第3話
文字数 3,525文字
練習場があるこのあたりには豊富な地下水脈があるので、山中はその地下水をくみ上げて、炊事や洗濯、そしてボール洗いにも使っていた。モーターでくみ上げられる地下水は、真夏でも水温は15度だった。そのため、ボール洗いで長時間手を水に浸すと、冷たさで手が痺れてくるほどだった。
山中は、井戸の蛇口に掛けてあったゴム手袋をはめると、蛇口をひねって汚れたボールが入ったバケツに水を注いでいった。そして、バケツになみなみと水を溜めると、山中は、ゴム手袋をはめた手で1個ずつ丁寧に汚れを落としていった。
30分がたった頃だった。せっせとボール洗いをしている山中のところに松崎がやってきた。
「ヤマさん。女房から、お客さんが来たからすぐ戻ってこいって電話が入ったんで、俺、これで帰るわ。それからあの美人さんだけどさ、名前は加納亜衣子 さんっていうみたいだ。俺、キャディバッグのネームを見たんだ」
「相変わらず松崎さんは美人となると目が早いね……」
山中は、ボールを洗う手を止めずに言った。
「うん、まあね。でも加納亜衣子さんは、ゴルフのスイングがまるで分かってないようだぜ……。
練習場では見ず知らずの人に押し付けレッスンをしちゃダメだって、ヤマさんからきつく言われてるんで、俺も我慢してたけど、あれはひどいわ。ヤマさんが少しレッスンしてやれよ……」
ボールを洗う手を止めて、山中は顔をあげた。
「松崎さんは俺の考えがわかってるだろ。俺は頼まれもしないのに教えるのは嫌いなんだ。お客さんは、それぞれに自分の考えをもって練習に来てるんだから、それを無視して俺の考えを押し付けるなんて、思い上がり以外の何物でもないよ」
松崎は、ばつの悪い顔をして頭を掻いた。
「そうか、そうだよな……。でも何か思いつめて練習をやってるような雰囲気なんだ。ちょっとだけ気をつけて見てやってくれよ。じゃ、俺は帰るから……」
松崎が帰ったすぐあと、亜衣子がボールを洗っている山中のところにやってきた。
「あの……、あと100球打ちたいんですけど……」
「いいですよ。そこの100球入りのカゴを持っていってください。300円はここでいただきます」
亜衣子は、財布から300円を取り出して山中に渡すと、カゴを持って打席に向かっていった。
山中は、ボール洗いの手を休めて加納亜衣子のスイングを眺めた。松崎の言うとおり、ゴルフのスイングがまったくわかっていないようだった。
亜衣子が打つボールは、ビシャッというひどい音とともに右45度の方向に飛び出していった。山中は大きく首を振ると、再びボールを洗いはじめた。
しばらくして、「どうもありがとうございました」という亜衣子の声が聞こえた。山中が顔を上げると、バッグを肩に担ぎ、重い足取りで車に向かう亜衣子のうしろ姿が見えた。
「ありがとうございました」
そのうしろ姿に声をかけたあと、山中は小さくつぶやいた。
「彼女はもう二度と来ることはないだろう……」
翌日も暑い日だった。気温は、午前9時にはあっさりと30度を突破していた。
「いやー、今日は蒸し風呂のようだ……。これではさすがの松崎さんも来ないだろう。今日は開店休業だな……」
独り言を言いながら、山中が打席にあるパイプイスと小さいテーブルを拭いていたとき、入口の方で「すみません」という女の声がした。山中がそちらに目を向けると、亜衣子の姿が見えた。
「こんなに暑い日なのに、彼女、今日も来たんだ……」
軽い驚きとともに山中が立ち上がったとき、亜衣子がキャディバッグを肩に担いだまま近づいてきた。
亜衣子は、「今日も練習させてください」と言いながら、手の中にある600円を差し出した。
「あっ、どうも……。600円頂いたんで、カゴを二つ持っていってください」
小さく頭をさげた山中に合わせるように、亜衣子は会釈をすると、昨日と同じ打席にバッグをおろし、ボールが入ったカゴを取りに行った。
「これは松崎さんが言うとおり、相当思いつめてるな……」
山中はそっとつぶやいたあと、イスやテーブルを拭きながら亜衣子の打球を眺めた。やはり昨日と同じように、亜衣子が打つボールは右45度の方向に飛び出していった。
彼女はそのたびに素振りを繰り返し、再びボールを打った。しかしボールは、はかったように右45度の方向に飛び出していった。それでも亜衣子は、滴り落ちる汗をぬぐおうともせずに、懸命にボールを打ち続けていた。
彼女は、思いつめた顔で2時間ほど懸命に練習したあと、がっくりと肩を落とし、重い足どりで帰っていった。
「こんな蒸し暑い日に、あんなに思いつめた顔をして練習に来るなんて、何か事情があるみたいだな……」
亜衣子のうしろ姿を見送りながら、山中はつぶやいた。
亜衣子は、その翌日も、そしてその次の日も、朝の9時には練習場に顔を出して、懸命にボールを打ち続けた。しかし、クラブの芯を食ったいい当たりは1球も出なかった。亜衣子が悄然としながら帰るのと入れ違いに、松崎が練習場に顔を出した。
「おっ、松崎さん。ひさしぶりじゃないの。2日も顔を出さないんで、具合でも悪いんじゃないかって心配してたよ」
山中の声に、松崎はげんなりとした顔を向けた。坊主頭にタオルを巻きつけた松崎は、心底まいった声を出した。
「この暑さだろ……。さすがの俺も練習する気力が出なかったよ……。俺が来ないくらいだから、客は一人も来なかったんじゃないか……?」
「それがさ、あの加納亜衣子さんが3日も続けて練習に来て、今日もたった今、松崎さんと入れ違いに帰っていったばかりだ」
山中の報告を聞いた松崎は、これまでのけだるさを吹き飛ばすような勢いで身を乗り出した。
「へえー、この暑い中をかい。それで少しはましになったかい?」
山中は頭を振った。
「いや、まったくだめだ。ゴルフのスイングがまるでわかっていないようだ。それでも懸命に練習している姿を見て、客の練習には口を出さない主義の俺でも、教えてやりたい気持ちになったね」
「それじゃ、教えてやればいいじゃないか?」
非難めいた口調で言う松崎に向かって、山中は首を振った。
「ここでは押し付けレッスンは禁止」
「ふーん。ヤマさんは相変わらずだな……。だったら……、今度、加納亜衣子さんを見かけたら、俺がレッスンしてやろうかな……」
山中が珍しくきつい口調で言った。
「知っているだろうけど、俺の練習場では押し付けレッスンは禁止だからね。これは松崎さんでも守ってもらわないと」
「わかってるよ。今のは冗談だよ……」
松崎は、気弱な笑いを浮かべながら手を振った。
その翌日、亜衣子はいつものとおり朝の9時に顔を出すと、脇目も振らずにボールを打ち続けていた。山中はそんな亜衣子の様子を眺めながら、いつものように洗い場でボールを洗っていた。
そのとき入口の方から、「おーい、誰もいないのか」と呼びかける男の声が聞こえた。
「はーい、ただいま」
山中は答えながら入口に向かった。入口には、派手な色のシャツを着た二人の中年男が立っていた。
山中は、二人に向かって丁寧に頭をさげた。
「いらっしゃいませ……」
「ここ、本当にゴルフ練習場なの?」
真っ赤なシャツを着た男がいきなり不躾 な口調で言った。
「ええ、そうですが……」
「ふーん、今どきこんな練習場もあるんだ。まあ、いいか。鈴木さん、何球練習する?」
鈴木と呼ばれた青いシャツを着た男が答えた。
「僕は100球練習するよ。佐藤さんは?」
「じゃ僕も100球にしておくか……。それでいくら払えばいいの?」
山中は、赤シャツの佐藤の顔を見ながら言った。
「一人300円です」
「100球で300円! えらく安いな……」
佐藤は、財布から600円を取り出して山中に渡したあと、鈴木に向かって話しかけた。
「100球で300円なんて、都内では考えられない値段だぜ」
そして二人は、高そうなキャディバッグを担ぐと、「おい、地面にマットが敷いてあるだけだぜ」、「これじゃ100球で300円も取りすぎだな」などと好き勝手なことを言い合いながら、打席に歩いていった。
突然、赤シャツの佐藤が練習をしている亜衣子の姿に目を止めた。下卑た笑いを浮かべながら、佐藤が鈴木に言った。
「おい、いい女が練習しているぜ。掃き溜めに鶴だな」
「ほんとだ」
身体にフィットしたパンツを穿 いた亜衣子の腰のあたりに目をやりながら、鈴木がうなずいた。
山中は、井戸の蛇口に掛けてあったゴム手袋をはめると、蛇口をひねって汚れたボールが入ったバケツに水を注いでいった。そして、バケツになみなみと水を溜めると、山中は、ゴム手袋をはめた手で1個ずつ丁寧に汚れを落としていった。
30分がたった頃だった。せっせとボール洗いをしている山中のところに松崎がやってきた。
「ヤマさん。女房から、お客さんが来たからすぐ戻ってこいって電話が入ったんで、俺、これで帰るわ。それからあの美人さんだけどさ、名前は
「相変わらず松崎さんは美人となると目が早いね……」
山中は、ボールを洗う手を止めずに言った。
「うん、まあね。でも加納亜衣子さんは、ゴルフのスイングがまるで分かってないようだぜ……。
練習場では見ず知らずの人に押し付けレッスンをしちゃダメだって、ヤマさんからきつく言われてるんで、俺も我慢してたけど、あれはひどいわ。ヤマさんが少しレッスンしてやれよ……」
ボールを洗う手を止めて、山中は顔をあげた。
「松崎さんは俺の考えがわかってるだろ。俺は頼まれもしないのに教えるのは嫌いなんだ。お客さんは、それぞれに自分の考えをもって練習に来てるんだから、それを無視して俺の考えを押し付けるなんて、思い上がり以外の何物でもないよ」
松崎は、ばつの悪い顔をして頭を掻いた。
「そうか、そうだよな……。でも何か思いつめて練習をやってるような雰囲気なんだ。ちょっとだけ気をつけて見てやってくれよ。じゃ、俺は帰るから……」
松崎が帰ったすぐあと、亜衣子がボールを洗っている山中のところにやってきた。
「あの……、あと100球打ちたいんですけど……」
「いいですよ。そこの100球入りのカゴを持っていってください。300円はここでいただきます」
亜衣子は、財布から300円を取り出して山中に渡すと、カゴを持って打席に向かっていった。
山中は、ボール洗いの手を休めて加納亜衣子のスイングを眺めた。松崎の言うとおり、ゴルフのスイングがまったくわかっていないようだった。
亜衣子が打つボールは、ビシャッというひどい音とともに右45度の方向に飛び出していった。山中は大きく首を振ると、再びボールを洗いはじめた。
しばらくして、「どうもありがとうございました」という亜衣子の声が聞こえた。山中が顔を上げると、バッグを肩に担ぎ、重い足取りで車に向かう亜衣子のうしろ姿が見えた。
「ありがとうございました」
そのうしろ姿に声をかけたあと、山中は小さくつぶやいた。
「彼女はもう二度と来ることはないだろう……」
翌日も暑い日だった。気温は、午前9時にはあっさりと30度を突破していた。
「いやー、今日は蒸し風呂のようだ……。これではさすがの松崎さんも来ないだろう。今日は開店休業だな……」
独り言を言いながら、山中が打席にあるパイプイスと小さいテーブルを拭いていたとき、入口の方で「すみません」という女の声がした。山中がそちらに目を向けると、亜衣子の姿が見えた。
「こんなに暑い日なのに、彼女、今日も来たんだ……」
軽い驚きとともに山中が立ち上がったとき、亜衣子がキャディバッグを肩に担いだまま近づいてきた。
亜衣子は、「今日も練習させてください」と言いながら、手の中にある600円を差し出した。
「あっ、どうも……。600円頂いたんで、カゴを二つ持っていってください」
小さく頭をさげた山中に合わせるように、亜衣子は会釈をすると、昨日と同じ打席にバッグをおろし、ボールが入ったカゴを取りに行った。
「これは松崎さんが言うとおり、相当思いつめてるな……」
山中はそっとつぶやいたあと、イスやテーブルを拭きながら亜衣子の打球を眺めた。やはり昨日と同じように、亜衣子が打つボールは右45度の方向に飛び出していった。
彼女はそのたびに素振りを繰り返し、再びボールを打った。しかしボールは、はかったように右45度の方向に飛び出していった。それでも亜衣子は、滴り落ちる汗をぬぐおうともせずに、懸命にボールを打ち続けていた。
彼女は、思いつめた顔で2時間ほど懸命に練習したあと、がっくりと肩を落とし、重い足どりで帰っていった。
「こんな蒸し暑い日に、あんなに思いつめた顔をして練習に来るなんて、何か事情があるみたいだな……」
亜衣子のうしろ姿を見送りながら、山中はつぶやいた。
亜衣子は、その翌日も、そしてその次の日も、朝の9時には練習場に顔を出して、懸命にボールを打ち続けた。しかし、クラブの芯を食ったいい当たりは1球も出なかった。亜衣子が悄然としながら帰るのと入れ違いに、松崎が練習場に顔を出した。
「おっ、松崎さん。ひさしぶりじゃないの。2日も顔を出さないんで、具合でも悪いんじゃないかって心配してたよ」
山中の声に、松崎はげんなりとした顔を向けた。坊主頭にタオルを巻きつけた松崎は、心底まいった声を出した。
「この暑さだろ……。さすがの俺も練習する気力が出なかったよ……。俺が来ないくらいだから、客は一人も来なかったんじゃないか……?」
「それがさ、あの加納亜衣子さんが3日も続けて練習に来て、今日もたった今、松崎さんと入れ違いに帰っていったばかりだ」
山中の報告を聞いた松崎は、これまでのけだるさを吹き飛ばすような勢いで身を乗り出した。
「へえー、この暑い中をかい。それで少しはましになったかい?」
山中は頭を振った。
「いや、まったくだめだ。ゴルフのスイングがまるでわかっていないようだ。それでも懸命に練習している姿を見て、客の練習には口を出さない主義の俺でも、教えてやりたい気持ちになったね」
「それじゃ、教えてやればいいじゃないか?」
非難めいた口調で言う松崎に向かって、山中は首を振った。
「ここでは押し付けレッスンは禁止」
「ふーん。ヤマさんは相変わらずだな……。だったら……、今度、加納亜衣子さんを見かけたら、俺がレッスンしてやろうかな……」
山中が珍しくきつい口調で言った。
「知っているだろうけど、俺の練習場では押し付けレッスンは禁止だからね。これは松崎さんでも守ってもらわないと」
「わかってるよ。今のは冗談だよ……」
松崎は、気弱な笑いを浮かべながら手を振った。
その翌日、亜衣子はいつものとおり朝の9時に顔を出すと、脇目も振らずにボールを打ち続けていた。山中はそんな亜衣子の様子を眺めながら、いつものように洗い場でボールを洗っていた。
そのとき入口の方から、「おーい、誰もいないのか」と呼びかける男の声が聞こえた。
「はーい、ただいま」
山中は答えながら入口に向かった。入口には、派手な色のシャツを着た二人の中年男が立っていた。
山中は、二人に向かって丁寧に頭をさげた。
「いらっしゃいませ……」
「ここ、本当にゴルフ練習場なの?」
真っ赤なシャツを着た男がいきなり
「ええ、そうですが……」
「ふーん、今どきこんな練習場もあるんだ。まあ、いいか。鈴木さん、何球練習する?」
鈴木と呼ばれた青いシャツを着た男が答えた。
「僕は100球練習するよ。佐藤さんは?」
「じゃ僕も100球にしておくか……。それでいくら払えばいいの?」
山中は、赤シャツの佐藤の顔を見ながら言った。
「一人300円です」
「100球で300円! えらく安いな……」
佐藤は、財布から600円を取り出して山中に渡したあと、鈴木に向かって話しかけた。
「100球で300円なんて、都内では考えられない値段だぜ」
そして二人は、高そうなキャディバッグを担ぐと、「おい、地面にマットが敷いてあるだけだぜ」、「これじゃ100球で300円も取りすぎだな」などと好き勝手なことを言い合いながら、打席に歩いていった。
突然、赤シャツの佐藤が練習をしている亜衣子の姿に目を止めた。下卑た笑いを浮かべながら、佐藤が鈴木に言った。
「おい、いい女が練習しているぜ。掃き溜めに鶴だな」
「ほんとだ」
身体にフィットしたパンツを