第16話
文字数 4,194文字
「ラウド先生」
リイシャはラウドに近づこうとした。デュレンが彼女を制す。
「ラウドはわたしにまかせてもらおう。探索を続けるぞ」
デュレンはラウドの腕をとったまま天井を振り仰いだ。目を閉じ、思念をこらすようにし、やがて決然と歩き出した。川床を横切り、大小の石筍の林をくぐり抜け、幾重もの帳のように垂れている流れ石の下を辿っていく。
「リイシャ」
トルグは耐えきれず、傍らのリイシャに言った。
「説明して欲しいんだ。ぼくはわからない、何もかも」
「そうだな」
デュレンは振り向きもせずに一声笑った。
「教えてやればいい、リイシャ。わたしは構わんよ」
「すべては、わたしの罪だ」
ラウドが言った。
「〈穴〉を自分の中に吸収して消滅させたはずだった」
声は低かったが、トルグはラウドの教師時代の口調を思い出した。
「アイン・オソがわたしに下した罰は死だ。わたしは、それを受け入れようと思った。しかし、毒をあおっても死ねなかった。それどころか、〈穴〉は再び現れた。こんどは、わたしの身体の上に。ナイフで刺そうとしても切っ先に〈穴〉が立ちふさがる。水で溺れようとしても、炎に飛び込んでも〈穴〉はわたしを保護してしまう。わたしは、死ぬことができない身体になってしまった」
「匙を投げた教授陣は、ラウドをアイン・オソの地下深くに幽閉していた。わたしは、ラウドをなんとかしてやりたかったのだよ」
リイシャは首を振った。
「デュレン教授は、ラウド先生を自分のために利用できないかと考えた。そうしているうちに、アンシュの呪いに囚われてしまったのよ」
「ちがうな、リイシャ」
デュレンはぴしゃりと言った。
「アンシュはわたしを選んだのだ」
「でも、ラウド先生は?」
トルグはささやいた。
ラウドは〈穴〉を持っていながら、アンシュの呪いを受けてはいない。デュレンのような狂気は見られない。
「先生はこれ以上〈穴〉に支配されないように、〈力〉を集中している。だから魔法は使えないの。〈穴〉が現れてから、ずっと」
リイシャは細く息を吐き出した。
「わたしは、いろいろ調べたわ。先生を〈穴〉から解き放つ方法を。辿り着いたのがアンシュの〈力〉」
デュレンは、リイシャが塔に上った時にはすでに呪いに囚われていた。リイシャはラウドのために、デュレンに従ってみせるしかなかったわけだ。
デュレンはリイシャのおかげでこの場所の存在を知り、彼女が探し当てるのを待っていた。そしてトルグは、まんまとデュレンに騙されたのだ。
「ごめん、リイシャ」
トルグは言った。
「デュレン教授を連れてきてしまった」
「気にしないで」
リイシャはトルグの肩に優しく手をおいた。
「ラウド先生と教授の結びつきが、アンシュをより強く感じているのは事実だわ。少なくてもわたしたちは、ここを彷徨い続けて力尽きた魔法使いのようにはならないですむ」
しかし、どちらがよかったのだろう。デュレンがアンシュの〈力〉を手に入れれば、アイン・オソもヴェズも最悪のことになりそうだ。
トルグ自身の〈力〉は、ほんの少し甦りつつあった。しかし、まだまだだ。中途半端な魔法では、デュレンに負けてしまう。もっと〈力〉を蓄えなければ。おそらくリイシャもそう考えているはずだ。リイシャの方がトルグよりも、〈力〉を使い果たしてから時間がたっている。
狭まっていた鍾乳石の白い壁は再び広がって足元は上り坂になり、はるか下に深い青色をたたえた地底湖が現れた。かすかに揺れる水面が天井からの細い光を受けてきらめき、階段状の岩にさざ波のような水影を映していた。こんな時でなかったら、次々とくりひろげられる鍾乳洞の美しさに目を奪われていたにちがいないのに。
地底湖の縁に添って歩いていた時、ラウドががくりと膝をついた。
「ラウド先生!」
リイシャが駆けよった。デュレンはラウドの手を掴んだまま笑っていた。
「すばらしい反応だ。アンシュの〈力〉は近いぞ」
リイシャはラウドの背中を抱えるようにした。ラウドは固く目を閉じ、自由な手で胸を押さえている。
「教授、少し休んで下さい。このままではラウド先生が」
デュレンは傲然とリイシャを見下ろした。
「アンシュの〈力〉に近づけば、〈穴〉が反応するのはわかりきったことではないのかね。きみたちが望んでいたことだ。何をいまさら」
きっとデュレンを睨んだリイシャの顔が歪み、彼女は喉元を押さえて大きくあえいだ。
「忘れるな。きみたちの命はわたしが握っている」
デュレンは低く笑った。
「安心しろ。わたしがアンシュの〈力〉を手に入れたら、真っ先に彼を〈穴〉から解放してやる。大人しくついてくるのが賢明だ」
デュレンはラウドの腕をぐいと引き上げた。ラウドはよろよろと立ち上がった。
「トルグ、ラウドを支えてくれ。行くとしよう」
トルグはラウドのもう一方の腕を自分の肩に回した。そして、彼の身体がひどく軽いことに驚いた。
〈穴〉のためなのだろうか。ラウドの身体は、いまどのくらい〈穴〉に侵されているのか。寛衣の下を想像するだけで胸が痛んだ。そして、これまでの日々、自分の罪を悔い、死を望みながらも死ぬことができず、アイン・オソの地下で幽閉されていたラウド。
辛すぎる時間だ。リイシャの存在は彼にどれほど光をもたらしたことだろう。トルグの知らないところで、二人はどんな思いを紡いできたのだろう。
トルグは、千々に乱れはじめた自分の心を鎮めようとした。今はこの状況をどう抜け出すかが先決だ。
ラウドの腕をとったデュレンは、迷いのない足取りで先を行く。坂の片側の岩壁に、人一人くぐれるほどの横穴が開いていて、デュレンはためらいなくそこをくぐった。
ラウドを助けながらトルグも続いた。曲がりくねった長い洞窟で、光は届かない。しっかりとついてくるリイシャを後に感じながら、トルグはラウドを助けて手探りで進んだ。
洞窟はうねりながらしばらく続いた。もはや終わりがないのではないかと思われた時、前方が唐突に明るくなり、デュレンの後ろ姿が大きな影となって浮かび上がった。
デュレンが光の中に躍り出た。みなが後につづいた。
そこは、広大な空間だった。塔の基部がそのまま収まりそうだ。中心が高くなった岩天井は見上げるほどで、岩の隙間から幾条もの光が降りそそいでいた。床はタイルのような石が敷き詰められ、はじいた光を拡散している。霞むような光の中心に、一本の大樹が見えた。
木は白く、太い根をまわりに張り巡らしていた。まっすぐで、高みのところまで枝葉はなかった。葉のない白い枝は天井近くで四方に伸び、円蓋を支えるように岩に溶けこんでいた。
「ほう」
デュレンは一声唸った。そして樹に向かって早足で歩き出した。
トルグとリイシャはラウドの両脇をささえ、後に続いた。ラウドはもう、自分の力で足を動かすこともできないようだった。
リイシャは、アンシュの〈力〉がラウドを〈穴〉から解放してくれると思っている。今はアンシュの影響を受けて〈穴〉が大きくなっていくのを耐えているだけだが、アンシュの〈力〉が手に入れば、それを制御できるというわけか。
しかし、本当にそうだろうか。反対にアンシュに支配されてしまえば、デュレン以上に危険な存在になってしまうかもしれない。リイシャとラウドは一つの賭けにでているとしか思えない。
とはいえ、トルグは彼らの賭けに乗ってしまった。
それがリイシャの意志ならば。
樹の差し渡しは、トルグの背丈以上もあった。盛り上がった根が、しっかりと石にくい込んでいた。
デュレンが根を跨ぎ越しながら大樹に近づき、立ち尽くした。
デュレンのちようど胸の位置に、何かが楔で打ち込まれていた。
トルグは目をこらした。黒く干からびた、手首から先の手だ。
楔は、透明な水晶でできていた。甲に打ち込まれ、五本の指が悶えるかのように内側に曲がっていた。白い大樹の幹に、それは醜い染みのようにも見えた。
「アンシュの手だ」
感極まったようにデュレンがつぶやいた。
「ついに見つけた。古の魔法使いたちが封じ込めたのは、これだったのだな」
デュレンは、ほれぼれとアンシュの手を見つめた。
両腕を伸ばし、楔を抜こうとした。
魔法使いは、ともすれば肉体に隙ができる。
機を逃さず、トルグはデュレンに思い切り体当たりした。
トルグは、デュレンを下にして倒れ込んだ。
デュレンは根に背中をしたたか打ち付けたようだ。その衝撃で、トルグたちの首枷が弱まった。トルグの〈力〉は、充分と言えないまでも戻ってきていた。そして、リイシャはなおのこと。
二人は、魔法の首枷を弾いた。
一声うめいたデュレンは、トルグをはね飛ばす〈力〉を放った。トルグの身体は空に飛んだが、トルグは両足を踏ん張って着地した。
「ありがとう、トルグ!」
リイシャがすばやく大樹に駆け寄り、水晶の楔に手をかけた。
抵抗もなく、楔は抜けた。
その時、ぎしり、と何かがきしむ異様な音がした。
トルグは、はっとして立ちすくんだ。
楔を抜いた場所から、大樹の幹にみるみる裂け目がはしっていく。樹の高みから、小石ばらばらとこぼれ落ち、床に跳ね返って不穏に乾いた音をたてた。
トルグは、息をのんだ。
すべては同時に起こった。
アンシュの手を持ったリイシャは、うずくまっていたラウドにそれを渡そうとした。
立ち上がりかけたデュレンは目を見開いた。
大樹はゆっくりと傾ぎ、支えられていた天井の岩は均衡を保てなくなっていた。臓腑をゆるがす地鳴りと震動が高まり、互いに立ってはいられなくなる。
床石をはじき飛ばしながら樹の根が次々と抜けていく。デュレンが足元をすくわれて再び倒れ込むのが見えた。
リイシャたちに目を向けようとした時、飛び散った大きな石がトルグの脇腹にぶつかった。
トルグは突っ伏して激痛の場所をおさえた。寛衣を通して生温かいものがひろがってきた。なんとか防御の魔法を放って、大小の岩から身を守った。
凄まじい音とともに、大樹は二つに折れた。
頭上にもはや光はなかった。闇の中、さらに黒々とした巨岩が、凄まじい風圧とともになだれ落ちてくる。
「リイシャ!」
自分たちを呼ぶラウドの声が聞こえた。
「トルグ!」
返事はできなかった。
足元が陥没した。
砕け、ぶつかり合う岩とともに、トルグは底知れぬ奈落へと落下した。
リイシャはラウドに近づこうとした。デュレンが彼女を制す。
「ラウドはわたしにまかせてもらおう。探索を続けるぞ」
デュレンはラウドの腕をとったまま天井を振り仰いだ。目を閉じ、思念をこらすようにし、やがて決然と歩き出した。川床を横切り、大小の石筍の林をくぐり抜け、幾重もの帳のように垂れている流れ石の下を辿っていく。
「リイシャ」
トルグは耐えきれず、傍らのリイシャに言った。
「説明して欲しいんだ。ぼくはわからない、何もかも」
「そうだな」
デュレンは振り向きもせずに一声笑った。
「教えてやればいい、リイシャ。わたしは構わんよ」
「すべては、わたしの罪だ」
ラウドが言った。
「〈穴〉を自分の中に吸収して消滅させたはずだった」
声は低かったが、トルグはラウドの教師時代の口調を思い出した。
「アイン・オソがわたしに下した罰は死だ。わたしは、それを受け入れようと思った。しかし、毒をあおっても死ねなかった。それどころか、〈穴〉は再び現れた。こんどは、わたしの身体の上に。ナイフで刺そうとしても切っ先に〈穴〉が立ちふさがる。水で溺れようとしても、炎に飛び込んでも〈穴〉はわたしを保護してしまう。わたしは、死ぬことができない身体になってしまった」
「匙を投げた教授陣は、ラウドをアイン・オソの地下深くに幽閉していた。わたしは、ラウドをなんとかしてやりたかったのだよ」
リイシャは首を振った。
「デュレン教授は、ラウド先生を自分のために利用できないかと考えた。そうしているうちに、アンシュの呪いに囚われてしまったのよ」
「ちがうな、リイシャ」
デュレンはぴしゃりと言った。
「アンシュはわたしを選んだのだ」
「でも、ラウド先生は?」
トルグはささやいた。
ラウドは〈穴〉を持っていながら、アンシュの呪いを受けてはいない。デュレンのような狂気は見られない。
「先生はこれ以上〈穴〉に支配されないように、〈力〉を集中している。だから魔法は使えないの。〈穴〉が現れてから、ずっと」
リイシャは細く息を吐き出した。
「わたしは、いろいろ調べたわ。先生を〈穴〉から解き放つ方法を。辿り着いたのがアンシュの〈力〉」
デュレンは、リイシャが塔に上った時にはすでに呪いに囚われていた。リイシャはラウドのために、デュレンに従ってみせるしかなかったわけだ。
デュレンはリイシャのおかげでこの場所の存在を知り、彼女が探し当てるのを待っていた。そしてトルグは、まんまとデュレンに騙されたのだ。
「ごめん、リイシャ」
トルグは言った。
「デュレン教授を連れてきてしまった」
「気にしないで」
リイシャはトルグの肩に優しく手をおいた。
「ラウド先生と教授の結びつきが、アンシュをより強く感じているのは事実だわ。少なくてもわたしたちは、ここを彷徨い続けて力尽きた魔法使いのようにはならないですむ」
しかし、どちらがよかったのだろう。デュレンがアンシュの〈力〉を手に入れれば、アイン・オソもヴェズも最悪のことになりそうだ。
トルグ自身の〈力〉は、ほんの少し甦りつつあった。しかし、まだまだだ。中途半端な魔法では、デュレンに負けてしまう。もっと〈力〉を蓄えなければ。おそらくリイシャもそう考えているはずだ。リイシャの方がトルグよりも、〈力〉を使い果たしてから時間がたっている。
狭まっていた鍾乳石の白い壁は再び広がって足元は上り坂になり、はるか下に深い青色をたたえた地底湖が現れた。かすかに揺れる水面が天井からの細い光を受けてきらめき、階段状の岩にさざ波のような水影を映していた。こんな時でなかったら、次々とくりひろげられる鍾乳洞の美しさに目を奪われていたにちがいないのに。
地底湖の縁に添って歩いていた時、ラウドががくりと膝をついた。
「ラウド先生!」
リイシャが駆けよった。デュレンはラウドの手を掴んだまま笑っていた。
「すばらしい反応だ。アンシュの〈力〉は近いぞ」
リイシャはラウドの背中を抱えるようにした。ラウドは固く目を閉じ、自由な手で胸を押さえている。
「教授、少し休んで下さい。このままではラウド先生が」
デュレンは傲然とリイシャを見下ろした。
「アンシュの〈力〉に近づけば、〈穴〉が反応するのはわかりきったことではないのかね。きみたちが望んでいたことだ。何をいまさら」
きっとデュレンを睨んだリイシャの顔が歪み、彼女は喉元を押さえて大きくあえいだ。
「忘れるな。きみたちの命はわたしが握っている」
デュレンは低く笑った。
「安心しろ。わたしがアンシュの〈力〉を手に入れたら、真っ先に彼を〈穴〉から解放してやる。大人しくついてくるのが賢明だ」
デュレンはラウドの腕をぐいと引き上げた。ラウドはよろよろと立ち上がった。
「トルグ、ラウドを支えてくれ。行くとしよう」
トルグはラウドのもう一方の腕を自分の肩に回した。そして、彼の身体がひどく軽いことに驚いた。
〈穴〉のためなのだろうか。ラウドの身体は、いまどのくらい〈穴〉に侵されているのか。寛衣の下を想像するだけで胸が痛んだ。そして、これまでの日々、自分の罪を悔い、死を望みながらも死ぬことができず、アイン・オソの地下で幽閉されていたラウド。
辛すぎる時間だ。リイシャの存在は彼にどれほど光をもたらしたことだろう。トルグの知らないところで、二人はどんな思いを紡いできたのだろう。
トルグは、千々に乱れはじめた自分の心を鎮めようとした。今はこの状況をどう抜け出すかが先決だ。
ラウドの腕をとったデュレンは、迷いのない足取りで先を行く。坂の片側の岩壁に、人一人くぐれるほどの横穴が開いていて、デュレンはためらいなくそこをくぐった。
ラウドを助けながらトルグも続いた。曲がりくねった長い洞窟で、光は届かない。しっかりとついてくるリイシャを後に感じながら、トルグはラウドを助けて手探りで進んだ。
洞窟はうねりながらしばらく続いた。もはや終わりがないのではないかと思われた時、前方が唐突に明るくなり、デュレンの後ろ姿が大きな影となって浮かび上がった。
デュレンが光の中に躍り出た。みなが後につづいた。
そこは、広大な空間だった。塔の基部がそのまま収まりそうだ。中心が高くなった岩天井は見上げるほどで、岩の隙間から幾条もの光が降りそそいでいた。床はタイルのような石が敷き詰められ、はじいた光を拡散している。霞むような光の中心に、一本の大樹が見えた。
木は白く、太い根をまわりに張り巡らしていた。まっすぐで、高みのところまで枝葉はなかった。葉のない白い枝は天井近くで四方に伸び、円蓋を支えるように岩に溶けこんでいた。
「ほう」
デュレンは一声唸った。そして樹に向かって早足で歩き出した。
トルグとリイシャはラウドの両脇をささえ、後に続いた。ラウドはもう、自分の力で足を動かすこともできないようだった。
リイシャは、アンシュの〈力〉がラウドを〈穴〉から解放してくれると思っている。今はアンシュの影響を受けて〈穴〉が大きくなっていくのを耐えているだけだが、アンシュの〈力〉が手に入れば、それを制御できるというわけか。
しかし、本当にそうだろうか。反対にアンシュに支配されてしまえば、デュレン以上に危険な存在になってしまうかもしれない。リイシャとラウドは一つの賭けにでているとしか思えない。
とはいえ、トルグは彼らの賭けに乗ってしまった。
それがリイシャの意志ならば。
樹の差し渡しは、トルグの背丈以上もあった。盛り上がった根が、しっかりと石にくい込んでいた。
デュレンが根を跨ぎ越しながら大樹に近づき、立ち尽くした。
デュレンのちようど胸の位置に、何かが楔で打ち込まれていた。
トルグは目をこらした。黒く干からびた、手首から先の手だ。
楔は、透明な水晶でできていた。甲に打ち込まれ、五本の指が悶えるかのように内側に曲がっていた。白い大樹の幹に、それは醜い染みのようにも見えた。
「アンシュの手だ」
感極まったようにデュレンがつぶやいた。
「ついに見つけた。古の魔法使いたちが封じ込めたのは、これだったのだな」
デュレンは、ほれぼれとアンシュの手を見つめた。
両腕を伸ばし、楔を抜こうとした。
魔法使いは、ともすれば肉体に隙ができる。
機を逃さず、トルグはデュレンに思い切り体当たりした。
トルグは、デュレンを下にして倒れ込んだ。
デュレンは根に背中をしたたか打ち付けたようだ。その衝撃で、トルグたちの首枷が弱まった。トルグの〈力〉は、充分と言えないまでも戻ってきていた。そして、リイシャはなおのこと。
二人は、魔法の首枷を弾いた。
一声うめいたデュレンは、トルグをはね飛ばす〈力〉を放った。トルグの身体は空に飛んだが、トルグは両足を踏ん張って着地した。
「ありがとう、トルグ!」
リイシャがすばやく大樹に駆け寄り、水晶の楔に手をかけた。
抵抗もなく、楔は抜けた。
その時、ぎしり、と何かがきしむ異様な音がした。
トルグは、はっとして立ちすくんだ。
楔を抜いた場所から、大樹の幹にみるみる裂け目がはしっていく。樹の高みから、小石ばらばらとこぼれ落ち、床に跳ね返って不穏に乾いた音をたてた。
トルグは、息をのんだ。
すべては同時に起こった。
アンシュの手を持ったリイシャは、うずくまっていたラウドにそれを渡そうとした。
立ち上がりかけたデュレンは目を見開いた。
大樹はゆっくりと傾ぎ、支えられていた天井の岩は均衡を保てなくなっていた。臓腑をゆるがす地鳴りと震動が高まり、互いに立ってはいられなくなる。
床石をはじき飛ばしながら樹の根が次々と抜けていく。デュレンが足元をすくわれて再び倒れ込むのが見えた。
リイシャたちに目を向けようとした時、飛び散った大きな石がトルグの脇腹にぶつかった。
トルグは突っ伏して激痛の場所をおさえた。寛衣を通して生温かいものがひろがってきた。なんとか防御の魔法を放って、大小の岩から身を守った。
凄まじい音とともに、大樹は二つに折れた。
頭上にもはや光はなかった。闇の中、さらに黒々とした巨岩が、凄まじい風圧とともになだれ落ちてくる。
「リイシャ!」
自分たちを呼ぶラウドの声が聞こえた。
「トルグ!」
返事はできなかった。
足元が陥没した。
砕け、ぶつかり合う岩とともに、トルグは底知れぬ奈落へと落下した。