渚ユメの場合

文字数 1,165文字

 私が意識を失ってから囚われた世界はあまりにも暗く、冷たく、怖かった。すぐに時間という概念は無くなり、恐ろしさだけが私を襲ってきた。どれほど泣きわめこうとしても、涙は流れない、声はでない。無音を耐え続けることはきっと人類にはできない。時折見ることのできる短い夢だけが、私の生きる頼りだった。
 ある時から、といっても時間の概念がないので私にとってはそこが時間の再開地点なのだが、ともかくある時から私はずっと夢の世界を堪能することができた。いやもうすでにその世界こそが私にとっての世界だった。そこにはお母さんも時々遊びに来てくれ、思っていた形ではないが将来の夢の一つが叶った。
 夢の……私の新しい世界は辛いことなんて一つもなかった。クラスメイトに「お前の母親はバイタだ」と虐められることもない。だって私みたいにずっと夢の中にいられるような人なんてクラスにはいないんだから。パン屋さんから漂ってくる香りをこっそり嗅ぐ必要もない。食べたことがないものは無理だけど、だってここでは好きなものを好きなだけ食べられるんだから。
 ここではみんなが友達だった。ここでの全てを決めるのは想像力と経験だったが、他の人がやっていることを真似すればすぐにできるようになる。足が速いとか、勉強ができるとか、そういったことで優劣は決まらなかった。貧富の差もなかった。容姿だって作り変えられる。そして何より、ここでは人を傷つけるという行為が無駄だった。怪我をすることなんてない。ここでは物理的にも、精神的にもみな、完全に平等だった。完全に平等だからこそ、人はようやく他人に優しさを分けられるのだ。
 ある時からポツポツと見知らぬ中年の男性が私のもとへ訪れるようになった。それまで、私の友達といえば少なくとも見た目は同年代、年が離れても十くらいだったのでよく目立っていたことを憶えている。わざわざ見た目を変えないままで近づいてきたのだから、きっと夢に慣れていない人が紛れ込んだのだろうと私も友人たちも案内をしたり、ちょっとした雑談を行う。そうすると決まってその人たちは私のことを見ながらニヤニヤと身体をじっとり、嘗め回すかのように見つめるのだった。最初のうちは問題なかった。この世界にしては変わった人もいるものだなとただ思うだけで、口に出したりもしない。それがこの世界の暗黙のルールなのだから。しかしそういう人たちは決まって私のことしか見なかった。私だけが話しかけられる、見つめられる。そういうことが頻繁に起こるうちに、だんだんと私の周りからは友達だった人たちは消えていった。いつの間にか私の周りには時々しか来ないお母さんか、おじさんたちしかいなくなっていた。平等であっても格はある。差別はなくとも噂は流れる。
 そんなある日、私を買ったにしては若い男性がやってきた。
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