文字数 1,830文字

「まったく、嫌になるわ」
 電話を切った母親は大きくため息をついた。
「どうしたの?」
 ヒナタが口先で問い掛ける。ソファーに横たわり、視線は手元のスマホに注がれたままだった。
「叔父さんのアパート、孤独死のイメージから居住者がいなくなるだろうって。その損害を親族が賠償するべきだって話が持ち上がってる」
 母親のため息の中に、死んでからも迷惑ばっかりとの言葉が混ざったのをヒナタは聞き流した。

「ふぅん」
 ヒナタが息を吐いたのか、答えたのか、曖昧な声を出した。
「全く、人の子を傷物にしただけじゃなく、財産まで傷つけていくなんて。産まれてから人のためになることなんて一つもしないままで逝ったわね。あの世で待つ両親にどう申し開きするのかしらね」
 ヒナタの手首に残る柔らかな傷痕にちらりと目をやり忌々しげに母親がぼやく。

「……ん。ちょっと眠いから昼寝する」
 ヒナタはスマホの画面を切るとそう言い、目を閉じた。母親の話よりも、あの夢が見たかった。

 コポリと水の中で泡が上がる音を聞き、ヒナタは思わず微笑んだ。
「いあ、いあ!!クトゥルフ!!」
 ひざまづき、声を上げる。クトゥルフ神への賛美作法は叔父のノートに書いてあった。うねうねとヒゲがうごめく以外、クトゥルフ神は動かない。
 叔父のノートによると、寝ているらしい。目が合ったと思ったのはそもそも瞼がないせいらしかった。
 同じ空間にいるだけで、今にも叫んでしまいたくなる言いようのない恐怖感が沸き上がってくる。それを無理矢理に押し込めた。叔父だってこの試練を乗り越えたのに違いないから。
 ただその姿を見るだけでどうしようもなく体が震えるのだけは止められなかった。理性がこの場を離れようとしつこく提案してくる。
 ヒナタは、ひざまづき、頭を垂れた。ただひたすら、クトゥルフ神を前に叔父がどんなことを考えていたのかに思いを馳せた。
 ノートには、「声を聞いたら恐怖のあまり気が狂ってしまう」とも書かれていた。で、あるならば前の夢で聞いた音は声ではなかったのだろう。叔父はクトゥルフ神の声を聞いたのだろうか?その上でノートにまとめたのだろうか?

 声を聞きたいという欲求と聞いたら正気でいられなくなる恐怖がせめぎ合っているうちに目が覚めてしまった。叔父のノートを読むにつれ、昔に戻ったかのような懐かしさと安心がヒナタの胸に広がって行く。叔父についての不快な評価を聞かずに偲べる夢の時間だけが、ヒナタにとっての救いだった。

 ヒナタの望みに呼応するように、それからヒナタは毎日その夢を見る。うねうねとヒゲが動く以外動きのないクトゥルフ神に、ヒナタはいつしか叔父との思い出を語って聞かせるようになっていた。その姿を誰かが見ることができたなら、神に許しを乞う信者のように映っただろう。

 目覚める度にヒナタの体調を気遣う母親の声は、最早ただのノイズだった。寝る時間が伸びているにもかかわらず、ヒナタの目には黒々としたクマができていた。食事の味がわからず、段々と食も身体も細くなっていく。
 クトゥルフ神の前で祈りを捧げ、叔父の事を語り聞かせるためだけに目覚め、ハエの羽音のような母親の声を振り払うように食事を口に運ぶヒナタ。
 できることなら朝など来なくて良いとさえ考えていた。

 叔父との思い出を全て語り尽くす頃、クトゥルフ神の腕がヒナタに向かって伸びてきた。そのまま掴まれ引き寄せられる。ヒナタは頭を垂れたまま、なすがまま、身を任せた。だんだんとクトゥルフ神が近づいてくる。ヒナタを引っ張る水の抵抗が、まるでそれ以上近づいてはいけないと警告しているようだった。確かな感触を持った神の力を前にして、その抵抗はあまりに弱々しく何の意味もなさない。

「いあ!いあ!……クトゥルフ」
 ヒナタはクトゥルフ神の行動に自分を認められたような気がしていた。心を込めて賛美の言葉を述べる。何度も何度もその身に近づくまで繰り返し讃えた。神の全体像が視界におさまり切らない程に近づく。こんなにも近づいたのは初めてで胸が高鳴った。ヒナタは自らの体が震えるのを自覚した。それが恐怖からではなく喜びからだと気付いたとき、誇らしくなった。ついに叔父と同じ所に来たと思った。

 ゾワリゾワリとうごめくヒゲの一つがヒナタの頬を撫でる。その感触に、叔父がかつてヒナタを撫でたのが重なった。
「叔父さん……会いたかった……」

 ヒナタは両腕を広げ、そのまま、クトゥルフ神のうごめきの中へ沈んで行った。
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