第1話

文字数 2,921文字

 昔から雨が降っていた。それは人びとが思い起こしうる記憶すべてを遡っても、常にその地には雨が降っていた。どの思い出を呼び覚ましても――その慶弔を問わず――空にあるのは暗雲だった。


 この地の者は当然に太陽の概念を知らない。だから、雨に特段の感謝もなければ問題とすることもなかったのだ。

 ある無法者たちがいた。
 方々を周っては掠奪、強姦、誘拐を繰り返す者たちだ。
 かれらはこの地にも金品を強奪するため、幾人もの群れでやってきた。しかし、ロバの積み荷、ロバの毛並みは水を吸って日に日に重くなり、移動に支障が出るほどであった。苦渋の末、二、三頭のロバ、そして荷の大部分を捨てる判断を下した。持ち去る荷の価値がこの地に来たときより、はるかに下回ったことにかれらは歯噛みした。悔し紛れに若い女の貞操や金や銀、宝石など鉱物を奪い、悪態をつきながら去っていった。もう二度とこのような地には来るものか、と誓いながら。

 暑くも寒くもない日、ただ雨の日に来客があった。女だった。かの女は開口一番、「この雨は呪われている」といい放ち、「わたしにはそれを解く術がある」と続けていった。

 かの女――憑物落としは雨の地の族長に謁見した。
 族長はこれまで降雨が一日、いや一瞬たりとて止まなかったこと、また他の地では雨ではない、別なもの――つまりは日差し――が降るらしいということを、かつて経験した、などのことを仔細に話した。
 
 族長がなぜ、どこの者とも知れぬ女と話している、と訝しむ声も少なからずあった。秘密主義ではないが、幾代もの長が統べるうちに、この地はそれに近い状態であった。族長が外部の者に門戸を、それも奥深くまでひらくのは異例中の異例なのだ。

「この雨は呪われている」――人びとはかの女はの警句を信じなかった。人びとの空は雨でしかなく、太陽などという、燃える炎が自分たちの頭上にあるなど、恐怖でしかなかった。

 族長は憑物落としを自分の家に招き入れ、そこでかの女の話す言葉にきわめて注意深く聴き入った。族長はかつて、憑物落としの地にいたことがあり、今のこの地の異常性に自覚があったからだ。族長はそこで霊媒の能を磨いた。その族長をして、この地の雨を上がらせることは不可能である――それは族長の霊媒の限界を認めたことにほかならなかった。

 しかし、この女の霊力は、族長を超えるらしい。族長はこの女の言葉に期待を寄せた。

 かの女は――憑物落としは錫杖を携え、歩くたびに遊環がしゃらりしゃらりと鳴った。その音を聞けば民は表へ出た。賓客の憑物落としを見るためではなく、族長の姿を拝むためである。

 憑物落としと異国の語を操る族長を見るや、人びとは平伏し頭を垂れた。あたかも見てはいけないものを見てしまったかのように、人びとはぬかるんだ地にかしずいたのだ。

 族長はそののち、簡便な儀式の補佐なら行える程度の高官を集めた。憑物落としと共に、やがて見る展望をかれらに話した。

「これより執り行う儀式は、この地に太陽の恵みをもたらすものである。さまざまな穀物、花や苗、牧草がなり、富と幸いを皆に与えることができる」
 
 といい、続けて、

「儀式には生贄が必要である。民より、生まれて十日以内の子を捧げなくてはならない」

 そこで憑物落としが耳打ちした。族長は咳払いをひとつし、続けた。

「しかし、生まれて十日の子がいない場合、三名の生娘を贄とし、儀を執り行うこともできる」

 三晩の猶予が民に与えられた。民は悩んだ。族長も、身を切る思いであった。

 定められた朝が来た。
 三名の生娘が贄として選ばれた。かの女らは白い糸で刺繍の施された白装束を纏い、その髪は赤い糸で結えていた。三名とも面持ちは静かで、すでに自らの最期を見据え、悟りの境地に近いものがあった。

「これより雨雲を退け、太陽の恵みを享受するための儀を執り行う」

 憑物落としが通る声でいった。雨粒一粒一粒に響き、さらに増幅させ、方々へ轟くような声であった。
 族長が続けていった。

「この娘らの命が天に召し上げられる。三名の名前、年齢、生まれは石碑に刻み、未来永劫、語り継がれよう」

 族長や憑物落としの言葉は逐一、族長の補佐を行う高官がヤギの皮に刃で刻み込んだ。

「これにて儂らは三日三晩の間、誰とも会わず、誰とも話さず、神聖なる儀に入る。儂が不在の間のことはこの中でもっとも位の高い者に、その権限と責とを委ねる。しばし、待っておれ」

 三日三晩を民は待ち、朝を迎えた。
 暗雲は去り、陽光がきらめき、人びとはその眩しさに目を細めた。民は生まれて初めて見る光景に騒ぎ立てた。

 族長と憑物落としが帰ってきた。族長の木の杖、憑物落としの錫杖、そしてふたりの服の前身頃にべっとりと付いた血痕に人びとは言葉を失った。憑物落としの女の錫杖の遊環も動いて金属音を立てられないほどにまで、血糊が付着していた。

 ほどなく族長は集会を開き、民に告げた。

「これより雨も日も、我らが地に降り注ぐ。さまざまな作物がさまざまな形で実る。いままでの日々は一変する。職にあぶれる者も出よう。だが、この変化に立ち向かい、乗り越えられれば必ず、必ずや大きな幸いへと至る。褒め称えよう、三柱の聖女を」

 その後の土地の生活は言葉通り一変した。
 流れ続けていた水は止まり、見たこともないような虫が涌き、衛生面で大きな被害――熱病や食中毒、種々の身体の不調がはびこった。このままでは家族を失ってしまう。危機感が民の間で起こっていた。

 畜産の被害も甚大で、ほぼ半数の家畜が死んだ。
 死因は疲労であった。経験したこともない陽光で消耗し、また冷たい雨に打たれ疲弊したのだ。流動食のようなこれまでの餌が乾いた草となって、どの家畜も消化器へ負担もあって、やがて死んだ。

 族長の補佐官を中心とした高官の集まりは深刻な危機感を感じていた。確かに植物、とりわけ穀物の生長は早くなった。だが、あまりにも酷暑や日照りでの悪影響、熱病、家畜の被害で栄養量も満足な水準に至らず、またその食料の日持ちも悪くなったことなど、太陽を呪う声が民のみならず高官のあいだでもで上がった。

 儀式から一年後、族長が惨殺された死体で見つかった。

 程なくして、あの女憑物落としがこの地にやってきた。民も高官も武具を懐に隠し、しかし、旧来通りの雨のままの地に戻すよう頭を下げざるを得なかった。かれらの中で、誰も高等な霊媒の能を持つ者がいなかったからだ。
 女憑物落としは法外な対価を提示し、さらには前回よりも多くの生贄を要求したのち、再びこの地を雨だけの地へ戻した。

「この地はわたしが統治する」憑物落としは雨の地の言葉で高らかに宣告した。

「わたしの命あるうちは、この地に平和と安寧がもたらされる」

「しかるに、わたしの寿命が早まることなきよう、あなたがたには配慮を乞い願いたい」

 女憑物落としは雨だけの地で、何不自由ない暮らしをし、安らかに死んでいった。憑物落としが没したあとも、この地では雨だけが降った。


 昔から雨が降っていた。若干の狂いはあったが、ずっと、ずっと、雨だけが降った。誰も思い出せない昔に太陽が見えたそうだが、今は雨だけが降っている。
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