第1話 四翼の鍵①
文字数 5,584文字
水色のカーテン、桃色のシーツに、黄色い寝巻き。
淡く色とりどりの家具は少女が小さな頃からずっと使っているもの。
カーテンの隙間から差し込む光がその少女、四方結の目蓋 に当たる。避けるように二、三寝返りを打つとカナリアのように綺麗な黄色い髪が肩元で揺れた。
ゴォー、とエアコンが冷気を噴き出している。
それなのに部屋は未だ暑く寝苦しい。
降り注ぐ陽光にジリジリと身を焼かれ、耐えきれず起き上がった。
「暑い」
普段はぱっちりとした桃色の瞳も、寝覚めの悪さからか普段の半分も開かれていない。見慣れたパステルカラーの景色をぼんやりと見渡すと、開けっ放しのドアに気がつく。
どうりで暑いわけだ。
彼女が寝ている間、クーラーの冷気は淡々と外に流れていたらしい。
「……トマト?」
加えて、部屋の隅にはトマト——いつも檻にいるはずの兎が見当たらない。そりゃあ屋根もないただの囲いなのだから、抜け出そうと思えばいつでも抜け出せる。そこから器用にドアノブを下げ、リビングにでも出て行ってしまったのだろうか。
「はあ」
閉め出すわけにもいかないので、トマトを連れ戻すべく渋々部屋を出る。時刻は六時より少し前、いつもならまだ眠っているはずの時間。昇りたての朝日に照らされた廊下はいつもと違った印象を受ける。
その非日常の先、見間違いかと思ったが、母親の部屋のドアが開いていた。
父親が家を出て以来、一度もこの部屋には立ち入っていない。あの部屋の片付けはしなくていいから、と言われている。
暗に入るなと言われている気がして一度たりとも近づくことはなかった。
恐る恐る中を覗いてみると、目につくのは机に山積みの本や、壁に貼られた大きな世界地図。太平洋に浮かぶ『ムー』という大陸を中心とした地図らしく、教科書で見るものとは少しだけ位置がずれている。
どれも研究者であった母が使っていたものだ。
足元を見渡すと、隅のクローゼットにトマトが頭から突っ込んでいた。
「もー、どうやって入ったの」
ため息混じりにトマトを抱きかかえると、彼の咥えていた物が床に転がる。
「なに?」
白い石膏の様なそれは、おそらく鍵であった。持ち手に四つの羽の装飾、先端にはコの字の出っ張りが付いているだけという簡素な作り。
トマトを床に下ろし、そっと拾い上げる。ボールペン大もあるそれは見た目ほど重くはなかった。
(紐がついてるし、アクセサリーかな)
棚に並んだ家族写真をざっと見渡しても、この鍵をつけているものはない。
「ここに置いとくね、お母さん」
結はその鍵を写真の側に置き、部屋を後にした。
□
セーラー服に身を包み、リビングで朝のニュースを眺める。
テレビには『ムー消滅から八年!』というテロップが踊っていた。
今日はムー大陸が地上から消滅した日であり、結が母親を失った日でもある。
瞼が重く、テロップの文字が霞む。早起きの反動で少し眠たい。腰掛けたソファは一人には広く、横になってしまえばすぐにでも眠りにつけそうだ。
テレビから届く声も次第に遠のき、現実と夢の境が消えていく。その微睡 を揺蕩 っていると、呼び鈴と共に玄関の戸が開いた。
「入るわよ」
隣人、八遣征 の声で意識を戻す。
「おはよう、結。寝坊しなかったのね」
「うん、暑くて起きちゃった」
そっと、淡々と話す声に心が安らぐ。
そうしてまた瞼を閉じ、
「——おはよう? 結」
むに、と両の頬が温かい手に包まれた。
「起きた、起きたよ。征おはよう」
結が瞳を開くと、意志の強そうな梅色の双眸が真っ直ぐに飛び込んでくる。
いつの間にか隣に座っていたらしい。
「なんかあった?」
征が首を傾げると、右サイドに大きくまとめた檸檬色の髪が肩口で揺れる。
「それがね、私が寝てる間にトマトがドアを開けちゃったのよ。おかげで部屋が暑くって」
「へえ、あなた器用なのね」
ソファでじっとするトマトを征が撫でると、彼女の雪のように白い肌が兎の体と溶け合う。
「さ、行きましょうか」
「うん。じゃあ行ってくるねトマト、お留守番よろしく」
結がトマトに、そして部屋の隅に飾られた母の写真へと手を振る。時刻は七時半過ぎ、いつもより早く家を出た。
学校までは丘を下って十分と少し、朝礼の時間までまだ少しゆとりがある。爽やかな一日の始まりに心躍らせ、玄関の扉を開くと、
「あっつ……」
期待もそこそこに、出鼻をくじかれた。
ああそうだ、今朝の一件で家中涼しかったけど、今は真夏だ。
□
結の暮らすこの輪境 市は雨の日が多く、真夏でも茹 だるような暑さにはならないのだが、しかして今日は生憎の晴れ。気温も湿度も絶好調。
「ゔああ……」
「珍しく晴れたわね、雲一つない」
猛暑に喘ぐ結に対し征は、まるで他人事のように呟く。
「なあんで征は平気なのかなあ」
「別に平気なわけじゃないわよ」
体質の差か、彼女は涼しげな態度を崩さない。たとえ体育の授業であろうとこの調子なので付いたあだ名は、
「氷の女王様ね」
「あのさ、私認めてないからね。その名前」
「えー、私はかっこよくて好きなのに」
怪訝な顔をする征を他所に、空を見上げた結が続ける。
「ねえ征、せっかく晴れたんだから放課後どこか遊びに行こうよ」
「そうね……あ…………」
結の誘いに、一度はぱっと晴れた征の顔がみるみると曇っていく。
「…………あのね、結」
「いいよ、また今度ね」
行きたいのに行けない、という葛藤がこれでもかと伝わってきた。
部活も習い事もない結と違い、征はクラス委員である。結といられない時間だってよくあることだ。
「あ、明日なら空いてるから……」
顔の前で拳を固め、ぐぬぬと唸る。
テスト期間だったこともあり、しばらく二人で出かけることがなかった。征としては一日でも早く遊びに行きたいようだ。
「晴れてるか分からないよ」
一応の確認。返事は決まり切っている。
「いいの、約束ね」
期待通りの答えに結が微笑む。
燦々 と照りつける太陽も、いつの間にか気にならなくなっていた。
□
いつもより早く教室に入ると、既にいくらかの生徒がいた。静かに読書をする者や談笑するカップル等、各々の時間を過ごしている。
その内の一人、黒縁眼鏡をかけた童顔の少年、真田真史 が二人に気づく。
「あれ、氷結コンビだ。今日は早いんだね」
氷結コンビ。二人の仲を知るものは、征と結をまとめてそう呼ぶ。
「おはよ」
こちらに関しては征も咎めない。
「真史君おはよう。どうしたの? それ」
何故か片耳にイヤホンを着けていた彼に、結が経緯を尋ねた。
「ああ、これ。今日は今朝から『ムー』の特集してたでしょ、家で見てたら遅刻しちゃうから、こうして教室で見ることにしたんだ」
そう言って携帯端末の液晶をこちらに向けた。
結の母親がムー大陸に関わる仕事だと聞いて以来、真史はよく彼女と話すようになった。彼は無類の科学好きで、未知の世界に目がない。
「やってたね。なにか面白いこと言ってる?」
「全然。科学的な角度からはほとんど触れてないね。今はもうオカルト雑誌の朗読と変わんないから、聞き流してた」
「そっかあ……ん?」
結が相槌を打ちながら机に教科書をしまっていると、鞄の奥でコトンと何かが転がった。
(これ……)
空になったはずの鞄には、母親の部屋で見つけたあの鍵が横たわっている。
「四方さん、どうかした?」
「ううん、なんでもないよ」
いつ紛れたのだろうか。とにかく壊れてはいけないので、軽くなった鞄を慎重に机に掛けた。
□
放課後、例の鍵を首から下げる。
膝が鞄に当たる度にころんころんと転がるので、気になって仕方がなかった。
「ええと、明日の授業は国語、理科、体育……」
一人でぶつぶつと机の中を物色し、不要な物だけを持ち帰る。終礼が終わった後も授業の復習を黙々としていたため、既に人気 はない。
「よし、帰ろ」
支度を終えて起立すると視界の端にちらりと黒い影が見えた。
ぼやぼやとしたモヤが教室の端に漂っている。
「んー……?」
目を凝らして近づくが、何かの影というわけではなさそうだ。
「なんか……嫌 な感じ」
気味が悪いというか、悪いものがそのまま浮かんでいるかのような、そんな感じ。
「動かないでね?」
幽霊の類は見たことがなかったので、冗談半分。そもそも人型ですらないのだ。そういうのだったら嫌だなという思いのまま、足早に教室を出ることにした。
□
悪霊(暫定)のせいもあり、一人になるのが何となく心細かった結が向かったのは輪境市きっての市街地。市内バスに揺られることおよそ三十分。バスが細かく揺れるたびに陽の光が結の目に直撃するので、寝るに寝られなかった。そういえばどこからが夕陽なんだろうかなどと考えている内に、目的地についた。
『アメイジングモール輪境』
征と行こうと思っていた大型ショッピングモールだ。開店してまだ間もなく大勢の人で賑わっている。
「下見ついでに、ね」
言い訳がましく声に出してみたものの、やはり少しだけ後ろめたい。
人気が多い場所へ行くという目的は既に果たされているので、不審者よろしく入り口の広場をうろうろしていると、またしても見慣れない影を目撃する。
「…………?」
街中だというのに、黒い大型犬が歩道を走っている。結の腰ほどはあろうかという獣が、リードもなしに、こちらへ。
「え」
頭が理解する間もなく、その犬は結の体を
勢いよく振り返り姿を追うと、その犬はまるで陰そのもののようで、輪郭がぼやけていた。
「——ッはぁー!」
呼吸も忘れていた頃、高く脈打つ心臓の音で我に帰る。
大きく息を吸い、何が起こったのか考えてみても分からない。
(…………あれ、でも)
教室で見たものとは違い、特に不快感はなかった。
□
先ほどの影を追い、木々の立ち並ぶ緑地へ入る。
木陰になっていて少し涼しい。
(街中にこんなところがあったんだ)
中学からショッピングモールを挟んで向かい側、人工的に緑化された広い森。舗装された長い真っ直ぐの道を進んでいくと、木々が途切れた隙間から公園が見えた。
辺りを森に囲まれ、揺れる木々はさわさわとざわめいている。
への字に配置された車止めを抜けた結が、その光景に感嘆の声を漏らす。
「わあ、懐かしい。こんなところにあったんだ」
二組のシーソーに四つのブランコ。
滑り台に反射した日差しに目を細める。
吸い寄せられるように公園の真ん中まで歩くと、正面に聳えるジャングルジムの大きさがより際立つ。
ずっと昔、結はこの場所に母親と来たことがあった。
あの時は途方もない高さに見えていた遊具も、今では一回り小さく見える。今では何段目まで手が届くのだろうか、勢いよく飛べば、あるいは一番上まで。
ジャングルジムの天辺へと手を伸ばし感傷に耽るが、その余韻はすぐに打ち消される。
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げた結が見たものは、牛の頭。
彼女の見上げた先、公園の向こうの木々の上から、ひょっこりと顔を覗かせている。その頭部は枝葉をいっぱいに広げた樹木ほど大きく、明らかに異様だった。
————グルルルルル…………。
その牛首が、エンジンのように唸る。
「……え?」
今度は、先ほどよりかなり控えめな困惑。
これは果たして現実なのだろうか、と。
「お、お邪魔しました」
見なかったことにしよう。生憎 の大きさである、こちらに気づいていることはないはず。
今日は変なものをよく見る。疲れているのか、はたまたこれは夢なのか。帰って寝てしまえば、何事もなく日を跨 げるかもしれない。
そうしてゆっくりと踵 を返した結の前に、
————ドズン‼
地鳴りと共に、入り口の車止めを容易く踏み潰し、大牛の怪物が降り立った。
「うわあ⁉」
あまりの揺れに転びそうになる。
震源地を見上げた結が目にしたものは、彼女がこれまでに見たことのないモノ。
前屈みの上半身は屈強な人間のもので、丸太のように太い腕には大木ほどもある斧が握られている。反して、それを支える下半身は心許なく、牛の後脚をそのまま大きくしてくっ付けたようだった。
その巨大な牛の怪物が一歩踏み出すと、足元のシーソーが巻き込まれて大破した。その溢れんばかりの質量と暴力に、滝のような汗が流れる。
(これは……これは死ぬ。逃げないと、どこかに…………)
無意識に後ずさっていた結の手が、ジャングルジムに触れる。それは一部のポールが意図的に少なく作られており、トンネルのようになっていた。
(ここだ!)
役に立つかどうか分からないが、今はこれに頼るしかない。
鞄を放り出して飛び込むと、先ほどまで自分のいた場所に大斧が降ってきた。
(あっぶな——)
ズンッ‼︎
と大質量の鉄塊が再び大地を揺らす。その拍子に、結は頭上のパイプに頭を打った。
「痛ったぁ⁉」
それどころではないけれど、痛いものは痛い。
怪物は続け様に大斧を振るい、ジャングルジムを打つ。
ゴウンゴウンと重く金属がぶつかり、鉄の格子はみるみるうちに歪んでいく。
身を守る鉄格子が潰れてしまう前に、次の避難場所を探さなければならない。といっても、後ろの森に逃げ込むしか道はない。
(よ、よし……)
覚悟を決め、地面を強く踏み締める。
(い、っせーのーでっ)
強く地面を蹴る。背後でまた、ジャングルジムがひしゃげる音がした。
怪物はその一撃が大きな隙となり、結が森へ駆け込む間を与えた。
(やった、これでひとまず……)
だが、甘かった。
怪物が大きく息を吸い込むと、身体中が真っ赤に染まる。ごぶっ、と火の粉が口の端から漏れたかと思えば、そのまま灼熱の炎弾を吐き出した。
ゴウ、と空気が焼ける音に、結も気づく。
ぐんと自身の影が伸び、地面が紅蓮を写す。
(…………あ)
彼女が振り返る間もない、直後。
木々が、一帯が燃え上がった。
淡く色とりどりの家具は少女が小さな頃からずっと使っているもの。
カーテンの隙間から差し込む光がその少女、四方結の
ゴォー、とエアコンが冷気を噴き出している。
それなのに部屋は未だ暑く寝苦しい。
降り注ぐ陽光にジリジリと身を焼かれ、耐えきれず起き上がった。
「暑い」
普段はぱっちりとした桃色の瞳も、寝覚めの悪さからか普段の半分も開かれていない。見慣れたパステルカラーの景色をぼんやりと見渡すと、開けっ放しのドアに気がつく。
どうりで暑いわけだ。
彼女が寝ている間、クーラーの冷気は淡々と外に流れていたらしい。
「……トマト?」
加えて、部屋の隅にはトマト——いつも檻にいるはずの兎が見当たらない。そりゃあ屋根もないただの囲いなのだから、抜け出そうと思えばいつでも抜け出せる。そこから器用にドアノブを下げ、リビングにでも出て行ってしまったのだろうか。
「はあ」
閉め出すわけにもいかないので、トマトを連れ戻すべく渋々部屋を出る。時刻は六時より少し前、いつもならまだ眠っているはずの時間。昇りたての朝日に照らされた廊下はいつもと違った印象を受ける。
その非日常の先、見間違いかと思ったが、母親の部屋のドアが開いていた。
父親が家を出て以来、一度もこの部屋には立ち入っていない。あの部屋の片付けはしなくていいから、と言われている。
暗に入るなと言われている気がして一度たりとも近づくことはなかった。
恐る恐る中を覗いてみると、目につくのは机に山積みの本や、壁に貼られた大きな世界地図。太平洋に浮かぶ『ムー』という大陸を中心とした地図らしく、教科書で見るものとは少しだけ位置がずれている。
どれも研究者であった母が使っていたものだ。
足元を見渡すと、隅のクローゼットにトマトが頭から突っ込んでいた。
「もー、どうやって入ったの」
ため息混じりにトマトを抱きかかえると、彼の咥えていた物が床に転がる。
「なに?」
白い石膏の様なそれは、おそらく鍵であった。持ち手に四つの羽の装飾、先端にはコの字の出っ張りが付いているだけという簡素な作り。
トマトを床に下ろし、そっと拾い上げる。ボールペン大もあるそれは見た目ほど重くはなかった。
(紐がついてるし、アクセサリーかな)
棚に並んだ家族写真をざっと見渡しても、この鍵をつけているものはない。
「ここに置いとくね、お母さん」
結はその鍵を写真の側に置き、部屋を後にした。
□
セーラー服に身を包み、リビングで朝のニュースを眺める。
テレビには『ムー消滅から八年!』というテロップが踊っていた。
今日はムー大陸が地上から消滅した日であり、結が母親を失った日でもある。
瞼が重く、テロップの文字が霞む。早起きの反動で少し眠たい。腰掛けたソファは一人には広く、横になってしまえばすぐにでも眠りにつけそうだ。
テレビから届く声も次第に遠のき、現実と夢の境が消えていく。その
「入るわよ」
隣人、
「おはよう、結。寝坊しなかったのね」
「うん、暑くて起きちゃった」
そっと、淡々と話す声に心が安らぐ。
そうしてまた瞼を閉じ、
「——おはよう? 結」
むに、と両の頬が温かい手に包まれた。
「起きた、起きたよ。征おはよう」
結が瞳を開くと、意志の強そうな梅色の双眸が真っ直ぐに飛び込んでくる。
いつの間にか隣に座っていたらしい。
「なんかあった?」
征が首を傾げると、右サイドに大きくまとめた檸檬色の髪が肩口で揺れる。
「それがね、私が寝てる間にトマトがドアを開けちゃったのよ。おかげで部屋が暑くって」
「へえ、あなた器用なのね」
ソファでじっとするトマトを征が撫でると、彼女の雪のように白い肌が兎の体と溶け合う。
「さ、行きましょうか」
「うん。じゃあ行ってくるねトマト、お留守番よろしく」
結がトマトに、そして部屋の隅に飾られた母の写真へと手を振る。時刻は七時半過ぎ、いつもより早く家を出た。
学校までは丘を下って十分と少し、朝礼の時間までまだ少しゆとりがある。爽やかな一日の始まりに心躍らせ、玄関の扉を開くと、
「あっつ……」
期待もそこそこに、出鼻をくじかれた。
ああそうだ、今朝の一件で家中涼しかったけど、今は真夏だ。
□
結の暮らすこの
「ゔああ……」
「珍しく晴れたわね、雲一つない」
猛暑に喘ぐ結に対し征は、まるで他人事のように呟く。
「なあんで征は平気なのかなあ」
「別に平気なわけじゃないわよ」
体質の差か、彼女は涼しげな態度を崩さない。たとえ体育の授業であろうとこの調子なので付いたあだ名は、
「氷の女王様ね」
「あのさ、私認めてないからね。その名前」
「えー、私はかっこよくて好きなのに」
怪訝な顔をする征を他所に、空を見上げた結が続ける。
「ねえ征、せっかく晴れたんだから放課後どこか遊びに行こうよ」
「そうね……あ…………」
結の誘いに、一度はぱっと晴れた征の顔がみるみると曇っていく。
「…………あのね、結」
「いいよ、また今度ね」
行きたいのに行けない、という葛藤がこれでもかと伝わってきた。
部活も習い事もない結と違い、征はクラス委員である。結といられない時間だってよくあることだ。
「あ、明日なら空いてるから……」
顔の前で拳を固め、ぐぬぬと唸る。
テスト期間だったこともあり、しばらく二人で出かけることがなかった。征としては一日でも早く遊びに行きたいようだ。
「晴れてるか分からないよ」
一応の確認。返事は決まり切っている。
「いいの、約束ね」
期待通りの答えに結が微笑む。
□
いつもより早く教室に入ると、既にいくらかの生徒がいた。静かに読書をする者や談笑するカップル等、各々の時間を過ごしている。
その内の一人、黒縁眼鏡をかけた童顔の少年、
「あれ、氷結コンビだ。今日は早いんだね」
氷結コンビ。二人の仲を知るものは、征と結をまとめてそう呼ぶ。
「おはよ」
こちらに関しては征も咎めない。
「真史君おはよう。どうしたの? それ」
何故か片耳にイヤホンを着けていた彼に、結が経緯を尋ねた。
「ああ、これ。今日は今朝から『ムー』の特集してたでしょ、家で見てたら遅刻しちゃうから、こうして教室で見ることにしたんだ」
そう言って携帯端末の液晶をこちらに向けた。
結の母親がムー大陸に関わる仕事だと聞いて以来、真史はよく彼女と話すようになった。彼は無類の科学好きで、未知の世界に目がない。
「やってたね。なにか面白いこと言ってる?」
「全然。科学的な角度からはほとんど触れてないね。今はもうオカルト雑誌の朗読と変わんないから、聞き流してた」
「そっかあ……ん?」
結が相槌を打ちながら机に教科書をしまっていると、鞄の奥でコトンと何かが転がった。
(これ……)
空になったはずの鞄には、母親の部屋で見つけたあの鍵が横たわっている。
「四方さん、どうかした?」
「ううん、なんでもないよ」
いつ紛れたのだろうか。とにかく壊れてはいけないので、軽くなった鞄を慎重に机に掛けた。
□
放課後、例の鍵を首から下げる。
膝が鞄に当たる度にころんころんと転がるので、気になって仕方がなかった。
「ええと、明日の授業は国語、理科、体育……」
一人でぶつぶつと机の中を物色し、不要な物だけを持ち帰る。終礼が終わった後も授業の復習を黙々としていたため、既に
「よし、帰ろ」
支度を終えて起立すると視界の端にちらりと黒い影が見えた。
ぼやぼやとしたモヤが教室の端に漂っている。
「んー……?」
目を凝らして近づくが、何かの影というわけではなさそうだ。
「なんか……
気味が悪いというか、悪いものがそのまま浮かんでいるかのような、そんな感じ。
「動かないでね?」
幽霊の類は見たことがなかったので、冗談半分。そもそも人型ですらないのだ。そういうのだったら嫌だなという思いのまま、足早に教室を出ることにした。
□
悪霊(暫定)のせいもあり、一人になるのが何となく心細かった結が向かったのは輪境市きっての市街地。市内バスに揺られることおよそ三十分。バスが細かく揺れるたびに陽の光が結の目に直撃するので、寝るに寝られなかった。そういえばどこからが夕陽なんだろうかなどと考えている内に、目的地についた。
『アメイジングモール輪境』
征と行こうと思っていた大型ショッピングモールだ。開店してまだ間もなく大勢の人で賑わっている。
「下見ついでに、ね」
言い訳がましく声に出してみたものの、やはり少しだけ後ろめたい。
人気が多い場所へ行くという目的は既に果たされているので、不審者よろしく入り口の広場をうろうろしていると、またしても見慣れない影を目撃する。
「…………?」
街中だというのに、黒い大型犬が歩道を走っている。結の腰ほどはあろうかという獣が、リードもなしに、こちらへ。
「え」
頭が理解する間もなく、その犬は結の体を
すり抜けていった
。勢いよく振り返り姿を追うと、その犬はまるで陰そのもののようで、輪郭がぼやけていた。
「——ッはぁー!」
呼吸も忘れていた頃、高く脈打つ心臓の音で我に帰る。
大きく息を吸い、何が起こったのか考えてみても分からない。
(…………あれ、でも)
教室で見たものとは違い、特に不快感はなかった。
□
先ほどの影を追い、木々の立ち並ぶ緑地へ入る。
木陰になっていて少し涼しい。
(街中にこんなところがあったんだ)
中学からショッピングモールを挟んで向かい側、人工的に緑化された広い森。舗装された長い真っ直ぐの道を進んでいくと、木々が途切れた隙間から公園が見えた。
辺りを森に囲まれ、揺れる木々はさわさわとざわめいている。
への字に配置された車止めを抜けた結が、その光景に感嘆の声を漏らす。
「わあ、懐かしい。こんなところにあったんだ」
二組のシーソーに四つのブランコ。
滑り台に反射した日差しに目を細める。
吸い寄せられるように公園の真ん中まで歩くと、正面に聳えるジャングルジムの大きさがより際立つ。
ずっと昔、結はこの場所に母親と来たことがあった。
あの時は途方もない高さに見えていた遊具も、今では一回り小さく見える。今では何段目まで手が届くのだろうか、勢いよく飛べば、あるいは一番上まで。
ジャングルジムの天辺へと手を伸ばし感傷に耽るが、その余韻はすぐに打ち消される。
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げた結が見たものは、牛の頭。
彼女の見上げた先、公園の向こうの木々の上から、ひょっこりと顔を覗かせている。その頭部は枝葉をいっぱいに広げた樹木ほど大きく、明らかに異様だった。
————グルルルルル…………。
その牛首が、エンジンのように唸る。
「……え?」
今度は、先ほどよりかなり控えめな困惑。
これは果たして現実なのだろうか、と。
「お、お邪魔しました」
見なかったことにしよう。
今日は変なものをよく見る。疲れているのか、はたまたこれは夢なのか。帰って寝てしまえば、何事もなく日を
そうしてゆっくりと
————ドズン‼
地鳴りと共に、入り口の車止めを容易く踏み潰し、大牛の怪物が降り立った。
「うわあ⁉」
あまりの揺れに転びそうになる。
震源地を見上げた結が目にしたものは、彼女がこれまでに見たことのないモノ。
前屈みの上半身は屈強な人間のもので、丸太のように太い腕には大木ほどもある斧が握られている。反して、それを支える下半身は心許なく、牛の後脚をそのまま大きくしてくっ付けたようだった。
その巨大な牛の怪物が一歩踏み出すと、足元のシーソーが巻き込まれて大破した。その溢れんばかりの質量と暴力に、滝のような汗が流れる。
(これは……これは死ぬ。逃げないと、どこかに…………)
無意識に後ずさっていた結の手が、ジャングルジムに触れる。それは一部のポールが意図的に少なく作られており、トンネルのようになっていた。
(ここだ!)
役に立つかどうか分からないが、今はこれに頼るしかない。
鞄を放り出して飛び込むと、先ほどまで自分のいた場所に大斧が降ってきた。
(あっぶな——)
ズンッ‼︎
と大質量の鉄塊が再び大地を揺らす。その拍子に、結は頭上のパイプに頭を打った。
「痛ったぁ⁉」
それどころではないけれど、痛いものは痛い。
怪物は続け様に大斧を振るい、ジャングルジムを打つ。
ゴウンゴウンと重く金属がぶつかり、鉄の格子はみるみるうちに歪んでいく。
身を守る鉄格子が潰れてしまう前に、次の避難場所を探さなければならない。といっても、後ろの森に逃げ込むしか道はない。
(よ、よし……)
覚悟を決め、地面を強く踏み締める。
(い、っせーのーでっ)
強く地面を蹴る。背後でまた、ジャングルジムがひしゃげる音がした。
怪物はその一撃が大きな隙となり、結が森へ駆け込む間を与えた。
(やった、これでひとまず……)
だが、甘かった。
怪物が大きく息を吸い込むと、身体中が真っ赤に染まる。ごぶっ、と火の粉が口の端から漏れたかと思えば、そのまま灼熱の炎弾を吐き出した。
ゴウ、と空気が焼ける音に、結も気づく。
ぐんと自身の影が伸び、地面が紅蓮を写す。
(…………あ)
彼女が振り返る間もない、直後。
木々が、一帯が燃え上がった。