第14話「礼儀と作法の意味」

文字数 1,987文字

「礼儀と作法の意味」


 兵庫県三田市内にある『ナックルキックボクシングジム』。
 毎週日曜日に子供教室が開かれているので、小学四年生の俺も通っている。
 今日は日曜日なので、いつものようにジムにやって来た。
「風翔くん、こんにちは」
「先生、ちわーっす」
 どうやら俺が一番乗りらしく、先生以外はまだ誰も来ていなかった。
 とりあえず荷物置き場に行き、持ってきていたリュックをポイっと投げる。
 すると、先生が傍に寄ってきた。
「おっと、投げちゃ駄目だよ。丁寧に扱って、正しい位置に置くんだ。乱雑に置いていると、誰かが踏んでしまって怪我のもとになりかねないし、散らかっていると集中できないからね。それにほら、あれも」
 そう言って、先生は靴置き場を指差した。そこには俺が脱ぎ散らかした靴がある。
「脱いだ靴は綺麗に並べよう。挨拶もちゃんと、こんにちは、と言わなきゃ。こういうことをきちんとしていないと、精神の乱れに繋がるんだよ」
「先生もそういうこと言うのかよ~」
 俺は嫌なことを思い出し不機嫌になると、先生は首を傾げた。
「何かあったのかい?」
「いやさ、最近うちの親が細かいことばっかり言ってくるんだよ。もっと静かに物を置きなさいとか、箸は正しく持ちなさいとか、姿勢を伸ばしなさいとか。何でそうしなきゃいけないのか聞いたら、他の人から悪く見られるって。でもそれなら別に俺は嫌われたっていいよ。そのくらいで嫌ってくる相手ならこっちだっていらねぇ」
 今のままでも友達はいるんだ。そういう相手を大切にすれば良いじゃないかって思う。
「なるほどね。確かに、風翔くんの言う通り、礼儀や作法は他の人に良く見てもらえるという利点はある。でも、それを大事にすると、君自身にとっても良いことがあるんだよ」
「え?」
 俺は両親とは違うことを言う先生に驚いた。一体どういうことだろう。
「例えば、風翔くんは強くなりたいと思っているだろう?」
「まあ、うん」
 強くなることに憧れる男は多い。俺もその一人だ。出来れば楽に強くなりたいけど、前に先生に教わった通り、「やるべきこと」から目を背けないのも大切だと今は思っている。
 だけど、礼儀や作法はその内に入るのだろうか? 人に好かれる為のものでしかないんじゃないだろうか?
「それならやっぱり気を付けた方が良い。まず初めに聞きたいけど、風翔くんはどうして物を静かに置いたり、箸を正しく持ったり、姿勢を伸ばしたりをしたくないんだい?」
「どうしてって……面倒だから? 別に困ってないんだからいいじゃん、って」
「そう。礼儀や作法はね、面倒なんだ。無視した方が楽だよね」
 先生は俺の言ったことをその通りだと認めた上で続ける。
「物を静かに置くには意識して丁寧に体を動かさないと駄目だ。他のことだってそうさ。礼儀や作法を守るには、自分の体を上手くコントロールしないといけない。だからこそ、それは自分の体を思いのままに動かす為の練習になるんだ」
「自分の体を思いのままに動かす為の練習……」
 俺は思わず自分の手足を見つめる。確かに、守るように言われたことはどれも面倒で疲れることばかりだ。だからついつい嫌がってしまう。でもそれは逆に、自分を鍛えることに繋がるというのは納得できた。
「いつもやってるから分かると思うけど、正確に狙った場所へとパンチやキックを打つのは難しいよね。体を思ったように動かすっていうのはとても大変なことなんだ。でも普段から礼儀や作法を意識した動きを心がけていると、その能力が確実に上達していくよ。どうだい、興味が出てきたかな?」
「う、うん!」
 先生の話を聞いていると、礼儀や作法を守ることにはちゃんと意味があると思えてきた。
 誰かの為だけじゃなく、自分自身にとっても大切なこと。その考え方には驚くばかりだ。
「そうして、動作を整えていれば自然と心も落ち着いていくんだ。心の動きと体の動きは繋がっているからね。落ち着かない時こそ、丁寧な動作を意識すると良い。まあ、いきなり全てを守るのは難しいと思う。だから、一つずつ順番に習慣にしていくと良いと思うよ」
「分かった、頑張ってみる!」
「その意気だ。優れた習慣は裏切らない。君に優れた能力と心を与えてくれる。応援してるよ」
 俺は荷物置き場に放ったリュックをわざわざもう一度手にした。
 そして、やり直すように今度はゆっくりと丁寧な仕草で置く。やっぱり少し負担があって、楽じゃない。
 それから自分の靴を綺麗に並べ直して、「先生、こんにちは」と改めて言った。
 サボってしまうのが癖になってるとも感じるので、毎回気を付けられるかは分からないが、それでも今の俺には前向きな気持ちで取り組むことが出来た。
 その様子を見た先生は満足そうに頷いていた。
 やがて、同じ学校の友達である敬磨と健心が来たので、俺は早速、先生に聞いた話を彼らにも聞かせるのだった。
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