第3話

文字数 1,297文字

「冷やし中華をひとつ、お願いします」聞き取れなかったのかと思い、語気を強めつつもう一度注文を繰り返す。
「ちょ、ちょっと厨房に確認してきます。少々お待ちください」
 店員は慌てて奥に引っ込んだ。明らかに動揺している様子だ。
 すると奇妙なことに、周りの客もざわつき始めた。
 貧乏ゆすりが止まらず、不安な気持ちで店員を待ちわびていると、店員はようやく戻ってきた。
 彼は微妙に表情を曇らせながら、「本当に冷やし中華でよろしいですか? ラーメンじゃなくて」と念を押されたので、俺は「冷やし中華でお願いします」と答えた。何を言われようと、今さら注文を変える気などない。むしろ意地でも冷やし中華を食べてやるという気にさえなった。

 店員が厨房へ姿を消した後、もしかしたら何か見落としたのかもしれないと、さっきのポスターを凝視してみた。店員の妙な反応と、周囲のざわめきに対するヒントがあるかもしれないと期待したからだ。しかし、何度確認しても、別段変わった表記は見当たらない。
 『はじめました』なのに、まだ始まってないのか? それとも、もう終わったとか? だったら『冷やし中華、終わりました』って書いとけよ。そういえばさっき店員が少々時間かかりますと言っていたな。もしかして作るのが面倒くさいだけだったりして。これだけ混んでいるのだから、店員としても手間のかかる冷やし中華よりも、作り慣れたラーメンを勧めてきてもおかしくはない。周囲のざわつきも、「空気を読め」的なものだとすれば納得がいく。
 だが、何を注文するかは客の自由のはず。混んでいるとか、作るのが面倒だとかは理由にならない。メニューにある以上、客の要望に応えるのがプロというもの。いくら混雑してようが、こちらが空気を読む筋合いはない。

 時計の秒針に苛立ちを覚えながら、首を長くしていると、しばらくしてようやく冷やし中華が運ばれてきた。店員は相変わらず怪訝そうな目を向けていたが、そこには迷惑ぶっているとか、非難を向けている印象はなく、ただ珍しがっているように映った。
 だとすれば別の案も浮かぶ。これは特別な冷やし中華なのではないか――と。そこで注意深く観察してみることにした。
 具材は主にハム、キュウリ、もやし、トマト、錦糸たまごなどが放射線状に盛り付けられ、皿の端にからしが添えられている。少なくとも見た目はありふれた冷やし中華そのものだった。
 では

に秘密があるのだろうか。
 割りばしをたれに浸し、舌先で舐めてみる。だが、想像どおりの味で、それ以上でも以下でもない。
 恐る恐る麺を箸にとり、ひとくちだけ口に入れてみたが、こちらもいたって普通。麺も具材もごく一般的で、特段美味くも不味くもない。激甘や激辛でもなければ、変わった味付けがされている様子もなく、値段相応といったところだ。

 だが、食べている最中も客たちのざわつきは収まらず、むしろ、より大きくなった気さえした。刺すような視線を背中に感じ、食べづらいことこの上ない。
 次第にいたたまれなくなり、早く食べ終わろうと、夢中で箸を動かす。麺や具材を呑み込むのに必死で、味なんてとっくにしなくなっていた。
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