第2話 宇宙の夢編

文字数 3,193文字

日本へ向かう道のりの中で、さまざまな突発的な試練に機体は見舞われた。雷雲への突入によって引き起こされたエンジン・トラブル、無線の不調によって管制塔との連絡が途切れたことによる空軍とのドッグ・ファイト、そして戦争地域を通り抜ける間にドローンとのバード・ストライクのような飛行機事故が勃発しそうになったこと、などが主な出来事だった。
各国を通過するたびに、現地の管制塔とのやりとりをすることは、ハロルドなりに努力していたものの、英語のみしか話すことのできない彼は言語やスラングの違いなどによるコミュニケーションの齟齬で、トラブルは尽きることがなかった。同じ人間同士であっとしても、母国語が異なることが互いの理解に差を生むことが、森から初めて出たゼイドには衝撃的だった。そのため、何度かトルコのイスタンブールの空港やインドのデリーの空港などに、トラブルが解消して安全にフライトができるようになるまで、着陸するという不測の事態が発生した。その都度、ゼイドとハロルドは飛行機の不調や、その国家特有のトラブルが収まると分かるまで、市内を観光するなどして、少しでも旅の気分を味わい、時間を有意義に過ごそうと、心ゆくまで、その地域の持つ固有の香りを満喫していた。そのような経験は、あのままブーランジェとして、森でパンを焼く日々を過ごしているだけでは、決して味わうことのできない、貴重で濃厚な非日常的空間での邂逅だったので、ゼイドにとっては、何もかもが、新鮮で、ステキな、味わい深い、実際に肌身で感じられる本物の映像が目の前に流れていた。その度に、ゼイドは師匠の話した最後の遺言がずっと頭の中で響いているのだった。
《ゼイドよ。お前の父さんは勇敢だった。立派な森の番人だった。あの街の中心部で起こった、7月29日の革命によって、現職の市長が転覆し、政権交代が起こったあとも、政権を奪い取った忌まわしき市長から、我々の森の秩序と、我々の生きる源泉である泉を守り抜いたのだ。我々森に生きる者にとって、泉の水が保たれ続けるということがどのような意味を持つものか君にわかるだろうか?あの泉は、ただ水が湛えられている泉であるというわけではないのだ。我々の数千年続く森の歴史と、何者にも侵略されることなく独立を守り抜いた我々の森の権威の象徴なのだ。ゼイドよ。きっと君は、私の宝を発見し、世界中の様々な物事を見分し、そして再びこの森に戻り、我々の森と我々の泉を目撃するとき、どれだけ君の過ごしたこの森が非常に絶妙なバランスをもって存続する誉れ高き場所だったのか、ということに気が付くに違いない。もし君が遠き東洋の国に暮らすことになったとしても、この自然と調和することのできる森、そして君を育んだ生命の泉のことだけは君の記憶の中にとどめ続けてほしい。その2つを覚えておくことが君の人生に役に立つ時がきっと来るはずだから。》
ゼイドとハロルドは、飛行機のトラブルに見舞われたため、当初の予定よりは時間を費やしてしまったものの、6日と12時間のフライトで日本の羽田空港に到着した。もう日が落ちかかって、いつのまにか夕方になってしまったので、今夜は空港の近くに立地しているホテルに2人で予約を取って宿泊することにした。この師匠が肺ガンで亡くなってからの5年間という時間を、ゼイドの暮らす森に住む唯一の日本人である中村宏さんが家庭教師をしてくれていた。彼と共に日本語を学び合うことで、ゼイドは日本語の読み書きがある程度のレベルまで、できるようになっていた中村さんの指導は、日本語の持つ抽象的な美しさを、具体的なイメージから教えてくれたので、非常にゼイドにとってその言語の面白さを知るきっかけになって、厳しくも暖かい有意義な時間を過ごせた。例えば、中村さんは、「騒がしいって、どういう意味だと思う?」とゼイドに尋ね、「この森の言葉で説明すれば、騒音に悩まされて困るという意味だと思うな」と言って、その次に中村さんが「日本語では、外に雨が降っていて、雷もなっているし、非常に騒がしい。落ち着いて食事をとることもできないほどの雨だ。みたいに使うんだ」と的確な表現で、明瞭な美しい日本語に変えてくださった。このような真剣なやりとりが週3回ずつで5年間続いた。
羽田空港の税関などでも完全に異国情緒のある外国人の風貌をしているゼイドだったが、なめらかな美しい日本語で、「パンを焼くための折りたたみ式の釜を持ってきたのですが、これは税関に通りますか?通らなければパイロットのハロルドに持ち帰ってもらいます」と語るので、税関職員は感服していた。
「ステキな海外からのお客様ですね。とても美しい日本語を流暢に話す。日本人と交流があったのでしょうか?」
「ええ、ありました。僕の生まれ故郷に住む中村宏さんという日本人の男性の方から5年ほどレクチャーを受けて、日本語の学習を続けていました。学習の成果がここで出せて、僕は今とても嬉しいんです。話を聞いてくださってありがとうございます」
「あっ、この釜は税関を通せますよ。ぜひ、日本でも美味しいパンを焼いて、心ゆくまで召し上がってくださいね」
「あなた方はとても優しい。森の天使のようだ」
「森の天使だなんて、ロマンティックですね。ご覧になったことはおありですか?」
「ええ、森には天使と悪魔が木の上で眠っていますから」
「あなた方の森には、想像上の生き物が棲息しているのですね。とても興味をそそられる。今度見に行ってもいいですか?」
「ええ、どうぞご覧ください。たくさんの生物や神々が住んでいますよ。例えば、ユニコーンや鵺などがいます」
「へぇ、鵺とユニコーン。面白い!いけない、喋り過ぎてしまいました。それでは、日本での旅をどうぞごゆっくりお楽しみください」
飛行機で世界各国を飛び回っていた時のような、言語の違いによるコミュニケーションの問題は日本に来てからは殆ど感じることがなかった(ハロルドは笑顔で乗り切っていた)。その事実は、ゼイドにとってはこの日本という土地が安心・安全なコミュニティなのだと感じさせた。そう考えると、不思議と外国にいる旅行者特有の孤独感は癒されていた。
空港での気持ちのいいやりとりを、ゼイドとハロルドは、ホテルの部屋に備え付けられている露天風呂に浸かりながら、星を眺めて思い出し、とびきりの癒しを得ていた。日本の温泉というのは、とても心が温かくなって、不思議な居心地の良さを感じさせる、と湯気の上がる温泉の湯船に浸かりながら、ゼイドはハロルドと心ゆくまで語り合っていた。
ゼイドは、《シルヴァさんにはお世話になったから。》と言って、親切に日本語の教師を買って出てくれた中村さんに、この澄み渡る空のような感謝の気持ちを抱いていた。40度ほどの温度に保たれた露天風呂は、天然の泉質のいいお湯が流れていて、身体の芯まで2人は温まって、満足感を持ちながら、温泉を上がった。温泉入浴中にちょうど準備された懐石料理を食べて、その日は眠りについた。
その日、ハロルドは木星の周りを宇宙船で旋回する夢を見た。その惑星は、もともとのガスで出来た星から、人間の手によって開発が進んで、コンクリートのような地面になっていて、誰でも歩けるようになっていた。骨格のしっかりした、アポロ時代から続くシリーズの最近デザインが一新した宇宙服を身に纏う、アメリカ人の宇宙飛行士たち3人が木星の上に星条旗をはためかせて写真を撮り、ライブコマースで世界中に中継している非常に立体感のあるリアリズムな夢だった。ハロルドは、夢の中で、宇宙空間に漂う塵と重なり合いながら、ふわふわと浮かんで、彼らが木星に星条旗を立てる姿をじっと眺めていた。地球人を見守る宇宙人の気持ちを数10分間味わう、至福の夢だった。
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