渚カエデの場合

文字数 1,493文字

 渚ユメは渚カエデの一人娘である。父はいない、というよりもわからない。
 もともとカエデは貧しい家庭に生まれ、さらに幼少期が夢科学による夢の規制時期と被っていた。両親がわずかに稼いでくる金はすべて本人たちの夢代金へと消え、義務教育もままならないまま、春を売ることで命を繋いでいた。夢の世界ができたために、性産業もまた衰退しどれほど体を捧げようと生活にゆとりが出ることはなかった。
 そんな生活を十年近く続けていたころ、カエデは一つの命を孕んだ。それがユメだった。堕胎することも考えたが、堕胎する人も減ったために高騰した医療費を払うこともできず、産む以外の選択肢を取ることはできなかったのだ。
 母としての本能なのだろうか。カエデはユメを精いっぱい育て、可愛がった。年齢と共に下がっていく相場に抗うように、売春する回数を増やし、命を繋ぐ。周囲の同年代のように夢を見る暇など文字通りない生活で「せめて娘は幸せに夢を見てほしい」そう願ってカエデは娘にユメという名を授けた。
 さらに五年ほど経つと法整備も細部まで完備された。夢の世界でも性に対する規制はなされ、現実世界における性産業が暗黙ではあるものの際ねんの兆しを見せ、夢を見る余裕まではないものの、母娘二人、慎ましく暮らす程度はできた。もう五年ほど経つと、夢を管理するための新たな仕事も生まれた。その夢管理は夢をあまり見ることができない職業だったために人気がなく、そこそこの手当が出たのだ。ユメ一人分くらいなら夢代金を支払うこともできる、その程度の手当は。当然、カエデはユメに夢を見てもいいよ、と勧めた。自分だって幼いころから夢を見たいと思い続けていたが、そう言ったのは偏に母の愛だったのだろう。けれどユメはそれを受け入れなかった。「お母さんと一緒じゃないとヤダ!」「将来お金持ちになるから、一緒に夢の中で遊ぼうね」それが当時のユメの口癖だった。世間とは大きくずれていたかも知れないが、確かに二人は幸せを紡いでいた。
 不幸な事故だった。「ボーナスが出たから一緒に夢、見よっか」カエデがそう言った日のこと。少しでも早くユメは学校から帰ってこようと普段はカエデの言いつけ通り、守っていた信号を産まれて初めて破った日。その日、ユメは夢の世界に囚われてしまった。いや夢を見れていれば幾分もよかった。夢が規制された今、ユメがいるのは無の空間である。只々、何もない空間に漂い続ける。無がユメが目を覚ますまで与えられた唯一のものだった。
 ユメの医療費を捻出するために、少しでも夢を見させるために、カエデは今まで過ごしていた娘との時間を再び”売り”に充てた。しかしそれでもユメが”世界”を取り戻すには十分ではない。「一緒に夢の中で遊ぼうね」かつては二人の夢だったその言葉は、もう呪いと化していた。
 主治医は言う。もうユメが目を覚ますことはおそらくないだろうと。今、時折ユメに与えられている時間ですら雀の涙なのに。主治医の言葉はもう二人が二度と会話を交わせないことを意味していた。
 問題はなんだ? 問題は、金がないことだ。金さえあればユメは世界を取り戻せる。金さえあれば夢の世界で私たちは会えるのだ。だったら。だったら意識を二度と取り戻せないユメ自身が、夢代金を稼げばいいのではないか。そうすればユメだって幸せだ。私だってたまにだがユメに会うことができる。一度崩れた心が醜く形を変えるのに時間はかからなかった。
 カエデがユメの治療方針を変えるのに時間は必要なかった。治療から現状維持へ。病床から自宅へ。そして自宅には時折、それも毎回違った男性が訪れるようになった。
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