労しそうなほど傷つけられた机は、今後物置にしかならないのではと、雅は酷く落ち込んでいた。
「黒歴史室の、展示品が増えただけだからと、その件は宥めたんだが」
 担任の教師である千里は、そんな有様の机を見ても、動揺しなかった。
 何でも、校則で罰則はあるものの、何故かこういう勿体ない事をする者が、年に一人は現れるのだそうだ。
 加害者には、公共物を傷つけたもしくは他者を傷つけた慰謝料と称して、その代金を請求した上で、傷つけられた机と、被害者の希望次第で被害者の私物や、身体につけられた怪我の写真も、札付きで展示される。
 実名ではなく、少年A,少女A、教師Aなどと名付けられた、加害生徒や加害教師が傷つけましたと、きらびやかに明るい文字で、その経緯が書かれた札だ。
 他にも、意図的に割られたガラスや備品が展示される教室の品は、年々増えつつあるそうで、卒業生も自分の黒歴史を顧みる場であり、色々と考えさせられるらしい。
 被害者への気遣いのないそれだが、まあ、見に行かなければいいだけであり、その展示場の件で苦情を受けたことはないようなので、議論になったこともないそうだ。
 校則にも記載があり、保護者にもその旨を承知させた上、署名捺印も得ているから、文句も出にくいのだろう。
 知り合いの法律に詳しい者を味方につけ、その辺りの根回しをした学園長の、狡猾さが垣間見える話なのだが、千里はそれだけではまかり通らない事実を突きつけた。
 防犯をすればするほど、その裏をかく犯罪者がいるのと、同じ理屈だ。
「学園では、人および物を目に見えて傷つける行為は、罰則を加えられるが、内側まではそうはいかない。件の机の時はそれで済んだが……」
 つい、先程の件は、雅本人に手を出してのいびりではなかったため、監視カメラ越しでも判断できないものだった。
 本日の昼休みに、飲み物を買いに売店に向かった雅は、三年の女子に呼び止められた。
 周囲の迷惑は困ると思い、呼び出しに応じてついて行くと、そこには数名の女子がいた。
 トイレや更衣室は、中まで監視の目はないから、こちらも好都合なのだが、それを見越したのか、そこまでするほどの段階ではなかったのか、校庭の裏だった。
 そこで、数名の先輩女子にない事尽くしで罵られ、完全にこき下ろされたらしい。
 否定する労力も惜しみ黙ってはいたが、内心いらいらしていた雅は、余りのしつこさに危うく、
「手が出そうになった、と。反省していたんだ」
 不気味そうに、教師は言った。
 そんな千里の気持ちを察し、戒が目を剝く。
「手が出そうにっ? 何処か具合でも悪いのかっ?」
 戒の姉貴分は、怒るとものすごく怖い。
 だが、その沸点は、恐ろしく高い位置にあった。
 年端もいかない女子たちに、さえずるような罵りを受けただけで、手が出そうになると言うのは、どう考えてもおかしい。
 そう言い切ると、教師も大きく頷いた。
「私もそう思って、訊いたんだ。そしたら、最近、イライラが続いている上に、好きな食べ物も喉に通らない。胸焼けも酷くて、偶に吐き気もあると、その上……」
 失敗したかな。
 自嘲気味に、そう呟いた。
 何にと、鋭く訊き返したのだが、それは秘密とはぐらかされてしまった。
 神妙な教師を見ながら、戒は嫌な予感を覚える。
 向かいで蓮が、天井を仰いで眉を寄せてはいるが、構わず続きを聞いた。
「もしやと思い、その、月のものは順調かと尋ねたら、そろそろあるはずだけど、まだ分からないと、困ったように答えられてしまったんだ」
 それを聞いて青ざめる戒と、何の謎かけだと首を傾げる一年を見比べ、蓮は静かに頷いた。
「つまり、妊娠しているかもしれねえってことだな」
 矢張りかっ。
 頭を抱えた戒の横で、後輩もさすがに驚いた声になった。
「そんな馬鹿な。まだ、入籍してないだろっ?」
「馬鹿は、お前だっ」
 的外れな言い分に勢いよく身を起こし、三年の生徒はまくしたてる。
「ガキってのはな、入籍云々に関係なく、やる事やったら、出来るときは速攻できるもんなんだよっ。お前は、ガキがコウノトリに運ばれてくるとでも、思ってるのかっ」
「梅原君? それは確か、君が一年の時に、私が放った突っ込みだったと思うが」
 鋭い指摘に、勢いがつき過ぎていた戒は、大きく詰まり黙り込んでしまった。
 呆れ顔の教師は、真面目に言う。
「わが学園では、その手の教育をする場は、夏休みの前としている。だから、古谷君がまだ分からないのも、無理はない」
「そうか? 普通は、あれだけ長く生きてりゃあ、おのずと分かるもんじゃねえのか?」
 同じく呆れ顔の蓮の言い分に、教師はゆっくりと首を振る。
「そうとも言い難い。現に、雅の周囲の関係者の中で、この人のほかにもう一人、これを知らない子がいた。ここに入学し、学習してくれたことで、今のようにまともになったのだと思う。まあ、遅いやもしれないが」
「ほう……」
 冷たい視線が、痛い。
 姉貴分に、この学園に押し込められる前、見境なく遊んでいた戒は、その危うさを知り大人になったが、それでは足りなかったようだ。
 今迄のやらかしで、誰かが妊娠したと言う話は聞いていないが、隠されているかもしれない。
 一人ぞっとする生徒に構わず、蓮は何故か先程よりも気楽な空気になっていた。
「……そうか、そういう話だったのか。なら、そこまで遠回しじゃなくとも、答えは得られるな」
「何処が、遠回しだったんですか」
 空気となっていた男が、つい呟くのも無視して、蓮は首を傾げたままの一年生徒に目を向けた。
「セイ」
「?」
 突然、戸籍上の名ではない方の名を呼ばれ、目を丸くする生徒に、蓮は再び尋ねた。
「この数か月ほどで、ミヤに押し倒されたことは、なかったか?」
 もう少し、取り繕って欲しい。
 溜息を吐く大人たちと、先の指摘で詰まってしまい、何も言えない戒の微妙な空気の中で、セイと呼ばれた生徒は、考え込んだ。
「……数か月って、随分幅が広いな。もう少し、縮まらないか?」
 無感情な提案に蓮は少し考え、先に聞いた雅の症状を並べる。
「偏食に吐き気、イライラ。これは、妊娠の初期に見られる場合がある。まあ、その限りじゃねえけど、ここではそういう事にする。人によって違うが、大体、妊娠一、二か月目前後くらいから、その症状が出ると聞いたことがある」
「よく知ってるな。そう言えば、朱里は偏食があったくらいだったな。竹をかじりにうちに来てた」
「何でだよ」
「タケノコを見つけるのが、面倒だって言ってた」
 学生の妹の話にしては違和感だらけだが、そこを気にする者は、ここにはいない。
 セイと呼ばれた一年生は、深く考えてから答えた。
「そう言えば、あれも、押し倒されたことになる、か。うん、ある」
 驚きが、三人の人物の間に走った。
 戒も、守るべき存在を餌食にしてしまった姉貴分を信じられずにいたが、この答えで絶望した。
「……くそっ。エンが、あほらしい状況になっていなければ、こんな間違いは起こらなかったんだろうにっ」 
「人間はすごいな。あんなことで、子供がポコポコ出来るのか。出来ないように調整することもできるとか聞いたけど、あんな条件でできるなら、調整できる奴らはすごいな。いや、ミヤの、狐の体質の方が、影響してるのかな?」
 悔し気な戒と、心底感心しているセイを見つめ、蓮は小さく溜息を吐くだけだったが、教師が何故かその答えで勢いを増し、身を乗り出した。
「心当たりがあるのならば、話は早い。雅のお腹の中の子供の父親である可能性が高い、あなたに頼みがある」
 目を瞬く生徒に、教師は真面目に頼んだ。
「雅と、バイトを代わってきて欲しい」
「断る」
 短くばっさりと、セイは返した。
 なんて無茶を、と思ったのは戒だけではないはずだ。
 呆れた三年生徒は、他の男どもの言葉を代弁する。
「あのな、あんたが頼んだのは、子守りのバイトだろう?」
「ああ。だが、相手次第では、かなり疲れるものだ」
「確かに。オレならば一時間持つ自信がねえ」
 真顔の千里に、蓮も真顔で頷いてから、続けた。
「だが、ミヤがその程度で疲れるとは、思えねえぞ。こいつの子守りで、かなりの体力はついてるはずだ」
「オレは、もうガキじゃないっ。だが、その通りだ。寧ろ、その手の体力は、入り余っているはず」
 仲がいいとは言えない二人が、同じような意見を言った後、別な視点で指摘したのは、今まで黙っていた伸だった。
「子守り程度で疲れるように見えるほど、体調が悪く見えたのならば、どうしてバイトを頼むより先に、病院に行くことを勧めなかったんですか?」
 素直で的を射たその問いに、千里は目を険しくして答えた。
「だから、話を聞くまで、悪く見えなかったんだと、さっき言っただろうっ。しかも、あんなに大事とは……」
「言われるまで気づかないのなら、そこまで悪くもないだろう。たかが子守ならば、雅にとっては大事じゃない」
「だから、たかが子守じゃなかったから、慌てているんだっ」
 誰が、慌ててるって?
 そんな顔で眉を寄せた戒の前で、伸はそう言えばと天井を仰ぐ。
 研修に来ている、病院に電話連絡があった時、恩師でもあるこの人はかなり慌てていた。
「雅さんが、セイさんの子を身ごもっているかもしれないから、説得してくれと懇願交じりに言われたんで、この人も引っ張って来たんですが、何を説得して欲しいのかは、聞いていませんね」
「ああ、そう言えば、前者に気を取られて、そっちは気にしてなかったな」
 蓮も頷くのを見て、セイは溜息を吐いた。
 話の大本は、まだ先にあるらしい。
「……その、ただの子守りではないと判断した根拠は、何だ? そこから話してほしい」
 言下に、話を進めることを許可され、千里は表情を緩めて頷き、話し出した。
「これは、私の大学の時の同期で、ある芸能プロダクションの、社長をしている男に持ち出された仕事なんだが……」
「先生って、本当に若作りですよね」
「お前は、黙ってろ」
 現学園長とも同期のこの教師は、五十代に差し掛かった頃のはずだが、隣にいる自分と並んでもそう変わらなく見える。
 ついつい、感心して呟いてしまった伸に鋭く釘を刺し、千里はすぐに話を続ける。
「子供のお守りをしつつ、護衛も出来る人物を紹介してくれと頼まれた。あいつの本音では、私に頼みたかったようなのだが、流石に無理だ。それに、言葉も通じぬ子供を相手にするのは、いくら子供好きでも大変だと答えたら、通訳を用意すると言われたので、それならばと、雅に頼んだんだ」
「通訳? 日本人じゃないのか?」
 戒の問いに頷き、教師は答えた。
「中華の国出身の、娘さんだ」
「……」
 目を見張ったセイの隣で、戒は一人納得した。
 成程、雅があっさりと引き受けた理由は、それか。
 雅には、長く思い合っている男がいる。
 男の方も多忙だが、雅の方も通学が決まったために、会いに行くという事もできにくくなってしまっていた。
 どちらかというと体を動かす方が得意な姉貴分は座学が苦手で、あれだけ方々の国々を旅していると言うのに、どの国の言葉も聞き取る程度の語学しか得ていない。
 同行していない戒は、それを知る者たちから、異国を旅する雅の「借りてきた猫化」が、いかに面白かったかを聞いて、悔しい思いをしたものだった。
 そんな姉貴分が、言葉が通じない子供の子守りを、通訳と言う他人を入れてでも引き受けようと思った理由は、明白だった。
 雅の思い人が、中華の出身なのだ。
 男の住んでいた国の空気を、少しでも感じると言う、淡い願いと共に、この機に少しでも言語を理解しようと目論んでいるのだろう。
「……エンの奴、独り言は自国語だからな」
 聞き取れても、早口だから意味までは分からないと、雅が愚痴っていたのを知る戒は、早々に納得したが、話は続いていた。
「中華出身の、芸能界の娘、という事は……」
「ああ、あの事務所では売れっ子の、歌歌いだ」
 チョウ・ランホアという、最近人気が出てきた歌手だった。
 その名を聞いて、戒が更に納得顔になる。
 その名の歌手が、路上で通り魔らしき者に襲われたことが分かったと言う記事が、新聞に載っていたのを思い出したのだ。
 そんな三年生徒と、その名を聞いて眉を寄せた一年生徒の前で、保健医の作業机に手を伸ばした教師は、そこに置かれていた新聞を手に取り、ある部分を広げて机に置いた。
 今日の朝刊で、戒が今思い出した事件の概要が記されている。
「人気歌手、通り魔被害か?」
 という見出しのその記事を、二人が黙読する間に、千里は他の二人に言い訳する。
「雅を送り出した後、何気なくここに来て新聞を手に取ったら、この記事を見つけた。数日前の出来事で、初めは事務所の方も隠していたらしい。襲われた者が襲われた者だったから、騒ぎを起こしたくなかったんだろう」
 今の時代で珍しく、全く姿を想像できない女性歌手。
 そんな触れ込みでデビューし、二年経つか経たないかのその騒動は、世間に驚愕を走らせた。
 数日前、仕事帰りに住まいの前で自動車を降り、歩き出したところを刃物で襲われた。
 その本人には怪我もなく無事だったが、マネージャーである女性が彼女を庇い、重傷を負って病院に運ばれた。
 本当は、その女性が意識を取り戻すまではと、警察も事務所も隠していたようだが、マスコミが嗅ぎ付けてしまったのだ。
「……」
 説明を聞きながら、セイは無感情にその記事に目を落としている。
 相槌を打たないため、こちらの話を聞いているか分かりづらいが、友人に言われている通り、構わず続ける。
「怪我をした女性は、チョウ・ランホアの母親で、依頼してきた私の同級とは、義理の兄妹に当たる人だ」
 兄弟で立ち上げた事務所で、弟に嫁いできた女の子供が、その歌手だった。
「確か、一時期は存在しない人間だと言う噂が立つほど、完全に覆面歌手でしたね。あんなに幼い子供だったとは、本当に驚きました」
 記事にも、その辺りが書かれている。
 幼い正体は暴かれたが、依然として姿は知られていない。
 その徹底した隠匿が、同窓生の教師にも不思議だったが、世間でもその謎解きが活発化しているようだ。
 目を細め、記事に顔を近づけた一年生徒も、興味を持ったようだ。
「……じゅっ、さい?」
「ああ。だから、あまり世間の目には触れさせたくないらしい。声だけで世間を元気づけられればと言うのが、本人の希望だそうだ」
「……母親が、マネージャー?」
「ああ。弟が捕まえたにしては、出来た嫁だと社長も笑っていた。綺麗な女性だそうだ」
 呟く声にいちいち答えると、生徒は大きく溜息を吐いた。
「そうか。そういう事に、なってたのか」
「?」
 意味深な呟きが漏れ、速瀬と教師が顔を見合わせる前で、戒は意外そうに尋ねた。
「知り合いか?」
「まあ、話には、聞いてた」
「そうか、ならば、話は更に早い」
 珍しく歯切れが悪いセイに、蓮は目を細めているが、千里は頷いて身を乗り出した。
「一度、様子を見て来てくれるだけでいい。あなたの目に、雅の調子が悪そうに見えたら、代わってきてもらえないか? もしくは、その仕事自体、キャンセルしてくれても、構わない」
「……おい。こいつの出席日数を、犠牲にしろと? 古谷の連中が泣くぞ」
「心配するな。後できちんと、出席簿は改ざんしておく」
 一応そう忠告する戒に、きっぱりと不正を約束する教師に一同が呆れかえる中、セイは溜息を吐いてから答えた。
「私が、行くまでもない」
 目を見張る千里を見ながら、無感情に言い切ったのだった。
「ミヤが具合悪そうに見えたのなら、その歌手本人が、絶対に断る」

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