第1話 森の対話編

文字数 3,194文字

とある国家のとある森の中で、切り株に腰かけた70歳近くの木こりの老人が、まだあどけなさを残した15歳ほどの年齢の男の子に対して、大事なことを話すときの重い口ぶりで、優しく諭すように言葉をかけていた。彼らの座る切り株の周辺には、春らしい陽気を感じさせる草花がパッと萌え出ていて、子鹿や小鳥などの幼い動物たちが、地面に落ちているクルミや葡萄などの木の実をツンツンとついばみながら明け方の朝食を済ましていた。そして、彼らの後方には、パルテノン神殿を建造した建築家の弟子が硬質な大理石で建築した清らかな泉が水を湛え、中央に噴水が湧いている。老人は、再び語り始めた。《人間とは、君が想像している以上に奥深い。井の中の蛙大海を知らず、という東洋の国家の古い諺が指し示すように、広い世界を知らないで、桜が散るように風の前の塵として、空に消えて行く者と、この森の外に広がる大海原を渡り、人生の航海の舵を取ることで、やがて蒔いた種が花をつけて実を結び、限りない大空へと飛翔しゆく者。そして、自らを信じ抜き運命の鍵を開いて天高く舞い上がる真の勇者こそが、この地球という広大な大地を牽引する王者になる資格を持つのだ。》
老人は、そこで一息ついて呼吸を整え、男の子の名前をはっきりと呼んだ。
《ゼイドよ、君にはこの森から抜け出して、今我々の頭上を悠々と飛翔する巨大な鷹、そう、あの空の王者のようにこの世界を巡り、今の自分には何ができるのかという理想を追求して欲しいのだ。私のささやかな遺産が、この森からおよそ1万キロ近くも離れた遠き国に眠っている。これがその遺産が眠る土地を示した40年前の地図だ。》
老人はきつい匂いのする古びた地図を、彼の奥さんにもらった革のバッグから取り出して、男の子の左手の掌に乗せた。
《私の命は、もう長くはないだろう。しかし、君にはこの宝物とともに生き延びて欲しい。そこの国は、私の青年時代に訪れた場所だ。とても平和ないい国だった。私には、その国に言葉では言い尽くせない非常に深い恩義がある。どうか、君には、その宝を自らの立身出世と、その国の後世まで永遠に続くさらなる発展のために使って欲しい。》
思春期を過ごす青少年には珍しく、男の子は胸に熱いロマンを感じて、老人の話を必死に頷きながら飽きることなく聴いていた。
《悲しいことではあるが、私は見ての通りこの身体だ。老いと死は目の前まで迫ってきていることがはっきりと自覚できる。この身体の衰えと残されたタイムリミットを考えると、私はもうその国に訪れることはできない。》
老人は、再び息を吸い込み、決心したようにため息交じりの深呼吸を繰り返した。
《ゼイドよ。君にはまだこの先に大いなる希望に満ちた幸福な未来が待っていることだろう。是非とも、君には40年前に私が血と汗と涙を流して、苦心に苦心を重ねながら創造したその宝を見つける旅に出て欲しい。その宝が君の人生に役立つときがきっと来るはずだから。》
それが、15歳のゼイド少年が、森の成人の儀式を済ませた翌日に聴いた、彼の人生の師シルヴァ伯爵から託された言葉だった。老人は、その一連の言葉を彼に渡してから、きっかり3ヶ月後に彼の元から消えて、帰らぬ人となった。死因は、末期の肺がんだった。
老人は、自分の命がもう長くないことを、身体の痛みや心身の不調から分かっていたようだが、自分が生まれ育った森から抜け出して、最後の尊い時間を街の病院で費やすことを拒否していたため、ゼイドたちは、森にある小さな「サンセット・クリニック」という病院に勤めるオーリエ医師を、自宅に呼び寄せて、家族、ゼイド、そして主治医のみで老人の最期を看取ったのだった。
老人が亡くなる3日前には、彼はとても苦しそうで、血痰を吐いたりして、死を受け入れまいと肉体と精神が戦っていたが、亡くなるその瞬間は、緩慢と近づく死の扉を開こうと静かな表情で、サムライのように少しだけ微笑しながら、あの世の旅立ちへ誘う天使を迎え入れていたのだった。
老人の亡くなる5分前の最後の言葉を、ゼイドは今も鮮明に覚えている。《ゼイドよ、あれを頼む。必ず見つけ出してくれ。》
そして、老人の心電図の音が止まった。
彼は、師匠の放った最後の肉声を聴いてからというもの、以前にも増して精悍な顔立ちで、森の泉のそばにある「トポス・キッチン・スタジオⅡ」という名前のベーカリーで、眠る暇もほとんどないくらい必死に働いて、この森に流通する通貨である「ホルン」を約50万稼いで、旅の資金を創出した上で、長年の歳月をともに過ごしたジッドやゲーテなどの仲間たちとの懐かしい思い出に溢れる、自然豊かな、愛するその森に別れを告げて、街の繁華街へと自動運転車を走らせた。
街に到着してみると、ゼイドの森にはない数々の珍しい店が軒を連ねて、賑やかな観光客の声とともにひしめき合っていた。例えば、近未来を感じさせるショー・ウィンドウが眩しい高級ブティック、色とりどりの目に鮮やかなブルーやピンクの洋服を着たマネキンが並ぶファスト・ファッションの洋品店、そして21世紀的な解釈で建築されたモダニズムな複合型商業施設、などがあって、ゼイドは純真無垢なその瞳を光らせて、初めての街観光を楽しんだ。街の中心部では、シェアリング・エコノミーが発展していて、シェア・カーやシェア・ハウス、そして最新型のシェアリング・ジェットが、IDパスで鍵を開けて、30ホルンほどの金額を払えば、誰でもいつでもレンタルすることが可能だった。ゼイドの暮らしていた森での生活は、噴水の循環機構以外は殆どがアナログな設計になっていて、不便が当たり前だったので、あまりにもスケール感やデジタル化が進み、デジタル・ネイティヴな街での体験は、新しい驚きと発見の連続だった。ゼイドは、簡易的な作りの滑走路で、グランド・スタッフの女性からシェアリング・ジェットの使用方法を、初めて実践する街の言葉で、様子を伺いながら訊ねていた。誰でもパイロットを雇う方法さえ知っていれば、飛行機に搭乗可能だということが分かると、彼は感謝の言葉を彼女に述べた。森で磨かれた処世術を街で発揮したとき、ゼイドはたくましい大人の男性に変わりつつあった。街での生活も、森での生活の応用に過ぎないのだと、ゼイドは鋭敏な感覚によって直感していた。ゼイドは、パイロットのハロルドというミドル・クラスの中堅パイロットを雇った。シェアリング・ジェットはヘビー・クラス、ミドル・クラス、女性用のアトム・クラスの3種類に分類されていて、ゼイドが選んだのは、一番お金のかからない30ホルンで乗ることができる、自家用ジェットほどのサイズの飛行機だった。白い機体に薄いブルーのラインが入った、ホンダという、日本のメーカーの2025年モデルだった。ゼイドは、敢えて片道分の飛行機の値段しか払わなかった。なぜなら、師匠の宝を見つけることで自分の乗る飛行機のグレードがアップすることを絶対的に信じていたからだった。そして、燃料もギリギリのラインを攻めてくれとハロルドに頼んで、ゴーグルとヘルメットそしてライフ・ジャケットを装着して、機体の後部座席に乗り込んだ。師匠の遺産は、古代において日出ずる国と呼ばれた東洋の国・日本にあると地図が指し示していた。本田宗一郎の創業した「ホンダ」の、創業者が抱き続けた長年の夢を結集したホンダ・ジェットに乗って、今日本に向かうことに、ゼイドは不思議な縁を感じていた。ハロルドは、ホンダ・ジェットのエンジンを低音で鳴らして、プロペラが回り始めるのを無言で待ち続けていた。そして、管制塔との無線でのやりとりを行って、管制官の英語を話す男性が、「ハロルド、機体を上昇させよ」と伝えて機体が空へと振動を震わせながら昇っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み