第3話  星屑喫茶小話

文字数 4,533文字

本日も、ここスタアダストカフェーは忙しい。インバネスを羽織った紳士たちの憩いの場。バンカラ学生が背伸びして入ってくることもある。葉子(ようこ)は先輩方のキビキビと給仕する姿に圧倒されつつも、一生懸命、配膳する。

葉子は、小学校を卒業してすぐここで働くことになった。本当は、もっと上の学校に行きたかった。でも、幼い弟や妹がたくさんいる。少しでも稼がなければいけなかった。世の中、もっと大変な仕事があるなか、このような華やかな仕事に就けたのは、ここのシェフである時田氏のおかげに他ならない。だから、葉子は時田氏にはどうしても逆らうことができなかった。
時田氏は、先代の洋食屋を引き継いだが、そのうち店を、軽食や飲み物、甘味を中心に取り扱うカフェーへと転向した。それが大当たりで、今や客がひっきりなしに訪れる人気店となったのだ。メニューの豊富さ、味の良さ、給仕をする女性たちの器量の良さ、サービスの良さ。どれもこれも魅力的だと、人から人へ伝えられている。
葉子が就職口を探して街を歩いていたところ、時田氏が声をかけてきた。時田氏は、背が高く、青い瞳が特徴的で、薄墨色の仕立てのいい背広を着ていた。葉子は、思わず見惚れてしまった。時田氏は、そんな葉子を見て、可愛らしいお嬢さんだ、と褒め、自分の店へと連れていった。そこで、カフェーへの就職がとんとん拍子に決まった。葉子は、契約書をきちんと読む暇がなかった。
やがて、葉子初出勤の日、一緒に働く女給たちから、憐れみの目を向けられた。まだ小さいのにこんな店に、と美しい顔が歪んでいった。葉子はその意味を徐々に知ることになる。
カフェーは基本的に静かな雰囲気である。深緑の天鵞絨の布張りのソファのボックス席が並んでいて、照明はやや暗く、カーテンが引かれていて、昼間でも夜のような景色である。天井には、星空が描かれており、それを眺めながら、客はお気に入りの飲み物を片手に、思い思いの時間を過ごす。ハイカラな場所。葉子はそう思っていた。しかし、ある客がケーキを注文したとき、信じられない光景を目の当たりにした。
ケーキを頼んだ客は、苺を追加したい、と女給に伝えた。すると、女給はケーキを運び、自身も客の隣に腰掛けて、ケーキをフォークで掬い、客の口に運んだのだ。客は嬉しそうに女給の肩に腕を回し、チップを女給の着物の袷に挟んだ。葉子はしばらくその場に立ち竦んでいた。女給は美しく微笑みながら、それでいて冷めた瞳で、ケーキを客の口に運び続けた。
その日の終わりに、葉子は時田氏にケーキの件を尋ねた。すると、時田氏はなんでもないように、うちは客商売だから、お客様のために、色々なサービスを提供するんだよ……と答え、葉子のふっくらとした頰を冷たい指でなぞった。君にもそのうち色々してもらうことになる、早く大きくおなり。時田氏は葉子の頰をつついた。葉子は胸の中がひゅうと寒くなった。
ケーキだけではない、色々なサービスを、周りの女給はそつなく、こなしていた。サービスをする機会がなくても、注文の時に手を握られたり、通りすがりにそっと尻を撫でられたり。葉子が日に日に大きくなるにつれて、そんなことが増えた。真っ青になって周りを見渡したが、先輩方も同じことだった。
落ち葉を舞わせる風が冷たくなった頃、葉子は「骨牌(カルタ)室」と書かれた部屋に、客と一等美しい女給が入っていくのを見た。葉子が隣にいた先輩に尋ねると、彼女は、形の良い眉を潜めながら、客と骨牌で遊ぶところだ、と答えた。葉子は薄気味悪い重たそうな扉をただ見つめていた。その日はずっとその扉が開くことはなかった。

葉子は蝶のように美しく育ったね。葉子がカフェーに勤めはじめて3年が経った頃、時田氏がしみじみそう言った。たしかに、葉子は近所で評判の娘になっていた。大きな瞳はそのままに、睫毛が伸び、鼻筋がすっと通り、頰の丸みは取れた。身体は反対にいくらか柔らかい丸みを帯びはじめ、すっかり大人の女性のようだった。
そろそろ、葉子にも新しい仕事をしてもらわなければならない。時田氏はそう言って、葉子にケーキを運ばせた。さあ、苺を追加でお願いしよう。葉子は震えながら、時田氏の隣に腰掛け、ケーキをフォークで掬い、時田氏の口に運んだ。時田氏がケーキを咀嚼しながら、葉子の華奢な肩に腕を回す。時田氏は青い炎を瞳に宿し、葉子を満足そうに見つめていた。葉子は、いくら家計のためとはいえ、他人の男性にされるがまま触れられることに目眩がした。ケーキ、シュークリーム、アイスクリン、プリン……。時田氏は毎晩終業後に葉子にサービスを叩き込んだ。先輩方の美しいが光のない瞳にあったものを葉子は次第に理解していった。サービスを覚えた後は、ひっきりなしに客から声がかかった。葉子は店でも一番に美しい娘だと評判になっていた。おまけにすれていないところが魅力的だと、客は葉子の着物の袷にチップを次々にねじ込んだ。時田氏はそのうち骨牌室のことも葉子に教えようと、一人微笑みながら、菓子を作っていた。

さて、忙しい中、葉子を骨牌室に連れていきたいと頼む客がいた。最近よく見る客で、完全洋装の多い中、袴にワイシャツ、下駄履きという和洋折衷な格好をして、いつもソーダ水を注文する、若い男だ。葉子は驚き、周りの女給は、この娘はまだ骨牌を覚えていないのだ、と説明した。しかし、その男はどうしても葉子と骨牌がしたいと言う。料金は倍額払うから、と。葉子も、女給も唖然とした。話を聞きつけた時田氏は、男から金銭を受け取ると、にやりとナイフのように笑い、この娘に目をつけるとは、お客さんはわかってらっしゃる、不慣れな新人ですが、どうぞ思う存分お楽しみくださいませ、と葉子を男に引き渡した。男は葉子の手をとり、骨牌室へ向かった。葉子はただただ不安で胸の鼓動が鳴りやまなかった。男が骨牌室の扉を開ける。そこは、カフェーの雰囲気とは異なる、畳敷きの小さな和室だった。小さな机が置かれており、奥には布団が一組敷かれていた。
「やはり、そういうことか」
男は一人で呟いた。葉子は不思議そうに男を見つめた。すると、男は葉子に、静かに、と合図し、葉子の手をやや乱暴に引っ張り、葉子を布団の上に寝かせた。葉子は驚いて小さく悲鳴をあげた。男は葉子の上に覆いかぶさる「風を装った」。
「壁に僅かに監視穴がある。申し訳ないが、しばらくこの体勢で我慢してくれ」
男の声音には緊迫感のなかにも穏やかな響きがあった。葉子は小さく頷いた。5分ほど、この状態だったが、男は不必要に葉子に触れないよう配慮しているようだった。やがて、遠ざかるような靴音が聞こえ、男は葉子から離れた。葉子もゆっくりと起きあがる。
「先ほどはすまなかった。怖い思いをさせたね」
男が葉子に微笑む。春の日差しのように優しい表情だった。
「僕は、こういう者だ」
男が葉子に名刺を渡す。記者だと書かれている。
「この店がいかがわしい商売をしていると聞きつけて、取材しているんだ。たしかに、通っていたら、おかしなことが行われている。おまけに骨牌室とは形ばかり。過剰すぎるサービスをしていることがわかったよ」
男は怒りのためか声を震わせた。
「……それで、どうして私と骨牌室に入ったんですか」
葉子が尋ねる。
「見たところ、君が一番この店に毒されていなさそうだったから。できれば、この店のこと、教えてくれないか?」
男が葉子を真っ直ぐ見つめて答えた。葉子は、ごくりと唾を飲み込み、働きはじめてからこの店で知ったこと、見たこと、されたことーーを小さな声で話した。男はメモを取りながら、時折顔を顰め、ため息をついた。やがて、閉店のベルが鳴った。男は葉子に礼を述べた後、葉子を残して骨牌室を後にした。そして、再び室に戻り、一緒に帰ろう、と葉子に言った。
「時田氏には言ってあるから、大丈夫だよ」
薄暗い帰り道、男は不安そうな顔の葉子に呟いた。
「あの店はどうなるんでしょう?」
葉子が尋ねた。
「とりあえず、警察にあの店のことを伝えて、うちはうちで記事にする。おそらく、営業はしばらくできないだろうね」
男はゆっくり答えた。葉子は、複雑な気持ちだった。嫌な思いをせずに済むが、これから仕事がなくなるのはしんどい。
やがて、葉子の家の前に来た。表で遊んでいた妹や弟が不思議そうに男を見つめた。葉子は、家に戻っていなさい、と妹弟に伝えた。ぞろぞろと家の中に入っていく。男は寂しそうにその様子を見つめていた。
「君にはたくさんのきょうだいがいるんだね」
「はい。だから、いっぱい稼がないといけないのです」
「そうか……だからあの店で一生懸命働いていたんだね」
男はばつの悪そうな顔になった。
「君の働いていた場所を壊してしまうのは申し訳ないが、僕の妹も、君が来る少し前にあの店で働いていてね……」
男は妹の話をした。時田氏に絆された妹が14歳であの店に飛び込み、すぐに「骨牌室」を経験し、その後間もなく、寒空の下、近所の川に身を投げたことーー。
「君のおかげで、妹も救われる。ありがとう」
男の瞳は涙で星空のようだった。葉子は俯いて、くしゃみを一つした。男は巻いていた紺色の首巻きを葉子の首にふうわりと巻いた。あたたかい。葉子は瞳を閉じた。
「それにしても、君は記者に向いているかもしれないよ。君の話はとてもわかりやすかった。まあ、もし、興味があれば、うちに来て。編集長も喜ぶ」
男はそう言い残して、葉子に手を振りながら遠ざかっていった。冬の澄んだ空に星屑がきらきらと散りばめられていた。

翌日、葉子がカフェーに着くと、時田氏が警官に連行されていた。近所の人たちは、新聞記事を片手にひそひそ話をしつつ、その様子を眺めていた。
それから間もなく、カフェースタアダストはひっそりと看板をおろし、跡地には定食屋ができた。早い、安い、美味いの魅力で働く者の間でたちまち人気の店になった。定食屋の前にあったカフェーのことはだんだん忘れ去られていった。

定食屋には、時々美しい娘がやってくる。パリッとした白いブラウスに紺色のスカートを履いて、鞄の中にはたくさんの書類を抱えて。背広姿が並ぶ中、その存在は異色で、男たちはしばらく可憐なその花に見惚れる。
しかし、見惚れていられるのもわずかな時間だ。
「今日も取材はうまくいった?」
娘の横に、これまた端正な顔立ちの男が腰を下ろす。今時やや珍しい袴にワイシャツ、下駄履き姿。娘は眩しい笑顔で頷き、目の前にあるかけうどんを意外にも豪快にすする。
「おかみさん、僕にもかけうどんひとつ」
男が左手をあげて注文する。その薬指には銀色の指輪が光っている。
「わたしは少し早めに社に戻って原稿仕上げてきますね」
しばらくしてうどんを食べ終わった娘が席を立ち、紺色の首巻きを巻く。
「じゃあ、また、あとで。葉子」
男が声をかけると、少し頰を染めて、娘が左手を振った。やはり同じように、その薬指には銀色の星が輝いていた。
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