第2話   靴屋夜話

文字数 2,693文字

夜の帳が降りる頃、その路地裏に灯るセピア色のあかりにつられて、ふと入ったそこは、靴屋だった。
扉を開けると、鈴がちりちりと鳴る。いらっしゃい、と出迎えるのは、少女から女へと脱皮をはじめかけたような、麗しきおとめである。桜色の銘仙の着物に、萌黄色の袴、靴屋らしく仕立ての良い革の長靴。濡羽色の長い髪には、深紅のリボンが二つ、蝶のように留まっている。
靴を見にいらしたの、それとも、靴を磨きましょうか。
鈴のような声で尋ねられ、私は、じゃあ、靴を磨いて貰おうかな、と答えた。
でしたら、こちらにおかけになって、おみ足を載せてくださいませ。
店の奥にある椅子に案内された。椅子は、マホガニー製で、これまた深紅の天鵞絨で布張りがされている。私は椅子に座り、右足を小さな台に載せた。台は年季の入っているもののようで、ミシミシと悲鳴をあげている。
さあ、磨かせていただきましょう。
白魚のような手が、私の履き古した革靴に触れる。桜色の爪が、ランプに照らされて光っている。靴越しにも柔らかな左手の感触と生ぬるい人肌が伝わってきて、私はごくりと生唾を飲んだ。おとめは慣れた手つきで、靴に刷子をかけた後、右手に布を持ち、靴墨をつけて、ゆっくりと、丁寧に靴を磨いていく。私の靴に置かれた左手が、靴墨で、じわじわと汚れていくのを見ていると、いやに高揚した。
私は、靴を磨かれている間、このおとめをじっくりと観察することにした。半分は仕事、半分は好奇心。ちょうど、私は、おとめを見下ろしている格好である。そうすると、真っ先に目を引くのは、たっぷりの睫毛である。これほど艶やかな睫毛を持つ者には出会ったことがない。そんなことを考えていると、不意に彼女が顔を上げたので、まともに目が合ってしまった。鳶色のくりくりとした瞳が不思議そうにこちらを見つめる。小さく形の整った鼻、少しふっくらとした薔薇色の頬。熟れたさくらんぼのような小さな唇は少し開かれていて、それが妙に彼女を幼く見せた。
どうかなさって?
鈴の音に私が首を横に振ると、彼女は再び俯いて靴を磨きはじめた。私も再び観察をはじめる。今度目についたのは、ふくよかな胸元である。あどけない顔立ちからは想像できない、成熟した胸。着物姿であってもわかるほどである。少し足を伸ばせば、触れられそうな距離に、邪な気持ちを抱くのは、私だけではないだろう。
右足が終わりました。今度は左足を乗せてくださいまし。
そう言われて、私は、やけにかしこまった表情で、黙って左足を載せた。すると、表の扉が乱暴に開かれる音がして、おとめは慌ててそちらの方へ向かった。ちらと見ると、扉のそばに、ウヰスキーの小瓶を片手によたよたと歩く男がいた。遠目で見ても仕立ての良い外套を羽織っており、なかなかの器量良しだったが、全体的に薄汚れている。男はおとめの肩に馴れ馴れしく腕を載せ、こちらへ歩いてきた。おとめは真っ赤な顔で俯いている。
「今夜は先客がいるようだな、ま、頼むよ」
男は慣れた仕草で私の隣に座った。そして、こちらをじっと見つめて笑う。ここははじめてかい、と訊いてきたため、私は頷いた。
「やはりね。ここは君のような書生風情が来るところではないよ。まあ、興味があるのなら、見ていてご覧」
おとめは、至って冷静に靴を磨こうと努めているようだった。右足のときの流れるような所作に比べて、両手は震え、螺子の切れかけたからくり人形のようにぎこちない。
それでも、何とか左足を磨ききった。私は、ありがとう、と礼を言い、代金を支払って出て行こうとしたが、自身の好奇心には抗えず、男の手招きに引き寄せられてしまった。
男は、私と同じように、台に足を載せ、「いつものように」靴を磨いてくれ、とおとめに数え切れない紙幣を渡した。彼女は、自分の髪の毛を手に持ち、それで男の靴の埃を払った。濡羽色の髪が、砂埃で薄汚れていく。私は、ある種恐ろしいその光景から目を離すことができない。さらに、恐ろしいことは続く。
次に、彼女は、男の足を靴ごと胸に載せ、その爪先を口元に近づけると、小さな舌で舐め始めた。黒い革靴が彼女の唾液でてらてらと光っているのを男はうっとりとした表情で眺めている。
そうして靴を「磨く」と、彼女は男の足から靴と靴下を脱がせ、その足を自分の胸に這わせることを許した。男の足は、別の生き物のように、彼女の胸元を蠢いている。彼女の大きな瞳からは涙が溢れていた。それに気をよくした男はさらに乱暴に足を動かす。桜色の着物に薄汚れた足跡が刻まれ、袷は乱れ、ちらちらと白い肌が露わになっていく。私は、恐ろしいと思いながらも、ただひたすら、その光景を眺めていたーー。


あの奇妙な出来事から、3か月ほど経った後、同じ路地裏に立ち寄ったが、あの靴屋は煙のように消えていた。建物は残っていたが、窓は割れており、中は野良猫の集会所になっていた。
しばらくそこに立っていると、生き字引のような老人が教えてくれた。あの靴屋は、1か月ほど前に潰れたこと、靴屋の主人であった長男が行方不明になってから、腹違いの長女が多額の借金を返すため、幼い弟妹のために必死で働いていたこと、その長女もまた1か月ほど前に行方不明になってしまったことーー。
私は、老人に礼を言い、その場を去った。大通りに出ると、道化師からサーカスのチラシをもらった。いつもはすぐに丸めて袂に入れるだけのそのチラシを、私は少しだけ眺めた。ゲニ麗シキハクツミガキノ娘、サーカスニ訪レタ皆サマノオ靴ヲキレイニイタシマス、ゼヒ洋靴デオ越シクダサイ。目を疑った。これは、あのおとめのことではないか。
サーカスは今日が最終日ということだった。私は、彼女を見つけ出すため、会場である広場に向かったが、彼女はもうおらず、サーカスもテントが畳まれており、開催されている様子がなかった。
広場を後にする途中でいやに輝く革靴を履いた男とぶつかった。男は思い出し笑いを浮かべており、薄気味悪かった。ぶつかった拍子に男が何かを落としていったのか、硝子の破片が私の足元に落ちていた。私はしゃがみこんで硝子を集める。
ばらばらになった硝子のいくつかに紙ラベルの欠片がくっついていた。よくよく見ると、アルファベットが書かれている。
K、C、N。私はそれぞれの文字をくっつけた硝子を、訝しげに眺めながら、硝子の破片たちを手巾に包んだ。
再び立ち上がったときには、夜の帳が降り始めていた。
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