文字数 1,039文字

 水は苦手だ。とらえどころのないのっぺらぼうでありながら、万物の母体でもあるかのような顔をして至る所にのさばっている。儚い朝靄でいたかと思えば濁流となって大地を抉る。

 この身体も水そのものだ。水を循環させるための臓器があり、水を零さないように皮で覆われている。目から溢れる水は心だ。

 巨大な一つの心であるにもかかわらず、その実一滴一滴の心の莫大な集合体でもある海は、ひしめき合う生の匂いの香水であり、それ故に死を意味している。

 深い緑色をした生と死の混沌に身を浸しているそれはまるでクラゲのようだった。クラゲは大きくてもプランクトンだ。即ち、自らの意思で移動する能力を持たず、流れに揺蕩うもの。生きるという能動ではなく、生きているという状態を生きるもの。

「王国に行きたいんですが」

 しばらく観察した後、人の形をしているし一応言葉は通じるだろうと思って声をかけた。コンクリートの護岸に寄せる微かな波に合わせてそれは眼球を回転させた。私の顔に向く角度で止まった瞳には海の膜がかかっている。

「ふね」

 潮騒に似た掠れ声が波に押し出される。

「のれ」

 漠とした視線が示す先に小船が繋がれている。屋根も無い、人ひとりが寝転がったらいっぱいになってしまうくらいのボート。喫水線で揺れる水にフジツボが洗われている。

 コンクリートの縁に一旦腰掛けて、そろそろと足を伸ばす。不安定な船底に体重を預けると、野良猫の毛にしがみ付いたノミの気持ちになる。やはり水は苦手だ。

 クラゲのように浮いていたそれはプランクトンであることをやめて水音も立てずに船に上がってくる。濡れて束になった長い髪が人の形を隠し、海への未練を滴らせている。

 クラゲだった人が船尾に取り付けられたエンジンを操作して紐を何度か勢い良く引くと、馬が鼻を鳴らすような音と共に船が振動を始めた。私は船人に飛ばされた水滴を顔から拭った。細断された碧色の海は私の肌の上で魔力を失い、透明に消されて初秋の太陽に溶けた。




 エンジンは規則正しい心音を刻みながら、船を海原へと運んでいった。単調なようでいて一つとして同じ形のものは無い波頭をクラゲの人は見つめ、私は私を支えているものが水だけだという事実を意識しないように自分の爪を見つめていた。水と繋がっていたい者と、水を恐れ避ける者。正反対のようだがどこか通じ合っている気がした。彼のことを知りたいと思ったが、話しかける気は起きなかった。海という剥き出しの生命の次元において言葉など何の意味も持たない。
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