12
文字数 1,819文字
「スバルさん」
シーさんが静かに呼びかけた。
「満潮時の道を渡ってお兄さんに会いに来たあなたの気持ちは本物なのでしょう。ワタさんが見付けなければ溺れていましたよ。でもこれは、あなたが妄想と決めつけて拒絶するこの感覚は、あなたが思うようなものではないんです。説明するのは難しいですが、どうしても拭えない違和感が――」
「それはもう聞き飽きたよ。どうしても身体に、空気に、重力に衣服に食事に馴染めないって言うんだろう。それはどこか別の星にルーツがあるからだって言うんだろう。そんなの信じられるわけがない。あんたたちはどうしたって人間なんだ。人間として成長して人間としての義務を背負うことを放棄した、未熟で異常な人間なんだ」
砂漠のような部屋の中が静まり返った。彼は自分がどれだけ残酷なことを言っているか、きっと気付いていないのだろう。兄を「治す」こと、彼が思うところの「人間」の型に兄を押し込むことに必死で。型からはみ出た部分を切り落とされる痛みから目を背けて。
彼は不安なのだろう。断罪はわけのわからないものをわからないままに受容する恐怖から身を守るためのナイフだ。けれども私は彼を安心させられる言葉を持っていない。彼の側に立つことはできない。私もまた、彼に断罪される側の存在だから。
卵からすすり泣きが聞こえる。安全を保証してくれるはずの殻も、振動とともに染み込んでくる言葉を防いではくれない。
「わかってるよ……」
弱々しい声が泣き声に混じる。
シーさんがためらいがちに口を開いた。
「私たちは、――望まないことだったとしても、人間として生まれてしまった。それは動かしようのない事実です。生活や身体をしっくりくる形に整えようとしても、人間という生き物の生命活動を維持するための制約がある。それでもどうにか折り合いをつけて生きていこうとしているんです。人間社会の中では難しい人はこの島で。そしてこの城で」
「耳と鼻を削いで指を切り落とすことが、折り合いをつけることだって言うのかよ」
「ソユさん――あなたのお兄さんは、突起の無い身体が本来の形だと感じるそうです」
「馬鹿言うなよ。鼻があるのが本来の形に決まってる。指が五本あるのが本来の形に決まってる。違うと感じるなら精神の異常だ」
話が戻ってきてしまう。わかり合うための糸口が見つからない。長い間生きてきてずっと見つけられなかった。だから私はこの島に居場所を見出したのだ。
「お前は体験したことがないからそんなことが言えるんだ」
卵の奥から濡れた目が弟を見上げる。
「もしお前の臍から腕が生えていたらどうする? 首の付け根から脚が生えていたらどうする? 取ってしまいたいと思わないか? 鏡に映る怪物にぞっとしないか? 僕は耐えられない。一秒だって耐えられない……」
スバルは唇を噛んで卵の殻をにらんでいた。
「兄貴だって小さい頃はちょっと変わってるくらいの普通の子だったじゃんか」
「隠してた。我慢してた」
「言ってくれれば良かったのに」
「言っても信じなかっただろ。――今みたいに」
スバルは何かに耐えるように顔をしわくちゃにして俯いた。
「もういいよ。どうせ兄貴は俺のことなんか信頼してないんだ。でも病院の先生は別だろ。医者ならあんたが病気で妄言吐いてるのかどうかわかるはずだ。あんたの主張が本当だって医者が認めたら――その時は謝るよ」
「それは難しいですよ――」
一歩前に出たシーさんに、スバルは銛の先を突き付ける。
「これ以上邪魔するなら、ここで見聞きしたことをネットでばら撒く。録音も動画もある。あんたたちが自傷行為を唆してることも、遺骨を家族に返しもせずにすり潰して遊んでることも世間に知られることになる」
「唆しでも遊びでもありません。あれは――」
「わかった」
卵の奥から決然と声がした。
「わかったよ。お前と一緒にこの島から出る」
シーさんはあたふたと無意味に両手を動かしている。
「そんな……、私たちは疚しいことなんてしてないじゃないですか。なかなか理解はされないかもしれませんが、いつかは広く知ってもらって――」
「それはきっと今じゃない。大丈夫だよ、シーさん。僕は大丈夫……」
胸の内側に手を突っ込まれてかき回されているように感じた。心が追い付いていなかった。おそらくシーさんも。
「――無理に連れ帰っても、お兄さんは幸せにはならない。きっと」
私にはそれくらいしか言えなかった。彼の心に届く言葉は何一つ。
シーさんが静かに呼びかけた。
「満潮時の道を渡ってお兄さんに会いに来たあなたの気持ちは本物なのでしょう。ワタさんが見付けなければ溺れていましたよ。でもこれは、あなたが妄想と決めつけて拒絶するこの感覚は、あなたが思うようなものではないんです。説明するのは難しいですが、どうしても拭えない違和感が――」
「それはもう聞き飽きたよ。どうしても身体に、空気に、重力に衣服に食事に馴染めないって言うんだろう。それはどこか別の星にルーツがあるからだって言うんだろう。そんなの信じられるわけがない。あんたたちはどうしたって人間なんだ。人間として成長して人間としての義務を背負うことを放棄した、未熟で異常な人間なんだ」
砂漠のような部屋の中が静まり返った。彼は自分がどれだけ残酷なことを言っているか、きっと気付いていないのだろう。兄を「治す」こと、彼が思うところの「人間」の型に兄を押し込むことに必死で。型からはみ出た部分を切り落とされる痛みから目を背けて。
彼は不安なのだろう。断罪はわけのわからないものをわからないままに受容する恐怖から身を守るためのナイフだ。けれども私は彼を安心させられる言葉を持っていない。彼の側に立つことはできない。私もまた、彼に断罪される側の存在だから。
卵からすすり泣きが聞こえる。安全を保証してくれるはずの殻も、振動とともに染み込んでくる言葉を防いではくれない。
「わかってるよ……」
弱々しい声が泣き声に混じる。
シーさんがためらいがちに口を開いた。
「私たちは、――望まないことだったとしても、人間として生まれてしまった。それは動かしようのない事実です。生活や身体をしっくりくる形に整えようとしても、人間という生き物の生命活動を維持するための制約がある。それでもどうにか折り合いをつけて生きていこうとしているんです。人間社会の中では難しい人はこの島で。そしてこの城で」
「耳と鼻を削いで指を切り落とすことが、折り合いをつけることだって言うのかよ」
「ソユさん――あなたのお兄さんは、突起の無い身体が本来の形だと感じるそうです」
「馬鹿言うなよ。鼻があるのが本来の形に決まってる。指が五本あるのが本来の形に決まってる。違うと感じるなら精神の異常だ」
話が戻ってきてしまう。わかり合うための糸口が見つからない。長い間生きてきてずっと見つけられなかった。だから私はこの島に居場所を見出したのだ。
「お前は体験したことがないからそんなことが言えるんだ」
卵の奥から濡れた目が弟を見上げる。
「もしお前の臍から腕が生えていたらどうする? 首の付け根から脚が生えていたらどうする? 取ってしまいたいと思わないか? 鏡に映る怪物にぞっとしないか? 僕は耐えられない。一秒だって耐えられない……」
スバルは唇を噛んで卵の殻をにらんでいた。
「兄貴だって小さい頃はちょっと変わってるくらいの普通の子だったじゃんか」
「隠してた。我慢してた」
「言ってくれれば良かったのに」
「言っても信じなかっただろ。――今みたいに」
スバルは何かに耐えるように顔をしわくちゃにして俯いた。
「もういいよ。どうせ兄貴は俺のことなんか信頼してないんだ。でも病院の先生は別だろ。医者ならあんたが病気で妄言吐いてるのかどうかわかるはずだ。あんたの主張が本当だって医者が認めたら――その時は謝るよ」
「それは難しいですよ――」
一歩前に出たシーさんに、スバルは銛の先を突き付ける。
「これ以上邪魔するなら、ここで見聞きしたことをネットでばら撒く。録音も動画もある。あんたたちが自傷行為を唆してることも、遺骨を家族に返しもせずにすり潰して遊んでることも世間に知られることになる」
「唆しでも遊びでもありません。あれは――」
「わかった」
卵の奥から決然と声がした。
「わかったよ。お前と一緒にこの島から出る」
シーさんはあたふたと無意味に両手を動かしている。
「そんな……、私たちは疚しいことなんてしてないじゃないですか。なかなか理解はされないかもしれませんが、いつかは広く知ってもらって――」
「それはきっと今じゃない。大丈夫だよ、シーさん。僕は大丈夫……」
胸の内側に手を突っ込まれてかき回されているように感じた。心が追い付いていなかった。おそらくシーさんも。
「――無理に連れ帰っても、お兄さんは幸せにはならない。きっと」
私にはそれくらいしか言えなかった。彼の心に届く言葉は何一つ。