母の日に、母のことなど
文字数 2,438文字
私の母は、他人を喜ばせたい気持ちのとても強い人で、いつも夫や子どもたちを優先して、自分のことは後回しにする人でした。
(あ、いや、死んでません。元気で生きてます。笑)
だから私も、誰かを喜ばせられる人——とくに、母を喜ばせられる人になりたいと思って、生きてきました。
そのこと自体は悪くないと思うんです。
少なくとも、誰かを苦しめたい人になるよりは。笑
問題は、それがどこか過剰なことです。
相手が喜ぶ、自分も嬉しい、めでたしめでたし。で、いいはずなのに、
自分が期待したとおりに相手が反応しないと、とたんに不安になり、相手を恨んだり、ひどいときは泣き叫んだりするんですね。母がです。
私はそれはないです。母を見て育って、これはまずいと思ったから、思ったほど喜んでもらえなくてがっかりしても、まあいいか、と思って忘れることを少しずつ学びました。
そのかわり、人のために尽くしたいというけなげな気持ちはどんどん減り、いまのような役立たずな人間になりました。笑
そして最近になって、私が母を長年に渡ってなぐさめてきたつもりでいたことを、母が覚えていないことを知りました。
例えば、ずっと愚痴の聞き役をしてきたのですが、本人は愚痴を言ったこと自体をきれいに忘れているのです。
がっかりですよ。もう。ショックすぎて寝込みました。笑
でも、あるある。家族に限らず、愚痴ばかり垂れる人ってたいてい、聞いてくれる人のことを何とも思っちゃいないものですよね。笑
母が幼い頃あいついで両親を亡くし、育ててくれた祖父母にも中学生の時に死別し、
孤独で、見捨てられる恐怖のひじょうに強い人になったことは、
とても痛ましいと思ってきました。
なんとかしてあげたかったのですが……
できませんでした。
父にもできなかったのですから、まして私には無理です。
ある意味、わかりやすい毒親より、たちが悪いかも。
いわゆる「アダルトチルドレン」の1タイプとして、
「プラケーター placater(慰め役)」というのがあると、最近になって知りました。
家庭内で、子どもが親のなぐさめ役をつとめ続けて、成人してからも他人に対してそういう役割をはたそうとしてしまう。
うわー、それお母さんだ。しかも私がくりかえしてるんだ……。
まあ、私はアダルトチャイルドを名乗るほどのものじゃないですけど。ごく普通のちゃらんぽらんですけど。笑
母は育ての親の祖母(私の曽祖母)が大好きだったのですが、
曽祖母は自分の愛 息子(母の父)を、戦争で亡くしているんです。
「お祖母ちゃんを喜ばせたかった」と母は言っていました。
だから、私は戦争には絶対反対です。
迷惑。笑
私自身が、母に似て、または/そして知らず知らず母を真似て、
「見捨てられ不安」の強い人間なのだと気づいたのは、何歳の頃だったかな。
だから自分の恋愛は、いつもいっつも、うまくいかないのだと。笑
早めに学んでよかったです。見捨てられ不安の強い女なんて、男の人からしたらうっとうしいじゃないですか。かえって捨てたくなりますよね。
ということを、できれば離婚する前に、というかそもそも結婚する前に学んでおけたら、もっとよかったんだけどな。
——それって、「早め」どころか遅すぎってやつだよ。私よ。笑
思い出す友だちが一人います。
彼女は、実の母親に、意味不明な精神的虐待をずっと受け続けていたのに、自分は天使のように優しい人でした。
もう信じられないくらい。
パン屋さんには、美味しそうなパン屋さんと、本当に美味しいパン屋さんがあるよね、と言って笑っていました。
どうしたら彼女みたいになれるのか、不思議でならなかったのですが、
いま思えば、
彼女はじつは誇り高くて、
「自分は傷ついているのだから泣き叫ぶ権利があるのだ」
という(彼女のお母さんのような)人間になりたくなかったのかもしれません。
もう少し、私の前で泣いてくれたらよかったのにな、と思います。
そんなに自分が苦しいのにね。
私に、いまのままの私でいいと、間違っていないと、言ってくれたんです。
私があのとき一歩踏み出せたのは、彼女のおかげです。
親に愛されなかった、という痛みは、例えば恋人とか、私の友だちのような友人とか、
肯定してくれる人に出会えたら、乗り越えていけます。
(絶対、誰かいます。出会うのに時間がかかったとしても。)
でも、親を愛せなかった、となると。
それは、破滅的な呪いになります。
愛する人に出会えても、「こんな自分は愛する資格も愛される資格もない」などと思って逃げ出してしまいかねません。
だから、親を愛せない自分を許せない。愛しているんだと思いこもうとしてしまう。
それでもいいと思うんですね。思いこみで。
そして、もし愛していないことに気づいてしまったら、
それも、いいと思うんです。
無理に愛さなくていいと思うんです。
親を、無理に、愛そうとしないほうがいいです。
まして親に愛されようと努力しないほうがいいです。
努力している時点で、その愛は無理ゲーじゃないでしょうか。
努力すればするほど、愛せなくなるし、愛されなくなります。
そう思ったら、憎まなくてもよくなります。
かえって優しくできるかも。
愛の問題じゃないから。
生んで育ててもらった恩だから。
時の流れに助けてもらうしか、どうしようもないことってあります。
人間ってみんな哀しいよね。という境地には、1年や2年じゃ到達できません。
できたら怖い。笑
でも、いつかできる。きっとね。『イグアナの娘』のラストシーンみたいに……。
『沈める町』でいうと、リキがまさにプラケーターでした。そして、タカがもう1つのタイプ「クラウン clown(道化)」。
知ってて書いたわけではなかったので、びっくりしました。
私の中のハツが、はたしてこの連鎖を断ち切れるのか。
私にとっても、いまだにぎりぎりの挑戦です。
(2021.5.9)
(あ、いや、死んでません。元気で生きてます。笑)
だから私も、誰かを喜ばせられる人——とくに、母を喜ばせられる人になりたいと思って、生きてきました。
そのこと自体は悪くないと思うんです。
少なくとも、誰かを苦しめたい人になるよりは。笑
問題は、それがどこか過剰なことです。
相手が喜ぶ、自分も嬉しい、めでたしめでたし。で、いいはずなのに、
自分が期待したとおりに相手が反応しないと、とたんに不安になり、相手を恨んだり、ひどいときは泣き叫んだりするんですね。母がです。
私はそれはないです。母を見て育って、これはまずいと思ったから、思ったほど喜んでもらえなくてがっかりしても、まあいいか、と思って忘れることを少しずつ学びました。
そのかわり、人のために尽くしたいというけなげな気持ちはどんどん減り、いまのような役立たずな人間になりました。笑
そして最近になって、私が母を長年に渡ってなぐさめてきたつもりでいたことを、母が覚えていないことを知りました。
例えば、ずっと愚痴の聞き役をしてきたのですが、本人は愚痴を言ったこと自体をきれいに忘れているのです。
がっかりですよ。もう。ショックすぎて寝込みました。笑
でも、あるある。家族に限らず、愚痴ばかり垂れる人ってたいてい、聞いてくれる人のことを何とも思っちゃいないものですよね。笑
母が幼い頃あいついで両親を亡くし、育ててくれた祖父母にも中学生の時に死別し、
孤独で、見捨てられる恐怖のひじょうに強い人になったことは、
とても痛ましいと思ってきました。
なんとかしてあげたかったのですが……
できませんでした。
父にもできなかったのですから、まして私には無理です。
ある意味、わかりやすい毒親より、たちが悪いかも。
いわゆる「アダルトチルドレン」の1タイプとして、
「プラケーター placater(慰め役)」というのがあると、最近になって知りました。
家庭内で、子どもが親のなぐさめ役をつとめ続けて、成人してからも他人に対してそういう役割をはたそうとしてしまう。
うわー、それお母さんだ。しかも私がくりかえしてるんだ……。
まあ、私はアダルトチャイルドを名乗るほどのものじゃないですけど。ごく普通のちゃらんぽらんですけど。笑
母は育ての親の祖母(私の曽祖母)が大好きだったのですが、
曽祖母は自分の
「お祖母ちゃんを喜ばせたかった」と母は言っていました。
だから、私は戦争には絶対反対です。
迷惑。笑
私自身が、母に似て、または/そして知らず知らず母を真似て、
「見捨てられ不安」の強い人間なのだと気づいたのは、何歳の頃だったかな。
だから自分の恋愛は、いつもいっつも、うまくいかないのだと。笑
早めに学んでよかったです。見捨てられ不安の強い女なんて、男の人からしたらうっとうしいじゃないですか。かえって捨てたくなりますよね。
ということを、できれば離婚する前に、というかそもそも結婚する前に学んでおけたら、もっとよかったんだけどな。
——それって、「早め」どころか遅すぎってやつだよ。私よ。笑
思い出す友だちが一人います。
彼女は、実の母親に、意味不明な精神的虐待をずっと受け続けていたのに、自分は天使のように優しい人でした。
もう信じられないくらい。
パン屋さんには、美味しそうなパン屋さんと、本当に美味しいパン屋さんがあるよね、と言って笑っていました。
どうしたら彼女みたいになれるのか、不思議でならなかったのですが、
いま思えば、
彼女はじつは誇り高くて、
「自分は傷ついているのだから泣き叫ぶ権利があるのだ」
という(彼女のお母さんのような)人間になりたくなかったのかもしれません。
もう少し、私の前で泣いてくれたらよかったのにな、と思います。
そんなに自分が苦しいのにね。
私に、いまのままの私でいいと、間違っていないと、言ってくれたんです。
私があのとき一歩踏み出せたのは、彼女のおかげです。
親に愛されなかった、という痛みは、例えば恋人とか、私の友だちのような友人とか、
肯定してくれる人に出会えたら、乗り越えていけます。
(絶対、誰かいます。出会うのに時間がかかったとしても。)
でも、親を愛せなかった、となると。
それは、破滅的な呪いになります。
愛する人に出会えても、「こんな自分は愛する資格も愛される資格もない」などと思って逃げ出してしまいかねません。
だから、親を愛せない自分を許せない。愛しているんだと思いこもうとしてしまう。
それでもいいと思うんですね。思いこみで。
そして、もし愛していないことに気づいてしまったら、
それも、いいと思うんです。
無理に愛さなくていいと思うんです。
親を、無理に、愛そうとしないほうがいいです。
まして親に愛されようと努力しないほうがいいです。
努力している時点で、その愛は無理ゲーじゃないでしょうか。
努力すればするほど、愛せなくなるし、愛されなくなります。
そう思ったら、憎まなくてもよくなります。
かえって優しくできるかも。
愛の問題じゃないから。
生んで育ててもらった恩だから。
時の流れに助けてもらうしか、どうしようもないことってあります。
人間ってみんな哀しいよね。という境地には、1年や2年じゃ到達できません。
できたら怖い。笑
でも、いつかできる。きっとね。『イグアナの娘』のラストシーンみたいに……。
『沈める町』でいうと、リキがまさにプラケーターでした。そして、タカがもう1つのタイプ「クラウン clown(道化)」。
知ってて書いたわけではなかったので、びっくりしました。
私の中のハツが、はたしてこの連鎖を断ち切れるのか。
私にとっても、いまだにぎりぎりの挑戦です。
(2021.5.9)