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文字数 3,360文字
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ベトエルはんのところに向かってから、親父はなかなか帰ってこんかった。
わしはいらいらと、親指をナイフの腹でこすっとった。できることはそれくらいやった。いくらいらいらするとはいえ、ナイフの刃の方でこするわけにもいかんやろ。
「くそお……」
度胸ある男はこんなとき黙っとるもんや、いうことを前々から親父に何度も聞かされとったけど、待つしかできんいうんは辛い。性格的にも素質的にも、わしは行動している方が向いとるんや。こうじいっとしとると、頭がおかしゅうなるわ。
リベカ……。
わしはさらいよったやつを呪った。むざむざさらわせてもうたわし自身を呪うた。しかしいくら呪うても、頭に浮かんでくるのはリベカの顔だけやった。水浴びを終えてすっきりしたリベカの別嬪さんな顔やなく、埃と汗と涙にまみれてわしの袖口をつかんどったリベカのあのガキの顔やった。
ふと見ると、ハランが、なにかいいたそうにしとった。わしと視線を合わせると、ハランは小さな声でいった。
「ぼん……」
「なんや!」
わしは怒鳴った。自分でもわかるとげとげしい声やった。
「ぼん、声が大きいです」
わしは声を小さくした。
「はっきりいいや。お前らしくないど」
ハランは顔を外の方に向けた。
「ぼん。ちょっと」
ここから出て話したい、いうことらしい。わしはできるだけ不自然にならんよう天幕から出て、誰も人がいない物陰へ向かった。
ハランは周囲を気にしつつわしのもとへやってきた。
「ハラン、なんや」
「ぼん。ここでは人の目があるかもしれまへん。場所を変えまひょ」
「用心深いやっちゃな」
「ぼん。壁に耳ありでっせ」
わしとハランはさらに人がいないところを探した。馬を出して空っぽになったうまやの陰で、ようやくハランは満足した。
「ぼん。ここなら人の気配もしまへんし、聞かれるおそれもありまへんわ」
「そんなことはどうでもええ。いいたいことがあったら早よういわんかい」
「へえ。大旦那はんに聞かれたら、たいへんなことになりそうであの場ではいわんかったんですが……」
ハランは革布のきれっぱしを取り出した。
「外で拾ったもんです」
わしは革布を受け取った。ナイフかなにかでクサビのような切れ込みが刻んであった。文字や。
運がええことに、商売をやる必要上、わしにはその楔形文字を読むことができた。親の教育というもんはありがたく受けとくもんや。わしは文字をのひとつひとつを指で押さえながら読んでいった。
「やいドアホ
女が惜しけりゃ
ひとりで『白の洞窟』へ来い」
実にわかりやすい脅しの文句やった。
「誰が書いたんや」
ハランは首を振った。
「わかりまへん。書かれていたのはこれだけです。問題は、誰が書いたにしろ、これを大旦那はんが読んだら……」
わしは喉の奥に苦いものが上がってくるのを覚えた。
「わかっとる。あの極道親父が、ひとりで白の洞窟へ来るなんてアホなことするわけがあらへん。手勢を少なくとも三十人はそろえて白の洞窟を急襲するやろな。もしそんなことになったら……」
わしはぶるっと震えた。
「あかん。これは親父に見せたらあかん。見せたが最後、今晩のうちにでもリベカの首と胴体は泣き別れになるわ」
「でも、ぼん、どないしまひょ。この文読むと、どうやら向こうはやる気満々でっせ」
「乗るしかないやろ」
「乗るって……ぼん、なにを考えとりますんや」
「書いたやつに覚えがあるねん。これを書いた奴は、明らかにわしを狙うて書いとる。もし、わしの思うた通りのやつなら、リベカはまだ無事やろな。そして、リベカを取り返すチャンスは、今のこの時しかないんや」
「書いたやつって、誰でっか」
「アホ。ついさっきケンカをしてきたというたばかりやろが。ほかの連中は、ここにリベカがおるいうことなんかまったく知らんのやで。それとこの下手糞な字と品のない文章。書いたのはあのクソデブに間違いないわ。ほんまにピコルの縁者の御曹司なら、字くらいかけてもおかしくないからな」
「ということは、ぼん……?」
「親父を変に刺激するまでもない、いうこっちゃ。ガキのケンカなんやから、ガキのケンカで収めとくのがいちばんええ」
わしは革布を物入れに入れた。
「預かっとくで。親父に見られたらたいへんやからな」
「それはいいですけど、ぼん、考えが深くなられましたなあ……」
「感動するのは後にしといてくれ。ハラン。頼みがある。親父にもおかんにもばれんように、二日分の水と食料、それに旅装と馬とを用意せえ」
「二日分でっか」
「白の洞窟いうたら、わしが知っとるのは、ここから馬で半日ほど先に行ったところにあるあそこだけや。穴がボコボコ開いとって、悪事を企むようなやつが根城にするんにぴったりや」
わしは慎重に言葉を選んだ。
「行くのに半日、話をつけるのにまた半日。そこらでまあ何とかなるやろ。ひと晩潰すとして、帰ってこられるのが明日や。いちおう、予備としてもう一日分の水と食料があれば充分やろ」
「ぼん……」
「リベカのためや。ベトエルはんのためでもある。なに、大船に乗ったつもりで待ってればええんや」
わしは笑った。無理に笑ってみせた。
「男と男の約束やで」
「男と男の約束でっか」
ハランも覚悟を決めたようやった。
「ガキいうても、最近のガキは何するかわかりまへん。命がけでっせ」
「覚悟はできとるわ」
「わかりました。ぼんが命がけなら、こっちも、命にかけても揃えまひょ。大旦那はんにばれんよう、わしがあんじょうします」
「頼むで」
「どこに行っとったんや」
天幕に戻ってくると、お母んがきつい目をしてわしを睨んだ。ただでさえ気が張っとるところに、息子まで何をしとるかわからん、いうことになったらこうもなるわな。
「お母はん」
わしはお母んのところへ歩いて行った。なんか、お母んが小さく見えた。
お母んはわしと目を合わせ、なんとのうたじろいだようやった。
「何や。そんな顔して」
わしはお母んをぎゅうっと抱きしめた。
「あほ。何するんや」
しばらくしてから、わしは聞こえるようにいった。
「これだけはやっとかんとと思うて」
お母んはまじめな顔になった。
「何を考えとるんかよおわからんけど……わかったわ。やりたいことがあるなら、やりたいようにやり」
わしは身体を離し、うなずいた。
「おおきに。やりたいようにやらせてもらうわ」
お母んが何かをいう前に、わしは再び天幕を抜け出した。
ハランを探した。
向こうでもわしを探しとったらしい。わしに気づいて、ごつい顔がふと緩んだ。
「ぼん」
「ハラン。用意はできたか」
「馬と、馬具一式。食いもんは干し肉と水を用意しときました」
「さすがやな。で、どこにあるんや」
「ここに置いとくわけにもいきまへんからな。町の境を出て、ちょっと行ったところに『愚者の丘』いう丘がありますやろ。男をやって、あそこの陰に伏せさせときました」
「信頼できる男やろな」
「こないな仕事のために生まれてきたような男です。ドジを踏むような奴やありまへん」
「そうであることを祈るで」
「わしもです」
わしらは小さく笑うた。
「ぼん。あまり長くここにいると、妙な疑いを抱く奴が出ないとも限りまへん」
「わかっとる。もう行くわ。周りのやつが気がつかんように、あんじょうしとくんやで」
「ぼんは気にせんといてください。わしがいつもやっとることですわ。ぼんの世話をしとると、そんなことばかり上手うなって困ります」
わしはその答えにうなずくと、そこらを歩いた。いらいらとしているように見えるように歩き回った。
歩きに歩いて、人の目が完全になくなったのを確認してから、わしは身をひるがえして走った。
しばらく全力疾走し、ちょうどええ物陰に隠れてから、今度こそわしはぶらぶらと歩き、怪しむ奴がおらんよう、できる限り自然な足取りで町の門をくぐった。
『愚者の丘』か。
自分のやっとることがアホのそれでないことをわしは祈った。神さんに祈った。リベカにもわしにも、神さんの助けがぎょうさん必要なことはわしにもわかっとった。
ベトエルはんのところに向かってから、親父はなかなか帰ってこんかった。
わしはいらいらと、親指をナイフの腹でこすっとった。できることはそれくらいやった。いくらいらいらするとはいえ、ナイフの刃の方でこするわけにもいかんやろ。
「くそお……」
度胸ある男はこんなとき黙っとるもんや、いうことを前々から親父に何度も聞かされとったけど、待つしかできんいうんは辛い。性格的にも素質的にも、わしは行動している方が向いとるんや。こうじいっとしとると、頭がおかしゅうなるわ。
リベカ……。
わしはさらいよったやつを呪った。むざむざさらわせてもうたわし自身を呪うた。しかしいくら呪うても、頭に浮かんでくるのはリベカの顔だけやった。水浴びを終えてすっきりしたリベカの別嬪さんな顔やなく、埃と汗と涙にまみれてわしの袖口をつかんどったリベカのあのガキの顔やった。
ふと見ると、ハランが、なにかいいたそうにしとった。わしと視線を合わせると、ハランは小さな声でいった。
「ぼん……」
「なんや!」
わしは怒鳴った。自分でもわかるとげとげしい声やった。
「ぼん、声が大きいです」
わしは声を小さくした。
「はっきりいいや。お前らしくないど」
ハランは顔を外の方に向けた。
「ぼん。ちょっと」
ここから出て話したい、いうことらしい。わしはできるだけ不自然にならんよう天幕から出て、誰も人がいない物陰へ向かった。
ハランは周囲を気にしつつわしのもとへやってきた。
「ハラン、なんや」
「ぼん。ここでは人の目があるかもしれまへん。場所を変えまひょ」
「用心深いやっちゃな」
「ぼん。壁に耳ありでっせ」
わしとハランはさらに人がいないところを探した。馬を出して空っぽになったうまやの陰で、ようやくハランは満足した。
「ぼん。ここなら人の気配もしまへんし、聞かれるおそれもありまへんわ」
「そんなことはどうでもええ。いいたいことがあったら早よういわんかい」
「へえ。大旦那はんに聞かれたら、たいへんなことになりそうであの場ではいわんかったんですが……」
ハランは革布のきれっぱしを取り出した。
「外で拾ったもんです」
わしは革布を受け取った。ナイフかなにかでクサビのような切れ込みが刻んであった。文字や。
運がええことに、商売をやる必要上、わしにはその楔形文字を読むことができた。親の教育というもんはありがたく受けとくもんや。わしは文字をのひとつひとつを指で押さえながら読んでいった。
「やいドアホ
女が惜しけりゃ
ひとりで『白の洞窟』へ来い」
実にわかりやすい脅しの文句やった。
「誰が書いたんや」
ハランは首を振った。
「わかりまへん。書かれていたのはこれだけです。問題は、誰が書いたにしろ、これを大旦那はんが読んだら……」
わしは喉の奥に苦いものが上がってくるのを覚えた。
「わかっとる。あの極道親父が、ひとりで白の洞窟へ来るなんてアホなことするわけがあらへん。手勢を少なくとも三十人はそろえて白の洞窟を急襲するやろな。もしそんなことになったら……」
わしはぶるっと震えた。
「あかん。これは親父に見せたらあかん。見せたが最後、今晩のうちにでもリベカの首と胴体は泣き別れになるわ」
「でも、ぼん、どないしまひょ。この文読むと、どうやら向こうはやる気満々でっせ」
「乗るしかないやろ」
「乗るって……ぼん、なにを考えとりますんや」
「書いたやつに覚えがあるねん。これを書いた奴は、明らかにわしを狙うて書いとる。もし、わしの思うた通りのやつなら、リベカはまだ無事やろな。そして、リベカを取り返すチャンスは、今のこの時しかないんや」
「書いたやつって、誰でっか」
「アホ。ついさっきケンカをしてきたというたばかりやろが。ほかの連中は、ここにリベカがおるいうことなんかまったく知らんのやで。それとこの下手糞な字と品のない文章。書いたのはあのクソデブに間違いないわ。ほんまにピコルの縁者の御曹司なら、字くらいかけてもおかしくないからな」
「ということは、ぼん……?」
「親父を変に刺激するまでもない、いうこっちゃ。ガキのケンカなんやから、ガキのケンカで収めとくのがいちばんええ」
わしは革布を物入れに入れた。
「預かっとくで。親父に見られたらたいへんやからな」
「それはいいですけど、ぼん、考えが深くなられましたなあ……」
「感動するのは後にしといてくれ。ハラン。頼みがある。親父にもおかんにもばれんように、二日分の水と食料、それに旅装と馬とを用意せえ」
「二日分でっか」
「白の洞窟いうたら、わしが知っとるのは、ここから馬で半日ほど先に行ったところにあるあそこだけや。穴がボコボコ開いとって、悪事を企むようなやつが根城にするんにぴったりや」
わしは慎重に言葉を選んだ。
「行くのに半日、話をつけるのにまた半日。そこらでまあ何とかなるやろ。ひと晩潰すとして、帰ってこられるのが明日や。いちおう、予備としてもう一日分の水と食料があれば充分やろ」
「ぼん……」
「リベカのためや。ベトエルはんのためでもある。なに、大船に乗ったつもりで待ってればええんや」
わしは笑った。無理に笑ってみせた。
「男と男の約束やで」
「男と男の約束でっか」
ハランも覚悟を決めたようやった。
「ガキいうても、最近のガキは何するかわかりまへん。命がけでっせ」
「覚悟はできとるわ」
「わかりました。ぼんが命がけなら、こっちも、命にかけても揃えまひょ。大旦那はんにばれんよう、わしがあんじょうします」
「頼むで」
「どこに行っとったんや」
天幕に戻ってくると、お母んがきつい目をしてわしを睨んだ。ただでさえ気が張っとるところに、息子まで何をしとるかわからん、いうことになったらこうもなるわな。
「お母はん」
わしはお母んのところへ歩いて行った。なんか、お母んが小さく見えた。
お母んはわしと目を合わせ、なんとのうたじろいだようやった。
「何や。そんな顔して」
わしはお母んをぎゅうっと抱きしめた。
「あほ。何するんや」
しばらくしてから、わしは聞こえるようにいった。
「これだけはやっとかんとと思うて」
お母んはまじめな顔になった。
「何を考えとるんかよおわからんけど……わかったわ。やりたいことがあるなら、やりたいようにやり」
わしは身体を離し、うなずいた。
「おおきに。やりたいようにやらせてもらうわ」
お母んが何かをいう前に、わしは再び天幕を抜け出した。
ハランを探した。
向こうでもわしを探しとったらしい。わしに気づいて、ごつい顔がふと緩んだ。
「ぼん」
「ハラン。用意はできたか」
「馬と、馬具一式。食いもんは干し肉と水を用意しときました」
「さすがやな。で、どこにあるんや」
「ここに置いとくわけにもいきまへんからな。町の境を出て、ちょっと行ったところに『愚者の丘』いう丘がありますやろ。男をやって、あそこの陰に伏せさせときました」
「信頼できる男やろな」
「こないな仕事のために生まれてきたような男です。ドジを踏むような奴やありまへん」
「そうであることを祈るで」
「わしもです」
わしらは小さく笑うた。
「ぼん。あまり長くここにいると、妙な疑いを抱く奴が出ないとも限りまへん」
「わかっとる。もう行くわ。周りのやつが気がつかんように、あんじょうしとくんやで」
「ぼんは気にせんといてください。わしがいつもやっとることですわ。ぼんの世話をしとると、そんなことばかり上手うなって困ります」
わしはその答えにうなずくと、そこらを歩いた。いらいらとしているように見えるように歩き回った。
歩きに歩いて、人の目が完全になくなったのを確認してから、わしは身をひるがえして走った。
しばらく全力疾走し、ちょうどええ物陰に隠れてから、今度こそわしはぶらぶらと歩き、怪しむ奴がおらんよう、できる限り自然な足取りで町の門をくぐった。
『愚者の丘』か。
自分のやっとることがアホのそれでないことをわしは祈った。神さんに祈った。リベカにもわしにも、神さんの助けがぎょうさん必要なことはわしにもわかっとった。