第1話

文字数 3,938文字

慶長五年七月二十一日、時は既に夕刻に近づいていたが、日輪は未だ燦として白雲の中に姿を留め、蝉の声も一向に止まない。
うだるような暑さの犬伏の陣中で、小具足姿の真田安房守昌幸は苛立たしげに扇を振るい続けていた。

「父上、兄上が参られました」

そう告げたのは昌幸の次子、左衛門佐信繁である。後年、幸村の名で知られる信繁はこの時三十四歳。
父に似た小柄な体格と、母山手殿ゆずりの白皙の繊細な顔だち故か、年齢よりもずっと若々しく見える。

「・・・・」

昌幸は無言で扇を振るったままである。

「父上、伊豆守参着致しました」

嫡男伊豆守信幸が力強い足取りで陣中に入って来た。
身の丈六尺を超す雄偉な体格であり、浅黒い肌に精悍そのものの目鼻立ちは父母いずれにも似ていない。
その姿は「攻め弾正」の異名を馳せた昌幸の父、幸隆の若き日の姿に瓜二つであった。

「せがれ共はわしに似ず幸いであったわ」

と昌幸は周囲に冗談まじりに語ったが、半ばは本心である。
昌幸はお世辞にも美男とは言えない。顔色は青黒く眉は濃く一本につながっており、鼻は高くとがって目は三白眼である。
昌幸が世に梟雄と評されるのは、この異相が原因の一つであったかも知れない。

「これを読むがよい」

と昌幸は一枚の書状を信幸に差し出した。

「いずれからの書状でしょうか?」

「石田治部少輔殿からじゃ」

石田治部少輔とは豊臣家五奉行の一人石田三成のことである。
書状を読み進むうちに、信幸の沈毅な表情に静かな怒りの色が浮かんできた。
我が嫡男の表情を注視していた昌幸が問うた。

「どのように思う?」

「石田治部は血迷ったようですな」

信幸は吐き捨てるように答えた。

「ふむ。血迷うたと申すか」

「いかにも。このような戯言は論ずるまでもありませぬ。我々は徳川様のご命令通り、会津まで粛々と兵を進めるのみでしょう」

草莽から身を起こし、百年に及ぶ戦国乱世を平らげた不世出の英雄豊臣秀吉が世を去って二年の月日が流れている。
秀吉の遺児秀頼はこの時八歳の頑是ない幼児にすぎず、実際の政治の舵取りを行うのは、五大老筆頭の徳川内大臣家康である。
しかし、かつては豊臣家と弓矢を交えた雄敵であり、二百五十万石という他を圧倒する広大な領国を持つ家康が秀吉の遺命を愚直に守り、幼い秀頼に忠節を守り抜くとは到底思わない。
世の人々がそう思ったのは当然であったが、家康の威光を恐れ、口をつぐむしかなかった。
しかし、家康に屈せず、豊臣の御家を守る為、何としてもこの老雄を排除せねばと立ち上がった男がいた。
それこそが石田治部少輔三成である。
だが、犀利な頭脳を持つ軍官僚として天下に英名を知られる三成であったが、合戦においてこれといった武勲を立てたこともなく、佐和山十七万石の小大名に過ぎない身では、正攻法で家康とやり合えるはずもない。
残された手段は暗殺であった。
しかし、密告者が家康の元に走った為あえなく失敗し、以前から三成に恨みを抱いていた福島正則ら武断派大名に逆に命を狙われるはめになった。
窮した三成がとった手段というのが全く意外で人を喰ったものであった。
暗殺の標的であった家康に庇護を求めたのである。
当然、家康は即刻三成の首をはね、福島らに引き渡すものと思われたが、そうはならなかった。
剛腹な家康からすれば、三成などは所詮「小賢しい青二才」にすぎず、己と対等の敵手などと思ったことは一度も無い。
殺す程の価値も無いと思ったし、我が命を狙った敵をも許すことによって己がいかに寛容な大人物であるかを天下に示すことができるという政治的な計算もあった。
無論、全くの無罪放免を許す程、家康が甘いはずがなく、三成は五奉行の辞任と隠居を条件に佐和山に帰らされた。
この時点で三成は政治的には死んだも同然であり、家康の思考から完全に除外されたのは当然と言っていいだろう。
家康と同じ五大老の一人である会津中納言こと上杉弾正景勝が突如割拠の動きを見せた為、家康はこれを豊臣家に対する謀反と断定し、諸大名を率いて会津を討つことを宣言した。
三成はこれを奇貨とした。
すなわち、家康が会津に遠征しているうちに大坂で決起し、東西から挟み撃ちにするという戦略を立てたのである。
その為に三成は潜在的に家康に反感を持っているであろう諸大名に誘いの書状を書き送った。
そのような事情で送られた書状を手にし、常日頃は冷静沈着な真田伊豆守信幸が怒りに打ち震えている。
最も、そのような我が嫡男の反応は、昌幸にとっては意外ではない。予想していた。
信幸の妻、小松殿は徳川四天王の一角に数えられ、その比類ない豪勇で天下に名高い本田中務大輔忠勝の実の娘である。
その上小松殿は家康の養女として信幸に嫁いで来た。
つまり、信幸にとって家康は形の上では舅になるのである。
しかし、信幸の家康への傾倒は、そのような婚姻関係によって当然生じる義理を遥かに超えていた。

「内府様(家康)は、太閤殿下の上を行く真の英傑であると思う」

秀吉の存命中から、信幸はそう言ってはばからなかった。
そんな我が子の家康への心酔ぶりが、昌幸はまったく気に入らない。

(家康がそんな立派な男であるはずがないではないか)

昌幸は家康という男が大嫌いであった。その名を聞くだけで虫唾が走る思いがするほどである。
ならば何故、我が嫡男の妻に家康の養女を迎えたのか。
太閤秀吉の命令であったがゆえ、やむを得ずである。

真田家と徳川家の因縁は、天正十年、天下を震撼させた本能寺の変直後まで遡る。
武田家滅亡後、真田家は織田家の重臣にして関東管領の地位についていた滝川左近将監一益の与力となっていた。
しかし織田信長が最も信頼していたはずの腹心明智日向守光秀の突然の謀反により横死を遂げた為、その混乱に乗じて北条家が攻め込んできた。
かつては織田家中にあって不敗の名将と称えられた戦巧者の一益であったが、主君の死で度を失ってしまったのだろう。その戦いぶりはまったく精彩を欠き、北条家相手にあっさり敗走してしまった。
ここが己が躍進する好機と見た昌幸は、各地に潜伏していた旧武田家家臣を糾合して沼田城を奪還し、ここを拠点に天下を窺おうと野心を燃やした。

だが、旧武田領を狙うのは北条家だけではない。かつて武田家と熾烈な戦いを繰り広げた上杉家と徳川家の存在があった。
己の智謀と用兵に絶対の自信を持つ昌幸であったが、これら大大名三家を同時に敵に回して勝利を収めるなど、不可能というしかない。
そこでまずは上杉家に臣従したが、すぐに裏切っては北条家につき、また裏切って徳川家につくという変遷ぶりである。

「武士たる者、七たび主君を変えねば武士とは言えぬ」

というのが戦国武士の気風とは言え、これ程までに露骨な裏切りと変節を繰り返した者は昌幸以外はいないかもしれない。

「恥知らずと言わば言え。犬畜生にも劣ると言わば言え。全ては真田の御家を守る為よ。その為ならばわしは何度でも外道の所業を繰り返して見せるわ」

昌幸はそう嘯いて微塵も揺るがなかった。
徳川の家臣として落ち着くかに見えた昌幸であったが、これも所詮は一時にすぎないと考えていた。
かつて徳川家康は三方が原にて武田信玄と戦い、散々に打ち破られてみじめな敗走をしている。
武田信玄に近侍し、信玄から「我が眼の如し」と称えられた昌幸であったから、家康を侮る感情が生じるのは当然と言えた。

(信玄公が病に倒れなければ、家康などはとっくに合戦場で鴉についばまれる屍となっておったろう。あ奴が今生きておるのは、運に恵まれたからにすぎん。その程度の男にいつまでも従ってはおれんわ)

家康の配下として、北条家に通じる豪族を討ち滅ぼしながらも、昌幸は家康と手を切る機会を探っていた。
そしてその時はすぐにやって来た。
天正十二年三月、小牧長久手の戦いである。
謀反人明智光秀を討ち、織田家中筆頭である柴田修理亮勝家をも滅ぼした羽柴筑前守秀吉は、我こそが信長の後継者として天下に君臨せんとの野心をあらわにした。
その覇道を阻止せんと家康は信長の遺児信雄と手を組み戦いを挑んだのである。
結果、家康は長久手にて秀吉の甥である秀次が率いる大軍を破り、大いに武名を上げたものの、信雄が勝手に秀吉と和睦した為、むなしく三河に帰らざるをえなかった。
長久手での鮮やかな戦いぶりを見て家康を見直した昌幸であったが、すぐにその評価を翻した。
家康は北条家と和睦したのだが、北条家はその条件として昌幸の所領である吾妻、利根の二郡の引き渡しを求め、家康はあっさりと承諾した。昌幸の了承を得ずにである。
家康からすれば、昌幸は我が配下となったのだから、別に持ちかけるまでもない。黙って主君の意向に従えばよいと単純に考えたのだろう。
だが昌幸は激怒した。

「おのれ、三河の芋汁武士めが!このわしに何の断りもなく沼田を北条にくれてやるだと?この真田安房の武略をもって得た領土を二束三文同然に扱うか」

家康は我が才に何ら敬意を払わなかった。その事実が昌幸の他者から見れば剛毅そのものとしか思えない精神の奥に秘められた繊細な部分を深く傷つけた。
最早家康との手切れの良い機会というような計算は既にないと言っていい。この男とは共に天を戴くことはできぬという深刻な憎悪のみがあった。
家康自身は、特に昌幸に悪意があった訳ではない。しかし、この何気無い判断が結果として家康にとって悪夢としか思えない真田家との因縁を呼び込むことになったのである。

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