第1話

文字数 1,995文字

「お疲れ! さあ、飲もう」
 そう言って山崎は俺のグラスにビールを注いだ。山崎は同期入社で、何度も杯を交わして来た仲だ。山崎が作り出す上層三割の泡はいつ見ても見事だ。いや、課長に昇進してから更にその美に磨きがかかったようだ。このグラスを掴んで口元に運びたい。そんな思いに駆られながら、俺は山崎に言った。
「いや、ごめん。折角なんだけど、しばらく酒は飲まない。こっちをお願いする」
 隣のウーロン茶に目を向けると、山崎は苦い表情を作った。
「なんだよ、山口課長。とうとうメタボ健診で引っ掛かったのか? まあ、俺らは仕方ないけどな。俺はギリギリだけど、まだ飲むぜ」
 山崎は俺の為に注いだビールを自分の前に寄せ、代わりにウーロン茶を入れてくれた。
「それもあるけど、ちょっとな」
 その話はそこで終わり、忘年会はつつがなく進行した。就職してから毎年欠かされることなく続く我が社の忘年会だが、俺がノンアルコールで通したのはもちろん初めての出来事だった。今年ようやく課長になれた山崎を酒で祝福できないのは申し訳ないが、俺は自分の誓いを守ることを選択した。

 酒が入らなければ二次会に行こうという思いも湧いてこない。うちの課の部下からはお誘いをいただいたが、これも断って帰宅した。玄関を開けると、妻が驚いた表情で俺を出迎えた。
「本気なのね。俊太、待ってるわよ」
 ネクタイを外し、ワイシャツの袖をまくり上げた俺は、俊太の部屋をノックした。
「お父さん、この問題なんだけど」
 やる気に満ちているところを遮るのは申し訳ない気もするが、躾も大事だ。
「ただいま、俊太。気合い入っているのはいいけど、まず最初の声かけはそれじゃない」
 俊太は賢い子だ。すぐに気が付いた。
「あ、そうか。お帰りなさい。よろしくお願いします」
 俺は頷いて俊太の隣に用意されている椅子に座った。目の前のプリントには何個もの滑車と棒が印刷されていた。理科の難問になるだろう。俊太が通う塾のテキストをめくり、該当のページを開いて基本を確認した。
「これは動滑車で、こっちは定滑車だから……」
 ブツブツと俊太はつぶやきながら問題を考えている。俺は頷いたり、うーんと声を出して間違いに気づかせようとしながら、息子の頑張りを見守る。なんとか筋道を立てて答えを導いたが、最後の最後で割り算を間違えた。
「俊太。もう一歩。検算ってやってるよな?」
「えっ、あっ!」
 こういうところで落とすのは勿体ない。しっかり解法を記述させる問題なら計算ミスの減点は大した傷にならないかもしれないが、俊太の志望校は答えだけ書かせる問題も多い。全く解けず空欄で提出する奴と俊太がこの問題で同じ点数しか与えられない理不尽さに俺は納得できず、俊太に説教染みたことを言ってしまった。これが勉強時間と、何より俊太のやる気を削っていることは分かっているので、自分も辛い。そして小言を言いながら、俺だっていまだに仕事でツメが甘くなるのにな、と自己矛盾を感じていた。
「わかった。じゃあ、次やるよ。計算、最後まで気を抜かずに」
 俊太はやはり賢い。そう言って俺の話を終わらせ、水溶液と温度の問題を解き始めた。慎重にグラフを読み、計算を進める息子の姿はなんだかいじらしい。そしてしっかり正解を導き出した。
「やった! こういうのも苦手だったけど正解だ」
 嬉しそうな俊太をみて、頭を撫でてやる。笑顔が溢れ出してきた。が、親というのはなんと強欲で残酷なのだろう。
「よし、あとはスピードだ。凱聖(がいせい)中学を目指すならこの問題は二分」
 少し目を落とした俊太を見て、俺は後悔した。しかしここは厳しく、より上を目指す。
「次はどうする?」
 俊太は偉い。すぐに顔を挙げ、月の動きに関する問題に手を付け始めた。俺は慌ててテキストをめくった。おそらくカーテンの向こうにはきれいな満月がでているが、それを鑑賞する余裕はない。

 正月も俊太は塾の特訓に出掛け、夜は俺と勉強した。正月休みでも酒は飲まず、俊太の勉強に付き合った。親戚周りは一応こなしたが、酒はいただかずに帰って来た。酒なしの暮らしは悪くない、と思う瞬間もあったが、一度知った旨いものを断つというのは難しい。会社の新年会はジンジャーエールでの乾杯を終え、早々に抜け出した。そしてとうとう、運命の二月がやってきた。

 第一志望の凱聖受験を終えた夜。仕事から戻った俺を俊太が出迎えてくれる。表情は余り冴えていない。事前に何度か夫婦でシミュレーションしたように、俊太に問いかける。
「俊太。今日は勉強するか?」
 一瞬の間を空けて、俊太が答える。
「そうだね。まだ入試はあるから」
 例え手応えがあったとしても、次に備えるというのは大切なことだ。俊太は仕事ができる男になるだろうと嬉しく思いつつ、まだ休むと言えない息子が不憫だ。そして、今夜から飲めるかもと考えていた己を恥じた。合格発表は明日の正午だ。
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