第5話 男の素性は分からないままタクシーは進み(その1)
文字数 2,331文字
タクシーは交差点を左折し、県道を進んだ。ここからは浩一の家から遠ざかる一方だ。
浩一は不貞腐 れ、窓を流れ落ちる水滴の動きを見ていた。
「何だかんだ言っても、オリンピックは盛り上がりましたね」運転手が言った。どうせ話し相手は隣の男だろうと思い、浩一は無視を決め込む。
「僕的には女子バスケが一番盛り上がりましたね。お客さんは年齢的に野球ですか」
隣の男は返事をしなかった。今は目を開けているから眠っているわけではない。オリンピックの話には興味がないのかも知れない、と浩一は思った。
「一時期はオリンピックが原因で感染拡大したと騒がれましたけど、どうだったんでしょうね」
運転手は一人で喋っている。「実際に感染者数が増えましたから、それは本当のことなんでしょうね。でも、どうして最近は感染者が減ったのかな」
確か5分ほど前には、ワクチンの効果だと自分の口で言っていなかったか。浩一は矛盾に気づいたが指摘はしない。俺は怒っているのだ。無視、無視。
「冬になれば、今度は北京オリンピックですよ。早いですねえ」
何が早いのか。東京が1年遅れた結果だろう、と浩一は心中で言い返す。そして、運転手の喋りにツッコミを入れている自分が滑稽に思えてきた。
「運転手さん、この人が降りる時に起こしてね。俺、ちょっと眠る」浩一はそう言うと目を閉じた。本心では眠るつもりはなく、少し静かにしてほしいという意思表示のつもりだった。
男はどこまで行くのだろう。福祉センターを通過して進んでいけば、いずれ小学校に到達する。浩一はその辺りの地理に詳しかった。なぜならその小学校は、浩一がかつて通った中学校の学区内だからだ。
浩一は違う小学校を卒業したが、中学校で友達となった同級生の数名が、その小学校の出身だった。
小学校の先のコンビニでは何回か買い物をしたことがある。その先を曲がって登ると男は説明していたが、はたしてどこまで行くつもりなのだろう。
浩一にとっては地元みたいなものだから、頭の中には進んでいった先のイメージがあった。だんだんと民家が少なくなり、山の奥へと入っていくのではなかったか。
浩一の実家は、男の目的地とは反対方向だ。コンビニを曲がるところまで同じだが、登るのではなく逆に下った先にあった。父が亡くなり、母が兄夫婦の家に移ってからは空き家である。
兄夫婦はもともと実家で両親と同居していたが、10年前に転勤になって隣県に住んでいた。四年前に父が亡くなると、病気がちな母を引き取って一緒に暮らしている。
兄は、あと1年で大きなプロジェクトが終わるから実家に戻れそうだと言っていた。そうなれば母も喜ぶだろう。
そう言えば、さっき麻里に電話をかけた際、スマホ画面に兄からの着信履歴が表示されていた。電車に乗っているときに着信があったのだろうが気づかなかった。明日にでもリダイヤルしよう。
兄のところの子どもが何歳だったのかを考えているうちに、浩一の意識は混濁した。
浩一が意識を取り戻したのは、道路の凹凸で車内が揺れ、窓に頭をぶつけた時だった。タクシーは暗い道を走っていた。
車内は静かだった。濡れたアスファルトの上を走るタイヤの走行音と、ワイパーが往復する音だけが聞こえていた。窓の外はほぼ真っ暗で、街灯も見えない。
「ここは、どこですか」浩一は運転手に話しかけた。
「どこって――」運転手は力が抜けたような声を出した。「言われた通りにコンビニを右折して登っていますよ。とにかく登れというから」
浩一は横を見た。隣の男は目を閉じたまま、上半身を大きく前後に揺らしている。かすかに寝息が聞こえた。今度こそ眠っている。
「あんた、起きなよ」浩一はそう言うと、男の肩を軽く叩いた。「どこまで行くんだよ」
男は薄っすらと目を開けると、浩一に顔を向けた。そしてまた目を閉じた。
「眠るなよ」浩一は少し強めに肩を叩いた。「本当に、こんな方向にあんたの家があるのかよ」
浩一の記憶では、コンビニを曲がってひたすら登っていけば、いずれ集落に着く。だがそこは観光名所となっている温泉地である。景勝地であり、避暑地だ。仕事帰りの男がタクシーで乗って帰る場所には思えなかった。
「運転手さん、おかしいよ。ちょっと停まろうよ」
浩一がそう言うと、運転手も同意し、ハザードを点滅させて道路脇に車を停めた。
「おい、起きなよ」浩一は男の肩を揺さぶりながら声をかけた。運転手は後部座席のドアの窓を開ける。冷気が水滴を連れて車内に入り込み、浩一は身震いした。
男は再び目を開け、ゆっくりと首を動かして浩一を見た。そして「着きましたか?」と聞いてきた。
「着いていないよ。頼むから道案内してくれよ」
「では、ここはどこですか?」
「知らないよ」こいつ、完全に寝ぼけている。
浩一は腹立たしい気持ちを抑え、「小学校の先のコンビニを右折して、西に向かって県道を登ってきたんだよ」と教えてやったが、男は無反応だ。
そのうち男の頭が垂れて、また目が閉じられた。浩一は困って運転席に目をやる。運転手も首を後ろに向けていたので、浩一と目が合った。
「どうしますか」運転手が浩一に聞いてきた。「このままじゃ困るんですよね」
「それはそうでしょう」浩一は向かっ腹を立ててそう答えると、横の男に向かって励ますように話しかけた。
「もうすぐ着くから起きていてくれ。頑張れよ」
だが男は恍惚の表情を浮かべ、夢の中に入りかけている。浩一は男の身体をもう一度揺さぶると、声を大きくして言った。「あんた以外には、あんたの家は分からないんだよ」
男は弱々しく「ふっはああ」と言葉なのか欠伸なのか分からないものを口から吐き出し、左右を見回すと、「ここはどこだろう」と呟いた。
浩一は
「何だかんだ言っても、オリンピックは盛り上がりましたね」運転手が言った。どうせ話し相手は隣の男だろうと思い、浩一は無視を決め込む。
「僕的には女子バスケが一番盛り上がりましたね。お客さんは年齢的に野球ですか」
隣の男は返事をしなかった。今は目を開けているから眠っているわけではない。オリンピックの話には興味がないのかも知れない、と浩一は思った。
「一時期はオリンピックが原因で感染拡大したと騒がれましたけど、どうだったんでしょうね」
運転手は一人で喋っている。「実際に感染者数が増えましたから、それは本当のことなんでしょうね。でも、どうして最近は感染者が減ったのかな」
確か5分ほど前には、ワクチンの効果だと自分の口で言っていなかったか。浩一は矛盾に気づいたが指摘はしない。俺は怒っているのだ。無視、無視。
「冬になれば、今度は北京オリンピックですよ。早いですねえ」
何が早いのか。東京が1年遅れた結果だろう、と浩一は心中で言い返す。そして、運転手の喋りにツッコミを入れている自分が滑稽に思えてきた。
「運転手さん、この人が降りる時に起こしてね。俺、ちょっと眠る」浩一はそう言うと目を閉じた。本心では眠るつもりはなく、少し静かにしてほしいという意思表示のつもりだった。
男はどこまで行くのだろう。福祉センターを通過して進んでいけば、いずれ小学校に到達する。浩一はその辺りの地理に詳しかった。なぜならその小学校は、浩一がかつて通った中学校の学区内だからだ。
浩一は違う小学校を卒業したが、中学校で友達となった同級生の数名が、その小学校の出身だった。
小学校の先のコンビニでは何回か買い物をしたことがある。その先を曲がって登ると男は説明していたが、はたしてどこまで行くつもりなのだろう。
浩一にとっては地元みたいなものだから、頭の中には進んでいった先のイメージがあった。だんだんと民家が少なくなり、山の奥へと入っていくのではなかったか。
浩一の実家は、男の目的地とは反対方向だ。コンビニを曲がるところまで同じだが、登るのではなく逆に下った先にあった。父が亡くなり、母が兄夫婦の家に移ってからは空き家である。
兄夫婦はもともと実家で両親と同居していたが、10年前に転勤になって隣県に住んでいた。四年前に父が亡くなると、病気がちな母を引き取って一緒に暮らしている。
兄は、あと1年で大きなプロジェクトが終わるから実家に戻れそうだと言っていた。そうなれば母も喜ぶだろう。
そう言えば、さっき麻里に電話をかけた際、スマホ画面に兄からの着信履歴が表示されていた。電車に乗っているときに着信があったのだろうが気づかなかった。明日にでもリダイヤルしよう。
兄のところの子どもが何歳だったのかを考えているうちに、浩一の意識は混濁した。
浩一が意識を取り戻したのは、道路の凹凸で車内が揺れ、窓に頭をぶつけた時だった。タクシーは暗い道を走っていた。
車内は静かだった。濡れたアスファルトの上を走るタイヤの走行音と、ワイパーが往復する音だけが聞こえていた。窓の外はほぼ真っ暗で、街灯も見えない。
「ここは、どこですか」浩一は運転手に話しかけた。
「どこって――」運転手は力が抜けたような声を出した。「言われた通りにコンビニを右折して登っていますよ。とにかく登れというから」
浩一は横を見た。隣の男は目を閉じたまま、上半身を大きく前後に揺らしている。かすかに寝息が聞こえた。今度こそ眠っている。
「あんた、起きなよ」浩一はそう言うと、男の肩を軽く叩いた。「どこまで行くんだよ」
男は薄っすらと目を開けると、浩一に顔を向けた。そしてまた目を閉じた。
「眠るなよ」浩一は少し強めに肩を叩いた。「本当に、こんな方向にあんたの家があるのかよ」
浩一の記憶では、コンビニを曲がってひたすら登っていけば、いずれ集落に着く。だがそこは観光名所となっている温泉地である。景勝地であり、避暑地だ。仕事帰りの男がタクシーで乗って帰る場所には思えなかった。
「運転手さん、おかしいよ。ちょっと停まろうよ」
浩一がそう言うと、運転手も同意し、ハザードを点滅させて道路脇に車を停めた。
「おい、起きなよ」浩一は男の肩を揺さぶりながら声をかけた。運転手は後部座席のドアの窓を開ける。冷気が水滴を連れて車内に入り込み、浩一は身震いした。
男は再び目を開け、ゆっくりと首を動かして浩一を見た。そして「着きましたか?」と聞いてきた。
「着いていないよ。頼むから道案内してくれよ」
「では、ここはどこですか?」
「知らないよ」こいつ、完全に寝ぼけている。
浩一は腹立たしい気持ちを抑え、「小学校の先のコンビニを右折して、西に向かって県道を登ってきたんだよ」と教えてやったが、男は無反応だ。
そのうち男の頭が垂れて、また目が閉じられた。浩一は困って運転席に目をやる。運転手も首を後ろに向けていたので、浩一と目が合った。
「どうしますか」運転手が浩一に聞いてきた。「このままじゃ困るんですよね」
「それはそうでしょう」浩一は向かっ腹を立ててそう答えると、横の男に向かって励ますように話しかけた。
「もうすぐ着くから起きていてくれ。頑張れよ」
だが男は恍惚の表情を浮かべ、夢の中に入りかけている。浩一は男の身体をもう一度揺さぶると、声を大きくして言った。「あんた以外には、あんたの家は分からないんだよ」
男は弱々しく「ふっはああ」と言葉なのか欠伸なのか分からないものを口から吐き出し、左右を見回すと、「ここはどこだろう」と呟いた。