第12話
文字数 3,478文字
突然のことに山中は呆然とした。
「か、加納さん……。こんな時間に……、いったいどうしたというの……?」
「わたし……、もうあのひとのところに戻らない……」
亜衣子は、山中の胸に顔を強く押し当てながらすすり泣いた。
「玄関先ではなんだから、まずは中に入って」
そう言いながら、山中は、亜衣子の体をささえて茶の間に連れて行った。イスに座ったとたん、亜衣子は両手で顔を覆って泣き崩れた。
山中はその様子をじっと見つめていたが、やがて台所に向かうと、お湯を沸かしはじめた。しばらくして山中は、コーヒーカップを持って茶の間に入ってきた。
「加納さん、これを飲んでみて……。温かくて、飲んだら落ち着くから……」
そう声をかけられた亜衣子は、ようやく顔をあげてハンカチで目を拭った。
「すみません……、こんな遅くに……」
「とりあえずコーヒーを一口飲んでみて……」
山中に言われるままに、亜衣子はカップを手にすると、コーヒーを口に運んだ。
「とてもいい香り……。温かくて……、とても美味しい……」
「もう少し飲んでみて……」
亜衣子は、二口、三口とコーヒーを口に運んだ。
「気持ちも落ち着いてきただろう? さあ、何があったか話してみて」
山中が低い声で言った。
亜衣子は、しばらくの間コーヒーカップを凝視していたが、やがて顔をあげると、静かに話しはじめた。
「……、山中さんのおかげで、今日のラウンドはすごく上手くいきました……。スコアは、前半が49で、後半は46でした……。トータル95で回ることができました……」
「それはすごい!」
山中は思わず声をあげた。
「初ラウンドで100を切るなんて、すごいじゃないか、加納さん。それが、どうして涙を流すなんてことになってるの?」
山中を見つめる亜衣子の目から、再び涙が溢れ出した。
「……、コースに初めて出たわたしは、自分のことだけで精一杯で、専務さんご夫婦のことまで気にする余裕なんてありませんでした……」
「コースデビューのときは、誰だってそうなるね……」
亜衣子は、涙を隠すようにうつむいた。
「とにかく……、専務さんご夫婦に迷惑をかけないように……、そして山中さんから教わったとおり……、7番アイアンだけを使って、パー4のホールだったら3打でグリーンに乗せて……、パー5だったら4打でグリーンに乗せて……、2打で確実にカップインさせるということに集中してプレーを続けました……。
専務さんご夫婦もいいひとたちで、わたしがいいショットをすると、『ナイスショット!』って声をかけてくださって、盛り上げてくださいました……」
「そんなにいいひとたちと一緒だったら、何も問題がなかったんじゃないの?」
亜衣子は首を振ると、再びハンカチを目に当てた。
「……ところが夫は……、あのひとは違ったんです……。途中までは全然気がつかなかったんですけど、16番ホールのティーグラウンドで、あのひとがすごく怖い目でわたしを睨んでいるのに気がついたんです。もちろん専務さんご夫婦には愛想のいい笑顔を見せるんですけど、わたしのことは睨みつけるんです……。でもわたしはその意味が全然わかりませんでした……。わたしはとにかく、『何とか100を切りたい』と思いながら懸命にプレーをして、100を切ることができました……。
専務さんは、『コースデビューで100を切るとはたいしたもんだ』っておっしゃってくださるし、奥様も、『亜衣子さんを見習って、わたしももっと練習しなくちゃ』って言ってくださるし、山中さんとの約束を果たすことができたということもあって、わたしは天にも昇るような気持ちになりました……。ところが……」
亜衣子はそこで言葉を詰まらせると、溢れ出した涙をハンカチで拭った。そのあと、声を震わせながら話を続けた。
「……、クラブハウスに戻って、あのひとと二人きりになったときでした……。あのひとはいきなり物凄い剣幕で、『お前は俺の仕事の邪魔をしたいのか!』って怒鳴りつけてきたんです……。
突然のことに、わたしは驚いてしまって、『わたし、何か悪いことをしたの……?』って訊くのが精一杯でした。するとあのひとは、『お前はそんなこともわからない馬鹿な女なのか! お客さんを立てるのが接待ゴルフに決まってるだろ! 専務さんは100で、奥さんは105だったんだぞ。その二人よりもいいスコアで上がって喜んでいるお前は、いったい何を考えてるんだ!』って言って、わたしをなじりました……。
その言葉を聞いたとき、接待ゴルフを成功させようとして、今まで一生懸命頑張ってきたことがいったい何だったんだろうという思いがこみ上げてきて……。体からすっかり力が抜けてしまったような気がしました……。でも……、専務さんご夫婦と一緒に食事をしなければならなかったので、わたしは残っている力を振り絞って、とにかく笑顔を絶やさないようにして、必死でお相手をしました……。
ようやく接待が終わったのは8時でした。わたしは、そのあとすぐにでも山中さんのところに飛んでいきたい気持ちで一杯でした……。でもわたしにそんな自由はありませんでした……。
囚人が牢屋に連れていかれるような気持ちで、あのひとと一緒に車に乗り込みましたが、あのひとはわたしに腹を立てているので、帰りの車の中でも一言も口をきこうとはしませんでした……。
そして家に戻ったとき、あのひとは、心まで凍えるような冷たい声でこう言ったんです。『お前は、接待ゴルフの意味もわからない馬鹿な女なんだから、ゴルフをやるのも今日で終わりだ。明日からは家の中でじっとしてろ』って……」
亜衣子はそこで言葉を切ると、ハンカチを目に押し当ててむせび泣いた。山中は、黙ったままじっと亜衣子を見つめていた。5分ほど泣き続けたあと、亜衣子は口を開いた。
「……、その言葉を聞いたとき……、わたしの中でこみ上げてくるものがありました……。わたしだって感情を持った人間なのよ。喜びたい、楽しみたい、褒められたい、愛されたいという感情を持った人間なのよ……。このままこのひとと一緒にいたら、わたしは人間をやめることになってしまう……。わたしは人間でいたい……。
そう思ったとき、わたしを人間としてわかってくれるのは山中さんしかいない、すぐにでも山中さんに会いたいという気持ちがこみ上げてきました……。
わたしは……、あのひとの顔を見るのも嫌だったので、すぐに自分の部屋に閉じこもって、あのひとが眠るのを待つことにしました。まもなくあのひとのいびきが聞こえてきたので、わたしはそっと家を抜け出して、タクシーを拾ってここに来たんです……。
わたしには……、行くところはここしかないんです……。どうか……、わたしを……、ここにおいてください……」
亜衣子は話し終えると、ハンカチを顔に押し当てたまま何度も頭をさげた。山中は、そんな亜衣子の姿を切なそうに見つめていた。やがて山中の目に光るものが浮かんできた。
山中は、目をしばたたかせながらゆっくりと立ち上がると、台所に向かった。そしてくぐもった声で亜衣子に呼びかけた。
「加納さん……、もう一杯コーヒー飲むよね……? 俺も飲みたいから……」
やがて山中は、コーヒーカップを2つ持って茶の間に戻ってきた。
「俺さ、コーヒー淹れるのが結構好きでね……。家内が生きていた頃は、仕事が終わったあと、二人でよくコーヒーを飲んだものだよ。『お疲れさん』って言い合いながらね……。
今日はその再現だ。加納さん、今日は本当にお疲れさん。初ラウンドで95を出すなんて立派なものだ。よく頑張ったね。コーヒーで乾杯しよう」
山中はカップを差し出したが、山中の言葉に涙が止まらなくなった亜衣子は、カップを差し出すことができなかった。
激しく肩を震わせる亜衣子の姿を見ながら、山中がぽつりと言った。
「ひどいことを言われたんだ……。気がすむまで泣くといいよ……」
そのまま5分ほど泣き続けて、亜衣子もようやく気持ちが落ち着いてきたようだった。亜衣子は、涙を拭いながらわずかに笑顔を見せた。
「……、すみません……。せっかく『乾杯』って言って……、カップを差し出していただいたのに……、カップを合わせなくて……。もう一度お願いしていいですか……?」
「よし、もう一度乾杯しよう。今日の加納さんの健闘に乾杯」
二つのカップが小さくカチリと鳴った。
「か、加納さん……。こんな時間に……、いったいどうしたというの……?」
「わたし……、もうあのひとのところに戻らない……」
亜衣子は、山中の胸に顔を強く押し当てながらすすり泣いた。
「玄関先ではなんだから、まずは中に入って」
そう言いながら、山中は、亜衣子の体をささえて茶の間に連れて行った。イスに座ったとたん、亜衣子は両手で顔を覆って泣き崩れた。
山中はその様子をじっと見つめていたが、やがて台所に向かうと、お湯を沸かしはじめた。しばらくして山中は、コーヒーカップを持って茶の間に入ってきた。
「加納さん、これを飲んでみて……。温かくて、飲んだら落ち着くから……」
そう声をかけられた亜衣子は、ようやく顔をあげてハンカチで目を拭った。
「すみません……、こんな遅くに……」
「とりあえずコーヒーを一口飲んでみて……」
山中に言われるままに、亜衣子はカップを手にすると、コーヒーを口に運んだ。
「とてもいい香り……。温かくて……、とても美味しい……」
「もう少し飲んでみて……」
亜衣子は、二口、三口とコーヒーを口に運んだ。
「気持ちも落ち着いてきただろう? さあ、何があったか話してみて」
山中が低い声で言った。
亜衣子は、しばらくの間コーヒーカップを凝視していたが、やがて顔をあげると、静かに話しはじめた。
「……、山中さんのおかげで、今日のラウンドはすごく上手くいきました……。スコアは、前半が49で、後半は46でした……。トータル95で回ることができました……」
「それはすごい!」
山中は思わず声をあげた。
「初ラウンドで100を切るなんて、すごいじゃないか、加納さん。それが、どうして涙を流すなんてことになってるの?」
山中を見つめる亜衣子の目から、再び涙が溢れ出した。
「……、コースに初めて出たわたしは、自分のことだけで精一杯で、専務さんご夫婦のことまで気にする余裕なんてありませんでした……」
「コースデビューのときは、誰だってそうなるね……」
亜衣子は、涙を隠すようにうつむいた。
「とにかく……、専務さんご夫婦に迷惑をかけないように……、そして山中さんから教わったとおり……、7番アイアンだけを使って、パー4のホールだったら3打でグリーンに乗せて……、パー5だったら4打でグリーンに乗せて……、2打で確実にカップインさせるということに集中してプレーを続けました……。
専務さんご夫婦もいいひとたちで、わたしがいいショットをすると、『ナイスショット!』って声をかけてくださって、盛り上げてくださいました……」
「そんなにいいひとたちと一緒だったら、何も問題がなかったんじゃないの?」
亜衣子は首を振ると、再びハンカチを目に当てた。
「……ところが夫は……、あのひとは違ったんです……。途中までは全然気がつかなかったんですけど、16番ホールのティーグラウンドで、あのひとがすごく怖い目でわたしを睨んでいるのに気がついたんです。もちろん専務さんご夫婦には愛想のいい笑顔を見せるんですけど、わたしのことは睨みつけるんです……。でもわたしはその意味が全然わかりませんでした……。わたしはとにかく、『何とか100を切りたい』と思いながら懸命にプレーをして、100を切ることができました……。
専務さんは、『コースデビューで100を切るとはたいしたもんだ』っておっしゃってくださるし、奥様も、『亜衣子さんを見習って、わたしももっと練習しなくちゃ』って言ってくださるし、山中さんとの約束を果たすことができたということもあって、わたしは天にも昇るような気持ちになりました……。ところが……」
亜衣子はそこで言葉を詰まらせると、溢れ出した涙をハンカチで拭った。そのあと、声を震わせながら話を続けた。
「……、クラブハウスに戻って、あのひとと二人きりになったときでした……。あのひとはいきなり物凄い剣幕で、『お前は俺の仕事の邪魔をしたいのか!』って怒鳴りつけてきたんです……。
突然のことに、わたしは驚いてしまって、『わたし、何か悪いことをしたの……?』って訊くのが精一杯でした。するとあのひとは、『お前はそんなこともわからない馬鹿な女なのか! お客さんを立てるのが接待ゴルフに決まってるだろ! 専務さんは100で、奥さんは105だったんだぞ。その二人よりもいいスコアで上がって喜んでいるお前は、いったい何を考えてるんだ!』って言って、わたしをなじりました……。
その言葉を聞いたとき、接待ゴルフを成功させようとして、今まで一生懸命頑張ってきたことがいったい何だったんだろうという思いがこみ上げてきて……。体からすっかり力が抜けてしまったような気がしました……。でも……、専務さんご夫婦と一緒に食事をしなければならなかったので、わたしは残っている力を振り絞って、とにかく笑顔を絶やさないようにして、必死でお相手をしました……。
ようやく接待が終わったのは8時でした。わたしは、そのあとすぐにでも山中さんのところに飛んでいきたい気持ちで一杯でした……。でもわたしにそんな自由はありませんでした……。
囚人が牢屋に連れていかれるような気持ちで、あのひとと一緒に車に乗り込みましたが、あのひとはわたしに腹を立てているので、帰りの車の中でも一言も口をきこうとはしませんでした……。
そして家に戻ったとき、あのひとは、心まで凍えるような冷たい声でこう言ったんです。『お前は、接待ゴルフの意味もわからない馬鹿な女なんだから、ゴルフをやるのも今日で終わりだ。明日からは家の中でじっとしてろ』って……」
亜衣子はそこで言葉を切ると、ハンカチを目に押し当ててむせび泣いた。山中は、黙ったままじっと亜衣子を見つめていた。5分ほど泣き続けたあと、亜衣子は口を開いた。
「……、その言葉を聞いたとき……、わたしの中でこみ上げてくるものがありました……。わたしだって感情を持った人間なのよ。喜びたい、楽しみたい、褒められたい、愛されたいという感情を持った人間なのよ……。このままこのひとと一緒にいたら、わたしは人間をやめることになってしまう……。わたしは人間でいたい……。
そう思ったとき、わたしを人間としてわかってくれるのは山中さんしかいない、すぐにでも山中さんに会いたいという気持ちがこみ上げてきました……。
わたしは……、あのひとの顔を見るのも嫌だったので、すぐに自分の部屋に閉じこもって、あのひとが眠るのを待つことにしました。まもなくあのひとのいびきが聞こえてきたので、わたしはそっと家を抜け出して、タクシーを拾ってここに来たんです……。
わたしには……、行くところはここしかないんです……。どうか……、わたしを……、ここにおいてください……」
亜衣子は話し終えると、ハンカチを顔に押し当てたまま何度も頭をさげた。山中は、そんな亜衣子の姿を切なそうに見つめていた。やがて山中の目に光るものが浮かんできた。
山中は、目をしばたたかせながらゆっくりと立ち上がると、台所に向かった。そしてくぐもった声で亜衣子に呼びかけた。
「加納さん……、もう一杯コーヒー飲むよね……? 俺も飲みたいから……」
やがて山中は、コーヒーカップを2つ持って茶の間に戻ってきた。
「俺さ、コーヒー淹れるのが結構好きでね……。家内が生きていた頃は、仕事が終わったあと、二人でよくコーヒーを飲んだものだよ。『お疲れさん』って言い合いながらね……。
今日はその再現だ。加納さん、今日は本当にお疲れさん。初ラウンドで95を出すなんて立派なものだ。よく頑張ったね。コーヒーで乾杯しよう」
山中はカップを差し出したが、山中の言葉に涙が止まらなくなった亜衣子は、カップを差し出すことができなかった。
激しく肩を震わせる亜衣子の姿を見ながら、山中がぽつりと言った。
「ひどいことを言われたんだ……。気がすむまで泣くといいよ……」
そのまま5分ほど泣き続けて、亜衣子もようやく気持ちが落ち着いてきたようだった。亜衣子は、涙を拭いながらわずかに笑顔を見せた。
「……、すみません……。せっかく『乾杯』って言って……、カップを差し出していただいたのに……、カップを合わせなくて……。もう一度お願いしていいですか……?」
「よし、もう一度乾杯しよう。今日の加納さんの健闘に乾杯」
二つのカップが小さくカチリと鳴った。