第6話

文字数 8,840文字

 兎に角、消えた二人は無事、らしい。
「らしい、ですか」
「ああ」
 その日の放課後、何故か呼び出された速瀬伸は、望月千里の話に首を傾げる。
「まだ、本人が何処にいるのか分からないから、本当に無事かは分からない。だが、高野や市原さんの態度を見て、そう判断したと言っていた」
 そう言っていた雅は、本日二時間目が終わった頃に遅刻してきて、残りの授業を全て受けた今は、また現場へと向かった。
「二人が戻って来た時の事を考えて、というのもあるが、恐らくは、警察への威圧が目的だろうな」
「……まだ、本調子ではないんでしょうか?」
 心配そうな伸に、千里は真顔で言った。
「今日の教室は、真冬並みの温度だった。エアコンはつけていないのに」
「それは、これからの季節には、便利な機能ですね」
「便利で済むか。それに、機能とは何だ? ったく、あれは、勘のいい生徒だったら、凍えて病になる類の寒さだったぞ」
 いい加減、友人の方の調子も戻ってほしいものだと、千里は内心困っている。
 雅から不調の原因を語られ、とんでもない疑惑を持っていた事を暗に責められてしまったが、心配なのはどうしようもない。
「どうも、森口家の嫡男の行方と、エン殿の行方も分からずじまいで、本当に荒れているようだ」
「……それは、困りますね。そろそろ、顔ぐらい見せてやればいいのに」
 そんな余裕もないのかと、伸は首を傾げた。
「森口先輩はまだしも、エンさんはそこまで忙しくないはずなのに。今は特に、周囲に色々と押し付けていて、暇なはずですよ」
「そうなのか?」
 伸が持ってきた手土産の和菓子に手を伸ばしながら千里が返すと、男は頷きながら茶をすする。
「森口先輩も、もう動けるはずなので、そろそろ一気に、片が付くと思います」
 色々な種類の練り羊羹のうち、サツマイモの羊羹を口にした千里は、天井を仰ぎながら問う。
「何処まで、尋ねて大丈夫なんだ?」
「雅さんが、何処までご存じなのか、それ次第です」
 即答の教え子に頷き、雅から聞いた話を並べる。
 この位ならば、秘密にすることもない話だから、自分にも耳に入ったのだろうと言う判断の上だ。
「……チョウ・ランホアという歌手が、カスミと言う人の子供だという事と、ある企みで母親と共に囮で黒幕を炙り出そうとしていたこと、森口水月君とエン殿が身を隠しながら、その護衛と犯人の確保を目論んでいるようだという事くらいだ」
「……ああ、成程。そういう方向に、考えてしまっているんですね」
「そういう方向?」
 首を傾げる恩師に、伸は困ったように答えた。
「これ以上、お答えすることは、出来そうにありません」
「何だと?」
 険しい目を向ける千里に、本当に困っている男は天井を仰ぐ。
「一つ言えるのは、夕方セイさんは、現場に姿を見せるだろうと言うことくらいです。おびき寄せの餌を、取りに行くと言っていましたから。実はオレ、ここで待ち合わせもしているんです」
「は?」
 分院の方で、医師の後をついて勉強しながらも力をつけている最中の伸は、最近不思議に思う事があり、それを金田医師に尋ねてみた。
 そしたら、教えてもらえるどころか、課題としてその問いの答えを出すようにと言われてしまったのだ。
 困っていた時に、ランホアがそっと助け船を出してくれた。
「その、課題の参考になりそうなものを、御父上から預かっていると。暇つぶしに読んではいたが、子供の部屋から見つかるとまずいから丁度いい、罠の餌に使ってもらおうと」
「……本当に、無事なんだな」
「はい。ご自分の足で、メイリンさんの病室まで、見舞いに来てました」
 そろそろ、罠の餌となるそれを回収し、伸に引き渡すべくこちらに向かってくれる時刻だと、教え子はあっさりと言い切った。
「あなたに呼び出されたので、こちらに向かうと知らせたら、ここで待ち合せようという事になったんです」
「……つまり雅は、行き違いに合うと?」
「どうでしょうか? お二人から、心配している二人に顔だけでも見せておけと、念を押されていたので、少し遅れるかも」
「そうか。なら、来たら教えてくれ。それまでは、自分の仕事を片付けておく」
 羊羹を口に放り込んで立ち上がった千里は保健室を出て、職員室へと戻っていった。
 それを見送った伸に、これまで自分の机で仕事をしていた保健医が声をかける。
「……なあ、もしかして雅は、気づいていないのか? ランホアって歌手と、その母親の正体に?」
「そうみたいです」
「……? 母親の方には会っていないから仕方ないが、歌手の方には、会ってるんだろ?」
 目を瞬く杉本百合に、伸は困ったように笑って見せた。
「それだけ、調子がすぐれないのかも、知れないですね」
 千里が、心底心配しそうな事態だ。
 だからこそ、本当のことまでは話せなかった。
 セイがここに来ると知り、千里は詰問する気満々だが、真実を聞かされるかもしれないと言う不安は、全くない。
 だが今、職員室で雅に連絡を取って呼び寄せようとしているとしたら、ここは修羅場と化してしまう。
「ああ、電話の類は持ってないけど、警察を威圧するために現場に行ったのなら、知ってる刑事も同行するもんな。きっと簡単に連絡がつく」
 百合はげっそりと肩を落とし、そっと尋ねた。
「帰っていい?」
「この部屋の管理者が、何を言ってるんですか?」
「いつもみたく、最後鍵閉めだけしっかりして出てくれれば、いいからさあ」
「鍵閉め出来るほど、ここが残っている保証があると?」
 修羅場の中心となる二人は、どちらも在学生だから、学園全ての崩壊はないだろう。
 だが、気分次第でこの一室位は、使えなくさせることが出来そうだ。
 そう脅すと、女は頭を抱えて嘆いた。
「そういう、有り得そうな脅しはやめてくれよっ。証人として残っていなきゃ、それこそ監視不行き届きで、弁償させられそうな事態じゃないかっ」
 弁償の負担を、生徒たちとの分担で済ますためには、残って宥めるくらいはしなくてはならない。
 命懸けになりそうなその作業に、百合は心底怯えながらもその場にとどまったのだが、幸いなのか不幸なのか、そんな修羅場は起こらなかった。
 予想以上に早く、セイは学園の保健室にやって来たのだった。

 どうやら、少々特異な仕事を引き受け、森口水月の行方も知れないらしい。
「ああ、律も殆ど把握はしていないが、生存の報告だけは受けていると言っていたぞ」
 真顔のロンの切り出しに、(しのぎ)は頷く。
 街中で未成年のバイト達が、真っ当な企業のティッシュ配りをしているその傍のベンチに座り、愛弟子と喋っているところを捕まえられ、自分の子供が関わっている事件の事を、簡単に説明された後の頷きだ。
「水月本人からも、前もって断りの連絡があった」
「断りの、ですか?」
「ああ。もし見かけても、声をかけないで欲しいとな。まあ、あの状態のあいつに声をかけるのは、流石に怪しいからな」
 意外にも深く事情を知っている凌は、偶々見たことがある仕事中の水月を思い出し、苦笑する。
「水月はメイリン、エンはランホア担当だと言うのも、あの時気づいたが、お前は会っていなかったのか?」
「はい。私がこの件に関わったのは、メイリンの事件以降なので」
 答えながら、ロンは首を傾げる。
 水月がメイリン担当なのなら、今も病院の方にいるのだろうから、自分が会っていないのは仕方がない。
 だが、エンが内密についているのに、自分はおろか雅すらその存在に気付かないのは、どういう事だろうか。
 ……思うほど、調子は戻っていないのだろうか。
 ロンは軽く落ち込みながら顔を上げると、凌は前に立つ弟子を、首を傾げて見上げていた。
 隣に座る小柄な若者も、そんな様子を物珍し気に首を傾げている。
「……担当だと言っても、始終傍に付き添う必要はないと言うのは、分かるよな?」
 メイリンの事件以降、セイが始終ついていたのならなおさらだ。
 それは分かるロンも頷くが、含む言葉が分からない。
「……お前まさか、家庭内でも疲れることがあったか?」
 鋭いはずの男のこの体たらくを、師匠は真剣に心配している。
「あったと言えば、ありましたが……それは、その日のうちに解決したはずです」
 電話連絡だけで一晩家を空けてしまった日、可愛い焼餅を焼く妻を宥めることで、かなりの体力を使ってしまった。
 そう真顔で返す弟子に、凌は真顔で頷いて見せ、本題に答える。
「水月は、病院にいるだろう。昨日の今日で、ランホアも大事を取って待機しているらしいから、会おうと思えば会えるんじゃないのか?」
「大事を取ってって、現場の血痕は、あの子のものなんですよね?」
 耳を疑ったロンに、凌は目を見張って言い返した。
「お前、捜査内容までは、話すべきじゃないだろうが」
「この位なら、記事にもなっています。ご存じでしょう?」
 新聞の朝刊の見出しに、使われてしまった。
 苦い顔で返すと、凌は低く唸ってから言った。
「捜査している奴が、あっさりと話していい事でもない気はするが、まあいい。その血痕は確かに、ランホア本人の者らしい。だが……調べればわかるが、薄めた血だ。血に見える色を保持するくらいにまで、薄めていると聞いている」
「誰からですか?」
「ランホアを、作った奴だ」
「……作った?」
 予期しない言葉に目を見張る刑事に、凌はゆっくりと言い直した。
「正しくは、ランホアの姿の皮を作った奴、だな。あの歌手を見て違和感があったもので、作成者を直撃したんだ」
 そうだろうとは思っていたが、作成者は近くで経緯を見守っていた。
「人型の風船を被せた感覚だと、そう言っていたから、刺された時点でもう、使い物にはならなくなったんだろう。ランホアは、もう姿を現せない」
だが、中身は無事だと、凌は言い切った。
その言いようだと、ランホアの中身が誰なのかも知っているように聞こえる。
「……お前、本当に大丈夫か?」
 目を細めて考えるロンに、本当に心配そうな叔父の声がかかる。
「メイリンなら兎も角、ランホアの方には会ったんだろう? 間近で?」
「ええ」
 そんなに心配されると、本当に病気になった気がする。
 立ち尽くしたまま秘かに落ち込む大男を見上げ、凌の隣で黙っていた若者が口を開いた。
「……身体的な病はなさそうだ。精神的な病の方だろうな、発病するとしたら」
 ベンチに座る若者は、見上げてはいるものの、相手をその目には映していない。
 それなのに、全盲だと気づかせないほどに見開いた眼は、白くなった瞳孔と薄い色の瞳のせいで、心まで見透かされているかのような錯覚が起こることがある。
 隣に座る大男と再会した時に、後ろめたく思われないようにという、淡い気遣いだったようだが、他人にも動揺を植え付ける目だ。
 のんびりとした言葉に言い返したいが、ついついいつもの口調が出そうになり、刑事は口をつぐんだ。
 お姐言葉は既に癖になってしまっていたが、それが口をつく度に師匠の凌は呆れ顔をする。
 だから、真面目な話の時くらいは、話の腰を折らないように敬語を心掛けているロンは、若者への反論を押し殺しながらも、話を戻すべく咳払いした。
「……この件が解決しましたら、長期の休暇申請を出します」
「なら、早く解決しなくてはな。病院で水月に会って、もろもろの事情を教えてもらった上で、加害者の確保をしろ」
 本当に、何かの餌に食いついただけの加害者ならば問題ないだろうが、今の所微妙な事件だ。
 通り魔に見える事件と、居直り強盗に見える事件。
 これが、母子が被害に遭った事件の上に、偶々にしては短い間隔で起こっているから疑いがあるだけで、世間の目では別物の事件に見え、夜に移動する国民が不安に苛まれている。
 それを危ぶむ凌に真面目に頷いた時、聞き慣れた声が叫んだ。
「いたあっっ。お前、こんなところにいたのかあっっ」
 どすの利いた太い声は、すぐ近くでティシュ配りをしていた若者に向けられていた。
 驚くでもなく振り返る若者は、うるさそうに眉を寄せる。
 そして、勢いよく近づいてきた大男を、足を持ち上げて止めた。
「暑苦しいから、その勢いで抱き着くのはやめろって、何度言えば分かんだよ、お前は」
 まだ、抱き着いてはいないが、そういう前科がある大男は、鳩尾に沈んだ靴を見下ろし、声もなくうめく。
「お前、一人か? 部下の一人くらい連れて歩けって、言われてねえのかよ? 何で、一人で迷ってんだ?」
 そんな大男を見下ろした若者は、当然の問いを投げたのだが、その問いに勢いよく顔を上げた相手に、目を見開いた。
「そう、その部下だよっっ」
「ん? 何だ?」
「大変なんだ、すぐにお前にスケープゴートになって貰わねえと、不味いんだっ」
「あ?」
 決死の言い分に、怪訝の目を向ける若者に、市原葵は言い切った。
「高野がっ。このままでは、雅姐御の餌食にっっ」
「何だ、そりゃ」
 ますます分からない若者蓮に、葵は必死に事情を説明した。
 今関わっている事件の簡単なものに、今朝がたの出来事を加えたものだったものだが、途中で蓮の眉間にしわが寄った。
「……何で、刑事のお前らなら兎も角、ミヤがそこに?」
「セイが、そこで仕事をしてたんだよ」 
「? あいつ、今は通学してんだろ?」
「してねえんだよ。一週間前からそこで、事件に合った歌手の子の護衛を、引き受けてんだっ」
「はあ?」
 再び目を見開いた蓮に、葵は低く言った。
「何でも、じゃんけんに負けたせいで、雅姐御の様子を見に行く羽目になった延長線上、だったらしいんだが?」
「……」
 妙な沈黙が走った。
「マジか」
「ああ。心当たり、あんだよな?」
 一瞬目を泳がせた蓮は、不意に目を見開いて後ろに身を引いた。
 葵の背後から伸び、若者の胸ぐらをつかもうとした手が、空を掴む。
 舌打ちしたロンが、身を引いた場に立つ蓮を睨む。
「あなたまさか、あの学園に行ったの? 一週間前に?」
「……」
 嫌な奴にバレた。
 若者が舌打ちするのを見て、むっとした男は文句を並べる。
「蓮ちゃん、あなた知ってるのよね? セイちゃんがどうして、高校生として通学することになったのか?」
「……」
 説教モードのロンを見上げ、神妙な顔を作った若者だが、話は聞き流しているのか、相槌はない。
「この事件が長引いて、もしあたしたちが教えたいことを教える授業を、受けそびれたらどうするのよっ。どう責任取ってくれるのっ?」
 説教というより、嘆きの色の方が濃い大男を見上げながら、蓮はその隣でおろおろとしている、もう一人の大男に声をかけた。
「さっき、ミヤとセイが衝突するかもしれねえと、速瀬のガキから連絡があったんだが」
「へ? あいつ、何処にいるんだ?」
「学園の保健室だそうだ。何でも、伸に出された課題の参考になる物を、セイが持ってきてくれることになっていたらしい。そこに、ミヤもあいつらの担任に呼び出される予定で、衝突が起こりそうだからと、助っ人を頼まれたんだが、バイトを理由に断った」
 酷い。
 思った葵の横で、ロンは目を細めた。
 その目を見返しながら、蓮は確認した。
「オレは、じゃんけんの件はもう終わったと思っていた。だから、衝突する意味が分からなかったんだよ。つまりは、こういう事か? セイは、今朝あの歌手のガキと一緒に、失踪してたんだな?」
「ええ。そういう事よ」
 冷静な言い分に、大男は不満げに頷く。
 もう少し混乱した上で、自分の怒りをまともに受けてほしかったのだが、この若者相手では、こんなものだ。
 どんよりと睨む視線を気にせず、蓮は一人納得している。
「そうか。見てくるだけじゃあ不味いほど、ミヤの機嫌は悪かったんだな。それが今も、じくじくと続いているってことか。こりゃあ、触りたくねえな」
「……他人事みてえに言うなよ。その八つ当たりで、うちの部下が窮地に立ってるんだぜ?」
「今頃、セイと再会してんだろ。なら、窮地は脱してる」
 心配する葵に軽く返すと、不満げなロンへと声を投げた。
「言っとくけどな、オレは頼まれたからこそあの場にいたんであって、じゃんけんの相手になったのは、不可抗力だ。それに、じゃんけんの賭けの対象はただの様子見であって、あいつの決断までは強要してねえ。だから、オレには謝罪の必要はねえってわけだ」
 不敵に笑いながらの言葉は、正論ながらも憎らしい。
 ただでさえそうなのに、大人の男に成長したその面差しが、余計に憎さを引き立たせてくれる。
 だが、正論なだけに反論できない。
 悔しそうなロンの肩をたたいたのは、ベンチから立ち上がり、愛弟子と共に近づいていた凌だった。
「兎に角、行く場所は二択になった。どちらにしても、居場所が把握できて幸いだったな」
「……」
 苦笑しつつも前向きな意見を述べる師匠の言葉に、ロンは溜息を吐いて頷く。
「……病院に行って見ます」
 言い訳は、事情聴取でもいけるだろう。
 事実、水月かエンを問い詰めるのだから、堂々と行ける。
 一礼して去っていくロンを見送る凌の傍で、葵が溜息を吐いた。
「ってことは、学園の保健室は、今頃……」
 こちらはこちらで、大事になりそうだと嘆く大男の前で、蓮が携帯機器を胸ポケットから取り出した。
 未成年バイトの監視役の凌が注意をする前に、その手の中の電話が着信の振動を伝える。
「おい、まだバイト中だ」
 受信相手の名も確認せずにそう言う若者は、相手も察しているようだ。
「……」
 勘の鋭さも、成長しているようだ。
 感心する凌の傍で、愛弟子が悔し気に舌打ちした。
 どうやら、自分よりも小さかった若者の、近年の急成長に思う所があるらしい。
 自分からすると微笑ましい諍い理由なのだが、それを口に出して機嫌を損ねたくはないので、優しい目を向けるだけにとどめた。
 そんな大小の二人と、元相棒の刑事の前で、蓮は電話の相手の言い分を聞いた。
 漏れ聞く声は、かなり取り乱していた。
「雅さんは、間に合いませんでしたっ」
「へえ」
 対照的に、蓮の方はほぼ無関心だ。
「……保健室崩壊は、免れたぜ」
「そんな些細な話じゃ、ありませんっ」
 呑気に葵に報告した若者に、伸は言い切った。
「あの人、この十数時間、呼吸と瞬きと食事しかしていないんですっ」
 それの何が問題だ?
 大音量の声のその言葉に、凌は首を傾げただけだったが、他の三人は違った。
「っ」 
 愛弟子が息をのむその横で、葵が顔を引きつらせる。
 目を見開いた蓮が、代表して確認の言葉を投げる。
「……確かか?」
「はいっ。やけに、楽し気に笑っていたもので、もしやと思って確かめたら……」
「そうか。何処に行くと言っていた?」
「古谷家に帰ると。無断で外泊したから、謝りに帰ると」
 頷いた若者は、刑事を見上げた。
 その顔を見下ろして頷き、葵は踵を返す。
「キョウ、あんたが行ってやってくれ。オレはまだ、バイト中だ」
「こら。折角の逢瀬を、訳の分からないことで、邪魔しないで欲しいんだが?」
 逢瀬だったのかと、素直に驚きながらも蓮は、走り出した葵の背を見送りながら返した。
「ですが、あいつを一人走らせたら、目的地に着くどころか、一週間は戻ってきませんよ」
 どうやら愛弟子、鏡月(きょうげつ)を動かす理由は、迷子対策らしい。
 逢瀬は冗談だが、久しぶりに気楽な会話を楽しんでいたと言うのに、そんな理由で邪魔されるのは了承できない。
「分かった、早退していいぞ」
 あっさりと言いだす監視者に、蓮は真顔で返す。
「外出ってことで。すぐ戻ります」
「お前、数時間ぐらいゆっくりしろ。どうせ大学の資金のつては、あるんだろう?」
「ありませんよ。親父に頼る気は、ありませんから」
 あの父親を頼って、下手な恩を受けてしまっては、どんな見返りを期待されるか分かったものではない。
「では、一時間ほどで戻ります」
 告げるとともにティッシュ入りの段ボールの蓋を閉じると、大男の後を追って駆け出してしまった。
「……セキレイの奴、嫌われてはいないようだが、信用は全くされていないな」
「過去の所業がひどいからな。信用しろというのが、無理な相談だろう」
 のんびりと返す鏡月を見下ろし、気になった事を尋ねた。
「食事も呼吸も瞬きもしているんなら、何が問題なんだ? あ、排泄してないな」
「……それは、入れるまでもないと思ったんだろう、きっと」
 師匠は、愛弟子ののんびりとした答えに空を仰ぎ、何かに思い当たった。
 だが、それこそ別に、問題あるとは思えず首を傾げた。
「鏡月?」
「何でだろうな、昔からあれだけは、抜いていては不味いんだ、あの子は」
 生まれるまでの期間が長かったせいなのか、生まれた後の何かしらの影響なのか分からないが、どうしてもこれだけは、耐えられないようなのだ。
「そうか……」
 短く相槌を打った凌は、若者が走り去った方を見たまま、しんみりと言った。
「……加害者、無事に済めばいいな」
 曖昧な情報の中で、これだけは把握できた。
 姿を消していた若者が、現場で何かを探し出し、それを学園で待つ研修医に託し、古谷家に帰った。
 その動きは、色々と失敗してしまって焦っているであろう加害者を、早急に捕まえる罠だ。
 玄人ならば今は動かず、世間が鎮まるまで待つだろうが、たったの一週間でぼろを出した程度の奴だ、揺さぶれば食いつくだろうと見ての、罠作りだ。
 捕まえてしかるべきところに突き出す、というのならば問題ないが、そうしない可能性があるから、蓮が動いたのだろう。
「あの件の依頼者も、加害者の生死については、問わないと太鼓判を押してしまったんだろうな。動きがうかつな上に、失敗続きの下っ端を生かしておいても、黒幕の情報を聞き出せるとも思えないからなあ」
 可哀そうだが、仕方ないなと凌は思った。
 力のない女子供を狙って、怪我を負わせている時点で、同情の余地はないのだから、蓮たちが間に合わなくても仕方がないだろう。
 呑気にそう考えつつ、再びベンチへと腰掛け、久しぶりの師弟の語らいを再開するのだった。
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