第25話

文字数 5,730文字

 加納の顔から傲慢な表情が急速に消えていき、代わりに狼狽が走った。
「い、今、何と言いました……?」
 草野はゆっくりと繰り返した。
「ですから、加納さんと島野さんがボールを探す様子を、たまたま録画していたひとがいると言ったんです」
「社長。そんなことはありえませんよ!」 
 島野が鋭く言った。
「島野の言うとおりだ。たまたまあの場所にカメラを持った人間なんているはずがない」
「そうですか。それでは仕方ありません」 
 草野は、カート道路に立っている進藤に声をかけた。
「進藤さん、すみませんが、こちらまでお願いできますか?」
 進藤がグリーンに向かって歩いてきた。
「加納さんも島野さんも進藤さんをご存じですね?」 
 加納と島野は黙ってうなずいた。
「進藤さんは山中さんの友人で、今日はギャラリーとして1番ホールからずっと私たちについて歩いていました。ところで進藤さんは、草花や昆虫の撮影を趣味にしていて、動画も撮影できるカメラをいつも肌身離さずに持ち歩いています」
 進藤は、手にしているカメラを全員に見えるように頭の高さに持ち上げた。草野は進藤を目をやりながら続けた。
「私は進藤さんに、加納さんがもう一度ボールを林に打ち込んだときは、ボールを探す様子を動画で撮影してほしいと、16番ホールのあの林の中でお願いしたんです」
「それでは再生の準備にかかります」
 進藤がカメラを操作しながら言った。そのとき神山が口を開いた。
「ねえ、加納さん。あなたは、大野宮市で手広く事業をなさっている立派な会社の社長さんだ。そのような方が面目をなくすような真似をなさってもいいんですか。私たちに動画を再生させるようなことはさせないでください」
 加納は目を地面に落としたあと、しばらく無言のまま立ち尽くしていた。やがて加納はくぐもった声で言った。
「私はどうすればいいんですか?」
 神山は軽く笑みをたたえながら言った。
「なに、簡単なことですよ。山中くんが本来の位置よりもボールを前に出したという異議申し立てを取り下げていただければ、それで結構です。そうすれば、この試合でのルールの問題はなくなります」
 加納は少しの間うなだれていたが、やがて顔をあげて、自分を取り巻いているひとたちの顔を見まわした。そのあとゆっくりと口を開いた。
「……、わかりました……。山中さんに対する異議申し立てを取り下げます……」
「社長……」 
 声をかけた島野に、加納は弱々しい笑顔を浮かべた。
「仕方ないだろう……。神山さんがああおっしゃってくれているんだ……」
「さすがは加納さんだ。すばらしい決断をなさいました。これで加納さんは、末永く大野宮市で活躍することができるでしょう」 
 神山は大きくうなずきながら、加納の手を取って握手した。草野が前に進み出た。
「みなさん、それではこの試合の結果を発表します。
 加納さん、山中くんは、ともにスポーツマンシップにのっとって全力でプレーしましたが、山中くんが1UPで加納さんに勝利しました。立会人の神山さん、木村さん、この結果に異議ありませんね?」 
「異議ありません」 
 神山、木村はともに即座に答えた。その声を聞いた松崎は、満面に笑みを浮かべながら山中に右手を差し出した。しかし山中は、硬い表情で加納を見つめたまま松崎の手を握り返した。

 それから20分後、山中、松崎、進藤の三人は、セブンシーズゴルフクラブの応接室で、加納、島野と向い合って座っていた。立会人の神山と木村はすでに帰路につき、草野は支配人室で来客対応中だった。
 山中が硬い声で切り出した。
「加納さん。約束の書類をいただきますよ」 
「島野、書類を出してくれ」 
 加納はあっさりと島野に指示を出した。
「社長……、本当にいいんですか……?」
「いいも悪いもない。ここまで外堀を埋められたんでは、言うとおりにするしか手がないだろう」
 加納の言葉に従って、島野はアタッシュケースから書類を二枚取り出すと、それを山中に渡した。
 山中はまず離婚届に目を走らせた。離婚届には間違いなく加納の印鑑が押されていた。続いて念書に目を通した。今後一切山中が所有する山の買収は行わない旨が記されていて、トレジャー開発の社長の実印が押されていた。
 山中は大きくうなずくと、書類をクリアファイルに入れたあと、それを大事そうに手提げバッグにしまい込んだ。
「それじゃ」と言って、山中たち三人が腰を上げかけたとき、加納がそれを手で制した。
「山中さん。最後にあんたにひと言言っておきたいことがある」
 山中たち三人は、怪訝そうな顔で腰をおろした。
「山中さん、あんたは大した戦術家だ。ゴルフ場の選び方から戦い方、そして大野宮市経済界の重鎮の神山さんを立会人にしたことといい、感心したよ。たかがゴルフ練習場のおやじだと馬鹿にしていたのが俺の敗因だ。
 18番ホールであんたがパットを入れたときには、裏から手を回してガタガタさせることも考えたが、こうも先々まで手を打たれていたんでは、素直に負けを認めた方が利口というもんだ」
 山中は黙ったまま加納を見つめていた。加納は言葉を続けた。
「後半に俺をバテさせるために、今日の試合を歩きにしたんだろう? 
 あんたの戦術はズバリ的中したよ。後半は足にきてティーショットが曲がりっぱなしだった……。これからは俺も接待を控え目にして、少しは足腰を鍛え直すことにするよ。今度は俺の方から、あんたを試合に引っ張り出すこともあるかもしれないしな……。とにかく亜衣子はいい奴を頼ったということだ」
 山中たち三人はソファーから立ち上がると、ドアに向かって歩き出した。山中がドアのノブに手をかけたとき、加納が声をかけてきた。
「亜衣子に、『元気でな』って伝えてくれ……」 
 そのあと加納は静かに言った。
「それから……、もうひとつだけ教えてくれ……。亜衣子が家出をして、あんたのところに行った夜……、あんたとは本当に何もなかったんだな……?」
 山中は振り向いて加納の顔を見つめた。加納の顔は、これまで山中が見てきた中で一番穏やかな顔だった。
「ああ、何もなかったよ……」 
 
 松崎は、重いキャディバッグを担ぎながらも、全力疾走で駐車場に停めてある車に突進した。山中と進藤はそのあとを懸命に追いかけたが、とうとう進藤が松崎に向かって呼びかけた。
「ま、松崎さん、ちょっと待ってくれ……。亜衣子さんに電話で知らせたいから、ちょっと止まってくれよ……」
 松崎は振り返ると、野太い声で吼えるように言った。
「ここからヤマさんのところまでは10分もかからないんだ! 電話なんかより直接話をして、みんなで亜衣子さんの喜ぶ顔を見ようじゃないか!」
 松崎は車のところに到着すると、トランクを開けてキャディバッグを放り込むや、ごつい体からは想像もつかない敏捷さで運転席に乗り込んだ。
「早く乗った、乗った!」 
 山中と進藤に向かって吼えながら、松崎は車のエンジンをかけた。山中と進藤があわてて車に乗り込んだとたん、松崎は車を発進させた。
 松崎が猛然と運転したおかげで、車は5分足らずで山中の練習場の駐車場に着いた。車を止めるやいなや、松崎は勢いよく車のドアを開けて事務所に突進した。
「亜衣子さん! 亜衣子さんはいるかい!」
 その声に、練習場の打席の方にいたフジ子が血相を変えて飛び込んできた。ボールを入れるカゴを整理していたらしく、両手にカゴをぶら下げたままだった。
「あんた! 今の今まで連絡をよこさないなんて、いったいどういうつもりなんだい! それでどっちが勝ったんだい?」
 松崎はフジ子の顔を見ながら吼えた。
「亜衣子さんは? 亜衣子さんはどこにいるんだ!」
「山中さんの家だよ。お昼前から愛子さんの仏壇の前に座りっきりだよ。それであんた、どっちが勝ったんだい?」
 それを聞いた山中が自宅に向かって走り出した。それを横目で見ながら松崎が叫んだ。
「ヤマさんだ! ヤマさんが勝ったんだ!」
 フジ子の両手からカゴがすべり落ちた。
「あんた……、よかったね……」
 フジ子は、涙をぼろぼろとこぼしながら夫に抱きついた。古女房の思いがけない抱擁に、松崎は目を白黒させた。
 全力で走って、あっという間に玄関先に着いた山中は、そこで足を止めた。開けっ放しになっている玄関から、愛子の仏壇の前に正座している亜衣子のうしろ姿が見えた。
「亜衣子さん……」
 山中の呼びかけに、亜衣子は体をびくっと震わせたあと、さっと振り返った。その顔には血の気がまったくなかった。
「亜衣子さん……」
 そう言いながら、山中は大股で亜衣子のもとに歩み寄った。
「勝ったよ……。俺は勝ったよ……」
 そのとたん亜衣子は、両手で顔を覆って畳に突っ伏した。亜衣子の背中が激しく震えだし、嗚咽が漏れだした。そのあと、「……、愛子さん……、山中さんを守ってくださって……、ありがとうございました……」と途切れ途切れに言う声が聞こえてきた。
 山中は、亜衣子の震える背中にそっと手を当てた。
「亜衣子さん……、あなたは自由になったんだ……。自分の意志で生きていける人間になったんだよ……」
 いつの間にか玄関先に集まった松崎、フジ子、進藤が、さかんに目を拭っていた。


エピローグ

 12月も下旬に入った寒い日、練習場の事務所に山中、松崎、進藤の三人が顔をそろえていた。
 松崎がダウンのジャケットに首をうずめながら、山中に向かって文句を言いはじめた。
「おい、ヤマさんよ。パネルヒーター付きのストーブを買う予定はないのかい? こんな可愛らしいストーブじゃ、全然暖まらないぜ」        
 山中が、湯飲み茶わんを両手で包み込みながら答えた。
「俺は、お客さんからいただいたお金できっちり生活してるのよ。1球3円の単価で、そんな立派なストーブを買うお金がどこから出てくるというの?」
「まあ、そうなんだよな……。今日なんかは特別寒いせいか、俺以外に客がいないものな……」
「松崎さん。これを飲んで暖まりなよ……。山中さんもどうぞ……」
 進藤が、来る途中で買ってきた缶コーヒーを山中と松崎に差し出した。
「おっ、進藤先生、ありがとう」
 松崎は、さっそく缶コーヒーのプルタブを開けて、一気にコーヒーを飲み干すと、進藤に向かって言った。
「ところで進藤先生、このあとも『山の学校』に行くのかい?」
 缶コーヒーを口に運びながら、進藤がうなずいた。
「うん、行くつもりだよ。子どもたちも冬休みに入ったんで、結構集まると思うんだ」
 松崎は、空になった缶コーヒーを頬っぺたに押し当てた。
「まだ(あたたか)みが残ってらあ……。それで進藤先生、こんなに寒くなっても、子どもたちに観察させるものなんてあるのかい?」
 進藤は笑顔を見せた。
「それが結構あるんだよ。カマキリの卵とか、越冬中のカブトムシの幼虫とか……。俺は、『山の学校』に行くたびに山中さんに感謝だよ。よくぞあの試合に勝ってくれたって……」
 松崎が遠くを見る目になった。
「もう2か月も前の話か……。あのときは盛り上がってたよな……。気合いも入ってたし、亜衣子さんもいたし……。過ぎてみれば結構楽しかったな。みんなでワイワイやれてさ……」 
 山中がうなずいた。
「お祭りみたいなものだったな。今度はあんなピリピリしたことじゃなくて、もっと楽しいことで盛り上がろうか……。そうだ、大晦日の夜、みんなでここに集まって、年越しするっていうのはどうだい?」 
「そいつはいいや」
 松崎と進藤が大きくうなずいた。そのあと松崎が言った。
「ヤマさん。そのときは亜衣子さんも呼ぶことにするか?」
 山中が首を振った。
「いや、それはよしておこう。彼女も新しい世界で新しいスタートを切ったんだろうからね」
「ヤマさん、亜衣子さんが親のところに戻ったあと、連絡を取ったことはあるのかい?」
 山中は首を振った。
「そんなことはしてないよ。俺と彼女では住む世界が違うんだからさ」
 松崎が山中の顔を覗き込んだ。
「それはヤマさんの思い違いじゃないのかい。亜衣子さんはヤマさんに好意を持っていたように俺には見えたけどな……。なあ、進藤先生?」
 進藤が大きくうなずいた
「うん、俺にもそんなふうに見えたよ」
「冗談でもそんなことを言わないでくれよ。俺はカネのないくたびれた中年のおやじで、彼女はお嬢様なんだよ」
 山中がきっぱりと言い放ったとき、駐車場に車の止まる音がした。空の缶コーヒーを片手に松崎がのっそりと立ち上がった。
「俺のほかにもこんな寒い日に練習場に来る物好きがいるんだな……。おや……、コート姿の女が降りてきた……。えっ、あれは亜衣子さんじゃないか……? おい、ヤマさん、大変だ! 亜衣子さんがやってきたぞ!」
 松崎の言葉に、山中と進藤はあわてて立ち上がって、窓から外を覗き込んだ。亜衣子がコートの裾をなびかせながら、事務所に向かって歩いてくるのが見えた。
 さっとドアを開け放して外に飛び出した山中を見て、亜衣子は笑顔を浮かべながら山中のもとに駆け寄った。
「……、亜衣子さん……」
 山中に見つめられて、亜衣子の顔がみるみる赤く染まった。亜衣子は、きらきらと輝く目で山中を見ながら口を開いた。
「山中さん……、わたし、自分の意志でここに来ました……。どうかわたしをここにおいてください……。この練習場で働かせてください……。そして……、これからずっとゴルフを教えてください……。わたし、山中さんのことが好きなんです……」
 呆然と亜衣子を見つめる山中の背中を松崎がどやしつけた。
「なっ、ヤマさん。俺たちが言ったとおりだったろう?」
 その横では、進藤がにこにこしながら山中と亜衣子を見つめていた。
 
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