第17話 男の語りとともに歩いた異空間では(その2)

文字数 1,958文字

「岩間浩一さん。浩一さんが生まれたのは昭和60年の9月です」

 和室の入口で、襖に寄りかかって立つ浩一に清水が言った。「そして由紀子がくも膜下出血で亡くなったのは昭和61年7月24日だった。私は彼女を看取ることができなかった。彼女を一人で()かせてしまった」

「最初から順番で説明してくれ」浩一は言った。清水は「分かりました」と答えたが、すぐには口を開かず、黙って自分の指先を見ていた。逡巡している様子だった。

 やがて清水は膝を正すと、両手を畳について浩一に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」清水は畳に顔をつけたままで謝罪の言葉を口にする。浩一は微動だにせず、その光景を眺めていた。彼の中には一つの想像が生まれていた。

「由紀子が倒れたことを私は知らなかった。まだ1歳にもなったばかりのあなたの世話をしてくれたのは、由紀子の親友だった里美さんでした。そして由紀子が亡くなった後、あなたを引き取ってくれたのも里美さんでした。彼女には感謝しても感謝しきれません」

 清水は嗚咽を漏らしていた。
「私は由紀子が元気であなたと一緒に暮らしているとばかり思っていたのです。きっと由紀子が実家に戻ったか、もしくは誰かと結婚して、あなたを育てているはずだと。そうじゃないことを知ったのは、公園の清掃員をしているときに里美さんに再会した時でした」

「母さんから俺の話を聞かされたということか」
「そうではありません」顔を下に向けたまま、清水は首を横に振った。

「先に気づいたのは里美さんです。園内のごみの片づけをしているときに声を掛けられ、そして由紀子の死について教えられました。でも、里美さんはあなたのことは仰いませんでした。御自身が養子にしていることは言いたくなかったのでしょう。でも私のほうが気づいてしまいました。あなたが由紀子によく似ていたからです」

 清水が顔を上げた。目は真っ赤で、鼻水が顎まで(したた)っている。
「あなたは由紀子に瓜二つです」
「それは良かったよ」浩一の声は震えていた。「その由紀子という人に瓜二つということは、俺はあんたには似ていないということだろう」

 清水は何かを言おうとしたが、言葉が(つむ)がれないまま、半開きの唇が上下に大きく揺れている。
「俺の戸籍には清水という名前はない。ということは、あんたと由紀子という人は結婚しなかったのか」
「はい」清水はポケットから出した白いハンカチで口の周りを拭ってから、ゆっくりと答えた。「お互いの両親が反対したんです。私は仕事をしていないような男でしたから」

「そして、女と子どもを置いて逃げ出したのか」
 清水は黙って頷いた。また涙と鼻水が顔から溢れてきた。清水はハンカチで拭うと、よろよろと立ち上がった。そして浩一を横目で見ながら玄関へと進むと、「次の場所に行きましょう」と小さく言って、靴を履いた。

 浩一は清水に続いて玄関を出た。外は公園の遊歩道が左から右へと続いている。あっと思って振り返ると、そこには一面の芝生と、ブランコと雲梯(うんてい)があった。
 清水は遊歩道をゆっくり歩き出していた。浩一は後ろを歩きながら、「逃げ出した男がどうして地元に戻ってきたんだよ」と清水に聞いた。

「私は長いこと県外に住んでいましたが、五十代でリストラに遭い、どうにも生活に行き詰ってしまいました。恥ずかしながら実家の弟に泣きついて仕事を紹介してもらい、戻ってきたのです。それが公園の清掃の仕事でした」

 清水は俯いて歩きながら、当時の経緯を説明した。双方の親に反対された2人は、駆け落ち同然で家を出て生活していたこと、いずれ両親を説得するつもりで籍を入れなかったこと、清水が起業に失敗して借金を重ねたこと、浩一が生後3ヶ月の頃、清水はアパートを出て帰らなかったこと。一時期は自動車部品の輸入販売の店を経営したこともあったこと。聞いているうちに、浩一は気分が悪くなってきた。

「最後は宝飾品の営業をやっていたんですけどクビになりました。こっちに帰ってきた時、まさか里美さんがこの近くに住んでいることなど知らなかったのです」清水は述懐した。

「少し黙っていてくれ」浩一は言った。「あんたの半生は不愉快だ。聞きたくない」
 清水は「すみません」と謝った。2人は黙ったまま遊歩道を歩く。しばらくはアスファルトの上の小石を踏む靴音だけが静かな園内に響いていた。

 ふいに足元がアスファルトから玉砂利に代わり、浩一はバランスを失ってよろけた。
「着きました」

 どこかの寺院に来たようで、正面に庫裏(くり)と本堂があった。ザリ、ザリと砂利敷きの庭を進むと、敷地の奥には墓地があった。
 清水に案内された墓には、墓石に「清水家之墓」と彫られてあった。

「ここは私の家の墓です」清水は言った。「両親と一緒に私も入っています」
「えっ?」浩一は思わず聞き返した。
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