第1話

文字数 3,504文字

今となっては昔のこと。
ある山の麓に姉妹とその母親と住んでいた。
その家の前には見事な紅白2本の梅の木が蛇のように絡まり合って生えていて、ちょうど梅の時期に生まれた2人はその梅にあやかって名前がつけられた。絹のような光沢のある肌を持つ白練(はくれん)、混じり気のない朱丹のような紅い唇を持つ真朱(しんしゅ)

2人はおそらくすくすくと育った。
2人の住む家は人里からは随分遠く、たまに母親をいろいろな男が訪ねてくるらいで、誰もその姉妹のことを知らなかった。母親は2人を隠し、誰かが来るときは2人は家の奥に隠にされるか、客が来るまで家を出ていた。
母親以外誰もいない生活でお互いを知るものはお互いだけ。大人しい白練と元気な真朱は性格こそ大きく異なったが、いつも一緒で、死ぬまで一緒にいましょうと誓い合った。
2人は日中は畑の畝を耕したり、のんびり糸を垂らして釣りをしたり、夜は森や野山で山の幸を求めて過ごした。2人にとって森は安全で、森の中で2人でこっそり夜を過ごすこともあった。2人にとって世界は見えるそのままで、何の悩みもなく幸福に満たされていた。


それはあるとても寒い夜。家の外は白銀に染められていた。
囲炉裏にくべられた黒い薪はぱちぱちと朱い火を踊らせ、時折ぴしりと炭が白く割れて崩れ落ちていた、そんな夜。
2人が囲炉裏の隅で寄り添って暖を取っていると、ふいに入り口の戸がカタカタ揺らされ声がかけられた。2人にとって、お互いと母親以外の声を聞いたのは初めてだったかもしれない。母親もまさかこんな猛吹雪のなかを人が訪ねてくるとは思ってもいなかった。

「一夜の暖をお願いしたいのです。外はとても寒くていられない」
「申し訳ないですが中に入れて差し上げることはできません。お帰り下さい」

2人の母親はそう断る。これほど寒い以上、2人を他の部屋に追いやることはできない。2人を人目に晒さないためには入れるわけにはいかない。
けれども声はゴォゴォなる吹雪の音とともに震える声で戸を揺らす。

「もうまぶたも凍りついて目を開けることもできません。もうすぐ口も凍りついてしまうでしょう。それならせめてこの戸口で暖を取ることお許しを。どうか、少しだけでも」

しばらくすると戸の揺れも止み、雪が唸る静かな音だけが響くようになった。そして戸口でドサリと何かが崩れ落ちる音がした。

「母さん、入れてほしいといっているわ」

真朱が声をかけ、白練はそわそわと戸口に近づく。2人にとって世界はとても単純で、頼まれごとを拒否するという意味が理解できなかったし、そんなことをしたこともなかった。
母親は諦めた顔で戸口をそっと開けると、真冬の冷たさとともに真っ白な雪が一斉に室内になだれ込み、同時にドサリと雪に塗れた大きな大きなものが室内に倒れ込んだ。
真朱は尋ねる。

「母さん。これはなあに? 母さんのお客さん?」
「これは熊だよ。危険な生き物だ」
「ふうん。でもなんだかすっかり凍ってしまって動かないよ」

白練は熊の白い雪を払う。そうすると濡羽色の毛皮に覆われた生き物が冷たく凍りついていた。白練はそのまま熊に覆い被さり体温を移し始める。しばらくすると熊からすっかり強張りはとれ、静かな寝息を立て始めた。2人がしばらく熊に寄り添っていると、熊はうっすらと目を開き、姉妹を見て、目をさらに大きく開けて驚きを示した。

「よかった、起きた」

熊は慌てて周囲を眺めて、おそるおそる視線を2人に戻す。

「家に入れて助けてくれたんだね。ありがとう。君は誰?」
「私たちは真朱と白練。あなたは?」
「俺は……この姿の名前はない。もともとは人間だった」

その熊はその少し青みを帯びた檳榔子黒の高貴な目で2人を見つめて言った。
2人と1匹は朝まで一緒に眠り、それからも毎晩熊は2人を訪れた。2人は母親以外の者に会うのは初めてで、すべてが驚きに溢れて新鮮で、夜を徹して一緒に遊び、さまざまな話をした。
そんな2人と1匹の姿を母親は戸惑いながらも見守った。

「俺がこの姿になってから恐れられないのは初めてだ」
「私たちも母さん以外の人と話すのは初めて」
「最初はすごく驚いた。でも白練の絹のような肌は滑らかで真朱の唇は熱く朱くてとても美しい」

そうしていると冬が明けた。
その日の少し前あたりから、大地を抱きしめるように日差しが暖かみを増し、白い雪は地面を滑って冬とともに旅立った。
若草が芽を出し、陽光をキラキラと反射する白い小川の水面にピチャリと青い魚の背が跳ねた。
家の前の紅白の梅の蕾も膨らみ、もう少しで花開こうという朝。

「春が来てしまった。冬が来るまで俺はここには来れない」
「どうして」
「俺は悪い小人を倒さないといけない。そうしなければ俺はずっとこのままだ。奴らは暖かくなると動き出す」
「このままじゃだめなの?」

熊は少し困った顔で2人を見て、小人を倒したらきっと戻るといい残し、扉をくぐって柔らかい春の光に消えた。その時、熊から金色の何かが零れ落ちたように見えた。

春の野山はとても豊かだ。
2人は冬眠から覚めたように芽吹く若草や若葉の間を通り、セリやタラの芽、ふきのとうを探して森に足を運んだ。
ある日2人は倒れた木に髭を挟んで動けない小人を見つけた。

「コン畜生め! そこのお前! 早く木を退けろ! 何してやがる! ウスノロめ!」

2人は驚き木を動かそうとしたけれども、木はびくとも動かなかった。仕方なしに白練はその髭を切断した。

「なんてことしやがる! 俺の大切の髭を! どうしてくれよう! そうだ! お前に呪いをかけてやる! お前らはあの熊が好きなんだな? あいつがどんな奴かも知らないままに! ならその姿の半分を変えてやるのだ!」

小人は白練の右半分に魔法をかけた。そうすると白練の右半分は絹のような美しい色を失い、普通の肉色の肌を持つ普通の娘の体になった。
小人は悪態をつきながら側にあった袋を担いで去っていった。
半分の姿がかわった白練は、とても歩きにくそうで、真朱はいつもより寄り添って暮らすようになった。

2度目に小人に会った時、小人は髭に釣り糸を絡ませ、今にも川に引きずり込まれようとしていた。
白練は思わず持っていたハサミで髭を切り、小人を助けた。

「なんてことしやがる! 俺の大切の髭を! どうしてくれよう! そうだ! お前に呪いをかけてやる! お前らはあの熊が好きなんだな? あいつがどんな奴かもしらないままに! ならその残りの半分も変えてやるのだ!」

白練の絹のような肌はすっかり失われ、普通の女の子の姿になってしまった。
小人はまた悪態をつきながら側にあった袋を担いで立ち去った。

「真朱、私すっかり変わってしまった、真朱は私を嫌いになる?」
「そんなことはないよ。私は白練が大好き。死ぬまで一緒だよ」
「よかった、私も同じ。でも熊には嫌われちゃうかな」

2人は変わらぬままに毎日を過ごした。
3度目に小人に会った時、小人は大鷲に肩を掴まれ連れ去られようとしているところだった。真朱は急いでその足を掴んで暴れ、大鷲は諦めて飛び去った。

「なんてことしやがる! 服が破けちまった! どうしてくれよう! そうだ! お前に呪いをかけてやる! お前らはあの熊が好きなんだな? あいつがどんな奴かもしらないままに! ならその姿を変えてやるのだ!」

真朱の朱い唇の色はすっかり無くなり、隣に立つ白練とそっくりの女の子の姿が現れた。
2人が家に帰った時、母親は、まあ! と驚いて2人を抱きしめて涙ぐんだ。


2人は新しい姿でも変わらずいつも一緒で、手を組んで森を歩いた。2人の姿は変わっても、2人にとって世界は何も変わらなかった。何も問題はない。2人は死ぬまで一緒。2人は微笑みあった。
いつの間にか家の前の紅白の梅の木の花は全て散り果てていた。日差しはより強くなり、木の葉の緑も濃くなり、その影はより黒くなった。
その日、2人は森の中で久しぶりに熊に会った。

「熊、お久しぶりです」
「小人は捕まりましたか」
「……お前らは誰だ?」

熊は警戒するような目で2人を眺めた後、2人が白練と真朱だと知ると驚き、それでも2人を抱きしめた。
2人は熊に小人に出会って呪われてすっかり姿を変えられたと話した。熊は酷く複雑な表情をした。

「2人は元の姿に戻りたいのか?」
「私たち? 私たちはどちらでもいいわ」
「そう、私と白練はいつも一緒だもの」
「俺が小人を倒すと2人は元の姿に戻るだろう」
「そうなの?」
「そうなの?」
「俺は元の姿に戻りたい」
「元の姿?」
「元の姿?」
「そう、俺はもともと人間なんだ。今の2人と同じように」
「そうなの?」
「そうなの?」
「2人にはわからないか」

熊は少し寂しそうに笑って立ち去った。
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