第2話〈夕暮れのカフェ〉

文字数 5,199文字

今まで恭一は母親に言われるまで散髪に行くことはなかった。
何時もタイミングは遅れ気味で、そのときの頭髪はまるでイガグリだと妹は言った。
スーツを着るようになり、ハードなムースやジェルを使っても硬い髪は跳ね上がり、二ケ月に三回はカットをしなければ格好が付かない。
営業に出るようになってからは月二回の間隔でライトに通うようになり、当然のようにヘアサロン・ライトの常連になっていた。

従来なら会社の休みの日に、わざわざ理髪店に行くことはなかった。
母の直子から言われもしないのに、わざわざ土曜休日に出かけた。
開店の8時30分を少し回った時刻にヘアサロン・ライトに入ると、客はまだ誰も居らず、何時もの彼女が迎えてくれた。
待ち合い席のテーブルには紫陽花が活けてある。
マスター夫妻は、まだ店に出て来ていない。
従業員の男性三人は開店早々で、夫々が準備らしい動きをしていたが、従業員の中でいちばん年長と思われる男性が、紫陽花を見ていた恭一に声を掛け、理容椅子を勧めた。
「綺麗でしょ……、さあ、どうぞこちらへ……」
「早くから、すみません」
「いいですよ、開店時刻は回っていますから」
準備をしながら男性理容師が言った。
「さっき聞いたんですが、どんな花にも花言葉と云ううのがあるんですね?」
「そうですね」
「ご存知ですか?、紫陽花……」
「いえ、知りません」
「わたしも、さっき教えて貰ったんですよ、《耐える愛》なんだそうですよ」
「そうなんですか、何か寂しいですね」
仕事帰りの夕方とは違い、休日の午前中は、ゆったりとした気分で理容椅子に座っていられた。何となく心地良く、B.G.Mのバロックのオーボエ協奏曲が眠気を誘うように流れている。
「今迄は、お仕事帰りでしたよね、今日は珍しいじゃないですか?」
「はい、烏丸三条の書店にちょっと……」
「そうですか、今日で三回目になりますね、何時もありがとうございます。良かったら、今日、サービスカードをお作りしますのでご利用下さい」
「そんなのがあるんですか?」
「ええ、一回お見えになる毎に五ハーセントずつ値引き得点を差し上げて、最高五十パーセントまで貯めて頂くと、そのまま半額料金でやらせて貰います、今日で十五パーセントと云うことになります、途中の割引パーセントでご利用になられても結構です」
「凄いですね、じゃぁお願いします」
「ありがとうございます……。ユミちゃん、カードを準備して上げておいて?」
「はい」
来るのが早かったからなのか、休日は何時もこうなのか、恭一のセットが終わっても、次の客の姿は見えなかった。
「お疲れ様でした。まあ、お休みなら、掛けてゆっくりしていって下さい」
「ありがとうございます」
沖縄地方は間もなく入梅と云う声も聞かれていた。少しサロン内の湿度が高くなったのか、エアコンが効かせてある。
書店に行くには少し早い、次の客が来るまでと思い、待ち合いのソファーに腰掛ける。
ユミちゃんと呼ばれた、何時もの若い女性が恭一の傍に来てカードを渡しながら遠慮がちに言った。
「すみません、裏に、お名前をサインして頂けますか?、他の事には使いませんので」
「あっ、はい」
恭一は渡された細字用のサインペンとカードを受け取ると、名前を書き込んで女性に返す。
「カラキ、キョウイチさんで宜しいですね」
「ええ、ユミさんと云われるんですか?」
「あっ、はい、ヒナタ、ユミと云います」
硬い表情に僅かな笑みを浮かべて答える。
カードと釣りを貰っている時、奥から好い香りがして来た。
夫人がコーヒーを淹れたからと言いながら、トレーにカップを載せて持ってくると、従業員に個人専用のマグカップを取らせ、恭一にも「どうぞ」と言って、ひとつだけソーサーに載せたコーヒーカップを取らせた。
「ありがとうございます。でも、いいのかなぁご馳走になって……」
「ご遠慮はいりません。ごらんの通り、土日の朝はお客さんが少ないですから」
「そうなんですか?」
「近所にお勤めの皆さんは平日の夕方が多いんです。お休みの日ぃは、子供さんぐらいですから」
「じゃぁ、頂きます」
有美もソファーの端の席に座る。
明るい光の中で見る有美は初めてだった。
端正な表情が、無機質な石膏の彫像のように恭一には映った。
マグカップを口に付けて飲むとき、とても上品で美しい印象を与える。飲み終わってカップから離した唇の形が綺麗だった。恭一は気付かれないように、実はよく見ていた。
夫人が言った。
「失礼やったら、堪忍して下さいね?」
「ええ、何ですか?」
「お休みやのに、どちらから、お見えにならはったんですか?」
「今日は、堀川北大路の近くの実家からです」
「そうですか。お休みやのに、わざわざ寄って頂いて、おおきに、ありがとうございます」
「いえ、髪が硬いので嫌がられる理容師さんもおられますから、逆に気に入って貰えないと困るんです」
「そないなことは、気ぃにしはらんかて宜しいですよ」
「普通のひとより早目にカットに来ないと駄目なんです。学生時代はスポーツ刈りでしたから、ある程度は放っていたんですけど、母に注意されて、せいぜいひと月に一回やっていたんですが、社会人になって営業に出るようになりましたから、一応きちっとしておかなければと思って早めに来るようにしているんです……」
有美が遠慮がちに言った。
「学生時代は、何か運動をしておられたんですか?」
夫人も言った。
「ほんとに、背ぇがお高いから……」
「陸上競技の、走り高跳びです」
三人の男性理容師も、立ったままで恭一の話しを聞いている。
暫くすると、小学生くらいの子供が、祖父らしいひとと一緒に入って来た。
「有美姉ちゃん、おはよう」
「はい、克っちゃんおはよう」
恭一は立ち上がって言った。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました。それじゃ……」
有美は丁度店に出て来たマスターに子供を引き渡すと、ドアを開けて恭一を見送る。
「ありがとうございました」
控えめな笑顔だった。目元は嬉しそうなのに、表情はあまり崩さずに言う……。不思議な魅力を恭一は感じた。

近畿地方に入梅のニュースが流れて数日後だった。
その日は、朝から雨が降り続いていた。
仕事を終えた恭一が会社のビルの外に出たときも、まだ降り続いていた。
傘を差しながら、烏丸通を歩いて地下鉄駅に向っていた。
歩道に弾く雨で湿気たスラックスの裾を乾かそうと思い、エアコンの効いている烏丸三条の書店に入る。
時間潰しに、旅の雑誌を見ていたそのとき、後ろから肩を叩かれる。
「唐木さん……」
恭一が振り向くと、ヘアサロン・ライトの理容師の一人だった。
「ああ、どうも、今日はどうされたんですか?」
「僕らも、たまには休ませて下さいよ……」
「そうか、月曜日でしたね。本探しですか?」
「嫁さんに頼まれてね、離乳食の本を……」
「えっ、結婚されているんですか?。それより、僕はお名前を知らないんですが?」
「そうだ、失礼、野口勝男と言います」
「野口さん……。それで、本は見付かったんですか?」
「ええ、これです」
「野口さん、よかったら隣のカフェに行きませんか、ご馳走しますよ」
「そう、じゃぁ、レジを済ませてきます」
二人は隣接するカフェに移動して話し始める。
「野口さんは、お幾つなんですか?」
「僕?、二十八歳、結婚二年目ですよ」
「ライトでは若い方ですか?」
「中ほどかな、斉藤さんが三十二で次が僕で、竹中君が二十五だったと思うから……」
「有美さんは理容師さんじゃないんですか?」
「有美さんは医療専門学校を出て、柔道整復師とか云う資格を持っているんですけど、理容師じゃないですよ」
「なのに、どうしてライトに勤めているんですか?」
「どうしてって……、以前は整体医院に勤めていたけど、お客さんに迷惑をかけるからとか言って、辞めたみたいですね……」
「迷惑?」
「うん、それで両親の手伝いをしているってことかな……」
「それじゃぁ、有美さんはマスターの娘さんですか?」
「そうだよ、上に、もうひとり年子のお姉さんがいるんだけど、麩屋町通の四条から下がった辺りにある《スィゴニュ(コウノトリ)》って云う美容室に勤めているんですよ」
「そうですか。有美さんは綺麗だからボーイフレンドも多いんでしょうね?」
「いや、居ないと思うよ……」
「竹中さんなんかは、どうなんですか?」
「竹中君には彼女がいるよ。マスターも奥さんもライトを継がせたくて婿探しに必死みたいだね。唐木さんもターゲットになっているんじゃないかな?」
「それは無いでしょう」
「いや、この前、コーヒーが出たでしょ、適齢期の若い男性が見えると出るんだよね、まぁそれは冗談だけど……」
「さっきの整体医院で迷惑を掛けるって、どう云うことなんですか?。有美さんは優しい話し方だし、患者さんの好感度はいい方だと僕は思うんですけど……。それと、ほんとに特定のボーイフレンドはいないんですか?」
「唐木さん、気になるみたいだね。内緒だよ、有美さんね、僕も原因はよく知らないんだけど、中学の頃から右の眼の辺り筋肉が引き攣る癖があるんだよ。本人は自然に笑っているんだけど、顔の右半分だけ、そうだなぁ、思いきり笑うとニヒルな感じに見えるんだろうなぁ……。ひとによっては怖く感じることもあるのかなぁ……。それで前の整体医院を辞めたらしいんだね」
「そうですか、それで、精一杯の笑顔が出来なかったのか?……」
「唐木さんは驚かないんですか?、何か、ほっとした顔をしてるけど……」
「どうしてですか、優しい好いひとだと思いますけど」
「そうか……、そんな風に感じるひともいるんだ。確かに、僕らも何とも思わないからな……。有美さんも、唐木さんみたいな人と恋愛をすればいいんだよな……。でもなあ、店の中に居たんじゃ、なかなかロマンチックな出逢いはないよねぇ……」
「野口さんのこどもさんは、お嬢さんですか?」
「いや、男の子。お袋は女の子の孫が欲しかったみたいだけどね。良かったと思ってる。マスター夫婦を見ていると、娘だと苦労しそうだから……」
「何と言う名前ですか?」
「唐木さんに似ているよ。球一(きゅういち)って言うんだ、ボールの球、僕は高校時代、硬式野球をやっていたんでね、息子にも野球をさせようと思っているんだよ。唐木さんくらい大きくなってくれると、いいんだけど」
「僕なんか大きいだけで駄目ですよ。でも楽しみですね」
「ああ、僕と一緒なら、唐木さんも来年当たり結婚ですよ?」
「来年なんて、僕はまだまだですよ。話しは違いますけど、ライトのマスターの苗字は何と言われるんですか?」
「だから日向(ひなた)だよ、陽が当たる処だからライトって付けたって、マスターが何時か言っていたな……、冗談かも知れないけど……」
「そうか、日向有美さんなんだ。お姉さんはどんなひとなんですか?」
「美紀ちゃんは二十三歳かな、有美ちゃんと違って活発なタイプ。でも美人だよ。
マスターも奥さんも、美紀ちゃんが婿さんを連れて帰って来てくれて、美容院でも理容室でもやってくれればいいって、何時も話しているよ。美紀ちゃんは専門学校の在学中にコンテストで賞を取ったりしているからね、髪結いの亭主で行けるよ。だから、婿さんになるひとは京都のひとなら、同業でなくてもサラリーマンでもいいらしいよ。但し、転勤の無いのが条件らしいけど……。でも、美紀ちゃん本人は、どう思っているのか分からないけどね」
「色々あるんですね」
「おっと、遅くなると嫁さんに叱られるよ。ご馳走になっていいの?」
「いいですよ。気を付けて」
「唐木さんは地下鉄を降りても歩きでしょ?、まだ降っているよ。それじゃぁ、コーヒーごちそうさん……」
「失礼します」
恭一は有美に彼氏がいないと聞き、何となく安心している自分が可笑しかった。
霧雨になった歩道を走り、烏丸御池駅の地下に続く階段口に飛び込む。
地下鉄今出川駅で降りて地上に出ると、まだ霧雨は降り続いていた。
手に持った傘を開くことも忘れて、霧雨の中を歩いて家に向う。
色白の日向有美の、動きの少ないクールな表情の中で、少し垂れ気味の黒い眉毛と長い睫毛が印象的だった。
黒い大きな瞳が、何時も優しく自分を見詰めてくれている……。そんな空想をしながら、家に着いて玄関を無言で開ける。
「ただいま」を言うのを忘れていた。
玄関の開ける音と、声がしないのを気にした母親が訝しそうな表情で玄関に出て迎えてくれる。
「あら!、おかえり。恭一、なんかあったんか?」と声を掛けられて恭一は我に返った気がした。

夕食を済ませて部屋に戻っても、初めて有美のプライベートな一面を聞いたことが尾を引いていた。
野口を見送った後、暫くカフェの窓から雨の夕暮れの烏丸通を眺めていた自分を思い浮かべる。
霧雨の中に有美の遠慮勝ちな笑顔が浮かび、それがずっと頭から離れず、ベッドに入ってからも眠られず、朝まで深夜放送を掛けたままだった。
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