第1話〈ハイジャンプの仲間〉

文字数 5,443文字

(一)
唐木恭一がヘアサロン・ライトに通うようになったのは、大阪本社の一年間の新入社員研修が終わった翌年、入社二年目の春だった。
京都支店はオフィスビルが立ち並ぶ烏丸通から蛸薬師通を少し入ったビルの中にあり、ヘアサロンは歩いて10分も掛からない東洞院通に在る。

恭一は新任で着任した同期の友人ふたりと蛸薬師通を東に歩き、東洞院通との交差点の傍にある御射山(みさやま)児童公園の夜桜を見た後、烏丸御池交差点近くのビルの地下に在る居酒屋に向って歩いていた。
前方の薄暗い道路の一角が明るく照らされて目立っていた。其処に差し掛かると、左側に膝元くらいの高さから天井まである大きなガラス窓のヘアサロンが道路から3mほど奥まった所に在り、明るい店内の様子が見えた。
恭一は友人達から少し遅れて歩きながら、大きくて明るいウインドウ越しに何気なく店内に視線をやった。
店内のレジスターの傍に立ち、無表情に外を見ていた女性と目が合う。
意外にも彼女は首を少し傾げて、歩き過ぎる恭一に会釈をした。
恭一も無意識に、少し頭を下げながら通り過ぎる。
恭一は歩きながら暫く記憶を辿っていた。どう考えても知り合いの女性ではない……。
気付くと友人ふたりから5、6m離れていた。ふたりに追い付いて居酒屋に向った。

恭一は幼い頃から自宅のある堀川北大路近くの理髪店に通っていた。
店主が高齢になり、流行の技術に付いて行けなくなったのと、手が遅くて待ち時間が長くなるようになった。
大学生になってからは、通学途中のヘアサロンに通うようになった。
特定のヘアサロンに拘って通った訳ではなく、タイミング良く気付いた所に在れば其処に入った。卒業後も特に決めたヘアサロンは無かった。
母親は少しでも恭一の髪が耳に掛かるようだと「お金はあげるさかい、散髪に行きなはれ。気持が悪いことないの?」と、口癖のように子供の頃から言っている。
学生時代は陸上競技をしていたからショートカットで過ごしたが、生まれながらの硬い髪は、頭から放射状にピンと立ち、直ぐに耳の外側にはみ出す。
髪を伸ばすようになってから、幾らか毛先が寝るようになったものの、母親が気付くと相変わらず同じことを言われた。

京都支店に勤務するようになってから、初めて母親から散髪へ行くようにと言われた。昔と変わらない言葉だった。
その日、恭一は仕事が終わると直ぐに近所の蕎麦屋に行った。
鴨南蛮蕎麦を上顎が火傷しそうなくらいの速さで一気に食べ終えると、急いでヘアサロンに向う。
閉店30分前にヘアサロンの前に着く。初めて店の前を通ったとき、店の名前を憶えていなかった。
道路から奥まった場所に置かれたアクリルの行灯看板には、《ヘアサロン ライト》の青い文字が、白いアクリル板に浮き出ている。
店の前を少し行き過ぎると、さり気なくウインドウ越しに店内を窺っていた。そのとき、突然、ドアが開いて若い女性が右手をドアノブに掛けたまま恭一を見る。
「どうぞ、空いていますから……」
恭一が恐縮しながら店内に入ると、思ったより奥行きがあり、理容椅子が五台据えられている。
ふたりの客が、理髪椅子に腰掛けていて整髪中だった。
腰に提げた皮袋に、理髪道具の櫛や鋏を差し入れた理容師は、男性が四人と女性が一人いる。
恭一を呼び込んで案内をした女性は、短いエプロンだけをしている。
着ている服装や態度から、理容師ではないのかと恭一は訝った。
いちばん年長の男性が理容椅子を指して「どうぞ、こちらへ」と恭一を招く。
温めたタオルで頭を湿しながら、ヘアスタイルの希望を訊かれる。
「全体を軽く刈って下さい。刈り過ぎると跳ねてしまうので、耳の上は少し短めで、それと顔剃りは結構ですので……」
「そうですか、分かりました。硬そうな髪ですね……」
カットが始まって暫く経った。
「ご近所にお勤めですか?」
恭一は第一印象でサロン内の雰囲気を気に入り、常連になるつもりになっていた。
「ええ、近くです。烏丸通から蛸薬師通を西に入って三軒目のビルです。この春、着任して来ました」
「今まで、お仕事ですか?」
「いえ、ちょっと蕎麦屋で腹ごしらえをして来ました」
「そうでしょうね。昼ご飯から八時間じゃぁ、若い方は持ちませんよね。うちは初めてですよね?」
「はい。この前、花見の帰りに此処の前を通ったものですから」
「ありがとうございます。この界隈に理髪店は結構あるでしょう?」
「そうですね……」
話し振りから店主だと分かる。女性の理髪師は店主の奥さんのようだった。
若い女性は、店内の床に落ちた髪の毛を履き集めたり、タオルを整理したりして雑用をこなしている。
「本当に、顔は当たらなくても宜しいんですか?」
「はい。皮膚が少し弱くて、剃刀を当てると赤くなって湿疹が出たりするんです」
「そうですか。それじゃぁ、際剃りだけで宜しいですね?」
ミラー越しに時々見える若い女性は、色白で細面の顔にショートカットが良く似合い、何処となく目元が二枚目の店主に似ていた。
整髪が終わったとき、サロン内の客は恭一だけになっていた。
大きなウインドウには、淡いグリーンのカーテンが引かれて閉店を示している。
丁寧にブラシを使って、ワイシャツの髪屑を払ってくれた。
「お疲れ様でした。まあ、ゆっくりしていって下さい」
理容椅子を降りると、若い女性があまり笑顔を見せずに、遠慮がちに恭一のスーツを広げて着せ掛けてくれた。
「どうぞ……」
「ああ、どうも……」
恭一はウォレットから一万円札を取り出して渡す。
彼女は金額を言うと、新札の千円札を扇のように広げて、確認をしてから揃えて手渡してくれた。百円玉もぴかぴかだった。
「ありがとうございました。また、どうぞいらして下さい」
声は優しくて綺麗だった。遠慮がちな笑みが恭一に向けられる。
恭一は彼女がレジスターを触っているときに横顔を見ていた。睫毛が長く、肉付きの少ないすっきりとした横顔だった。
応対に笑顔が少ないのは、自分が気に入られていないのかと少し落ち込んだ。
帰るときにドアを開けてくれたのは彼女だった。
店のひと達は「ありがとうございました。お気をつけて」と声を掛けてくれた後、振り返って掃除に取り掛かろうとしている。
最後に見送りに道路に出て来た彼女は、今まで見せなかった笑顔で恭一に言った。
「ありがとうございました。この前の夜、お店を覗いて下った方ですよね?」
「参ったなぁ、憶えていたんですか?」
「また寄って下さいね。おやすみなさい」
「ありがとう。おやすみなさい」
恭一は暗くなった通りを歩いて最寄の地下鉄烏丸御池の駅に向った。
ヘアサロンのウインドウから漏れる、淡いグリーンの灯りに照らされた彼女の姿が目に焼きついていた。
顔全体を正面からよく見ることは出来なかったが、灯りに照らされて陰影の付いたその表情は、外国の映画女優のポートレートを連想させ、恭一には魅惑的に映った。
その残影がヘアサロンに背を向けてから、ずっと頭から離れなかった。
地下鉄今出川駅で降りて、歩いて家に帰る途中も、恭一は彼女の最後の笑顔を思い浮かべていた。
(二)
帰宅した恭一の頭髪を見た母親の直子は、「お帰りなさい、すっきりして来たんやね……。夕飯は、まだなんやろ?」とだけ言って何故か嬉しそうだった。
恭一が着替えを済ませて食卓に付くと、妹の碧が二階から下りて来た。
「お兄ちゃん、お帰り、京子さんから電話があったわよ」
「碧(みどり)にか?」
「違うわよ。お兄ちゃんに……。ねえ、会社を出たら個人携帯の電源を入れないと駄目じゃない?」
「そうだ、悪い。今日は散髪に行くことにしていたからな。忘れていたよ」
「どうして散髪に行くのに忘れる訳?」
「だから、会社が終わったら直ぐに蕎麦屋に寄って、それから急いで行かないと閉まっちゃうだろ……」
「そんな……。大阪に通っているときは、そんなことなかったのに……、京子さんと話したくないの?」
直子が言った。
「恭一。そうやの?」
「別に、そんな仲じゃないから……」
碧が言った。
「嘘……。京子さんはそのつもりなんじゃないの?」
「高校生の癖に、大人のことに口を出さなくてもいいよ……」
「失礼ね、もう大人よ。知らないわよ、伝えたからね。京子さんに電話してね?」
「分かったよ、悪かった。後で電源入れて着信を見てみるよ」
直子が味噌汁を温めながら言った。
「京子さんとは、もう付き合うてないの?」
「付き合うって……、大学時代も練習の帰り以外は、そんなに会っていなかったんだよ。恋人じゃないんだから……」
「そうやの、大阪に通うてるうちに、あんたが疎遠にしたんと違うの?」
「そりゃぁ研修中だから、あまり電話をしないようにとは言ったけど、そんなのは別に関係無いよ」
「ええけどな……。お母さん、京子さんは、ええ娘はんや思うえ」
「彼女は自分の身長に見合うから、僕と一緒に行動をしていただけだから……」
「そうやろか?。あんた、他にええひとでも出来たんと違うの?」
「違うよ、研修が終わって新しい職場に着任したばかりだよ、そんな余裕はないよ。ごめん、ご飯をもう少しいいかなぁ……」
「あら、お蕎麦、食べて来たんと違うの?、太るえ……」
(三)
桜井京子は恭一と同じ大学の陸上部でハイジャンプをやっていた身長178cmの大柄の女性だ。
陸上部内の食事会でも競技会場の行き来でも、何時も192㎝の恭一の傍にいたから自然と他の部員より親密になっていた。
卒業後は、自分の母校でもある市内の私立女子中学校教師として勤務している。
夕食後。恭一が部屋で携帯の電源を入れると、電話着信履歴に三件、伝言が一件入っていた、四件とも京子からだった。
恭一が京子と電話をするのは、正月に元陸上部のメンバーが集まる新年会の伝言を、仲間で決めた連絡網に従って京子が掛けて来た以来のことだ。
そのときは新年会の開催連絡よりも、恭一が参加するのかどうかと云うことの方が、話しの中心だったことを恭一は思い出す。
携帯に電話を掛けると、京子は直ぐに出た。
「恭ちゃん、ごめんね。京都に戻って来たんやったら電話くらい掛けてくれてもいいんと違うの、冷たいんやから……」
「久し振りやのに、そんな挨拶かよ。京やんは二年目だからええけどなぁ、配属が決まって、ひと月も経ってないんや。それどころやないよ、それより職場は落ちついたんか?」
「まあね。今年から陸上部を見る事になったんよ、いざ、やろうか思ったら何にも手元に資料があれへんのよ、恭ちゃんやったら練習メニューとかきっちり作ってはったやろ?。もし、まだ持ってはったら貸して貰われへんやろか思って電話したんよ……。それと、携帯の電源入れてへんの?。何度もかけたんよ?」
「悪い。会社のと自分のを持って歩くのが面倒だから、昼間は自分のは切ってるんだ」
「会社の携帯は教えてくれへんの?」
「当たり前だよ、タイムカードを押したら会社の人間なんだ。私的なことは排除しているんだよ」
「相変わらず硬いんやね。それで、練習メニューとかスケジュールは持ってはる?」
「無いよ、あんなの中学生向きじゃないし、まして女の子だろ……。京やんのメニューの方が参考になるんと違うかな。書いたもんでなくても憶えてるやろ?」
「そう言われたら言葉はあれへん。それより帰って来たんやったら、会うてくれてもいいん違うの?、飲み代なら払うし……」
「だから、忙しいんだよ。今は先輩に付いて得意先の挨拶回りをしているんだ。体力には自信あるけど神経が疲れるんだ。京やんは、そんなに暇があるんか?、羨ましいよ。僕も教師の道を選べばよかったな……」
「何言うてんのよ、好きでスポーツメーカーを選んだんでしょ?」
「それはそうやけど、そのうち、京やんの学校にも行くかも知れんな」
「そうか……、やっぱり自分でやるしかないねんなぁ……」
「当たり前だよ、自分が教えて生徒が伸びれば、喜びは大きいぞ。陸上部出身で教師になったんは、京やんと長距離の清水だけやろ。後輩のためにもしっかりやれよ」
「そうやね。それより、連休はどうすんの?」
「うん、去年はゴールデンウィークも日曜以外は研修だったんだ。今年はゆっくり何処か旅行にでも行こうと思っているんだ」
「独り旅なの?」
「まあな、ひょっとしたら、同期で京都支店に配属になったのが三人いるから、そいつ等と行くかもな……」
「女性も居てはんの?」
「ああ、同期は男性が二人と女性が一人だけど、女性が参加するときは先輩の女性を誘うんじゃないかな……」
「いいわね。うちの女学校の教師には同期なんて居てへんのよ……」
「体育の男性教師なんかは居るんだろ、いいんじゃないか?」
「居てへんのよ。まあ、仕方ないなぁ、自分でやってみるわ」
「そうだよ、そうして良い教師になって行くんだ、努力しないとな。ハイジャンだって、努力してあそこまで行ったんだろ。入学当初の記録から最後は二十八センチアップだったか?、京やんも喜んでいただろ?。生徒にも同じ思いをさせてやれよ」
「そうやね。でも、恭ちゃんが一緒に居てくれたから努力できたんよ。わたしは、今でもそう思ってるんよ……」
「ああ、それは僕も言えるな。ハイジャンは四回生まで、同級は僕と京やんだけで後輩も少なかったからなぁ……。折角だけど、役に立てなくて悪かったな。しっかりやれよ」
「分かったわ。ありがとう、ほんなら、又……」
恭一は京子の気持ちが分かっていたが、誘いには素直に応えられなかった。
ゴールデンウィークの咄嗟の嘘が何となく心苦しかった。
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