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 気づくとヒナタは水の中にいた。自分の手を見ればゆらゆらと視界が揺れている。口を開けると大きな泡となって漏れていくのに、息苦しくはない。ワカメのようなものがサラサラした砂地から生えているのを見つけ、ここが海中だと推測する。足をバタつかせて、ヒナタは辺りを探検しはじめる。

 しばらく何もない水中を泳いでいると巨大な影が見えてきた。中央の辺りで何やら細いものがゆらゆらと動いている。もぞりとそれが動いて金色のカエルのような瞳と目が合った。その瞳が面白がるように細められ、ゴポリと泡がでてきた。ふわふわとヒナタの所まで漂ってきて、コプッと小さな音を立てて全身を包む。魚の腐ったような刺激臭で満ちた中に閉じ込められ、ヒナタは目の前にいる巨大生物が次にどんな動きをするのか警戒するように身構えた。

 海底のもっと下の方から響くような音が、水を伝ってヒナタの全身を奮わせる。余りのおぞましさに逃げ出したくなった。だが、今この何かわからない生物に背中を向ける勇気もない。ただ慎重に観察するしかなかった。細いものが揺らめいていたと思ったのは、目の位置から考えると口、あるいはヒゲのようだった。その一つ一つが意志を持っているかのように好きに動く様はウナギを水揚げした光景を思い出させる。ぬらぬらとドブ色に光る肌をみてようやく叔父のノートに書かれていたことを思い出す。

 クトゥルフ神……思い至るなりすぐにヒナタは膝をついて頭を下げた。神を前にした時の礼儀は漫画を読んだ程度にしかなかったが、ヒナタが持つ知識の中で最も相応しいと考えた行動を取る。水の流れがヒナタに向かってきた。そっと様子を伺うとクトゥルフ神からカギ爪の手が伸びてきているのが見えた。その手がヒナタの体をわし掴む。そのまま泡の中から取り出されたヒナタを、まるで幼子がおもちゃを振り回すようにあらゆる角度に傾ける。クトゥルフ神が少しでも力を込めればヒナタの体はトマトのように何の抵抗もなく潰れるだろう。遠慮なく振り回される、その圧倒的パワーにそんなことを考え、ヒナタはゾッとした。

 地響きと雷を合わせたような音がして思わずクトゥルフ神の目を見た。ヒナタの耳にはそれが「怖いか?」と問い掛けて来たように感じられた。
 ヒナタは反射的に頷きそうになった体の動きを停める。叔父の「クトゥルフ神の姿を見る幸福」というノートの言葉を思い出したからだった。死んだ叔父とは2度と会えない。ならばせめて、クトゥルフ神との繋がりで、叔父を近くに感じたかった。

「とんでもございません」
 ヒナタがそう口にすると、クトゥルフ神は興味を失ったようにヒナタを投げた。すごい勢いで飛ばされたヒナタは、背中から岩肌にぶつかる。呼吸が止まるような衝撃がヒナタを襲った。意識が飛び、再び目を開けたヒナタの目に、叔母と母親の心配そうな顔が映った。

「よかった、縁起でもない寝方しないでよね」
 母親がスポーツドリンクを差し出しながら言った。
「まだまだ暑いからね、熱中症になっちゃったかな?病院に行く?」
 叔母が心配そうな声を出した。
 ヒナタは今起きたことを頭の中で整理しながら、心配いらないと首を振る。まるで胸をたたき付けるように鳴るヒナタの心臓が、さっきまでの出来事をただの夢ではないと証明していた。
 ヒナタは受けとったスポーツドリンクを一気に飲み干すヒナタを見て、安堵した表情を浮かべた母親と叔母。その中で、ヒナタの心は先ほどの出会いに捕われていた。

「じゃぁ、帰りましょうか」
 母親の言葉に周りを見渡すヒナタ。もう部屋のどこにも叔父の生きた証は残っていなかった。
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