第1話   人形の戀

文字数 5,901文字

小高い丘の住宅地の隅に、白い箱のような建物がある。周りの家が色とりどりだから、無機質なその箱は、とても目立つ。
小さな頃、勝手に想像した。あの白い箱の中には、人間そっくりの機械人形が沢山いて、私のことを慰めてくれる、優しい機械人形も混じっているのかもしれない、と。
「意外と、御笠さん、夢見る乙女だったんだねー」
澄んだ空気に白い煙がとけていく。私はそれをぼうっと見つめながら、意外と、って何ですか、と隣にいる雪野さんに訊く。
「だって、いつも冷静で、何考えているかわからないし、最初、オートマタかと思ったから」
雪野さんは、煙草をもう一本取り出し、ライターで器用に火をつける。
「タイプ打つの正確だし、何なら步くスピードだって一定。表情も変わらないし」
「……私、昔から血も涙もない人形娘って言われてましたから」
私は冷静な声で答えた。しかし、何かを感じ取ったのか、雪野さんは、私を見つめると、
「あと、御笠さん、すごく綺麗、というか、可愛いからさ。最初見たとき、驚いた」
と柔らかく笑った。
どこかもの悲しいチャイムが鳴り、私たちは屋上を後にした。午後の仕事が始まる。私はタイプ室へ、雪野さんは事務室へ。タイプ室は、まだ賑やかな話し声が聞こえている。
今日は、近くの大学からの依頼ばかり。論文をひたすらに、意味もわからず、打つ。雪野さんが広めた噂のおかげで、卒業論文を頼む学生が増えた。うちで打つと、卒業確実、だとか。雪野さんは、商売上手だ。社長も雪野さんのことをとても気に入っている。自分の大事な一人娘と婚約させるくらいには。
共犯、教唆、犯罪構成要件、未必の故意……。ものものしい響きの言葉を打つ、打つ、打つ。タイプを打つと、だんだん無心になれる。ただ、昼休みの空気だけは私に纏わりついて、離れない。月に数回、翠さんがいない昼休みに、私と雪野さんは屋上でご飯を食べる。初出勤から一か月ほど経った昼休みに屋上に行ったら、雪野さんが七輪で魚を焼いていた。スーツ姿に七輪で、私は思わず笑ってしまった。それに気づいた雪野さんは、悪戯っ子のような顔で、御笠さんの笑顔を漸く見ることができた、と言った。その時わけてもらった魚はまあまあ焦げていて、お世辞にも美味しいとは言えなかったが、今でも忘れられない。そのとき、私の奥底から何か熱いものがじわじわとこみ上げてきた。初めての、ことだった。その勢いで、言ったのだ。これから、屋上で一緒にご飯を食べてもいいですか。雪野さんは、もちろん、と私の肩をぽんと叩いた。

17時の時報が鳴る。それから程なくして、会社のチャイムも鳴った。皆が一斉にタイプを打つ手を止める。私も、打ち終わった紙を引き抜き、片付けを始めた。
タイムカードを押しに、事務室へ行けば、雪野さんも帰り支度をしていた。その横には、翠さん。お日様のような笑顔が愛らしい、どこか女学生の雰囲気を残したお嬢さん。社長の自慢の娘さんだ。そして、雪野さんの愛する婚約者であり、この3月には、奥さんになる。
「今日は金曜日だから、どこか行きましょうよ」
鈴のような声が聞こえてくる。
「そうだね、翠が観たがっていた映画にでも行こうか」
優しい声が応える。
私は、静かに事務室のドアを閉めた。そのまま、ひっそりと廊下を歩き、外へ出る。凍てついた空気が、頰に当たる。藍色の帳は色とりどりの家を飲み込む。しかし、私が今しがた出てきた白い箱は、相変わらず無機質なまま、闇の中に真っ白く浮かんでいた。

小さな頃、夢で溢れていた白い箱は、蓋を開けてみれば、しがないタイプ事務所だった。まだこの辺りが開発途中だった頃に、社長がタイピストの奥さんと二人で、もっと小さな箱の中で事業を始めたそうだ。社長は持ち前の明るさで、沢山のタイピストを連れてきた。昔タイピストとして活躍し、子育てを終えて再びタイプを始めたいという人たちを一挙に雇ったのだ。私のように学校を卒業したばかりのタイピストを雇うようになったのは、つい最近のようだ。事務員として働き始めた翠さんの話し相手が増えるように、という社長の親心で若者も雇用しよう、となったらしい。雪野さんも、その流れで、私の入る3年前に、営業に採用されたようだ。なお、翠さんが雪野さんと恋仲になってからは、営業や事務の若い女性の採用はない。それも親心だろうか、それとも、子心か。どちらにしても、白い箱の中、翠さんは、色々な愛に包まれているお嬢さんだ。愛のない世界を知らないお嬢さんは、時々私に何でも話せる女友達という役を当てる。雪野さんとどんな話をしたか、どんなに想われているのか。親や親戚のようなベテランタイピストには話せない色々を、私にうっとりと話しかける。私は、首振り人形のように、静かに頷く。翠さんは、素直だ。少女のように、まっさらで、些細なことにも笑ったり、驚いたり。鈴子さんは何を話しても、人形みたいに黙って聞いてくれるし、誰にも言わないでしょ? だから、あたしのお友達にちょうどなの。いつか、翠さんが私にそう言って笑いかけた。邪気のない笑顔だった。私は、それにも黙って頷いた。
来週も、今夜のデートがいかに素敵だったかを聞く人形になるのかしら。私は、ヒールを響かせて、思わず漏れたため息を消した。

金曜日の夜は、私の住むアパートの近くにある喫茶店でゆっくり本を読む。しかし、今夜は、丘を下りたところにある小さなバーで、お酒を飲みたい気分だった。魔女の家のようなドアを開けると、中性的な風貌の店主が、静かに私をカウンター席へ誘った。
「お姉さん、うち初めて?」
声も、中性的な響きだ。私は、はい、と答えた。
「……今夜は、お酒を飲みたくて」
「なるほど、そういう日もあるよね」
店主は静かに呟くと、可愛らしいメニュー表を差し出した。私は、キティを頼んだ。
ルビーのようなキティは、翠さんが好きなカクテルだ。以前、雪野さんが言っていた。翠さんのことを話す雪野さんの横顔はいつも以上に優しくて魅力的だった。私はその横顔を眺めているだけで充分だった。
キティの次は、ウィスキーのお湯割を数杯飲んだ。途中で、店主が心配そうにこちらを伺ったが、私の顔色が変わらないのを見て、安心したようだった。元々酔いが顔に出るタイプではないし、私自身酔ったと感じなかった。だから、今まで飲んだことがないくらい、グラスを空けてしまった。どこかのタイミングで、舞台が一気に暗転した。

鈍い頭痛にうんざりしながら、目を覚ますと、見知らぬ天井があった。ここはどこだろう。起き上がろうとしたが、上手くいかなかった。微かに、親しみのある煙が鼻をくすぐった。
「起きた?」
いつもより少し掠れた声だったが、私は、はっとした。
「……雪野さん……どうして」
「昨日、いつものバーに行ったら、御笠さんがカウンターで寝ていて。さざなみさん、あ、店主だけど、に聞いたら、ずっと同じペースで飲んでいて、突然、電池が切れたみたいに寝たって。店に置いておくわけにもいかないし、御笠さんの家も知らないから、僕の家に連れてきたんだ」
「すみません、ご迷惑かけて……」
私は顔を両手で覆った。
「いや、御笠さん軽いから、運ぶの大変ではなかったし、本当に寝かせただけだから、迷惑でも何でもないよ」
雪野さんは、灰皿に煙草を押し付けながら、微笑んだ。
「それより、気分はどう。鎮痛剤もってこようか。しんどいだろうから、今日はゆっくりしていっていいよ」
「……ありがとうございます」
私は、薬を飲み、またぐっすり眠ってしまった。

あんず色の夕焼けが頰を照らす。私はうっすらと目を開けた。部屋の電気は付いておらず、夕焼けの光だけが辺りを包んでいた。私はゆっくり身体を起こす。部屋の隅で、雪野さんが三角座りをしてうたた寝しているのが見えた。柔らかい空色のセーターを着て、無防備に寝ている雪野さんは、幼い少年のようだった。私がじわじわと近づいても、目を覚まさない。こんなに近くで雪野さんを見るのは初めてだ。思っていたよりも長い睫毛が頰に影を落としていた。薄い唇は、微かに開いていて、穏やかな寝息をたてている。翠さんは、いつもこんな雪野さんをもっと近くで見ているのかしら。そして、薄紅の朝焼けを一緒に迎えたこともあるのだろうか。この、膝に揃えられた長い指で髪を梳かしてもらいながら……。
七輪で焼いた魚を一緒に食べた時から、雪野さんは翠さんの婚約者だった。翠さんが雪野さんに一目惚れをして、ありったけの愛を注いで、その健気な姿に雪野さんが心を打たれたことも、雪野さんがよく話してくれるから、知っている。人形みたいで気味が悪いと言われてきた私を受け入れてくれるのは、雪野さんがただひたすらに優しい人だからだということも。いっそ人形になれたら、こんな想いも失くしてしまえるのに。私は、静かに涙を零した。
「……御笠さん?」
いつの間にか目を覚ました雪野さんが心配そうにこちらを見ていた。私は壊れた機械のように涙を零し続けた。雪野さんが慌ててハンカチを持ってきて、私の涙を優しく拭った。その優しさにもっと涙が溢れてしまった。雪野さんは、しばらく私をじっと眺めていたが、少し上を向いた後、ためらいがちに、私の背中に右腕を回し、左手で髪を撫でた。
「……雪野さん、ごめんなさい」
私が呟くと、雪野さんは腕の力を強めた。
「気にしなくていいから、落ち着くまで、色々吐き出して」
「……ありがとうございます」
私は、穏やかな海のような雪野さんの心音を聞きながら、涙を零した。部屋はだんだん藍色に染まり、私は海の底で、小さく、雪野さんが好きです、と言った。

暗い部屋の中、お互いの心音と時計の針の音だけが鳴り響いていた。雪野さんは、私を包み込んだまま、黙っていた。私の涙も止まった。私たちは、狭い額縁に閉じ込められた、絵画のようだった。
踊るような靴音が近づいてきた時も私たちは静止したままだった。その後、部屋にチャイムが数回鳴り響いても。靴音が遠ざかってから、雪野さんは、私を静かに解いた。
「……御笠さんは、素敵なひとだよ。気持ち、嬉しかった。でも……」
雪野さんの声音から、困惑が読み取れた。私は、雪野さんの手を握りしめて、
「ごめんなさい。答えは、わかっています。翠さんと、どうか、どうか、お幸せに……」
と震える声で伝えた。こんな時ですら、模範解答のような言葉しか出てこない自分が嫌で堪らない。
「ありがとう、ごめん……」
雪野さんが一度私の手を解いてから、握り返した。その手のあたたかさが、私のスイッチを押したのだろうか。無意識に、一度でいいから、想い出をください、と言った。
雪野さんは、はっとして私の手を離した。そして、私をゆっくり抱きしめた。先程泣いていた私を慰めた時とは違う、甘やかな抱擁だった。私は、雪野さんのあたたかい胸に頰をすり寄せた。すると、雪野さんは私の頰を両手で包み込み、ゆっくりと顔を近づけた。私は目を瞑る。唇に柔らかな感触があった。私の肩が微かに跳ね、その感触はすぐに消えた。私は名残惜しくて、自分の唇を雪野さんに押し付けた。掠めるような口づけだった。しかし、雪野さんは、私の頭に手を添えて、私の唇を捕らえた。暫く、互いの息が重なりあった。生温いが心地いい味に、私は空気が抜けたようになった。雪野さんは、私の息を奪ったまま、器用に、ブラウスのボタンを、外していった。そして、壊れ物を扱うように、私を布団の上に、横たえた。肩に冷たい空気が当たる。私が目をゆっくり開けると、こちらを見つめる雪野さんがぼんやりと見えた。雪野さんの瞳には躊躇いの灯が揺れていた。私が点したのだ。ごめんなさい、でも。私は、雪野さんの手をぎゅっと握った。それを合図に、私たちは深い深い海の底へ沈んでいった。

鳥のさえずりが、聞こえる。こんなに眩しい朝は、初めてだ。そして、最後だ。
隣には、少年のような顔をして眠る雪野さんがいる。さようなら、ありがとう。私は雪野さんの白い頰にそっと口づけを落とした。そして、雪野さんを起こさないようにゆっくり布団から出て、服を着た。ブラウスやスーツは、きちんとハンガーに掛けられていた。
雪野さんが起きないうちに、私はそっと家を出た。二人で夜を泳ぎ、朝の岸辺へたどり着いたことは、夢だったのだと思ってくれればいい。私だけが、本当を知っていれば、それで、十分。
朝靄の中、あのバーの前を通ると、さざなみさんが掃除をしていた。さざなみさんは、こちらに気づくと、安心したように会釈をしたので、私も頭を下げた。頭を上げると、すべてのものが煌めいていた。ありきたりな台詞だが、世界は美しいと感じた。
丘を登ったその先に、いつもの白い箱が見えた。私は白い箱の側にあるベンチに腰かけて、さらさらと、この白い箱に別れを告げる手紙を書いた。さようなら。優しい機会人形どころか、雪野さんに会わせてくれた、お世話になった場所。

私の住むアパートまで、いつもより時間はかからなかった。見慣れた燻んだ景色も今日は特別、輝いている。軋む階段を上り、201号室の扉に鍵を差し込む。ガチャリと音が聞こえるのさえ、愛おしく感じた。もう、聞くことはないのだから。
前から、ずっとしようと、思っていたことだ。準備はいつだって万端だった。子どもの時から、夢だった。それが、雪野さんに会って、先延ばしになり、今になっただけ。
ずっと人形みたいだと言われてきた。自分でもそうだと思った。ただ、人形ではないから、面倒な感情があって、厄介だった。いっそ、ものも言わず、何も考えることのない本当の人形になろう。実の親に疎まれ、クラスメイトや同僚にも遠巻きに眺められる私がたどり着いた結論だ。
自分の視界が狭くなっていくのも、息が苦しくなっていくのも、不思議と怖くない。もう翠さんの人形にならなくてもいいのだと思うと、むしろ安心した。
白く眩しい光の中に、雪野さんが立っていた。その側に、自分で見たことのない表情の私がいた。雪野さんも私も手や足にテグスが付いている。人形劇だ。
人形の戀は、滑稽だっただろうか。報われることなどないとわかっていた戀は。
人形劇はまだ続いている。
遠くで懐かしい声が私の名前を呼んだ気がするが、生憎、劇の幕が下り、人形が言葉を発することはなかった。
慌てた靴音の拍手がいつまでも鳴り止まなかった。
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