文字数 3,373文字

 葬儀の翌日。
 叔父が住んでいたアパートの前にヒナタとその母親が立っていた。台風が来るらしく、空はどんよりと曇っていた。その空を背景に佇む築40年の2階建てアパート。その外観にはヒビが入り、塗装がはげ、ツタが絡まっている。アパートと同い年だと無邪気に笑っていた叔父の顔をヒナタは思い出す。

 叔父が住んでいたのは1階の部屋。その扉を開けたヒナタは驚いた。多少の臭いが残っているのを覚悟していたのに無臭だった。腐臭を消すため、念入りに使われたのであろう消臭剤。しかし、好きだった叔父自身の香りまでもがすっかり消失したことに、一抹の寂しさを感じてしまうヒナタ。間取りは1K、トイレと風呂は1カ所にまとまっている。部屋の端には、ガラクタのように叔父の好きだった小物が積まれていた。全体的に古び、くたびれている中でフローリングと壁紙だけが真新しく輝いている。

「これ、可燃ゴミでいいのかしら?」
 母親は感情のこもっていない声で言うと、手にしたごみ袋に詰め込み始めた。
「さっさと終わらせましょう」
 その言葉を皮切りに、母親の口から叔父への不満が流れはじめる。まるで蛇口から水が出るように途切れることのない言葉が、叔父を呪っているように聞こえた。対象者はもうこの世にいないというのに何がそんなに不満なんだろう。ヒナタは母親に冷ややかな目線を向けるが、そのことに母親が気づく様子はなかった。ヒナタは母親の声を頭から締めだし、目に付いたひとり暮らし用の小さな冷蔵庫を開けた。中には安い缶ビールと安いツマミがわずかに入っているだけ。これを、叔父はどんな気持ちで呑んでいたのだろうかと感傷に浸る。

「早く手を動かしなさい」
 いつまでも作業を開始しないヒナタに焦れたのか、母親が急かした。途中で叔母も加わり、3人での片付け作業が続いた。母親と叔母が奏でる呪いのコーラスを聞かないようにヒナタは無心で作業した。
 半日かかってまとめたゴミを、母親と叔母が軽トラックに詰め込んで出て行く。量も多いのでゴミの収集日まで待たず、直接集積場に持ち込むらしい。ゴミの集積場へは往復1時間はかかる。ヒナタはようやく、自由に叔父を偲べる時間を手に入れた。

「叔父が最後に見たのは、こんな光景だろうか」
 ヒナタは1度目の車に積み込みきれなかったごみ袋を玄関に移動させると、テーブルだけが残る部屋の床に寝そべった。板張りの天井が涙で歪む。その涙を指で払ってヒナタは考える。こんな風に2度と話せなくなると知っていたなら、もっと早く会いに来れば良かった。大学受験だ、大学生活に慣れるためだ、バイトが忙しいなどと自分に言い訳して連絡一つしなかったことを後悔しても、もう遅い。

 払っても払っても出てくる涙の隙間から、叔父が最後にみた光景を観察する。せめて、この光景だけでも目に焼き付けよう。天井の角から順番にその木目を見つめていく。同時に木目のどこかに叔父の顔がないだろうかと探した。まだ魂の片鱗が、この世界に残ってやしないかと。……あるわけがないと諦めたヒナタは、電気の傘に不自然な影ができているのを見つけた。テーブルに乗ってそれを手に取る。手の平サイズのノート。何度もページを開いたのだろう、ページのところどころにシワや折れがあり、閉じた状態でもページがふんわりと膨らんでいた。

「叔父さん……」
 ヒナタはつぶやいた。叔父の生きた時間がそこにあるのを感じて1ページ目から文字を辿る。懐かしい叔父の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。こんな所に叔父が生き残っていたと、ヒナタは知らず知らずのうちに微笑んでいた。

 そのノートの書きだしはこうだった。

「クトゥルフ神は、私を宇宙へは連れて行ってくれなかった。代わりに、その姿を何度も、何度も見せてくださる。その姿を見る幸運を得られた者は、そう多くはいないだろう。私はこの奇跡をノートに記す」

 どうやら「クトゥルフ」という神を賛美する為に書かれたノートらしい。

 その姿を叔父は「カエルのような楕円形の瞳を持ち、タコ足のように自在に動くヒゲ、鳥類を思わせる5本指のカギ爪。肌は鰻を思わせるぬるりとした液体で覆われている。よく見てみればその肌は透明な細かい鱗に覆われており、その鱗が光を反射してまるで重油を海に流したかのような色合いをしている。そのベース色に深いブルーや鮮血のような赤色が筋の入るようにしてキラリ、キラリと光るのだ」と記してあった。

 鮮血という文字にヒナタの左手首に入った傷痕が疼く。

 叔父と兄弟の契りを交わすためにつけあったその傷が皮肉にも2人の仲を裂いた。

 あの、急に母親が乱入してきた日。
「気持ち悪い」ヒナタの左腕の傷に気付いた母親はそう、平坦な声と冷ややかな表情で言った。
 ヒナタは互いの血液を傷口から交換することで兄弟になるのだと説明したが無駄だった。それどころか、ヒナタよりも20歳も年上の叔父がその行為を承諾したことに憤った。

「叔父さんは悪くない」とかばうヒナタに、母親は「本当に恥ずかしいことをしたと思ってないなら、学校の友達に言えるわね?」表情の消えた顔で言う。

「もう、近づかないで」
 叔父に言ったのかヒナタに言ったのか不明確な母親の言葉に、ヒナタは屈してしまった。いや、正確には屈した事実からさえ目をそらしていた。
 叔父が母親の言葉をどんな顔で聞いていたのか、知りたいとどんなに願っても、もう遅い。後悔がヒナタの胸に滓(おり)のように積もっていく。

 ヒナタは今年で20歳になる。3年間のうちに刷り込まれた価値観から母親の言葉が正しいのは分かる。もし今のヒナタが17歳の子供に「兄弟の契り」をせがまれたとして。それを良しとはしない、できない人間に育っていた。
 ただそれを良しとして、受け入れてくれた当時37歳の叔父をどうしようもなく愛おしく思う気持ち。それを誰にも否定させないために、秘めて生きてもいた。

 ヒナタは17歳まで叔父からいろんな話を聞いた。その多くが常識ある人間なら眉をひそめ、顔を背けるような話題だった。兄弟の契りも、元々は叔父が話す中にあったものだ。周りの大人とは違う事を話す叔父に、やがてヒナタも「きっと大人は受け入れてくれないだろう」と思っていた胸のうちを打ち明けるようになっていた。

 そんなある日、「日向と同じ音の名前が嫌いだ。その名前が持つ印象と自分の本質は違うから」そうヒナタがこぼしたことがある。叔父は深く頷いた。
「名前は体を顕すというがな……自分の本質とズレていれば、それは呪いにしかならない」そう言って、ヒナタの頭を撫で、ポケットから小石を出した。
「私達みたいに、地球の重力が苦しい人間はいっそ、月にでも行くしかないかな」
 叔父はそう言葉を続けてヒナタの手にその小石を乗せる。
「月の石だ。神様でもない私はお前を月に連れて行ってはやれないが、せめて気休めにしてくれ」
 ヒナタにとって叔父は唯一の理解者だった。社会に溶け込むために良識あるヒナタがこれから先、墓場まで持って行くような好みの話さえも叔父は受け入れた。その関係はまるで麻薬のようにヒナタの心を捕らえ、麻痺させる。世界に叔父とヒナタの2人だけが存在する時、非常識は当たり前に、暴力は抱擁に、残酷は子守唄に変わる。それが危険なことだと本能が警告して来るのを無視して、叔父と過ごした。ヒナタの生きてきた中で最も充実した時間だった。

 ガチャリと玄関のドアが開く音がして、ヒナタは慌てて涙を拭う。

 叔母と母親はヒナタの様子に何か言うこともなく、再び叔父の生きた証を車に詰め込み、集積場へと捨てに行く。二人が軽トラックに乗り込むのをヒナタは見送る。
 叔父がこの世界から運び出され消えていく。それを悼む者はこの世界でヒナタだけ。
 再び手に入れた1時間を、ヒナタは真新しいフローリングに寝そべって過ごした。すぐに読みきってしまうのが寂しくてノートをポケットに突っ込んだ。月の石とノートがぶつかる。手の平におさまってしまうのが哀しかった。

 ヒナタは再び仰向けに寝転んで叔父が最後にみた景色を見る。心地の良い疲労感がまるで掛け布団のように体から力を奪っていく。ヒナタが仮にここで呼吸を停めても数10分後には発見されるだろう事に安堵とすこしの不満を抱えながら目を閉じた。
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