第7話 男の素性は分からないままタクシーは進み(その3)
文字数 2,148文字
男は浩一と運転手のやり取りに我関せずといった様子で、暗がりの中に立っていた。意識はあるのだろうが、雨を避けようともせずに立ち続けている様が不気味だった。
「あんた、大丈夫か」浩一は折りたたみ傘を広げると、男の頭上に差しかけた。
暗くて見えにくいうえに、顔の半分がマスクで隠されているので表情が読めなかった。かろうじて、瞬きをしたことだけは分かった。
「あんたの家はどこだよ」浩一は聞いた。
「ここはどこですかね」男が答える。タクシー車内での夢心地状態からは脱したのか、しっかりとした口調だったが、言っていることは相変わらずだった。
「どこかは知らないけど、あんた自身が教えた住所の近くだよ」浩一がそう教えると、男は首を回して辺りをぐるっと見渡していたが、やがて「ここではありません」と答えた。
「はっ?」浩一は内心でずっこけた。
「場所を間違えたようです。すみません」男はそう言うと頭を下げた。そして、その姿勢のまま、「おかしいなあ」と呟いた。
どうするのかと浩一が見ていると、男は身体を起こし、もう一度辺りを見回した。しきりに目を瞬かせ、何回も見直している様子だった。
「あれ?」男は突如と声を上げ、道路横の空き地を指差して言った。「どうして更地になっているのでしょうか?」
浩一は黙っていた。男は思案顔で「私は間違ったのかな」と独り言を言うと、やにわショルダーバッグのストラップを両手で握りしめると、タクシーが走り去ったのとは逆の方向に早足で歩き出した。
背中を丸め、膝をあまり曲げず、文字通りトコトコと歩いていく様は、テレビアニメのワンシーンを観ているようだった。
「どこに行くんだよ」浩一は走って追いかけると、男の肩を後ろから掴んで停止させた。「こんなところで勝手に歩き回るなよ」
男は浩一の顔と、肩に置かれた手とを交互に見つめ、一つ息を吐いてから「これは失礼しました」と謝った。肩の力が少し抜けた感じがして、浩一は手を下ろした。
浩一は腕時計を見た。時刻は午後9時半を少し過ぎたくらいである。まだ深夜ではないので焦ることはない。いったいどうすれば家に帰ることができるのか、少し落ち着いて考えたかった。
まずは目の前の男のことである。浩一は自分の肩くらいしか身長がない初老の男性に尋ねた。
「あんた、改めて聞くけど、どこの誰なんだ?」
「清水です」ようやく男が自分の姓を明かした。
「では清水さん。あんた、道に迷わずに一人で家に帰ることはできるのかな」浩一は努めてゆっくりと話した。「清水さんの言うとおりに小学校の先のコンビニを曲がって、一本道をずっと登ってきたんだよ。清水さんが西町541番地というから、カーナビでその番地を調べてここに着いたわけだよ」
清水はじっと浩一の顔を見つめていた。黒い瞳が子犬のようだった。
「その番地が正しいのであれば、清水さんの目的地はこの辺りだよ。間違いないなら、俺はここから一人で帰る。だけど、この辺りがあんたの目的地ではないのであれば、ちょっと考えなければならない。タクシーを呼ぶのが一番かなあ」
「そうですね。それで――」清水は何かを言いかけ、マスクをつまんで顔との間に少し空間を作った。雨に濡れて話しにくいようだった。
「それで、私は岩間さんと一緒に行動しようと思っております」
「えっ、何で?」
「ここは私が来たかった場所ではないと言っているじゃないですか」
「よく確認してくれよ。もともと清水さんが自分の口で言った場所に来ているんだから。それに行動を一緒にと言われても、何か理屈が短絡しているような気がするな」
少しイライラしてきた浩一は、早口になっていた。「まあ、場所が間違っているのは分かったよ。タクシーを2台頼むことにして、別々に帰ることにしよう」
「相乗りは駄目でしょうか」
「どうして相乗りになるんだよ」浩一は我を忘れて怒鳴った。
この男は俺をからかっているのか。浩一は一刻も早くタクシーを呼ぼうと思い、上着の内ポケットからスマホを出そうとした。
だが、浩一の右手はポケットの中で何も掴むことができなかった。スマホが無いことに動揺した浩一は身体中のポケットを全て調べる。結果、スマホの在り処が不明であることに愕然とするのに数秒もかからなかった。浩一は不安と焦りで頭が一杯になった。
落としたのか。浩一は傘を清水に渡すと、足元を見ながら自分がタクシーを降りた位置まで戻ってみたが、スマホを見つけることはできなかった。
浩一は雨に濡れるのにも構わずその場に立ち、頬に手を当ててしばらく考えた。最後にスマホを使ったのは、清水から聞いた番号に電話をかけたときだったか。いや、GPSアプリを使おうとしたところを邪魔されて――。
「あいつだ」浩一は叫んでいた。あの運転手にスマホを奪われたままだった。まったく、ロクでもない運転手がいたものだ。
浩一は急いで清水の元まで戻ると、傘を真っ直ぐ差して立っている男に頼んだ。
「清水さん。あんたのスマホをちょっと貸してくれないか」
「スマホは持っていません」
「ああ、そうか」面倒臭い奴だな、と思いながら浩一は聞く。「では携帯電話を貸してくれ」
「携帯電話も持っていません」
「どういうことだよ」浩一は上空に向かって雄叫びを上げた。最悪の事態だった。
「あんた、大丈夫か」浩一は折りたたみ傘を広げると、男の頭上に差しかけた。
暗くて見えにくいうえに、顔の半分がマスクで隠されているので表情が読めなかった。かろうじて、瞬きをしたことだけは分かった。
「あんたの家はどこだよ」浩一は聞いた。
「ここはどこですかね」男が答える。タクシー車内での夢心地状態からは脱したのか、しっかりとした口調だったが、言っていることは相変わらずだった。
「どこかは知らないけど、あんた自身が教えた住所の近くだよ」浩一がそう教えると、男は首を回して辺りをぐるっと見渡していたが、やがて「ここではありません」と答えた。
「はっ?」浩一は内心でずっこけた。
「場所を間違えたようです。すみません」男はそう言うと頭を下げた。そして、その姿勢のまま、「おかしいなあ」と呟いた。
どうするのかと浩一が見ていると、男は身体を起こし、もう一度辺りを見回した。しきりに目を瞬かせ、何回も見直している様子だった。
「あれ?」男は突如と声を上げ、道路横の空き地を指差して言った。「どうして更地になっているのでしょうか?」
浩一は黙っていた。男は思案顔で「私は間違ったのかな」と独り言を言うと、やにわショルダーバッグのストラップを両手で握りしめると、タクシーが走り去ったのとは逆の方向に早足で歩き出した。
背中を丸め、膝をあまり曲げず、文字通りトコトコと歩いていく様は、テレビアニメのワンシーンを観ているようだった。
「どこに行くんだよ」浩一は走って追いかけると、男の肩を後ろから掴んで停止させた。「こんなところで勝手に歩き回るなよ」
男は浩一の顔と、肩に置かれた手とを交互に見つめ、一つ息を吐いてから「これは失礼しました」と謝った。肩の力が少し抜けた感じがして、浩一は手を下ろした。
浩一は腕時計を見た。時刻は午後9時半を少し過ぎたくらいである。まだ深夜ではないので焦ることはない。いったいどうすれば家に帰ることができるのか、少し落ち着いて考えたかった。
まずは目の前の男のことである。浩一は自分の肩くらいしか身長がない初老の男性に尋ねた。
「あんた、改めて聞くけど、どこの誰なんだ?」
「清水です」ようやく男が自分の姓を明かした。
「では清水さん。あんた、道に迷わずに一人で家に帰ることはできるのかな」浩一は努めてゆっくりと話した。「清水さんの言うとおりに小学校の先のコンビニを曲がって、一本道をずっと登ってきたんだよ。清水さんが西町541番地というから、カーナビでその番地を調べてここに着いたわけだよ」
清水はじっと浩一の顔を見つめていた。黒い瞳が子犬のようだった。
「その番地が正しいのであれば、清水さんの目的地はこの辺りだよ。間違いないなら、俺はここから一人で帰る。だけど、この辺りがあんたの目的地ではないのであれば、ちょっと考えなければならない。タクシーを呼ぶのが一番かなあ」
「そうですね。それで――」清水は何かを言いかけ、マスクをつまんで顔との間に少し空間を作った。雨に濡れて話しにくいようだった。
「それで、私は岩間さんと一緒に行動しようと思っております」
「えっ、何で?」
「ここは私が来たかった場所ではないと言っているじゃないですか」
「よく確認してくれよ。もともと清水さんが自分の口で言った場所に来ているんだから。それに行動を一緒にと言われても、何か理屈が短絡しているような気がするな」
少しイライラしてきた浩一は、早口になっていた。「まあ、場所が間違っているのは分かったよ。タクシーを2台頼むことにして、別々に帰ることにしよう」
「相乗りは駄目でしょうか」
「どうして相乗りになるんだよ」浩一は我を忘れて怒鳴った。
この男は俺をからかっているのか。浩一は一刻も早くタクシーを呼ぼうと思い、上着の内ポケットからスマホを出そうとした。
だが、浩一の右手はポケットの中で何も掴むことができなかった。スマホが無いことに動揺した浩一は身体中のポケットを全て調べる。結果、スマホの在り処が不明であることに愕然とするのに数秒もかからなかった。浩一は不安と焦りで頭が一杯になった。
落としたのか。浩一は傘を清水に渡すと、足元を見ながら自分がタクシーを降りた位置まで戻ってみたが、スマホを見つけることはできなかった。
浩一は雨に濡れるのにも構わずその場に立ち、頬に手を当ててしばらく考えた。最後にスマホを使ったのは、清水から聞いた番号に電話をかけたときだったか。いや、GPSアプリを使おうとしたところを邪魔されて――。
「あいつだ」浩一は叫んでいた。あの運転手にスマホを奪われたままだった。まったく、ロクでもない運転手がいたものだ。
浩一は急いで清水の元まで戻ると、傘を真っ直ぐ差して立っている男に頼んだ。
「清水さん。あんたのスマホをちょっと貸してくれないか」
「スマホは持っていません」
「ああ、そうか」面倒臭い奴だな、と思いながら浩一は聞く。「では携帯電話を貸してくれ」
「携帯電話も持っていません」
「どういうことだよ」浩一は上空に向かって雄叫びを上げた。最悪の事態だった。